『海原』No.11(2019/9/1発行)誌面より。
『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む
俳人兜太の「トラック島戦場体験」の真実 岡崎万寿
《3回連載・その2》
㈡ 兜太にとって「トラック島」とは何か
見るとおり、俳句専念を誓い、すでに戦後俳句の風雲児と目され、縦横の活躍をしていた金子兜太が、その俳句とともに、小説「トラック島戦記」の執筆・発表を、二つの本命として、膨大な時間とエネルギーを投入していた事実は、知られざる、もう一面の兜太という人間像を知る思いである。
その、最短詩型の俳句では、一般に表現しにくい、「戦争の現実、戦争のむごたらしさ、人間の欲望」(『語る兜太』)を、小説として書き残しておきたい、兜太の心情はよく理解できる。戦中戦後のトラック島で、心に刻んだ「非業の死者」に報いたいという、信念からだ。
しかし、それにしても、と深く考えることが二つある。
一つは、「トラック島戦場体験」の小説化に、かくも執念を燃やし続けた兜太の心奥に秘め、確かと肉体化し、表現への衝動を駆り立てる、何ものかがあるのではないか。それは戦場体験のない、私たちには判りにくい、あるものかも
知れない。
それに関して、金子兜太と宇多喜代子との対談「平和への願いと俳句」での、二人の真剣で微妙なやりとりが、思い出される。角川「俳句」二〇一五年八月号の「戦後70年戦争と俳句」という、特別企画である。
兜太はいうまでもなく南太平洋の激戦地トラック島で、一方、宇多は陸軍燃料廠のあった山口市で、B29百機により市街地全部が焼かれるという、戦争体験をもっている。そこで、こんな注目すべき対談がはずんだ。宇多が本土での竹槍演習などの話をすると、
金子 トラック島にいた俺からすると、何か牧歌的な話だねえ。(中略)今のような牧歌的な話がつきまとう雰囲気ではダメなんだ。もっとリアルに、もっと厳しいもんだということを皆さんに伝えておきたい。
宇多 でも国防婦人会を中心にした銃後の女性たちも悲惨なものだったんですよ。
金子 同じ女性でも沖縄では住民の誰彼なく女学生までがどんどん殺されていますからね。そういう違いをちゃんと知っていないと。牧歌的な話だけじゃダメなんです。俺の使命はもうそれしかない。歳も九十五だしね。戦争のリアルな状態を語る。戦場のリアルだ。
こんなやりとりが、四頁ほど続く。司会の高野ムツオが、「宇多さんの体験が金子先生から見ると牧歌的に感じられるということに驚きました。そのことさえも、私は今日まで考えもしませんでした」と、真をついた発言をするほどである。
そこで兜太が言いたかったのは、戦争体験の質の違いである。トラック島戦場では、連日の米軍機による攻撃で生の人間が一方的に殺されていく戦闘とともに、生きている兵や軍属のこころまで歪め、破壊される飢餓という「死の現場」での、あまり語られざる真実ではなかったのか。
兜太が『日記』で、「死に直面して生きる。故に人間のエゴのすべての醜悪面を笑いとばせ」「追いこまれてゆく人間の裸の世界(葛藤)を書こう」と記している、その戦場における人間のリアルこそ、俳人兜太を小説表現へ駆り立てた“あるもの”ではなかったのか。
兜太『日記』を読んで考える、二つ目は、俳人で文章の達人でもある兜太にして、「トラック島戦記」がなぜ、これほどの歳月をかけても未完に終わったのか、という点である。
そのネックを解くヒントの一つとして、私は最近読んだ『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』(吉田裕著)に着目した。ベストセラーとなり、二〇一九年の新書大賞を受賞した本である。その、「はじめに」と末尾で、金子兜太著『あの夏、兵士だった私歳、戦争体験者からの警鐘』(二〇一六年刊)が、歴史学の立場から、積極的な評価を受けている。こう述べる。
「兵士の目線」を重視し、「兵士の立ち位置」から、凄惨な戦場の現実、俳人であり、元兵士だった金子兜太のいう「死の現場」を再構成してみることである。
そんな風潮(筆者注・旧日本軍を「礼賛」する戦争観が、一部に台頭していること)が根強く残っているからこそ、戦場の凄惨な現実を直視する必要があるのだと思う。トラック諸島で従軍した俳人の金子兜太氏が繰り返し強調する
「死の現場」が、それである。
そして同書は、そうした「死の現場」では、兵士たちの精神状態に、「戦争神経症」という深刻なトラウマ反応が広がっていたという。ニューギニア戦線で連隊付き軍医だった、柳沢玄一郎の『軍医戦記』から、こう引用している。
戦況が悲観的になるにつれて、突然に発狂した。被害強迫妄想、幻視、幻聴、錯視錯聴、注意の鈍麻、散乱、支離滅裂、尖鋭な恐怖、極度の不安、空想、憂愁、多弁、多食、拒食、自傷、大声で歌い回るもの、踊り回るもの、なにもかにも拒絶するものなど、叡知、感情、意志の障害があらわれた。すなわち、極限における人の姿であり、超極度の栄養失調症にともなう急性痴呆症の姿であった。
だが、当時は海軍中央部から医学者まで、神経症をタブー視し、「疲労」という言葉で置き換える傾向が強かった、そうだ。
こうした兵士・軍属たちの精神異常は、兜太の所属する第四海軍施設部でも、例外ではなかったと思う。補給を断たれ、逃げ場のない南海の孤島、トラック島では、島民を除く軍人軍属四万人のうち、八千人が死んだ。そのほとんどが、餓死である。その上、施設部とは要塞などをつくる土建部隊で、大部分が応募して集めた民間の労務者(工員と呼ぶ)が占めていた。彼らの特徴を、兜太は先の『あの夏…』で、思いを
こめてこう書いている。
施設部の工員は総勢、一万二千人ほどおりました。その連中の風紀を取り締まるというのが、私の任務です。彼らは得てして喧嘩好き、酒好き、女好き。筋骨隆々のクリカラモンモン(入れ墨)のアンちゃんもいて、言い争いはしょっちゅう、刀傷沙汰もたまにあります。いわば、貧しさのために世間を狭くして、内地から押し出されてきたような連中です。
当時、二十五、六歳の兜太は、主計中尉として、その食糧の調達・管理を、甲板士官としてその風紀の取り締まりという、最も苦労の多い二つの任務をもっていた。カルポスと称する小刑務所を作り、島民のカナカ族を強姦したり、食べ物を奪ったりした者などを、刑罰にした。
サイパン島陥落(一九四四年七月)以降、極端な食糧不足が、軍隊という階級社会の、とりわけその最底辺にいる工員たちを襲った。戦争末期には、二百人ほどの兜太の部隊で、毎日、多いときには五、六人が餓死した。「死は日常にあふれていた」(『あの夏…』)、「飢餓とそれによる人心の荒廃が悲劇を生んだんです。私はさまざまな非業の死を見続けました」(『悩むことはない』)と、兜太は書いている。
まさに「死の現場」、生きる意味すら失った「虚無の島」である。その中には、先にあげた海軍がタブー視した「戦争神経症」やそれに近い症状の人たちも、かなり混じって居たのではないか。兜太も正直に、「あまりに非日常的な世界が続くので、私自身が少しおかしくなりかけていました」(『あの夏…』)と、言うほどである。
さて、こうした想像を絶する、超異常な極限状態にあった「死の戦場」体験である。しかも海軍施設部という特殊で奇妙な人間群像を、その縺れた内面にも立ち入って小説化することは、まことに至難なことだろう、と考える。
兜太は『日記』にも書いたように、梅崎春生の「桜島」や大岡昇平の「野火」など、それぞれの極限の戦場体験にもとづく小説を読み返し、研究している。しかし小説は、人間の尊厳を見つめ、人間の真実を描く文学である。兜太は、結局のところ、次のように反芻しつつ、筆を収めたのである。
結局私の場合、自分を責めて、人間の内面をどう表現すれば反戦に結びつくのかという方向に向かっていったんですね(共著『今、日本人に知ってもらいたいこと』二〇一一年刊)。
自分でも企画意図だけが先行していて、読みごたえがない。これはダメだ、と見切りを付けて……(『語る兜太』)。
だが、兜太のトラック島戦場への想いは、終わってはいない。このように小説「トラック島戦記」の構想は潰えたが、その執念の努力の蓄積は、後年、戦場体験の「語り部」として、貴重な花を咲かせることになった。金子兜太、九十代のいのちの輝きである。
㈢ 戦場での人間存在の明暗
兜太の「語り部」活動は、折しも安保法制反対の市民運動が新たな高揚をみせた二〇一五年をピークに、全国各地で人気を呼んだ。私も翌十六年にかけて、日本芸術院会館、明大アカデミーホール、東大安田講堂などで、六回ほど聴いた。同じ、トラック島での戦場体験の話でも、毎回、どこか新しい話題や切り口があり、感動した。
兜太の戦争「語り部」は、二〇〇一年六月、群馬県立土屋文明記念文学館での講演から始まっている(「俳句界」同年十一月号)。そこで兜太は、「実は私の戦争体験を語れと言われたことはないんです。初めての体験です」と語り出し、先に兜太『日記』で紹介した、小説「トラック島戦記」の原稿を想起させる、こんな話をしている。
私は実は帰ってきて間もなく、トラック島をめぐる戦略についてかなり詳細に調べているんです。自分で書いたものをちゃんと持っていまして、それを全部読み直しました。そうしたら、我ながらよく調べて書いていまして……。
そして、「語り部」の回を重ねる中で、戦場トラック島の臨場感ある話が工夫され、方言まじりの語り口のうまさ、体験者ならではの生々しい話題が、人びとのこころを捉えたのである。練り上げられた「語り部」のハイライトは、なんと言っても、手作りの手榴弾の実験に失敗した際の、工員たちの本能的な動きである。ずばり、兜太の文章で紹介しよう。
武器不足を補うためにトラック島では手作りの手榴弾がつくられた。カラの薬莢を集めて火薬をつめて。それらがちゃんと爆発するかどうかの実験を、施設部がやらされることになった。そういう危ないことは軍人ではなく軍属にやらせろ、ということですわな。すると日本人というのは不思議なもので、見栄をはってか「自分が」と手を挙げるヤツがいるわけです。責任者として戦車壕の土手の上で見ていた私の目前で、手榴弾が実験者(筆者注・兜太はその名前まで、田辺と覚えている)の手元で爆発しちゃった。即死でした。
するとそのとき一人の大男が走り寄って、やおら死んだ男を背負って走りだしたのです。我われ(筆者注・工員十人ほど)もすぐさま大男を囲んでワッショイ、ワッショイと声をかけながら一緒に走りました。すでに死んでいることはみんなわかっているんです。だから走る必要などなかった。にもかかわらず夢中で海軍病院へと走ったですなあ。病院まで三キロはあったと思いますよ。あとから考えれば、ということにはなりますが、そうせずにはいられなかったからでしょう。(『悩むことはない』)
その光景を見て、一緒に走りながら兜太は、「ああ人間って、いいもんだな」と、しみじみ思ったそうである。ふだんはヤーサン風の身勝手な荒くれ男たちが、である。こんな美しい一面をもっていたのだ。これも人間の本能なんだ。そこから、兜太の人間認識が一段と深まった。同時に、その時、「人間がこんな惨い死に方をする戦争は、悪だ」と、初めて痛感したと語る。トラック島赴任から、三、四ヶ月後のことである。
こうした戦場での人間のありのままの真実が、「語り部」兜太によって、戦争体験のない人たちにも、感銘を広げた。先の、兜太と、『昭和史』で知られる半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』(二〇一一年刊)で、半藤は、兜太の苦労に次のように共感している。
戦争を語り継ぐと、簡単に言いますけど、非常に難しいなと思うわけなんです。やっぱり金子さんが今おっしゃったように、骨身にしみて自分の心の中にそれが入った人たちだけが戦争を語れるんだなというふうに時々思います。
そうした戦争「語り部」活動の集大成が、すでに述べてきた『あの夏、兵士だった私』である、と思う。それはまた、兜太が執念を燃やしつつも、未完に終わった小説「トラック島戦記」への努力の、別の形での結実とも言えよう。そこでは、生死の体験からの自省のことばが、胸をうつ。
やせ細って死んでいく。手足なんか枯れ木のようになる。食い物の調達は私の任務なんだけど、それがうまくいかなくて、部下を飢えで死なせてしまった。それはもう、つらかったなあ。いまでも申し訳けないという気持ちになりますよ。
死んだ人間は、部隊の仲間が代わる代わる遺体を担ぎ上げて、山の上に掘っておいた大きな穴に放り込まれる。最後のころは「もうあと何人か死ねば食糧が全員に行き渡るので、これだけ生き残れるな」なんて、そんな計算もしていた自分が嫌になっていました。
今なお、こうした身にしみる自省の話をするところが、兜太の「語り部」が感銘をよんだ所以だと思う。加えて、この『あの夏…』を繰り返し読む中で、私が目を開いたのは、戦場にあっての青年兜太の人間洞察の深さである。
戦後、兜太は、生涯を貫く反戦志向とともに、それと一体のものとして、俳人自らの生き方、つまり小林一茶にならった「荒凡夫」、ついで「存在者」といった人間観を進化させてきたが、その原点の一つが、ここトラック島戦場で、本能丸だしで生きている部下の工員たちからの、強烈な体感だったのである。『あの夏…』で、こう述べる。
彼らは、じつに人間くさい連中です。トラブル続きだけれども、しかしそういう世界はなじんでみると意外におもしろい。「こういう生な世界が、いわば人間世界のクライマックスなんだ」と思えるようになったのです。いい意味でも悪い意味でも「極端な世界」。「その現場に俺はいる。それは貴重な時間だ。俺が生きている間に、彼らの生き方を見届けてやろう」と思うようになっていった。彼らのような作為のない存在が好きになっていったんです。
それはおそらく、私が秩父の山の中で、貧しいけれど精一杯生きる人たちと付き合ってきたからでしょう。下手に恰好をつけない、本能むき出しの「存在者」の世界は、私の性に合っていたようです。
そして兜太は、こうした「欲望に忠実に生きている生の人間。そんな根源的な生命力を自分も身につけたい」と思うようになり、「私はそういう人のために俳句をつくっていく。存在者のために生きていこう」と、決意を新たにしたのである。『あの夏…』の帯文には、「いまこそ、伝えたいあの戦争体験!」と記している。
なお兜太は、最晩年に、そのトラック島戦場での野性そのものの「存在者」たちを、アニミズムの視点で整理し、真摯に回顧している。それは「生きものとしての人間」という視点で、人間だけでなく、草木も動物も非生物も、すべてのものには、魂(アニマ)が宿っているという考え方である。「私は彼らと過ごす中で、本当のアニミズム体験というものを持ちました」「彼らはアニミズムの塊です」と、美術家・横尾
忠則との対談で、こう語っている。
私は一生の間であのアニミズム体験というものが一番尊いと思っています。
だから戦争から戻ってきて、しばらく勤めていた日本銀行なんですが、そういうところは秀才を誇る連中がいるわけですが、みんな馬鹿に見えました。トラック島で腹這いになって頑張っている人間がみな本物という気がします。(『創造&老年』横尾忠則対談集二〇一八年一月刊)
兜太は、二〇一六年一月に朝日賞を受賞し、その折、「存在者」に徹した自らの俳句人生を総括し、「存在者として魅力のない者はダメだ――。これが人間観の基本です」と、述べた。張りのある名スピーチで、万場の感動をよんだ。その後、黒田杏子は、編著で『存在者金子兜太』を出版し、私も感動のまま「海程多摩」第十六集に、「安西篤の金子兜太論の新視点――「存在者」をめぐって――」を発表した。
ところが、その朝日賞受賞の名スピーチの発想の裏に、述べてきたトラック島戦場でのアニミズム体験があったことを、この対談で知り、なるほどと身を熱くした。その部分を紹介しておこう。
この前、朝日賞なんて賞をもらったときに、自分が今までずっとやってきたことはなんだったのかなと、初めて考えたんです。すると、自然と戦争中に体験したアニミズムの世界が浮んできました。
私は、そのときに初めて、私の俳句は、あのアニミズムの世界のアニミストのためにやっていたんだと思いました。
(次号へつづく)