◆No.6 目次
◆海原秀句 同人各集より
安西篤●抄出
小春日の頁めくればみるみる水輪 伊藤淳子
従姉妹来る手花火程の嫉妬心 伊藤雅彦
妻といるふしぎな自由暮の秋 大沢輝一
ロボットと二人ぐらしや文化の日 片町節子
枯はちす立つ本能というひかり 狩野康子
一人ひとり来し方行方冬木の芽 北村美都子
猿酒目をつむる事習い性に 黍野恵
自分史の書き辛い箇所遠花火 楠井収
あとがきのような稜線涼新た 黒岡洋子
我という浮遊感覚冬の雨 佐孝石画
ガリレオのように星月夜を黙読 猿渡道子
秋夕焼師の両神山は包むかたち 篠田悦子
白菜まっ二つ嘘つきの平和 清水茉紀
菊人形サイケデリックに枯れている 白井重之
ちちろ鳴く君との時差の横たわる 竹田昭江
喧嘩してきて背高泡立草ばっちり 故・谷佳紀
フクシマと言うとき冬の蠅来るとき 中村晋
浜木綿や軍艦島に骨朽ちる 仁田脇一石
生いちじくの緩い食感愛に飢え 船越みよ
空家いま獣のにおい星月夜 本田ひとみ
破蓮体言止めのようにかな 松本勇二
どんぐりが踏まれては自己責任論 マブソン青眼
三角形いくつも描いて冬に入る 水野真由美
待ちぼうけはたぶん哲学一位の実 宮崎斗士
無花果樹の蔭怖くなるお留守番 村本なずな
「さみしい」の使用を禁ず吾亦紅 室田洋子
産直の陽の匂い抱き市民祭 望月たけし
ロボットの作るオムレツ文化の日 森鈴
大言海閉ぢて座礁の鯨どち 柳生正名
冬期限定の男ですはにかみ屋です らふ亜沙弥
前川弘明●抄出
鶴渡る夜折鶴は飛び発たん 伊藤道郎
峠まで故郷見にゆく鵙日和 石川義倫
原子炉の光冷まじや日本海 稲葉千尋
米寿なり原爆乙女は歳読まず 大浦フサ子
きっかけは笑うことから枇杷の花 奥山和子
ロボットと二人ぐらしや文化の日 片町節子
抽斗の枯葉ざくざく新元号 桂凜火
枯はちす立つ本能というひかり 狩野康子
せせらぎに始まる妻の秋出水 川崎益太郎
自分史の書き辛い箇所遠花火 楠井収
我という浮遊感覚冬の雨 佐孝石画
塩害の落葉を素手で鷲掴み 佐々木昇一
初秋刀魚行方不明の猫帰る 瀬古多永
文鳥のめつむるしぐさ初しぐれ 田口満代子
立冬のキャッチボールは高く投ぐ 田中雅秀
草原に星飛ぶ夜の輪転機 鳥山由貴子
満開の漢の寿命冬銀河 中内亮玄
ゆらゆらと歩けば綿虫に会える 中條啓子
仮設のまま八年冬の薔薇一輪 中村晋
落葉蹴る炸裂音や女靴 中村孝史
蛇穴に入る一匹は酔いどれて 並木邑人
雑草の貌など捨てよ朝の稗 成井惠子
秋の海なら先頭車に乗るわ 平田薫
無冠の夫草の実付けて戻り来る 船越みよ
突っ立って竹箒なり十三夜 本田日出登
綿虫の命の青み神の庭 松岡良子
蝦夷の地の水の弾力胡桃落つ 武藤鉦二
夜も青空どこかで鯨潮吹いて 茂里美絵
両の手で頰を叩いて刈田出る 山口伸
こおろぎのむくろ見るのみ考へず 横山隆
◆海原秀句鑑賞 安西篤
小春日の頁めくればみるみる水輪 伊藤淳子
小春日和の続く穏やかな日に、家の近くの池か小川の畔に来て、静かな時間を過ごしているのだろう。「頁めくれば」とあるのは、今の時間に回想の景を繰り込んでいるに違いない。「みるみる水輪」は、現前の景に回想の景が重なって、想念は水輪とともに広がって行く、その〈現れ〉ではないだろうか。手錬れの作者ならではの〈時間の現在感覚〉とは言えまいか。
枯はちす立つ本能というひかり 狩野康子
「枯はちす」は、冬の水面に残る枯れ果てた蓮の残骸で、骨のように突っ立っているものもある。一面に枯れわたった景は荒涼として、無残とも思えるほどだ。その中に「本能というひかり」を放つ枯蓮があるとは、泥中深く走っている地下茎が、豊かな蓮根を稔らせていることを暗示するものであろう。褐色の枯葉は水面にうなだれていても、本能が支えているいのちは、どっこい生きているというわけだ。
我という浮遊感覚冬の雨 佐孝石画
冬の雨は、小暗く冷たい。ものみな枯れ果てた上に降るので、みじめな感じもある。明治期までは、「時雨」「寒の雨」の季題が使われていたが、よりこまやかに「冬の雨」を季題として用いるようになったのは、現代俳句においてであったと言う(山本健吉)。「我という浮遊感覚」は、まさに現代俳句ならではのもので、こういう〈故知らぬ倦怠感〉ともいうべき不安感は、少なくとも明治期以前にはなかったものかもしれない。
菊人形サイケデリックに枯れている 白井重之
「サイケデリック」とは、心理感覚内にさまざまな幻覚によって生ずる視覚聴覚のイメージ。菊人形が枯れた状態になると、まさにそんな混沌とした抽象化された映像に変わるとみたのだろう。一九六六年にアメリカ西海岸に起こって全世界に波及したヒッピー運動のイメージにも通うと作者は見たのかも知れない。正直のところ、この比喩がどこまで当たっているのか私にはわからないが、「サイケデリック」と名づけたことで、枯れた菊人形のイメージが決定づけられたといってよい。
フクシマと言うとき冬の蠅来るとき 中村晋
東日本大震災以来、福島はヒロシマ、ナガサキ同様にカタカナ表記され、原発被災を世界的規模で印象付けることになった。しかし災後八年、原発はますますグローバル資本主義と結びついて、災後のリスク感覚は風化されつつあるかに見える。そのことへの警告を、作者は声高でなく、「冬の蠅」のような日常感で訴える。それは、繰り返される忘却に抗し、被災が突きつけた問いにこだわり続ける庶民の粘り強い声に違いない。
空家いま獣のにおい星月夜 本田ひとみ
地方の過疎化が言われて久しいが、今や人口減少は都市近郊にまで及び始めている。空家がふえ、ゴーストタウン化した地域は人影もなく、獣のにおいすら充ちつつある。作者は、福島に定住していたが、被災後、東京のベッドタウンといわれる埼玉に移住した。しかしそこすら、安住の地とはいえなくなって来ているのかも知れない。「星月夜」は、そんな現実を受け止めている作者の姿勢が見えてくる。
破蓮体言止めのようにかな 松本勇二
破蓮が水面に広がる中にあって、いびつな漏斗が下を向いた形になっているものが見られる。それが一つ一つのオブジェのように、さまざまな形を作っている。その存在感を「体言止め」と見立てたのではないか。この形容の仕方は、独特なものだけに伝わりにくいものかもしれないが、雑然とした破蓮の群落にも、作者の中ではある拍音のようなリズムが感じられたのかもしれない。
待ちぼうけはたぶん哲学一位の実 宮崎斗士
「待ちぼうけ」は、北原白秋作詞・山田耕筰作曲の童謡としてよく知られているが、もともとその説話は、中国韓非子に由来するものなので、「たぶん」といわれなくとも哲学なのである。作者はそこをおどけて、諧謔をこめて「たぶん哲学」といったのだ。そのずっこけぶりが、この句の面白さになっている。取り合わせた「一位の実」は、果実の質感というより、高官の笏を作ったことから来る「一位」の語感が、イメージの落差をもたらしていて面白い。平易な句柄とは裏腹に、結構二重三重の仕掛けのある巧みな句とみた。
無花果樹の蔭怖くなるお留守番 村本なずな
無花果の木蔭の庭でお留守番をしているのは幼い頃の作者なのだろう。一人お留守番をして無花果の葉蔭にいると、なにやら物の怪に誘われそうな、怖ろし気な気配を感じてしまう。おそらくそれは、たんに一人で居る心細さばかりでなく、なにかえたいの知れない不安な塊のようなものに取りつかれる直前の気配のようなものかもしれない。作者にとって名づけられない何か、自分を突き動かす何かのような、詩的衝動に駆られていることを指しているのかも知れない。
◆海原秀句鑑賞 前川弘明
峠まで故郷見にゆく鵙日和 石川義倫
ふるさとは遠きにありて思ふもの、と室生犀星はうたったが、あれは故郷を思い焦がれる裏返しのせつない自己韜晦であろう。それに比べると当句は率直で健やかである。峠まで来ても故郷が見えないことは判っているのだけれど、鵙が高鳴くこの美しい秋の日和は峠まで行けばきっと故郷を見せてくれるに違いない、と行くのだ。
米寿なり原爆乙女は歳読まず 大浦フサ子
いま米寿の女性の原子爆弾被爆のときはまだ十代の夢多き乙女であった。それが、苦難の戦中戦後を経て苦しい道程をやっとここまで来た。世事に揉まれて年齢なんかわざわざ数えたこともない、もう無いようなものだと思うて生きてきたのだろう。花園の中の一輪のように。
ロボットと二人ぐらしや文化の日 片町節子
この頃のロボットは優れていて、複雑な接客などにも利用されているようだ。だから一人居の生活にロボットが居れば、生活に充足感をもたらすだろうと思われるけれど、情愛というこまやかさの部分にはどうしても欠けるだろう。だから、結句に「文化の日」を据えているのは、ロボットであれ独り暮らしに共存の仲間が居るのは文化の賜物であると思っているのだろうか。いや、そうではなくて、命をもたないロボットとの二人きりの暮らしを「文化の日」だってさ、と皮肉っているのだろう。
抽斗の枯葉ざくざく新元号 桂凜火
今年の五月一日から平成から新しい年号になる。平成には地震、津波、被曝、台風、猛暑、沖縄など、個人的な身辺のことも併せていろいろとあった。例えば抽斗を開けると枯葉がざくざくと出てくる感じだったな、と。
せせらぎに始まる妻の秋出水 川崎益太郎
なかなか粋な句だ。妻の愚痴を聞いているのだ。初めは、せせらぎほどの耳障りだったのが、聞き流しているうちに、だんだん昂じて増水した川が溢れるように激しく止まらなくなったのだろう。困って狼狽する夫の様子が見える。この句を見た奥さんからまた秋出水。
初秋刀魚行方不明の猫帰る 瀬古多永
単調だが、なんだか楽しく可笑しい。「初」が効いているのだ。長らく行方不明だった家の猫がひょっこり帰ってきた。猫にしてみれば、初秋刀魚ときいて帰らでおくものかと勇むのだろう。「さんま苦いか塩つぱいか」などと落ち着いて居られるものかと勝手知ったる家をめざすのだ。前に不満たらたらで出てきたことなど忘れてしまって、家主にむかってニャーンと啼いたことだろう。
草原に星飛ぶ夜の輪転機 鳥山由貴子
ひろびろと夜の暗さにひろがる草原は、風にざわざわと靡いているだろう。空いっぱいにチカチカと星たちが咲き、ときどき流れ星がするどく星たちを横ぎって飛び、どこかで深夜の輪転機が回っている。溢れるほどに文字を載せた紙を、暗い草原の夜へ吐きつつ回っている。
……というような風景なのだろうか。だが、やはり上句と輪転機の位置や関係が判りにくいけれど、この壮大な風景と唐突な輪転機は、詠み手を混乱へ誘う以前に、未知の健全で甘美な世界を提示してくれたような感じがある。
無冠の夫草の実付けて戻り来る 船越みよ
無冠の夫(あるいは自分)をモチーフにした句は多々あるが、この句の芯になっている「草の実付けて」の斡旋が、純真素朴な愛情をよく表していて、微笑して戻り来るのは栄誉栄達に固執しない大らかな夫なのであろう。その背中は太陽の匂いがしているのかもしれない。
綿虫の命の青み神の庭 松岡良子
綿虫は白い綿のような分泌物をつけて弱弱しく飛ぶ。いま神の居ます庭に舞い飛ぶ綿虫は、神の恵みをうけて命青みて飛んでいるという。「命の青み」によって、しんしんと静謐な神の庭のたたずまいが偲ばれる。
蝦夷の地の水の弾力胡桃落つ 武藤鉦二
蝦夷は北海道の旧称であるから、旧称時代を想っての句かもしれないが、この句の場合は古代に言語や風俗を異にした「えみし」が居住していた頃の東北の今に住み居ての句かもしれない。ま、どちらでもいいが、この地から湧く「水の弾力」の把握がすごい。かつてのこの地の活力と怨念さえ感じ、それによって、いま充実している胡桃の実が落ちるという。想像ゆたかな句である。
両の手で頰を叩いて刈田出る 山口伸
なんと言うことない風景描写のようであるが、農地で働く人のしみじみとした生活感がある。稲を刈り取られた田は寒々と拡がっているだろう。もう何処にも人影はない。ときおりカラスの鳴き声がする。男は今年の田仕舞を見届けるように田をひと回りしてきたのだろう。案山子は小屋に仕舞った。鍬、鎌などの忘れ残りもない。みんなで頑張ってよく働いた。さあ家へ帰るとするかと、思わず、安堵自賛の、両の手で頰を叩いて刈田出る。
◆金子兜太 私の一句
白い人影はるばる田をゆく消えぬために 兜太
養蚕教師だった祖父は、母の実家へ婿養子に入った後、小学校の代用教員をしていました。でも、曾祖父(舅)に農業に専念するよう頼まれ、戦争から復員後は農業一筋。その祖父を思い起こさせる、大好きな句です。金子先生が七年前、無言館の成人式にいらした折、「母は農家の出身だから」と言ったら、「農家が一番いいだ」と力強くおっしゃってくださいました。句集『少年』(昭和30年)より。清水恵子
海を失い楽器のように散らばる拒否 兜太
兜太と言えば「造型俳句」。神戸から長崎、そして十年振りに東京に帰ってきた時期に重なり、掲句は長崎時代の作である。海に囲繞された長崎が海をなくしたとは、楽器のようにとは、拒否とは何か興味は尽きないが、踊るような高揚感と確乎とした意思が、やがて「海程」の創刊へと雪崩れ込んでいく。前衛俳句のひとつの頂点を成す一句である。『金子兜太句集』(昭和36年)より。並木邑人
◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉〇印は2選者の共選句
榎本祐子 選
あちこちに頭ぶつけて夏が行く 伊藤幸
夏うぐいすきっとももいろ喉仏 稲葉千尋
夏の浜雨の拙く降りにけり 小野裕三
○青北風の血をきれいにする体操 こしのゆみこ
老いて犬も傾いで歩く稲の花 篠田悦子
○やぁと言えばちぇっと答える春の猫 芹沢愛子
天の川流れの果てに家を閉ず 十河宣洋
ブルドック畳を歩く良夜かな 髙井元一
大阪は蒸し器の湯気の歳月や 竹内義聿
ガーベラよ久しく口角上げてます 田中洋
秋暑し五臓六腑を言うてみる 寺町志津子
とびっ切りのねずみ花火で送り出す 新田幸子
妹が魅入られていく猛暑かな 服部修一
酔芙蓉二階から犬の吠えかかる 平田恒子
老人と悪さをしない蜂たちと 本田ひとみ
晩夏光鶏に横目で舌打ちされ 松本勇二
秋蝶の飛ぶとき兄の老ゆるなり 水野真由美
熱帯夜標本箱という秘境 三好つや子
○いなびかり兎のようにひとりきり 室田洋子
送り火やここからはじまる真の飢 矢野千代子
加藤昭子 選
夜汽車発つ胡桃の部屋に連結音 赤崎ゆういち
遺骨なき兄は蛍火萱の舟 安藤和子
小鳥来る電気のこない昼の町 伊藤歩
台本に風の音なく蝉時雨 伊藤幸
乗り換えればすでに故郷葛の花 榎本愛子
老いるとは茄子の馬さえ重荷なり 大野美代子
九十三の母反抗期大花野 小川佑華
朝顔や少女も猫も身繕う 刈田光児
鬼灯や泣くだけ泣けばあと黙る 河西志帆
文月やいちにち物を言わない日 北上正枝
海原の想奏でてむ貝風鈴 北村美都子
退院のこの世の匂い麦の秋 楠井収
○青北風の血をきれいにする体操 こしのゆみこ
いつも東京普請中なり轡虫 柴田美代子
天の川柔らかかった師の握手 清水茉紀
秋深し労りの増す妻の声 中村孝史
行方不明のような手ざわり秋彼岸 丹生千賀
小鳥来て辞書引く息のやわらかく 水野真由美
背泳ぎの背の崖っぷち手術台 三好つや子
○姉さんの全円スカート無花果食う 室田洋子
佐孝石画 選
ブラックアウト銀河が僕に沁み込むよ 石川青狼
その言葉撤回しますつくつくし 伊藤歩
かなぶんやときに旅人ときどき風 伊藤淳子
正面をきちんと決めて青林檎 奥山和子
蟋蟀の夜の力で鳴きにけり 小野裕三
今日の黙身体に残し花野かな 川田由美子
旧姓で呼べば薄暑のような人 黒岡洋子
○すーっとトンボどこかでお逢いしましたか 小池弘子
月が海に落ちてゐる火の匂ひだ 小西瞬夏
○やぁと言えばちぇっと答える春の猫 芹沢愛子
渡りきて霧を見返るまた会える 十河宣洋
あかんぼのうす目静かに野分かな 竹本仰
すこやかに閉じてゆく日々水の秋 田中亜美
○逃げやすき血管を持ち夜は霧に 月野ぽぽな
地の下の水を感じて秋に入る 長谷川阿以
かなかなの語尾のにごりの雨もよう 増田暁子
ちひさき舟のちひさき睡り紫苑咲く 水野真由美
鶫来るみずうみという音域に 宮崎斗士
○いなびかり兎のようにひとりきり 室田洋子
蓮の葉の嗚呼と言っては暮れにけり 茂里美絵
竹内一犀 選
思い出は軽く握った草の絮 伊藤淳子
ひとしずくの青のしんじつ雨蛙 大西健司
ゆるく息吐く小望月生むように 片岡秀樹
ルーペで新聞正体知らぬ地虫鳴く 狩野康子
人の死を木片を噛むように訊く 菊川貞夫
○すーっとトンボどこかでお逢いしましたか 小池弘子
源五郎淋しい時は円描こう 齋藤一湖
肉片のごとき島あり浜昼顔 佐孝石画
いのちかな荒ぶる雨のからすうり 田口満代子
花石榴情は音律心は無 竹内義聿
月光の沁みゆく磧蝶の翅 田中亜美
○逃げやすき血管を持ち夜は霧に 月野ぽぽな
単純になるまで泳ぐ青むまで ナカムラ薫
青嵐いつから石でゐるのだらう 野﨑憲子
霧の旅一本の木に会ひにゆく 水野真由美
○姉さんの全円スカート無花果食う 室田洋子
蟬背より生まれ極刑ある日本 柳生正名
虫の声無人駅まで歩いてみる 山内崇弘
水打って小さな嘘を転がせり 山口伸
火蛇に触れあかつきは朱夏のたましい 山本掌
◆三句鑑賞
夏の浜雨の拙く降りにけり 小野裕三
海水浴の人々でごった返す浜。地元の人しかしらないような静かな浜。ごつごつの岩だらけの浜。そんな夏の浜に雨が降り、黒いぽつぽつを少しだけ残して終わった。そして、浜は元の白い夏の浜へともどる。物事はいつも、ふと現れそして去る。その大方は日常の中へと埋もれ、何事もなかったかの様に時は流れてゆく。
熱帯夜標本箱という秘境 三好つや子
標本箱に整然と並べられた者たち。そこは秩序的で何物にも侵されず、時間と空間が留められた世界。本来の場所にはなく、息づくことも無いひとつの死。だがサンプルとして己が姿を提示することでその者たちは生きている。熱帯夜という喘ぎの時も、そこは外界とは別の時空の、生と死の交差する静謐の秘境なのである。
送り火やここからはじまる真の飢 矢野千代子
お盆には迎え火を焚き、親しい霊を迎え共に過ごす。短い逢瀬のようなひと時の後は送り返さねばならぬ。ちらちら揺れる送り火の奥に向けられた視線は身の内へと向かい、そこには漠とした闇を見るばかりだ。やがて送り火は消え、辺りは真の闇に包まれる。始まりは終わり、そして又始まりへと向かう。
(鑑賞・榎本祐子)
九十三の母反抗期大花野 小川佑華
一読、自分の環境を思ってしまった。どんなことに反抗的になるのか解らないが、自分の母親も同年齢で、自己中心的で僻みっぽくなった。老いて来ると子供に帰って行くこともあるようだ。大人になった子は、大花野に分け入って来る我儘な母を、時には叱り、広い気持ちで受け入れるしかない。
退院のこの世の匂い麦の秋 楠井収
かなり重篤な病気だったのだろうか。長く入院し、漸く退院となった。無機質な病室から出て外に出た瞬間を切り取った。日射し、空気感、人々の声、日常を取り戻した喜びが表出されている。麦秋の明るさに、生きている実感を味わっている作者が見える。この世の匂いを満喫。
いつも東京普請中なり轡虫 柴田美代子
いつもあらゆる場所で、東京は工事の音で溢れている実態。賑やかな街騒に加えて重機の音や解体、ドリルの音。誰もが目にし、聞いている建築の様子が、馬具の一つに似ている轡虫の鳴き声と重なる。普請という少し古めかしい言葉が、東京そのものを築き直すようにも感じた。
(鑑賞・加藤昭子)
蟋蟀の夜の力で鳴きにけり 小野祐三
「夜の力」に痺れてしまった。恐らく蟋蟀だけでなく、あらゆる虫たちは「夜の力」によって鳴くのだろう。虫だけでなく植物もそして人も。岡本太郎の「森の掟」を想起させるアニミズムの世界。上五の「の」という助詞もうまい。「は」や「が」でなく、「の」とすることで自然の大いなる力に委ねられる感じが出てくる。
渡りきて霧を見返るまた会える 十河宣洋
北海道の霧は深い。視界を遮る濃い霧の中を歩いていくうちに、日常から浮遊した感覚が生じてくる。脳裏に浮かぶ様々な風景と現実の視覚が混ざりゆき、半ば恍惚となる時、ふと会いたかった人が遠くから歩み寄って来る(兜太先生だ)。いつしか霧が明け、呆然と来し方を見返り、強く頷きながら呟くのだ。「また会える」と。
逃げやすき血管を持ち夜は霧に 月野ぽぽな
難解な句だが、一瞬にして惹かれた。共鳴したのは身体感覚ともいうべき直感。「逃げやすき血管」を敢えて説明するならば、脈拍や採血の際に浮かび上がる静脈とその触感か。「逃げ」の語は作者のためらいや自虐の念を思い浮かべ、あたかも自分自身が一本の静脈となり、都会の夜に捩れてゆくかのごとき幻想まで見えてくる。
(鑑賞・佐孝石画)
人の死を木片を噛むように訊く 菊川貞夫
木片には臍や唇のような肉感は無いが、木片を噛むほどの悲しみを、哀悼の意を表しつつ、死したる者に向かい合い、口開くでもなく、歯を食い縛るでもなく、ただ木片を噛むように、言の葉無言に語り掛け、なお、我に問い、返り来るを求め訊く。
いのちかな荒ぶる雨のからすうり 田口満代子
小さくも大きな命であることよ。荒ぶる雨の中にあり、赤の凝縮鮮やかにからすうりの我そこにいる。たとえ齢は重ねてもあかあかとしてそこにあり、いのちの存在風に揺れ、荒ぶる雨にずぶぬれに。世の混沌にまみれても、からすうりはあかあかといのちを翳し実を付ける。
火蛇に触れあかつきは朱夏のたましい 山本掌
火蛇はエロティシズムのブッダなれ。火蛇の火に山の端触れてあかつきにレッドブッダを宿したる。地を焼くほどの魂を火蛇の分身授かりて、朱夏の陽となり地に踊る。地上にいのちあふれしが、いつしか火蛇の現れて、地上を闇に又包む。火蛇は深い闇にあり、地下のマグマに充たされて、又永劫にあかつきを。
(鑑賞・竹内一犀)
◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
芒原殺陣師の追って来るような 綾田節子
梳きこぼす言葉にからむ木の葉髪 石塚和枝
私の墓抱きしめる雨にうたれて 伊藤優子
長き夜や球根のよう自我を剥ぎ 上田輝子
てのひらはありがたき形小鳥来る 上野有紀子
檸檬切るわかりにくいのが幸せ 大池桜子
延命を否と告げし日冬ざるる 大西恵美子
素っぴんと照れる老いどち冬の虹 荻谷修
天の川放火のように涼しいな 葛城裸時
キャラメルの箔を剥がすや冬銀河 木村リュウジ
鉦叩わたしの洞を穿つごと 黒済泰子
烏瓜「暗夜行路」を抜け出して 小泉敬紀
石蕗の花まもなく明くる朝ふたつ 小松敦
満月に媼の沼を覗かれし 佐々木妙子
月仰ぎ石に躓く芭蕉の忌 重松俊一
雲傷みやすくなった11月が降りてくる たけなか華那
黄落の富士北斎のしかめっ面 立川真理
カンバスにあるは群像冬木立 田中裕子
酔芙蓉の花に濁流一草庵 中野佑海
秋茜スイスイ老いはズルズル生き 仲村トヨ子
欅落葉はな子に定年なかりしこと 野口佐稔
蜜柑箱開き一個の無尽蔵 野村だ骨
人焼けて寄ればポテチの残滓めく 福田博之
嘘を言う快感すでに蟻地獄 前田恵
榠樝どすん神々は時々まちがう 松﨑あきら
蓑虫やママが言うならそうだろう 松本千花
サーカスの爪先がくる霜夜かな 望月士郎
大きな鏡に小さな私獺祭忌 山本幸風
後継ぎは心許ない新松子 横林一石
呼氣吸氣冬蒼空へ竹しなる 吉田貢(吉田貢の吉は土に口)
◆追悼 谷佳紀 遺句抄
風がゆっくり雨がゆっくり柚子畑
一人って空の広さで紅葉多分ですが
後れ毛のように街並みは冬になった
その奥も冬が積もった古書の山
冬月に僕の濁りがゲップする
スケッチブックに古書のふくよか冬桜
お雑煮の愉快に旨く凪いでいる
臘梅が楽しく咲いて旅行中
紅梅の日暮れが通夜への愛にして
四十九日やおたまじゃくしぴちぴちの桜
畑が広がりパン屋にさくら草
青空や腑抜けになって目高になって
たんぽぽの絮と一緒の空きっ腹
天使からもらった夕陽山法師
沙羅のリボン肘や首お休みなさい
雨消えてキスにやさしいクローバー
紫陽花やいつも一人でいつもいたずら
夾竹桃が呼ぶんだビールが欲しいのさ
蜻蛉はすでに雨を散らした虹なのだ
体に雨の雨が眠って青葉かな
(二〇一八年作品より佃悦夫抄出)
人生円熟 佃悦夫
「海程」創刊期からの参加者であり生え抜きと言える。プライバシーは断片的にしか知らないものの長年の盟友は多々。新潟県出身だが関東に出てきて、まず日逓製作所に職を得、しばらくして学校事務職となり定年まで全うしたのが公的な人生だった。
初期の東京例会での発言はラジカルを常とし兜太にも臆することなく正面からぶつかった。同人誌から主宰制と変わったものの彼の姿勢は不動であり、ブレは皆無だった。
作品もそのままを反映し攻め一方と言えた。若書きと言えばそれまでだが、そのエネルギーは噴射しつづけていた。もちろん作品世界は一直線の即物主義といえるほど真摯であった。虚構は無くも無いが、歴然として可視の域であった。
作句者として漫然と才能を削っていたわけでは決して無い。
平成元年発刊の金子兜太編『現代俳句歳時記』(チクマ秀版社)の協力者の一人として、その有能ぶりを発揮している。ふだんは特別に多弁ではないものの、発言は的を射ていただけに、この協力はかなりの貢献だったと思う。
俳句の縁で金子夫妻の媒酌で結婚しているが数少ない一と組かも知れない。なんとその後を追う死となるとは。
健康には人一倍心懸けていたようで各地開催のマラソン大会に七十歳台半ばのつい最近まで能う限り参加していたようだ。その死の原因は心筋梗塞(虚血性心疾患)というが、いまなお信じ難く、良く通る男性的な声を思い出す。
金子兜太という強い磁気に吸い寄せられるように前衛俳句の作者として出発したに違いは無いが、別掲の作品は何と円熟度が高く、晦渋もなく穏やかな口語体である。肉体をとっくに突き抜けており、初期の作品からは想像も出来ない。いわゆる「ほっこり」「ふんわり」の感触である。
その到達は彼の人生がいかに充実していたかの明らかな証左であると確信する。
二〇一八年十二月十九日逝去、享年七十五。