『海原』No.80(2026/7/1発行)誌面より
追悼 森田緑郎 遺句抄
白髪を刈るヒロシマのまぶしい空 S38「昭和俳句年表」
悲鳴に似し魚を吊りあげ揺れる男 S41
花のごとく指裂き眠るボクサー S42
巻舌の濤の暗黒鰤起し S46〜64
まくらぎの果春の空気は上へ上へ S57
蓬の家か乱入の夜のほしいまま 「現代俳句歳時記」
果てしなく手を洗いおり山法師 句集『藍納戸』
月下発進丹沢は流れているか
桃咲くと母には夢の現住所
早春とは母に呼吸のありしこと
秩父駅頭あれが月下の柱かな
蛇口考月の一滴二滴なり
荒天もよし野葡萄と鍛冶の火と
刈田百枚ラガーマンどう攻める
品川過ぎ五月の酔いは夜空渡る
空蟬や心中の虫はキリスト
夢殿や木っ端微塵に夕焼す
草木でなく荒れ狂っている夜だ
太陽は夜を昇りて海辺の部屋
光り来てモップの棒の倒れたり
(堀之内長一・抄出)
嗚呼、ロクさん 武田伸一
多くの方が、森田さんを呼ぶときの愛称は、《緑ちゃん》ではなく、《緑さん》であったように思う。中高の国語科の教師であった彼は、すこぶるつきの博学で、彼にその気はなくても、一種の畏れをかっていたのだと思う。だから、仲間からも一種敬遠されていた面もあると思うが、そんなことはない。私なんかがたまに上京して東京例会に出ると、森田さんのほうから積極的に話しかけてきて、地方の様子を積極的に取材したりするのだった。その頃の森田さんの作品は、
洪水の明るさを行く家族を連れ
悲鳴に似し魚を吊りあげ揺れる男
肉体を消しやさしさの水極まり
銀河荒川泊らんとして水の見え
という、頭でっかちのいわゆるエセ前衛とは違う、確かな道を切り開いて行こうとする真摯な努力が見える。それはさらに顕著になり、
蛍の木どこへも母はもういかず
昼星のしきりに落ちる海の墓
月にはや溶けはじめたる納棺師
ここには、単なる力業とは違う、金子兜太をさえ頷かせる成熟した森田の姿を見ることができて、心強いかぎりである。
作品に関しての思いはこれくらいにして、これまで語られぬことのなかった、逸話をもって本稿を閉じることにする。
多分当事者のほかは知らない事項だと思うが、昭和50年ころ、三年間にわたって、森田さんが老いた母のために増築した離れを、森田緑郎、大石雄介、谷佳紀、武田伸一の四人で使わせてもらったことがある。「海程」の編集方針や起用する人材について話し合い、あたかも「海程」の作戦司令部のように利用させてもらったが、四人のいずれにも私心はなく、「海程」の良き方針の決定の場、実務遂行の確認など、この場がなくしては「海程」の発展はあり得なかったと、今でも森田さんに感謝を申し上げる次第。
なお、この集まりには酒類の提供はなく、句会と討論で明け方近くまで協議を重ね、翌朝、豪華な朝ごはんをいただいて解散するのが習わしであった。思えば、「海程」発展のためのまたとなき良き基礎固めの場だったとしみじみ思わされてならない。
令和8年4月17日逝去、享年95。
夜の青さに 河原珠美
手元に一冊の合同句集がある。素朴な装丁で、黒のラシャ紙の表紙には金の文字で「黄道」と書かれている。長浜句会第三合同句集だ。発行は平成四年。
長浜句会は、当時森田緑郎さんのご自宅で開かれていた。長浜療養所を退所された方々の集まりだったが、紹介があれば参加は可能だったようで、私のような初心者も参加させて頂くことが出来たが、一字一句さえも忽にしない合評は、今も私の基本的な姿勢となっている。偏に厳しくも優しい先輩方や森田先生のご指導のお陰と感謝している。長浜句会の方々は皆「森田先生」と呼んでおられ、私も担任の先生のように親しみを込めてそうお呼びするようになった。
森田先生は、十代の頃すでに第一句集の『花冠』で華々しくデビューされた。数年を療養所で過ごし、二十八歳で大学入学を果たされたと伺ったことがある。常にご自分の体調と向きあいながらの教員時代を経て、いよいよ俳句専念の生活に入られるのだが、のんびり、とはいかなかったようだ。
「海程」での諸々は勿論だが、俳句評論には定評があり、いつも締め切りに追われていらした。長浜句会をさせて頂いたご自宅の書斎は、二間続きの和室で、森田先生の机の上には、いつでも沢山の資料が積まれていた。
神奈川現代俳句協会の会長を十年も務められ、神奈川新聞の「かながわ俳壇時評」を、四年間も担当されるなど、ご多忙だった。
菜の花とひと夜こみあげる空の青さ
「黄道」に収められている森田先生の作品だ。僕は夜空の青さが好きなんですよ、と仰ったことがある。執筆に疲れて腰を伸ばしながら、夜空を見上げる森田先生のお姿を想像して、懐かしさが溢れる。
ご多忙な毎日であるのに、勉強会を作りなさい、と言われ、「森の会」が誕生した。森の会では、よくミニ吟行をした。丹沢の麓の十王堂や吊り橋。蜜柑山から光る海を眺めたり、農道の桜に名前を付けたり、と楽しまれるご様子は、皆を喜ばせた。吟行の時、雨になることも多かったのだが、実は僕は雨男なんですよ、と嬉しそうに仰るのだった。
最後に電話でお話しした時、俳句のことなら何でも僕に聞いて下さいよ、といつも通りの森田先生でいらした。お通夜の晩も、お葬儀の日も、美しい春の雨であったことは、言うまでもない。句集『藍納戸』から。
雨男南瓜の花のうしろから 緑郎
また電話ください 平田薫
4月17日、93歳(享年95)で森田さんが亡くなられました。通夜は23日、葬儀は24日。前日の土砂降りの雨と打って変わって葬儀の日は晴天。家族葬ということでしたが、俳句関係の方には来てほしいという意向だと伺い参列。遺影は晴れやかな笑顔で、今にも話しかけてくるような気がしました。
神奈川県現代俳句協会の会長を2003年から2013年まで10年間務められ、その後も、体調を崩され会合に出られなくなるまで名誉会長・名誉顧問として神奈川現俳のために力を尽くされました。森田さんは俳句のために生きていた人のようでした。
俳句を始めて間もない私やあと何人かの人を集め、月一回30句(途中から20句に)持ち寄る句会・合評会を開いてくれました。
そこで森田さんが言う俳句というものは、それまでの俳句とは違うもののように思えました。
〈感性でひらく〉〈映像性よりも俳句は言葉である。過不足なく使われた言葉〉〈意味性でなく感覚的なとらえ方〉〈存在感にたって思いをどう広げるか、生活実感をどう書きとめるか〉〈写実のなかに透明度を持たせる〉〈見ることと感じること、純粋感動で書く〉〈感性・言葉の鮮度・一句の形・固有性〉
これらの言葉はどこまで私の句となったのか、今でも分かりませんが、どこかで生きているのだと思う。森田さんはいくつも句会を持っていました、こうした俳句への思いを伝えようとしていたのではないでしょうか。
「海程」2号より参加、この時30歳。6年後、句集『花冠』上木。序文で金子兜太師は「森田は多弁にみえて寡黙である。しかし寡黙とおもっている矢先、にわかに多弁になることがある。…彼は「感じる」ということをだいじにしている。はじめに感じありき―なのである。…先入観や固定観念をいっさい無視して…」この俳句への態度を最後まで通したのが森田さんでした。「あ、もしもし森田です」こんな電話をよく戴いた。
海原誌上(2023年3月号)での最後の句
月上げて春の一滴かもしれぬ
晦渋的なアニマルが殖え月下
森田さん、また電話ください。

