◆No.31 目次
◆海原秀句 同人各集より
安西篤●抄出
寂しさとう頑固のひとつ冬の岩 有村王志
五月雨は映画のあとのよそよそしさ 泉陽太郎
空気からからだ引き上げ春の蠅 伊藤歩
三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
眠る間も沼に降るもの花は葉に 伊藤淳子
お喋りの続きは来世で花は葉に 宇川啓子
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
空耳のシュプレヒコール久女の忌 奥山富江
野の空席わが春愁の個室です 金子斐子
コロナ禍に増えて雀斑梨の花 北上正枝
若松の秀を離る風帰天いま 北村美都子
甘野老ほろほろ嘆き唄う母 黒岡洋子
蕗味噌や黒ずむ爪の母います 佐藤美紀江
かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
木の芽山石棺の夜の湿りかな 白石司子
走り梅雨お悔み欄の歳を見る 鈴木康之
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
へそくりを隠し金魚と目の合いぬ 寺町志津子
川上に孔子の嘆き花は葉に 董振華
手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶 鳥山由貴子
野遊びの素直になるための順路 ナカムラ薫
泣き上戸アサギマダラの島に老い 本田ひとみ
暮れ残る屋島たね爺夏ですよ 松本勇二
原爆忌前書きも後書きも白紙 宮崎斗士
脚だけの手だけのロボット昭和の日 三好つや子
追伸は嗚咽のごとし花辛夷 武藤暁美
師は遠く縄文土器と麦の秋 森鈴
朴の花風の眉目を知っている 茂里美絵
青嵐撤退に美学は要らぬ 梁瀬道子
茂里美絵●抄出
バードウイーク蛍光ペンで目印を 石川青狼
白薔薇のブラックホールに嵌りこみ 石橋いろり
漂泊は梢にありて朴の花 伊藤淳子
廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
陽炎の中に冷たき火種ある 榎本祐子
神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
秋の空遠くにきっと笑顔あり 奥村久美子
星影を雫に変えてふところへ 奥山津々子
こいのぼり方向音痴でも愉快 小野裕三
人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
みんな帰った夕焼のスイッチ押す 狩野康子
再会は春の星座の燃ゆる刻 刈田光児
使わない香水がまた減っている 河西志帆
父母に会うために生まれて山笑う 楠井収
サイダーの思い続けている世界 小松敦
ラフマニノフに逃れ緑陰に溺れ すずき穂波
紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
蛍狩あすはナポリへ飛ぶと言ふ 長尾向季
花に重さ鼻くすぐってゆくうつつ 中野佑海
つちふるや一糸まとわぬ走り書き ナカムラ薫
マスク外して陽炎になっている 丹生千賀
かげろうと棲み分けており老尼僧 日高玲
木に木の音がたまって若葉かな 平田薫
臥竜梅夕くれないの海の微熱 平田恒子
遠桜人はいつから淋しがる 松岡良子
視力なきひとの草笛ローレライ 松本節子
パントマイムのようにいちにち花は葉に 村上友子
青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子
◆海原秀句鑑賞 安西篤
三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
三密とは、令和二年に厚労省が掲げたコロナ対策の標語「密閉、密集、密接」のこと。葉桜の始まる頃。三密で抑圧されていた生活感は、ほとんど限界に達しようとしている。それを三密の表面張力と捉え、目一杯の臨界点のまま、花は葉に移ろうとしているというのだ。一字空けの効果が臨界点の緊張感を伝える。
コロナ禍に増えて雀斑梨の花 北上正枝
コロナ禍のステイホームも長引くと、身だしなみや肌のお手入れもおろそかになりがちで、勢い雀斑もふえてしまう。初夏、一面に梨の花咲く里に来て、その白花の群落に身を浸し、しばし命の洗濯を試みる。さてその効果のほどは―。梨の実の雀斑模様が答えを暗示する。
若松の秀を離る風帰天いま 北村美都子
本年四月二十八日に五十七歳で亡くなった田中雅秀さんへの悼句である。会津若松に在住、ご主人とともにホテルを経営しておられ、傍ら東北新潟を駆け巡って俳句行脚にいそしんだ女丈夫でもあった。遺句集となった『再来年の約束』に、北村さんが心を籠めた解説を書いている。しかし誰もが予想しなかったように、約束の再来年は果たせなかった。故人の所在地と名前を折込み、痛惜の思いで書かれた一句。
暮れ残る屋島たね爺夏ですよ 松本勇二
たね爺とは、亡くなった関西の俳人高橋たねをさんのこと。おそらく、海程香川句会の屋島吟行ではないか。そこはたねをさんがしばしば訪れては、句会に活を入れていた場所でもある。「たね爺さんよ、いつもの屋島に夏が来ましたよ。」と呼びかける。いや呼びかけたい思い。
かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
災後十年を経たフクシマの、遅々たる復興の有り様の一端を覗かせる一句。被災地には一部更地化した土地は、除染されたとはいえ本当に安全基準に達しているのか疑念は晴れない。更地化された土地は再利用されそうもなく、しらじらと空けたままかげろふが立ち、誰が落としたのか一本の歯ぶらしがあるばかり。
脚だけの手だけのロボット昭和の日 三好つや子
かつてロボットといえば、人体模型化したものがイメージされ、その典型が鉄腕アトムだった。ところが今やロボットの導入が進んで、工場内の単純作業はロボットが処理するようになり、人間の肉体労働はほとんど代替されてしまった。加えて、その機能分化により、脚は脚だけ、手は手だけのロボットが、それぞれ流れ作業の一端を担っている。「昭和の日」は、その時代の変化への回想であろう。
原爆忌前書きも後書きも白紙 宮崎斗士
原爆忌も、ここまで日常化したイメージで書けるのかと思わせる一句。俳句の場合、普通は前書きが主で、後書きは稀に長々と散文的事情説明となる場合が多い。原爆忌俳句で有名なのは、松尾あつゆきの「なにもかもなくした手に四まいの爆死証明」に付けた前書き「十五日妻を焼く終戦の詔下る」がある。掲句はそういう前書きも後書きも一切省略して、一句勝負で書かれた原爆忌俳句を指す。それこそが原爆忌俳句としてもっとも潔い態度だという。
手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶 鳥山由貴子
格調高い美意識で映像化した一句。墨流蝶とは、翅が墨を流したように見える美しいタテハ科の蝶。上句・中句の映像表現は、「墨流蝶」の具象性よりも、言葉から来る映像感覚に誘われるように「手足濡れゆく」とし、蝶のかすかな羽ばたきがしばし収まりゆく様子を「浅き眠り」と喩えた。それが 「墨流蝶」 という題材に現実感をもたらしたといえる。作者の文学的感性を感じさせられる。
野遊びの素直になるための順路 ナカムラ薫
「野遊び」という季語は、夏井いつきの『絶滅寸前季語辞典』に収録されているように、今ではあまり使われていない季語。戦前から戦後にかけて、中流以上の家庭ではよく行われていたピクニックのことである。そんな季語をハワイ在住の作者に蘇らせてもらった。「素直になるための順路」とは、その世界に戻るには、一定の心理的な場を、順序よく踏んでいかなければなるまいということ。
他に触れるべき句として惜しまれるものを挙げておく。
眠る間も沼に降るもの花は葉に 伊藤淳子
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
朴の花風の眉目を知っている 茂里美絵
◆海原秀句鑑賞 茂里美絵
廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
ツルゲーネフの小説『父と子』を想起するのは、穿ちすぎだろうか。父と娘の甘やかな関係、母親に対する、息子の永遠の思慕とは隔絶した意識。追い越すことが出来なくて反発した青年期。だがやがて父を追い越していく自分。その象徴として「西日」「廃屋」がある。しかし「純化せり」には、哀切的な父へのオマージュが、込められているのではあるまいか。
神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
蠟梅の実を知らなかったので図鑑で調べた。五月頃には、あの透き通るような花からは思いも及ばない、長さ四センチの立派な実がなるという。上五の、神棚からはモノ。そしていきなり、マチスである。全体に微妙に、ずれた感じではあるが、どうしても立ち止まらなければいられない俳句もある。仄暗い神棚にささげる蠟梅の実。神棚とは掛け離れた艶やかな黄色の実。命そのもの。純粋的色彩の世界を創りあげたマチスを、其処に見出した作者の、イマジネーションに感服するばかり。
サイダーの思い続けている世界 小松敦
長いスツールに腰かけてサイダーを注文する。都会の一隅の小さな店。軽い閉塞感のある雰囲気の中で飲むサイダー。プツプツと無数の気泡が喉を過ぎる。次第に、自分自身もその気泡と同化していく。見知らぬ人々の流れを、窓越しに眺めている内に、想いが広がっていく。不安、悲しみの溢れた現代の世界。サイダーと一体化して無意識にぶつぶつと呟く作者。
紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
人生の三分の二は悲しみに包まれている、とはある作家の言葉である。人間は勝手なもので、嬉しいことにはすぐ満足して時間を引き延ばしたりはしない。悲しみも色々段階はあるが、他のことに集中して悲しみを忘れる努力をするのは、かなり重い事柄と思う。その様な時には、先程の作家の〈人が生きるということは、その三分の二は悲哀なのです〉を思い出して欲しい。あなたには、輝くような早春と紅梅が寄り添っているのだから。
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
もともと春雨は静かに降る。白雨のような激しさはないが、じんわり体にまとわりつく。そして「切り裂く」ではなく「切り抜く」には微妙な違いがある。春雨の透明なカーテン。折紙を丸く切り抜くように、かすかな音を立てて前へ進む作者。若い感性の捉えた、自然現象の一瞬を、するどく表現して見事。
バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
腰掛け部分が蝶の翅のように広がった、背もたれのない椅子。この場合、木製品と勝手に想像してしまう。いろいろに空想の広がる俳句は楽しい。つまり省略が小気味よく利いているということ。更に言えば、具象と抽象を備えた主旨が、俳句の真髄だと思う。蝶の形をした椅子から、青葉へと移行していく、こころ。春から夏へ加速していく森のざわめき。
評論集『蝶の系譜』(高岡修著)から見つけた短歌を次に。〈丘の上を白いちょうちょが何かしら手渡すために越えてゆきたり山崎方代〉
蝶は美しいばかりでなく、幸せも運ぶ使者なのかも。
かげろうと棲み分けており老尼僧 日高玲
静かにゆっくりと歩を進める。まひるの空気がゆらゆらと動く。かげろうも寄り添うように動く。老尼僧と言えども、厳しい戒律とさまざまな日課のなかの日常。「かげろうと棲み分ける」の意味するもの。迷いを謝絶した柔和な表情。しかし凜とした想いが、辺りを鎮める。対極的な位置に在るかげろう。しかしその儚い自然の現象を認めた上で、この老いた尼僧はゆったりと陽炎とも共存するのだ。
パントマイムのようにいちにち花は葉に 村上友子
俳句の世界にもコンピューター時代が来ているらしいというより、現在のコロナ禍の中、パソコンでの通信句会をせざるを得ない。便利になったが、其処に風や花の匂いはない。この作者は、それを逆手にとってゆったり暮らして居られる。街へ出ても人と人は表情や手ぶりで会話を交わす。まるでパントマイムのように。同じような日々が過ぎていく。桜が散り美しい葉桜になっても、さまざまな国ではパンデミックと戦うしかない。静かに半ば諦めのまなざしで、それらを眺める作者。
青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子
〈酔ふばかりであったふらんす物語荷風〉こんな断片をどこかで読んだ。永井荷風。作品に『ふらんす物語』など。若森氏の俳句には不思議な復元力がある。勇気づけられる。日本はいま正に「幽愁のくに」。このフレーズには参りましたね。まぁでも私たちはどんな時でも、前を向いて歩くしかない。さぁ歩こうよ、と。親しい仲間とひっそり個室で飲んで、酩酊の口にはマスク。そして青葉冷えの夜風に吹かれるのも、たまにはいい、か。
◆金子兜太 私の一句
酒止めようかどの本能と遊ぼうか 兜太
金子先生が朝日俳壇の選者になる前、担当記者が掲句を私に示し、「これ、誰の句か知ってる?」と。正直に首を傾げると、今度選者になる金子兜太さんの句と教えてくれた。その担当者は酒好きうまいもの好きで「全く身に染みる句だよなぁ」と言いながら、透析しつつ先生と旅をした。先生の選者入りに反対する空気と断固闘った人。そして、私にとっての邂逅の一句となった。句集『両神』(平成7年)より。滝澤泰斗
自動車の眼玉が二つ不思議な冬 兜太
車の前照灯を眼玉が二つと直截にとらえたインパクトある表現が気を惹く。かっと見開いたその眼玉がみている事象は何か、あるいは心のあり様だろうか。「不思議な冬」のフレーズが韻律のよさと共に忘れ難い句の存在を示している。郊外に住む私にとって車は分身の如くあり、運転あるいは同乗の機会に嘱目した自句を思い返すとき、掲句は高みにある。句集『皆之』(昭和61年)より。三木冬子
◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句
月野ぽぽな 選
○てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
睦むとき冬の金魚が翻る 榎本祐子
耕すや孫と花びらついてくる 大久保正義
鉄路にも桜の余熱逢いに行く 片岡秀樹
○転生は木になれるはず森に雪 北村美都子
話したいこといっぱいあった窓に雪 佐孝石画
頭あり早春の遺失物のよう 佐々木宏
母の忌の木に寄りかかる冬日向 管原春み
ぶらんこを乗り継ぎいつか星になろう 竹田昭江
榛の花死にたいなぁと生きたいなぁ たけなか華那
おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
恋猫の無明ムミョウと哭きにけり 中内亮玄
水に声火に声三月十一日 中村晋
兜太の忌血脈のごと野草の根 梨本洋子
羽後地吹雪身の輪郭の吸われゆく 船越みよ
しぐれたる葦原老いの眼は駅 北條貢司
幼子の匂い春の虹の匂い 村松喜代
薄氷を割ること母を叱ること 室田洋子
新雪の遠嶺くっきり喪明けかな 森由美子
春寒やさすらいの四肢ゆるく絞め 若森京子
服部修一 選
春は曙追いかけることばっかり 大池美木
春を想う橋から帽子飛んでゆく 大髙宏允
ぬたになる分葱再婚する分葱 こしのゆみこ
○本当に眠ると春の森に出る 小松敦
冬眠をしたい人間しない熊 篠田悦子
おでん鍋戦争が匂いはじめる 白石司子
サンタ来るパーテーションの向こうから 芹沢愛子
パンジーの寝言はきっとありがとう 高木水志
税務署は本屋の隣二月尽 寺町志津子
春の風蠢くものの応援歌 東海林光代
人はみなひとり春の海キラキラ 西坂洋子
春蚕ごろごろ歌の生まれるところかな 藤野武
夢を売ります風花の窓辺にて 船越みよ
蒲公英の立ち上がり方踏まれ方 松本勇二
風呂に浮く柚子の愛され上手かな 三浦静佳
夫婦という幾何学しゃぼん玉ふわり 宮崎斗士
草餅を食べて死などは考えず 村本なずな
セーターを着て人間がうしろまえ 望月士郎
地球儀回せば難民零れ落ち 輿儀つとむ
○木履をはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子
平田恒子 選
「昭和史」の日々生きて来し龍の玉 伊藤巌
冴え返る羽音のごとき人の流れ 伊藤淳子
明暗の境目あたり遍路かな 大髙宏允
軋轢が詩を孕ませて芽吹くかな 川崎千鶴子
○転生は木になれるはず森に雪 北村美都子
佐渡よりの流木砂洲の天の川 黒岡洋子
ゆく春の輪ゴム見えなくなるまで飛ぶ こしのゆみこ
○本当に眠ると春の森に出る 小松敦
白鳥や言葉深追いせず眠る 芹沢愛子
末黒野にキリンの義足鳴る夜かな 竹本仰
鳥雲に入る記憶こそ鮮やか 故・田中雅秀
春の致死言葉の先に人がいる 中内亮玄
枕辺に枯露柿三個遺書はなし 野田信章
寒月下ジャングルジムという折り鶴 堀真知子
被曝十年かすかに骨盤の歪み 本田ひとみ
白鳥の千のつどへば千の鈴 松本千花
惜春の石に壊れし椅子一つ 村上豪
寒卵つるんと筆順誤魔化して 村上友子
○アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
光年やいまさらさらと春のからだ 若森京子
嶺岸さとし 選
水色のスープが刺さる浅い春 泉陽太郎
諦めの美学おぼろに語りましょう 伊藤幸
○てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
はくれんへ逃れて少女拒む羽化 伊藤道郎
春の雨インド象ゆっくり通る 大池美木
ふっと声目線上げれば梅二輪 狩野康子
白さるすべり夜を散らかすのが仕事 河西志帆
深雪晴宙いっぱいに嘘をつく 後藤岑生
温かなタオルでぬぐう春の夢 小松敦
能面の嗤いが駈ける芒原 清水茉紀
何度でも握り返して春手袋 故・田中雅秀
分身として朧夜の声ひとつ 月野ぽぽな
剪定夫はるかな山も抱え居り 中村孝史
薪ストーブ爺の訛のよく燃える 前田恵
アクリルの向こう遙かを徒遍路 松本勇二
言い訳の言葉ちぐはぐ落椿 武藤暁美
○アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
永遠の紙ヒコーキを冬青空 望月士郎
きさらぎの姿見という孤島あり 茂里美絵
○ 木履 をはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子
◆三句鑑賞
おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
手鏡を開けて自分を映すと、鏡の自分がいろいろ話してきて、ちょっとうるさいので、黙ってもらった。実は喋っているのは自分の心なのだけれど、その様子を〈おしゃべりな鏡を閉じる〉としたユーモアのセンスが光る。どんな心の声だったのだろう。ふふっと微笑むような余韻が〈春の宵〉にやわらかく広がってゆく。
しぐれたる葦原老いの眼は駅 北條貢司
駅は動かず、来るものを受け入れ、去るものを見送る。列車や人々、ひいては時間さえも。〈老いの眼は駅〉からは、何もかもを忙しく追いかけた日々は過ぎ去り、それを経験したからこそ到達し得た、全てをあるがままに受け入れて執着しない、達観の眼差しが見えた。一面の枯葦は来し方。時雨は全てを慈しむように降る。
春寒やさすらいの四肢ゆるく絞め 若森京子
〈春寒〉の体感を〈四肢ゆるく絞め〉と掴んだ、「肉体感」とも呼びたい生な感性が独特で魅力的。冬の寒さとは違う春の寒さがここにある。そして〈さすらいの四肢〉から、春寒の頃、〈さすらい〉の句を此岸に置き他界された兜太師の姿が私たちの前に現れる。「定住漂泊」を生き抜いた師への渾身のオマージュである。
(鑑賞・月野ぽぽな)
春蚕ごろごろ歌の生まれるところかな 藤野武
「ごろごろ」という語感が、十分に成熟した上蔟まぎわの蚕を思わせる。日本経済発展の一端を担ってきた蚕糸業界は、化学繊維や生活様式の変化により急速に衰退した。かつてこのような豊かな春蚕に多くの人たちが携わり、喜びの歌も生まれた。馥郁とした春蚕を前にして、作者も大いに心を動かされたのではないだろうか。
蒲公英の立ち上がり方踏まれ方 松本勇二
路傍の蒲公英は大変だ。行き交う人々から踏みつけられては頭をもたげて立ち上がり、また踏まれる、のくりかえし。しかし作者には蒲公英に意思があるかのように、うまい立ち上がり方や、ダメージの少ない踏まれ方があるように見えた。人間にしても同じ。しかも人間には知恵も足もあり蒲公英よりはうまく対処できるはずだと。
夫婦という幾何学しゃぼん玉ふわり 宮崎斗士
夫婦は幾何学だ、と言っている。夫婦問題の暗喩。そこで幾何学側から夫婦問題を見ると何か分かるかもしれない。たしかに幾何学は複雑のようでも必ず解があり、規則的な幾何学模様は見方によっては美しい。深淵なる夫婦問題も案外そんなものか、と納得しそうになる。いろいろ考えているうちに、下五「しゃぼん玉ふわり」で作者本人に寄り切られた感じだ。
(鑑賞・服部修一)
軋轢が詩を孕ませて芽吹くかな 川崎千鶴子
本来「軋轢」は人間の不和、葛藤などを意味するネガティブな言葉である。この作品の面白いところは、「軋轢」を詩を育む母胎のように捉えて、柔らかい芽吹きの中に置き合わせた味わいである。時を得て良い詩が醸し出されることを信じて、軋轢をも抱きとる包容力と懐の深さが感じられる。
寒卵つるんと筆順誤魔化して 村上友子
寒卵がつるりと剥けて、見るからに美味しそう。滋養にもなりそう。書き物をしていると、覚えていた筈の文字が不確かで辞書を探す。一本横線が足りないかな?ならばちょこっとそれらしく足しておく。筆順は当然つるんと誤魔化しちゃった。茶目っ気たっぷりのユーモラスな描写が好もしい。
アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
昭和三十年代、デパートなどの商業ビルの屋上には大売出しの宣伝のアドバルーンが揺れていた。ただ、強風には弱い。どこかへ飛んで行ってしまわないようにと、見張りのバイト要員が控えていたのだろう。近年では、世間の反響をうかがうために意図的に情報をリークするアドバルーン揚げもあるので要注意!
(鑑賞・平田恒子)
諦めの美学おぼろに語りましょう 伊藤幸
一読、「諦めの美学」は「おぼろに」語るのが相応しい、と読めた。が、平凡だ。作者は「おぼろに語」るのが大好きなのではないか。「諦めの美学」だとしても朧に語らずにはいられない。「諦めの美学?だとしても、朧に語りたくて仕方ない私です。一緒に朧に語りましょう!」こんな解釈の方が魅力的ではないか。いかが?
てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
何かを思わず握りしめようとしたか、包もうとした瞬間だったのか、掌に意志を見たのは。自分の中の無意識、本能的なものが表出した一瞬をみごとに形象化している。「指」でなく「てのひら」、「小さき」でなく「軽き」の措辞の斡旋が、詩を生んでいるのではないだろうか。作者の柔らかな感性に拍手を贈りたい。
木履をはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子
「木履」は女児用の下駄のようだ。幼時の記憶から、翻って老いた我が身に思い至るのだが、さり気なく、洒落で死に方願望を語ってしまうおおらかさと諧謔味に、心を鷲掴みにされた。こういう心境は俄仕込みでは生まれてこないように思う。作者の辿りきた人生の豊かさと深さを想う。
(鑑賞・嶺岸さとし)
◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
過ぎ去りし若さ照らして更衣 有栖川蘭子
蜘蛛下がる御用学者の眉尻へ 植朋子
こころの迷彩は何を隠すの夏 大池桜子
一言も発することのない泉 大渕久幸
陽炎のことなど話し蕎麦啜る かさいともこ
雨粒のたった五粒に山沈む 葛城広光
藤の房屈伸の手は地につかず 河田清峰
告白の腹にいちもつ罌粟の花 木村寛伸
梅雨寒や缶振れば鳴るドロップス 清本幸子
ポン菓子屋ポンポン春を引いてくる 後藤雅文
父の手の昏がりにほうほたる 小林育子
毛たんぽぽ言葉の襞からひらひら 小林ろば
海ばかり見てながらえてはまなす野 榊田澄子
熊野路の雨は球体雨月かな 宙のふう
春蝉鳴く今日の顔して一日かな 高坂久子
黒薔薇の蔓が寝棺の窓を這う 田口浩
夏館母は吾を吾はデグーを叱る 立川真理
白というまばゆき坩堝更衣 立川瑠璃
青田波蝦夷百年の風の記憶 谷川かつゑ
生きてあれアカシアの花共に見む 平井利恵
花冷えのショパンすこしく前のめり 深澤格子
らいてうとふ女性ありけり青き踏む 藤井久代
志こんな処に蕗の薹 藤好良
来し方の変えぬ不器用豆の飯 保子進
春惜しむ集ひに一人リアリスト 武藤幹
少しだけ親切になれる薔薇咲く 村上紀子
鳥曇海に帰れぬ水のあり 矢野二十四
花びらを着けデイケアから母帰る 吉田和恵
素っ裸おむつ一つの父の体 渡邉照香
もののけのはしゃぐ声する春嵐 渡辺のり子