『海原』No.11(2019/9/1発行)

◆No.11 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出


春愁のゴリラの背中名前がない 綾田節子
たんぽぽの絮よいつよりこの動悸 伊藤淳子
花馬酔木母と触れ合っている言葉 伊藤雅彦
藤の花母性に昏き小部屋あり 伊藤道郎
葉桜や帰還若者老けて見ゆ 江井芳朗
糠床に錆釘種まき唄が聞こえる 大西健司
薄氷や女だてらという言葉 奥山富江
歯車が歯車を押し弥生かな 小野裕三
すかんぽや妣の手いつも湿りけり 片町節子
母を看て時々椿落ちにけり 加藤昭子
リラ冷えの着信音という隙間 金子斐子
子等が来て家中鯉が泳ぎけり 川崎千鶴子
楠若葉さびしい小鳥お断り 河原珠美
昼過ぎの夏蝶舌のしづもれり 小西瞬夏
夢に原発雨はプラチナの鎖 清水茉紀
この町に不義理もありて桜見に 鈴木栄司
麦の秋「みんなの体操」一人でして 田中雅秀
ひと逝きて水かげろうのそのまわり 遠山郁好
夕薄暑除染作業の求人欄 根本菜穂子
遺影の君はすこし上向きすいかずら 野田信章
応援の連唱のよう百千鳥 長谷川順子
卯の花腐し髪梳くように浪費して 日高玲
夢に兜太夏雲をやわらかく抱きて 藤野武
不眠症金魚は朝の夕陽である 北條貢司
蝶の昼だれかれの目にサスペンス 三好つや子
呼び止める令和の朝の姫じょおん 村上友子
ポンポンダリア老いにこそ相聞歌 森鈴
磯巾着ふわりふわりと認知症 森由美子
花馬酔木われなまぬるき舌を持ち 茂里美絵
カーネーションやっぱり写真の母に買う 諸寿子

佃悦夫●抄出

朧夜の吽形物を言いたげに 石川和子
ガラス質の少女駈け出し夏兆す 市原光子
令和元年五月一日当番医 江良修
蓬の精かな少年が立っている 大髙洋子
死者たちを蓄えし闇薪能 片岡秀樹
麦の秋海の中では帆立貝ほたて跳び 片町節子
限界集落さめざめと蛇穴を出る 加藤昭子
しろつめ草雲と私編み込んで 川田由美子
花の冷え青のとけだす硝子玉 小西瞬夏
無住寺にこたえ求めて西行忌 坂本祥子
鳥帰る沼も私も穴だらけ 佐々木宏
花水木ままごとのような友の墓 白石修章
黒揚羽弁才天にまぎれたる 関田誓炎
目借時獏がうろうろしてならぬ 瀬古多永
雑炊と卒塔婆の路地に紙ヒコーキ 竹内義聿
はつなつの乳房はやわらかい半島 月野ぽぽな
短命な初蝶といる君といる 椿良松
洗いざらしのステテコが好き草の花 遠山恵子
ボタン失くしたあのきさらぎの雑木林 鳥山由貴子
どくだみやわが身中の灰かぐら 長尾向季
天の川猫はねずみを追いかける 永田和子
若き日の百冊灰に鳥雲に 新野祐子
胃カメラの何処まで行っても蝶の羽音 藤野武
緑陰に来し方うつくしい老婆 本田ひとみ
風で描く自画像もあり五月来る 宮崎斗士
散りぎわに薄目をあける朝桜 三好つや子
緑さす鏡の中の長い廊下 室田洋子
花馬酔木われなまぬるき舌を持ち 茂里美絵
石の下蟻の体臭どっとくる 山内崇弘
遠蛙群青いろの村だった 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

たんぽぽの絮よいつよりこの動悸 伊藤淳子
 いつよりか兆し始めた体調の変化、それが加齢にともなうものだとしたら、もはや受け入れるしかない。この句の声調には、しのびよる衰えをおのれの体感で確かめながら、静かに向かい合おうとしている作者がある。たんぽぽの絮は、幼い頃から幾たび見てきたかわからないが、その都度の体感が加齢とともに微妙に変わってきていることにも気づかされる。老いに対する認識や心構えなど遠い景色と思っていたのに、近頃頻繁に訪れる動悸は、にわかにその遠景が近づいてきたとも思わせる。それはいつごろからのことだったろう。そのときたんぽぽの絮を、いのちのいとおしさのように感じている。

糠床に錆釘種まき唄が聞こえる 大西健司
 糠床は、糠漬を作るために、糠に塩や水を加えたもの。殊に地方での食生活には欠かせない。種まきは、春彼岸の頃から八十八夜にかけてが好時期とされている。糠漬の決め手は糠床にあるが、あまり暑くならないうちに作り置くものなのだろう。種まきの時期は、糠床に野菜を漬け込む好時期でもある。作者は幼い頃から、種まき唄の聞こえる初夏に糠床作りを体験していたに違いない。その大事な糠床に錆釘が入っていたという。まさに一家の一大事で大騒ぎとなった。それは糠床の匂いと種まき唄が、ふるさとの生なましい思い出として甦ってくる。

すかんぽや妣の手いつも湿りけり 片町節子
 すかんぽは春から初夏にかけて、田の畔や野原に赤い穂を揺らす。茎葉に酸味があり、あまり見映えのしない花だが、不思議になつかしさを誘うものがある。「すかんぽ」の語感が、幼き日の母の思い出にもつながる。そういえば手をつないでくれた亡き母の手は、いつも湿り気を帯びていた。その皮膚感覚が母の感触として忘れられない。「湿り」にいのちの息づかいがある。

母を看て時々椿落ちにけり 加藤昭子
 「母を看て」とは、母の介護に努めていることを指すのだろう。おそらく重篤の状態が予想される。かなり張りつめた病床の緊張感である。その重い静寂の最中に、時々庭の椿の花の落ちる音が間を置いて聞こえてくる。それは、刻一刻と消えつつあるいのちを刻む音でもあろう。「時々椿落ちにけり」が、緊迫した時の推移を伝えている。

この町に不義理もありて桜見に 鈴木栄司
 「この町に不義理」があったとは、具体的にはよくわからないが、かつてこの町で肉親を含めて長く住み、多くの人々にいろいろとお世話になったのに、そのお返しもしていないという気持ちの上での恩義感をいうのではないか。その時から長い月日を経て、もはや恩義に報いるべき人も居なくなり、お返しするすべもない。せめてこの町の桜時に桜見物に行って、往時を偲び感謝の気持ちを忘れまいという。「不義理もありて」に、ままならぬ人の世のしがらみとさだめを思う。

遺影の君はすこし上向きすいかずら 野田信章
 「遺影の君」とは、おそらく愛する人の遺影なのだろう。その面影は今もまざと瞼の裏にある。遺影を見つめ返すことで、瞼の裏に面影の上書きをしているに違いない。遺影は「すこし上向き」で、睫毛越しに眸が大きく見ひらかれている。すいかずらは香りが強く、甘くなやましいおもいを誘う。遺影を見つめているとしあわせだった頃の思い出がよみがえる。いかにも当事者ならではの体感であり、映画的ともおもえるような、映像のショットである。

不眠症金魚は朝の夕陽である 北條貢司
 不眠症で一晩眠れなかった朝。窓辺の金魚鉢に射しこんでいる朝日の光を見たのだろう。頭は重く、眼はショボついているのに、陽の光だけは眩しい。金魚の鱗に反射する光は、朝日に違いないのに、自分には夕陽のような重苦しい感じに見えている。その体感を「金魚は朝の夕陽である」と断定した。その一瞬の時空の転換によって、不眠症の体感を言い当てたのである。

蝶の昼だれかれの目にサスペンス 三好つや子
 時は夏の真昼。所は蝶の飛び交っている公園。そのほんのひと時に、人通りが絶えて不気味な空間がひっそりと静まりかえっている。あたかもなにかの事件の予感のような、それは見た人ならだれかれなく、サスペンス劇の始まりを想像させるような瞬間だった。

磯巾着ふわりふわりと認知症 森由美子
 磯巾着は、浅海の岩場に生息し、花のように触手をひらいて獲物を待っている。魚などの餌が触れると捉えて口を締める。ふだんはふわりふわりと海水の中で漂っているが、それはあたかも認知症の人の行動のように、とりとめがない。おそらく、作者の身辺で見かける実感そのものなのだろう。とはいえ、下手に対応しようものなら、たちどころに食いつかれることもある。それは磯巾着同様の厄介さなのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 佃悦夫

朧夜の吽形物を言いたげに 石川和子
 朧夜は悪だろうと善だろうと隠してしまう。現世のわずらわしさを一時でも忘却させてくれる朧の夜は茫漠として広がる。この阿吽像二体は何処に存在しているのだろうか。作者宅に佇立しているのだろうか。吽形一体のみは考え難い。いずれにしても口を永遠に閉ざしてしまったかに見える吽形鬼もやはり内心に言いたいことを我慢しているのだろう。その唇はかすかに動いたのではなかろうか。

令和元年五月一日当番医 江良修
 今月号も改元についての多数の作品が見られたが、本作品に止めを刺したい。改元一日目であろうと救急病院の当番医には何ほどの変わりはない。患者が運ばれてくれば手を尽くして使命を全うするばかりだ。当番医も家庭に帰って改元を改めて意識したことだろう。

死者たちを蓄えし闇薪能 片岡秀樹
 篝火が激しい音を挙げて燃え盛る。篝火のほかは将に闇の世界。燃え盛るほど闇は深海のようだ。演目ほとんどが死んでも死に切れぬ怨霊の呻きに違いない。この世を全う出来ずに無念の死を強いられたものの魂が篝火にもなおのこと激しく訴えているのかも知れない。

麦の秋海の中では帆立貝 ほたて跳び 片町節子
 一般的によほどのことが無い限り海中の世界まで思い及ばない。地上では麦の秋という。麦の穂が風に揺らいで、その豊作を謳っているのだが、その一方の海中では帆立貝も生の営みに懸命である。移動のためか、はたまた餌を捉えるためか、跳躍しているに違いないと、作者はその生命に想像を限りなく巡らしている。

鳥帰る沼も私も穴だらけ 佐々木宏
 歳月は間断なく運行を続けている。今年も候鳥が日本を飛び去って行く日がきたのだという詠嘆が“鳥帰る”と言わしめた。蛙の跳び込んだ沼か、やがて蓮の花が咲くであろう沼か。人間には両眼・両耳・鼻孔・後陰・前陰の九穴があるという。ただし本作は九穴以上に欠陥だらけと卑下しているのかも知れない。

目借時獏がうろうろしてならぬ 瀬古多永
 使い古された季語“目借時”だが、蛙ならぬ作者もつい居眠りの境に入りそうな寸前の漠とした気分を“獏”に身代りしてもらっている。もちろん、人間の悪夢を食う獏が、瞼に右往左往しているのであろう。中七以下の現在進行形は現実か夢かの境界の定かならぬ目借時だ。

どくだみやわが身中の灰かぐら 長尾向季
 念のために字典を索くと“どく”は毒、“だみ”は矯める・止めるの意とあり漢方を思い出す。本作は作者のみが知るストーリーを秘めている気がしてならない。獅子身中の虫ではないが決してポジティブな思いではなく、瞬時の灰かぐらからは苦い苦い場面が再現してくるのであろう。

緑陰に来し方うつくしい老婆 本田ひとみ
 西東三鬼“緑陰に三人の老婆笑へりき”を誰でも思い出すであろう。三鬼作は本田作を貶めるために掲出したのではもちろんない。作者は三鬼作を承知した上である。人生百年という現今、何歳以上を老婆というのかは問わないが、人生決して平坦であろうはずはなく、来し方のさまざまを超越し切った“うつくしい老婆”と思わず感嘆しきりだったのだ。その上に己れを顧みて、この老婆のようにかくありたいと思った。

風で描く自画像もあり五月来る 宮崎斗士
 世に自画像は無数にあろう。画材・大きさ・機会・美化などさまざまだ。ゆえに自画像の“も”の所以である。本作品は何とも爽快で軽快であり、きっと微笑しているのだろう。風で描いたという作者の意識の働きが想像されるが“風”“五月”という言葉の力を思った。また無言館にまで思いも及ぶ。それにしても風貌なる言葉とはまさにこの自画像を措いてはなかろう。

緑さす鏡の中の長い廊下 室田洋子
 時は夏。この永井廊下とは社寺のようなものではなく自宅と見たい。鏡の中にまで樹々の緑が生きもののように在る。その鏡に長い廊下が映っているという叙景句だが、生きてきた何人もの足跡が刻されていることだろう。その家の歴史そのものの光っている廊下。何処までも無限に続いているかに錯覚してしまう。叙景以上のものが見えてくる廊下の佇まいといえる。

遠蛙群青いろの村だった 横地かをる
 過去への追憶だろうか。“だった”と詠嘆しているが、その村も作者も老いた。さまざまの青に囲繞された安息の日々の暮らしがあった。“遠蛙”はその感傷を増幅した。

◆金子兜太 私の一句

河の歯ゆく朝から晩まで河の歯ゆく 兜太

 「今、お風呂から上ってくるので、ここでお待ちなさい」とのご内室のお言葉。下着姿の金子先生に福岡の旅館の居室で頂いた色紙。何時ごろ書かれた作か正確には知らないが、眼前でご揮毫いただいた時、俳句の自由・自在さに驚いた。《河の歯》の具体は分からないが、誰が名付けたか所謂前衛俳句の旗手であり新しい俳句を開墾する、そんな思いの丈の表出であったのかも知れない。句集『狡童』(昭和50年)より。瀧春樹

孤独な鹿草けり水けり追われる鹿 兜太

 初学の頃、夫が買ってくれた講談社の日本大歳時記を読むのが好きだった。カラー写真や絵が多く、小川芋銭の「狐火」などを見つけては喜んでいたものだった。大好きな鹿の項目の最後に載っていたのが掲句である。童話の中の鹿に気持ちを寄せるように鑑賞していたあの頃だったが、前衛の先頭を疾駆する若き日の先生の苦悩さえ、今なら思い描くことができるような気がしている。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。河原珠美

◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句


大西健司 選
除染未だ凍てし原野に寝息かな 伊藤巌
髪束ねまた来てねって気楽なムスカリ 伊藤幸
鳥雲にどこかで舟を出す気配 伊藤淳子
カフェオレに春満月を入れて恋 大池美木
啓蟄や自分をボクと呼ぶ少女 奥山和子
引っぱって外すネクタイ霾ぐもり 加藤昭子
まんさくの薄き縫い目を野にほどく 川田由美子
○狐火匂う我が出自という斜面 白石司子
○ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
啓蟄の口角少しだけ上がる 鳥山由貴子
かひやぐら沖へ消えゆく流人舟 長尾向季
母の忌の薄日の中の菜飯かな 新野祐子
梅三分眉引くときは他人です 増田暁子
古民家カフェへパンジーの路地ぬけて 三世川浩司
優しさうな梅のおでこにことんと愛 三井絹枝
○一周忌ってまだ仮縫いのよう土筆 宮崎斗士
牡蠣啜る寄り目の妻のあどけなき 森鈴
そうなのよ左乳房はライラック らふ亜沙弥
デカンタにワイン春蝉の気がして 六本木いつき
重ね着は樹木のしめり死者生者 若森京子

片岡秀樹 選
納棺師動かざるものに春の虹 赤崎ゆういち
寒三日月あうんのうんの罅割れる 石川青狼
互いに素それがよくって日向ぼこ 伊藤巌
春愁のポケット多き旅鞄 加藤昭子
○枕木と同じ匂いの春の鳶 川田由美子
おしゃべりはひかりの遊び花三椏 河原珠美
鳥交る栓を閉めても水の音 北上正枝
○笹鳴きや今日は生きたい方の母 木下よう子
○茶碗酒野焼の匂う男たち 小宮豊和
冬の雨ふと雑踏という浅瀬 佐孝石画
一茶忌や6Bエンピツ削ぐ男 清水茉紀
雪柳君といる仮説を立てる 竹田昭江
○ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
でこぼこに住んでふる里蝌蚪に脚 永田タヱ子
蛇穴を出て喋らない方がいい 丹生千賀
華やぎは枇杷の花ほど旅芝居 長谷川順子
憂鬱という字の中のフィヨルドよ 北條貢司
剪定の梯子ひとつと暮れ残る 松岡良子
○一周忌ってまだ仮縫いのよう土筆 宮崎斗士
天に澄む凧の力を子に渡す 山口伸

桂凜火 選
半分はへこたれて搔く分厚い雪 石川青狼
冬眠の師の領域ぞ誰か咳く 伊藤淳子
フクシマといい沖縄といい蓮根太る 稲葉千尋
木のどこに触れても春の水の音 大沢輝一
僧のごと鬱の日の冬木立 尾形ゆきお
春暁の鴉あわあわあかんたれ 河原珠美
○笹鳴きや今日は生きたい方の母 木下ようこ
七転八起別れ楽しも春の雪 久保智恵
○茶碗酒野焼の匂う男たち 小宮豊和
○人の背に文字の混みゆく時雨かな 佐孝石画
眩しさの雪野へ眼玉転がれる 佐々木義雄
○狐火匂う我が出自という斜面 白石司子
牡丹雪死者に無いものねだりする 芹沢愛子
さあこれで見るものはみた冬欅 平田薫
「愛に近いもの」そんなの要らぬ榾火かな マブソン青眼
男運悪しき手相やシクラメン 森武晴美
蕗味噌舐め「自然」を「うぶ」と読み兜太 柳生正名
夕田鶴は なげうつごとく息使う 矢野千代子
○へその緒を戻してみたき雨水かな 山下一夫
フルートの少女つめたき耳ふたつ 横地かをる

日高玲 選
春の鹿窓往く人びとの系譜 石川まゆみ
三月を笑いころげてただ哀し 宇川啓子
独活を待っている孤独のページかな 大髙洋子
ふきのとう開いて猫を眠らせる 奥山和子
凍土ひそひそひそケルト文明史 小野裕三
海鼠切る吾が体幹のゆらぎかな 狩野康子
○枕木と同じ匂いの春の鳶 川田由美子
木椅子とは一種定型鳥雲に 北村美都子
猪罠のからっぽ夕日落ちてゆく 小池弘子
生き物の凹みにたまる春の雨 こしのゆみこ
最北の線路の石は野にかえり 近藤守男
○人の背に文字の混みゆく時雨かな 佐孝石画
まんさくやセントヨハネのちぢれ髪 猿渡道子
三椏の蕾微笑む麗子像 髙井元一
ポケットの梅の花片いつか失せ 田中雅秀
春愁や輪ゴムをギターのようにき 峠谷清広
生しらす愛憎もまた遠い景 藤野武
みんな帰りふらここからポルトガル語 堀真知子
マスクして居留守のような昼の顔 三好つや子
○へその緒を戻してみたき雨水かな 山下一夫

◆三句鑑賞

一周忌ってまだ仮縫いのよう土筆 宮崎斗士
 斗士さんの文体そのもの。意味を追っても混乱するばかり。感覚でわかるかわからないか、それだけだろう。わたしも二人のおじ、そして年下のいとこの一周忌がまもなくなだけに、なんとなくこの仮縫いという感覚がわかるような気がする。これが両親だったりするともっとこの思いは強いのだろう。不思議な魅力のある句。

除染未だ凍てし原野に寝息かな 伊藤巌
 少し道具立てが公式的かななどと勝手なことを思いつつ、その内容の重さにこだわっている。未だ故郷に帰還出来ずにいる人たちに思いを馳せつつ、春遠い原野に命を暖め、ひたすら春を待つ生き物たちを愛おしく思う作者。堪え忍ぶ命は未だ帰還出来ぬ人々そのものなのだろう。生き物感覚のよろしさを思う。

ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
 何とも難解な句ながら、言わんとすることは伝わってくる。人として日常生活を営む中、人々の群れの中を流離いながら過ごしている。少し抹香臭いのは、竹本さんが確か淡路島のお寺のご住職ゆえと納得しつつ、春岬と納めたところに救いを感じている。行き着く先は青みを増し始めた岬が心地よい。「匂いを漂流」がことに秀逸。
(鑑賞・大西健司)

互いに素それがよくって日向ぼこ 伊藤巌
 1以外の公約数を持たない関係を「互いに素」という。中学校で習う数学用語だが、これを人間関係に転用すれば、共通点を持たない集合となる。日向ぼこの場面として、通常私達が想起する、同性の子供達や老夫婦といった、共有点を多く持つ人々の姿はここには無い。年齢、性別、文化、主義主張、国籍すら異なる人々がそれを是として日向ぼこする、これは作者の示す平和論であろう。

ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
 たとえ家族を捨て、故郷を離れ、世間のしがらみの一切を振り払っても、人は人との関係を全く絶って暮らすことは出来ない。逃れ逃れて辿り着いた最果ての岬においても、人は「ひとの匂い」を求め、その中で漂うのだろう。それが人の定めであり、また救いでもあると、「春」の措辞は伝えている。

憂鬱という字の中のフィヨルドよ 北條貢司
 憂鬱という漢字は、複雑に入り組んだ入江のような字形をなす。確かに、北極圏に見られるフィヨルドの海岸線に似ている。絶望の画家ムンクは、『叫び』の背景にオスロのフィヨルドを不穏なタッチで描き込んだ。フィヨルド、それは鬱に苦しむ人間に向かって開口する、非人間的な深淵に他ならない。
(鑑賞・片岡秀樹)

冬眠の師の領域ぞ誰か咳く 伊藤淳子
 師はまだ冬眠中で、いつか目覚めることもというのとは少し違う。おそらくは魂の領域の話。肉体はないけれど自分の側にいる師の魂を作者は感じることができている。誰にも邪魔されたくない至福の領域。だが、「誰か咳く」という生身の人間の気配がある。そのことでより鮮明となる寂寞の世界にとても心惹かれた。

笹鳴きや今日は生きたい方の母 木下ようこ
 生きるのに日々意味を問わねばならぬのは、少し辛いが、年を取ればそういう時もくるのだろう。「今日は生きたい方の母」という措辞から、寄り添う者のつらさや、愛情深いまなざしが感じられた。「笹鳴きや」の取り合わせも無心な生きものの生命力が伝わる季語だ。これからも「生きたい方の母」上の日が多くなりますように。
フルートの少女つめたき耳ふたつ 横地かをる
 何もかわったことは言っていないのにとても印象深い。あえて言えば「耳ふたつ」と当たり前のことを改めて言って見せたところが巧まれたものだろう。そしてそれは 「つめたき」少女の耳なのだ。いかにも可憐で若々しく、しかも健気な感じさえ伝わる。少女の姿が句の中で過不足なく伝えられる巧みさに憧憬を覚えた。
(鑑賞・桂凜火)

春の鹿窓往く人びとの系譜 石川まゆみ
 絶え間なく窓の外を流れ行く人。ここからあちらに、あるいは生から彼方へ冥界へ命は流れ往く。その流れはあたかも一つの系譜をたどる様だ。配合した季語は、子鹿を身籠った母鹿の柔らかな姿態や子鹿の誕生の映像を想起させ、よりくっきりと生命の姿が描きだされていく。中下句の措辞、特に「窓往く人びと」が佳い。

生き物の凹みにたまる春の雨 こしのゆみこ
 生命の全体像を「生き物の凹み」の措辞で言い切り、暖かなユーモアが滲む。同時に、太古の時代の生命誕生などが思われたり、「凹み」にエロティックなイメージも重ねたりと、複雑な味わいが醸しだされて面白い。「春の雨」の効果が絶大で、生き物への親和力と言うか、そこはかとなく暖かい感触がじんわりと伝わってくる。

みんな帰りふらここからポルトガル語 堀真知子
 夕暮れの遊園地の風景から、やや孤独な心象景が描きだされている。恐らく、誰もが子供時代からずっと大事に持っている美しい孤独な心象景とでも言うもの。「ポルトガル語」がこの句の肝となり、作者のウィットが、寂しい心象と気持ちよく混合されて、独特な味が引き出されている。「ふらここからポルトガル語」の語感が面白い。
(鑑賞・日高玲)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

リラの香や昨日が流れ去るを待つ 有栖川蘭子
摘草や書くという存在兜太日記 安藤久美子
金輪際より参上や花むぐり 飯塚真弓
ペンギンの搾り出す声夏の雲 石塚しをり
五月の蝿地面に恋のにおいかな 泉陽太郎
蒲公英の閉じる緩さよ還暦よ 齋貴子
母ったら薔薇を褒めるのが毎日 大池桜子
まだ何者でもなく卯の花腐し 大渕久幸
相傘を妻にさそわる夕立かな 荻谷修
御飯粒雀の卵に付いている 葛城広光
白牡丹何処へも行かぬ母に咲く 清本幸子
令和来る父の戦後史曝す朝 黒済泰子
河骨や涙こらえるという過ち 小林育子
昭和って私が毛たんぽぽだった頃 小林ろば
探偵のポスターに犬こどもの日 小松敦
降伏も万歳の手も夏空へ 三枝みずほ
黄週間 ゴールデンウイーク川に来たので火を起こす ダークシー美紀
薔薇を剪る女庭師も棘あらむ 高橋靖史
春の風ソウイウモノニなってるわたし たけなか華那
身に覚えなき死が語る原爆忌 立川真理
帰省子のごと母がゐて母の家 立川由紀
靖国の落花わが頬打つように 野口佐稔
卯の花ならぬ言の葉腐しこの世かな 服部紀子
雁帰る地方ぢかた橋にて振り返る 藤好良
花の夜ざらっと冷めている背広 松﨑あきら
「うそつき」を覚えてからの飛花落花 松本千花
ポピュリズム無縁のごとく牡丹咲く 武藤幹
押入れに変な似顔絵昭和の日 山本きよし
憲法記念日ことばを差別せぬと師よ 吉田和恵
寢釋迦まで嵯峨野泥みち畦づたひ 吉田貢
(吉田貢の吉は土に口)

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