「海原」創刊号の編集後記の中で編集人の堀之内長一が次のように記しています。
■金子先生に「衆のうた」「『衆のうた』ふたたび」という一文がある(ぜひお読みください)。今後の海原の行方をあれこれ考えるときに、なぜかしら「衆」という言葉が迫ってきた。碇の衆、光の衆、風の衆、帆の衆。不思議な名称であるけれども、少しずつ愛していただければと願っている。連衆といえば連句の世界を思い浮かべる方も多いと思うのだが、「衆」は端的に仲間であり、人間がつくる場に集う人々の謂であると思う。
そこで、『三十周年・評論集成 海の道のり』海程会〈II金子兜太論稿〉より「衆のうた」と「『衆のうた』ふたたび」を二回に分けて転載します。昭和49年金子兜太55歳、日本銀行を定年退職したころの論稿です。
(昭和49年/1974年 「海程」106号より)
衆の詩 金子 兜太
全国高校野球大会が終わって、優勝校と凖優勝校の選手たちが、晩夏のひかりのなかを歩いていた。そして、もう秋だ。
この九月末には、私はいまの勤め先をやめることになっているが、正味二十七年勤めて、不思議に感慨らしいものがない。周囲の人のほうが感慨ぶかそうで、戸感うことしばしばである。
専念してきた俳句についても、いまここでどうという特別の感想はない。ただ、なにかといえば思いだしていた、正岡子規「俳諧大要」のなかの次のことばが、またぞろ思いだされるのである。
「佐藤一斎にかありけん、聖人は赤合羽の如し、胸に一つのしまりだにあれば全體は只ふはふはとしながら終に體を離れずと申せしとか(後略)」
私にとっては気軽な箴言になっているわけだが、これを子規自身に当てはめれば、すぐ、
鶏頭の十四五本もありぬべし
に結びつく。この句の示す客観の眼が「胸に一つのしまり」であり、「十四五本もありぬべし」の無造作ぶりが、「只ふはふは」の正体である。子規の「写生」は、この両方が並存し、やがて不思議なく彼の体内で融合してゆく状態であって、晩年の句になると、無造作というより、むしろ自然さといいたいものを感じさせ、「自然」こそ「只ふはふは」の究極とおもったりする。
これを「写生」の範型とみている。ところで、私は日常ということについて、こう書いたことがある。「日常は、喜怒哀楽、愛憎哀歓の生臭さにみちた〈即物的(フィジカル) な日日〉の刻み(そして繰りかえし)だが、態度を持するものには〈志向の日日〉でもある」――この即物的な日日とは、とりもなおさず熕悩具足の、虚仮不実の、軽賤の日常であって、それは生ぐささにみちている。しかし、志向はそこにしみてゆくから、煩悩のままにすませるものではない。といっても、煩悩の日常によって、志向が歪められないといった保証はどこにもない。だから、二つの日常は重なり合い影響しあってすぎてはゆくが、それはむしろ葛藤の日日というべきだろう。それだけに、志向は鍛えられ、日常は振幅をふかめるのだ。
子規の客観の眼に、この志向を加え、無造作に代えて、即物的日常を置くのが、私の「胸に一つのしまり」と「只ふはふは」である。そしてここ数年、この意味の日常と俳句の結びつきを、とくに即物的日常を大きく受けいれる方向で、私はかんがえてきた。だから、こういう素朴な句にぶつかると、すぐまいってしまう。
初豌豆味増汁の香り天までも 小笠原正雄
とびのりたい夏の雲よ麻痺の足 沢田好見
夜道までぬーと突きだす鍵の穴 市原正直
爆心地土地の老女とよその人 奥山東風
これらには、日常実感を抜きにしては受けとることのできない、ういういしい弾みがある。
日常を、とくに即物的日常を離さずに、俳句の内質として重視しようとする私の姿勢を刺戟した事情がいくつかあった。その一つは、私自身も含めての前衛的営為の成果と反省である。
その成果は、手っ取り早くいえばマンネリズムを打破して、この伝統詩形を戦後の現実に投じたことにある。前衛といっても、俳句の場合は第一線的模索ていどのことだが、はっきりしていることは、伝統詩形を徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところにあった。だから、古典についてもこれを相対化して、現在の場から取捨する。伝統の公理を信じないで、自分の体感自体から抽出しようとする。現代自由詩の技法や流行の風俗にたいしても、その意味で積極的だった。
しかしその反面、最短定型にとっては過度な詩法を求め、ピントのずれた散文的要求を課したことも事実で、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎたきらいもある。だから、日常総体はもちろん、即物的日常などはまったく軽視されて、そこから汲みとりうる豊かな実感と言葉を、地下に埋もれさせる状態になっていたのである。それへの反省があった。
いま一つの別の事情は、前衛のそうした営為に対する反作用のなかにあった。つまり、伝統回復のリゴリズムを正の作用とすれば、伝承追随とマンネリズムの再版、正当化といった負の面を一方にひろげる結果になったのである。この場合は、古典と竸い立つの気概はなくて、ただいたずらな模写をこととするわけだから、日常からの生きた汲みあげがおろそかになることは当然でである。
それらの事情のなかで、〈衆の詩〉としての俳句の特性をおもわないわけにはゆかなかった。遍歴のあと「軽み」にいたった芭蕉晩年の思案の態をおもい、「荒凡夫」一茶の日常詠がもつ存在感の妙味にひかれたのも、そのためである。ことに、一茶の句は晩年になるほどよい。その事情にもひかれた。
むろん、日常、とくに即物的日常からの汲みあげが、そのまま「詩」にならないで、「声」にとどまることは、「地下連歌」以来、ことに、談林、貞門の徒の大方においても、あきらかである。だから芭蕉は「高悟帰俗」の心意を留め金とした。一茶の、煩悩まみれの日常詠が「詩」になりえたのは、彼の農民的感性の柔軟もさることながら、都会にもなじめず、土着者にもなれなかった――そういう個(孤)化衆庶の孤独の心底がかみしめられていたからである。
一茶の句、
山畠やそばの白さもぞっとする
秋風にふいとむせたる峠かな
芥子提げて喧嘩のなかを通りけり
うつくしや年暮れきりし夜の空
などなど。
一茶「おらが春」にある惺庵西馬の跋に、「ざれ言に淋しみをふくみ、おかしみにあはれを尽して」とあるが、ざれ言のなまなまさしさが淋しみをふくみ、それと、おかしみとが、これらの作品の資質を決定しているのである。なまなましさもおかしみも、単なる形容ではない。美というより存在感といえるものだが、これらが、即物的日常から汲みあげられて、句の資質として定着していたのである。〈衆の詩〉としての俳句は、ここに顕著な特徴を発揮すべきものなのだ。
むろん、現代俳句がこの点ですべて不毛なわけではない。たとえば、
ローソクもってみんなはなれてゆきむほん 阿部完市
のおかしげなリズム、
春夏秋冬魂くいちらかすは何 和田魚里
の妙な生理。そしてまた、
夏が寒いA埋立地水流る 小原洋一
のなまな違和感。
(「海程」一〇六号 昭和49年9月6日付「朝日新聞」夕刊より転載)