大池美木句集『さざ波』
魂の幼くあれよ 遠山郁好
大池美木さんは、すでに海程新人賞、遊牧賞などを受賞されていて、よく存じ上げていたのですが、ゆっくりお話しをすることが叶わずにいました。それがやっと昨年の海原静岡大会、そしてその後のいくつかの吟行会にご一緒させていただき、その機会に恵まれました。
美木さんは、いつも明るく潑刺としていて、そのよく動く大きな目は、よく見、よく感覚し、また思索を巡らしているようにも見えました。そして、思い立てばすぐに句が出来てしまうとおっしゃっていた美木さんに惹かれていました。このたびの第一句集『きっと瑠璃色』に続く句集『さざ波』、期待と共に早速拝読しました。
銀河系に生と死のほか涼しさよ
ご病気をされたとお聞きしていましたが、お元気になられて本当によかった。万物は常に流れており、今日の私は昨日の私ではないと思えば、この生も一つの不思議な贈り物であると思える。下五の「涼しさよ」は、まさにそんな心境なのでしょうか。また、涼しいは誰か懐かしい人に呼ばれているような感じもする。
空蟬を拾えば夢の終りかな
さらりと「夢の終り」と言われて、今まで無雑作に空蝉を拾っていた自分が恐くなった。いったいいくつの夢が終ったのだろうか。
夏の月箱詰めリボンも掛けますか
こう問われれば、即座にはい、リボンは必ず掛けて下さいねと言うだろう。箱の中にはメロンなんかではなく、大切な月が入っているんだから。作者の主題への大胆なアプローチと切り口、底を流れるウイットにも惹かれる。
鹿鳴けりまるで一筋の香り
跋文で武田伸一さんも触れられていたが、吟行句としてだけでなく、完成度の高い作品であり格調がある。鹿の鳴き声とそれを聞いている人間が一体となり、大自然の中に溶け込んでしまう「一筋の香り」は凄い。多彩な作者のもう一つの側面を見る思いがする。
薄紅の水晶夏の終りかな
然りげなく何気ないことを書いているようで、夏の終りの寂寥感、倦怠感など微妙な心理状態を透明な薄紅の水晶の物象感を通して繊細に表現した。
永遠に歯を磨く君星祭
永遠と日常はつねに並んでそこにあり、歯を磨いていることも永遠の一部だなどと理屈っぽいことを言っているのではない。季語が星祭であり、歯を磨くのは君だから、年に一度の逢瀬とはいえ、どうしてそんなに入念に、まるで永遠のように歯を磨くのと、星祭の季語でちょっと遊んでみただけ。
わたし蛍のようにはいかなくてよ
さっきから蜥蜴を口説く人がいて
一句目、美木さんのことだから和泉式部の「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」が念頭にあったのではないかしら。蛍と言えば、和歌ではたびたび情念の世界に登場する。作者はそれをさらりと躱し、逆手に取って、あっけらかんと「わたし蛍のようにはいかなくてよ」と五七五の器に納めて見せた。二句目、口説いても結局は尻尾だけ残して逃げられてしまうでしょうね。
何事も猫と相談冬ごもり
春愁や左右対称猫の髭
耕衣忌や蝶ネクタイの似合う猫
この句集には猫のことを詠んだ句がいくつかあるが、いずれも作者の猫好きがよく解る。一句目、本当に楽しい、そして愉快。最後に冬ごもりと言われてもう一度苦笑い。二句目、猫の髭が左右対称だと気付くのも可愛がっている証。それを春愁だなんて言われた猫もきっと戸惑っているでしょう。三句目、蝶ネクタイの似合う猫は、お話しの中の猫を想像しながらも、耕衣忌と言われると、実際にそんな猫がいそうだと思えてしまう。いずれにしても、三句とも季語の斡旋がスマートで鮮やかだ。
遺言通り蔵書を捨てる日短
梅雨晴れや叱られに行く母の家
梅の香や鍵あいている母の家
一句目、お父様の文学的素養や様々な資質を受け継がれた作者。そのお父様の遺言通りに蔵書を捨てると決断した作者、それでもなお迷うこころを裁くかに座五に置かれた「日短」。万感の思いを込めた日短は、お父様への想いの深さを改めて感じさせる。一方、お母様の句は、どこにでもありそうな母と娘の関係を、ちょっと視点をずらして「叱られにゆく」「鍵あいている」とさらりと自然に表現しているところがとてもいい。ここでも季語の「梅雨晴れや」「梅の香や」がいい働きをしている。
さざ波の形のままに春氷
あとがきで、この句に対する作者の想いが綴られているが、春氷にさざ波の痕跡を発見した驚きと喜びを「さざ波の形のすままに」と素のこころで表現したところが、いかにも作者らしくて新鮮。
魂の幼くあれよ冬苺
そして、句集掉尾の一句。句会でこの句に出会ったとき、真っ直ぐで、穢れなく、生々しい言葉に惹かれた。魂のいつまでも古びずに、初々しくあれよと願う「魂の幼くあれよ」という何かを表現する者にとっての精髄に触れる言葉に唯惹かれた。
他にも好きな句が沢山あって、評で触れられなかったのがこころ残りでした。
やわらかき牧に雨降るはるじおん
海市まで続く階段降りていく
夏富士の群青カッターで切ったよう
夢にくる胎児の重さ穀雨かな
紫苑咲いてちょっと神様に用事
冬虹の消えゆくところ馬と見る
大道芸の放る金の輪十二月
神戸には海側山側三鬼の忌
我が町は春潮の香と獣の香
夏蝶やしばらく止まるダム湖駅
梔子の香や読み返す「狭き門」
白夜かな路地を抜ければ会えるはず
滴りの切り通しから彼の世まで
かなかなや瞑れば深き群青
綿虫が静かに降るよ名を呼ばれ
雪ノ下一丁目一番地涼し
考える蛇なり今日も自堕落に
惜春の枕にナイトチョコレート
サックスのパート野音に夏来る
当たらない予言パスタにレモンとか
この句集を流れる、やわらかで自在な精神、作者の中には、いつもユーモアという風が吹いていて、わたしたちを穏やかに、豊かに満たし続けてくれる。
大池美木句集『さざ波』一句鑑賞
◆独特の軽み 小西瞬夏
青梅雨や自分を入れる穴がある
雨が降りしきるどんよりとした空の下、よけいに緑が青々とやさしく目に染みてくるよう。そこにぽっかりと黒い穴が存在している。だれかが掘ったのか、自然にできたのか、その用途はわからないが、だんだんと自分が吸い込まれていくようだ。一人になりたい、しずかに思索したい、ただ眠りたい……、私の中にもあるそんな思いが共鳴していく。
そう考えると、「穴」はいたるところに見つかる。地下の一角、車の中、カフェの奥の席、森の中のベンチ、繭の中など…。日常のなかにある非日常としての穴の存在感と、自分がここに存在している、ということが相似形としてだんだんと重なってゆくようだ。それは、生と死ということにも続いていくのだろう。難しい言葉は使わず、諧謔ともややちがう独特の軽みが魅力である。また、あっさりとした口語表現を生かしながらも、「や」などの切字や文語も自由に使う、美木句の自在さ、とらわれのなさが心地よい。
◆心の機微を掬う 藤野武
かき氷あっちの席に君がいて
「君」がいるのは「あっちの席」。すぐ隣でも前でもなく「あっち」。この微妙な、位置、距離感。「君」との関係。「君」は、誰かと楽しげに話をしている?時々はこっちを見ている?「あっち」ということばの計らいによって、さまざまに愉しい想像が広がる。若き頃に誰もが経験するような、ありふれた日常の淡く甘酸っぱいひとこまを描いた作品、と私は受け取る(もっとも「あっち」という語を「あっち側」という風に、より精神性に傾けて読むことも可能。この句は色々に読める)。
上句「かき氷」が出色。(いのち輝く)夏の暑い日差しの下、しゃかしゃかと削られた「かき氷」の清しさ爽やかさ。このことばの配置によって(「君」と「わたし」の間に)醸される、若々しく清潔で、甘く儚い空気。煌めくいのち。心のさざ波。まさに「かき氷」でこの句は(瑞々しき)詩になった。
大池美木の俳句はなべて日常に依拠している。そこから(繊細な反応とやわらかな感性で)心の機微を掬い取る。表現は衒いなく穏やか。明るくて温かな俳句世界。


