子へ残す沃土蛇刺す幾重にも〜武田伸一の青春と俳句〜〈後編〉 齊藤しじみ

『海原』No.72(2025/10/1発行)誌面より

シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第8回

子へ残す沃土蛇刺す幾重にも
〜武田伸一の青春と俳句〜〈後編〉 齊藤しじみ

(十)宿命としての家業

 武田が大学を卒業した昭和三二年は高度経済成長が本格的に始まった時期だった。日本文学専攻の武田の卒業論文は「子規の俳句革新運動」がテーマで、指導教授からは大学に残るよう勧められたという。しかし、卒業後の選択はアカデミックの世界とは遠く、能代に戻って父親が営む土木・建築業「武田組」を手伝うことだった。その心境を武田はかつて述懐していた。

 決して後継ぎにはなるまいと、頭ではすっかり割り切ったつもりでいたのだが、なにがなんだかわからないものにつき動かされて、文科を卒業と同時に、いやでいやでしょうがなかったちっちゃな土建屋のオヤジの手伝いをする羽目になった。(「海程」昭和三九年一〇月)

 何が武田を突き動かしたのか。私の問いかけに武田の答えは「長男の血のなせるわざ」と一言だった。
  歩き決す帰郷寒明けの大きな 伸一 (「青年俳句」昭和三二年五月)
 仕事は主に県や市や国鉄から受注した土木や建築の工事を工程に応じて専門の職人に依頼して完成させるというもので、父子以外に従業員は二人だけの零細業者だった。加えて父の代で請け負った護岸工事が冬の荒波で工期に間に合わず、多額の負債を抱えていた。これが後に武田の人生に大きな影響を及ぼすことになる。

(十一)帰郷後の青年俳句・寒雷・合歓

 慣れぬ仕事に日々追われた武田だが、俳句には力を抜くことはなかった。
 このうち「青年俳句」では同人として積極的に作品を発表し続けていた。卒業後の「青年俳句」での武田の作品には工事現場を題材にしたものが目立つ。
  眉・睫毛流れる雨の現場へ急ぐ (「青年俳句」昭和三二年九月)
  遅日音なくはたらく土塊と己打ち (「青年俳句」昭和三三年一月)
 「青年俳句」発行人の上村忠郎は、八戸市の地元のデーリー東北新聞社に勤務していた。上村と武田は八戸や能代で会って「青年俳句」の将来を話し合うこともあったという。しかし、「青年俳句」は資金難などから通算二五号の発行を最後に創刊から五年後の昭和三四年で終刊した。
 一方、「寒雷」では秋田に戻った年の昭和三二年八月、武田は結社の優秀な応募作品に与えられる「暖響賞」準佳作に選ばれ、三九年と四〇年には二年連続して佳作になった。
 「寒雷」での作品は秋田の風土や生活を題材にした作風が特徴だ。
  りんごかつぎ屋前掛にひかり肥後守 (「寒雷」昭和三三年一月)
  灯る油のやぐらは見えず倒伏田に (「寒雷」昭和三四年一月)
  残雪光桶屋の竹の端あそぶ (「寒雷」昭和三五年六月)
 同じ「寒雷」所属の秋田の俳人は武田の活動ぶりを当時次のように綴っていた。

 コーラス・演劇・俳句・そして家業の土建業・その暇をみてのデート・彼(武田)は全くのファイターである。句会に遅れて来た彼にデートが長いぞとひやかすと、ぽっと頬を染める。伸一はまたそんな純情型でもある。(「寒雷」昭和三七年八月号)

 さらに地元の俳誌「合歓」で武田は同人として作品を発表し続け、秋田市内の句会にも参加し、主宰の手代木にも面識ができた。
 また、最寄りの駅まで一六キロという入植地にあった手代木の家まで、野呂田と二人で列車とバスを乗り継いで泊りがけで会いに行ったこともあったという。
 「合歓」(昭和三三年八・九月)で、武田は巻頭を飾った。二三歳の夏だった。
  雪田の挿枝に運びほのぼのたる藁肥
  断り多き濡雪父と無言の刻
  林間残雪日差まだらに子の発砲
  荒れた地の氷塊投げくら早い朝

 その後もしばしば武田の作品は「合歓」の巻頭になった。

(十二)「海程」への参加

 昭和三七年四月に同人誌「海程」が創刊され、武田はためらうことなく入会した。その作品が初めて登場したのはその年八月発行の第三号になる。
  粘体舗装流れる空の乳母車
  走る馬の背に嘔吐蜂起の朝は逝き
  風化の部落の芯に土橋が縄垂れる

 翌三八年に武田は秋田県で第一号の「海程」の同人になった。同人として初めての作品の一つがタイトルの句である。
  子へ残す沃土蛇刺す幾重にも
 この句を兜太は極めて高く評価した。

 「劇的な現実感」という言葉がぼくは好きだが、この作にはそれが当てはまる。(中略)「幾重にも」この一語にこめられた、風土と意思のドラマをぼくは重く美しいと思う。(「海程」昭和三八年一二月)

 武田が句を詠んだ時期は第一子が生まれる数か月前のことで、「田畑を持たない自分が子どもに与えられることができるのは自由に跳べる場だと考えた時に『沃土』の言葉が突然浮かんだ」と後に自解している。
 武田は同人昇格と時期を同じくして、地元の仲間と一緒に「海程」秋田支部を設立した。さらに翌三九年六月には武田が先頭に立って、兜太らを講師に招いて、「第一回秋田県現代俳句大会」を秋田市で開いた。武田には「秋田の俳壇の活性化と秋田に現代俳句の新しい風を入れたい」との熱い思いがあったという。大会の選者には地元の主な結社の主宰や同人に依頼し、自宅を窓口に参加者を募った(写真1・2)。

 大会は参加者が一〇〇人を超え、成功裏に終わった。武田は大会の翌日に兜太らを案内して男鹿半島を吟行してまわった。選者で参加した手代木はこの時に初対面の兜太と意気投合し、「海程」の同人になり、兜太との付き合いは生涯続くことになる。兜太についての手代木の第一印象である。

 有名臭や気どりのみじんもない素朴さや酔余の見事な野人ぶりには氏の生国である半樵半農の奥秩父の風土の血を感じ、巧まない言葉のなかの反骨精神や入道岬の断崖に佇った剛直な風貌からは俳句へのきびしい姿勢を見ることができた。(「合歓」三九年七月)

 また、三年後の昭和四二年五月にも武田らが中心になって「第二回秋田県現代俳句大会」を開いた。その時、武田は青森にいた兜太らと合流した後、秋田に向った。列車の車中、兜太は次の名句を詠んだ。
  人体冷えて東北白い花盛り 兜太
 その列車が武田の自宅に近い東能代駅に停車した場面を兜太は書き残していた。

 武田の奥さんが、幼い一人を背負い、いま一人の手をひいて、東能代駅で待っていてくれて、車窓から弁当を手渡してくれたことははっきり覚えている(※①)。

 武田は帰郷から五年後の昭和三七年一〇月に地元の女性と結婚し、当時は長男と長女の二人の子どもがいた。

(十三)「木の馬」の創刊

 「海程」での活動と並行して、武田は昭和三八年七月に地元の仲間に呼びかけて「木の馬」という少人数の同人誌を創刊した。メンバーは武田を含めて左記の八人だった(写真3)。
 工藤羽白人(大正一二年生 時計店経営)
 竹貫稔也(大正一五年生 秋田工業高教諭)
 竹鼻瑠璃男(昭和三年生 国鉄勤務)
 塚本暁美(昭和一四年生 病院栄養士)
 兎沢亮美(昭和九年生 三菱金属勤務)
 野呂田稔(昭和一〇年生 郵便局勤務)
 安田地平線(昭和六年生 警察官)

 このうち、竹貫、塚本、野呂田は「海程」にも加わり、塚本は「海程」同人の武藤鉦二と結婚し、二人の仲を取り持った武田は結婚式の司会も務めた。
 多忙ぶりを自他ともに認める武田は「木の馬」の座談会で、仕事と俳句の両立の悩みを吐露していた。

 昼は役所や現場を駆け歩き、晩に事務的なことを処理し、やっと自分の時間になったと思うときは、もう夜も遅くなっている。(中略)累積した不満も多いんだが、俳句を創ることによってかろうじて本当の自分をとりもどし、ある程度、不満を回想することもできるんだな。(「木の馬」昭和三九年三月)

 また、俳誌を発行する大変さを「後書き」に書いたこともあった。

 疲れた体でガリ切りをしながら「なぜこんなことをしなければならないのか」とふと思うことがある。この挫けそうな心を支えるのは「木の馬」諸君の意識よりほかにないことを再認して欲しい。(「木の馬」昭和三九年九月)

(十四)秋田俳壇に武田あり

 昭和三〇年代から四〇年代前半にかけての秋田での武田の活躍は八面六臂ともいえる。
 地元「秋田魁新聞」の昭和三八年一一月の文化欄には「最近の県内俳句〜県俳壇発展のために〜」という二八歳の武田の論稿が顔写真付きで大きく掲載された。内容は沈滞化した秋田俳壇の活性化のための提言だった。
 その頃の武田を直接知るのが「海原」同人で秋田県八郎潟町の舘岡誠二(八五)だ(写真4)。

 武田より五歳年下の舘岡は地元の酒造会社に勤めていた二〇歳の頃から俳句を始め、二六歳で海程新人賞を受賞し、その後、海程賞、海隆賞の各賞を総なめにしたほか、県現代俳句協会会長を長年務め、県文化功労章を受章した秋田俳壇の大御所である。
 舘岡は昭和三六年、二二歳の若さで俳誌「青泥」を創刊した。その頃、すでに武田は青年俳人として眩しい存在だったようだ。舘岡は能代まで武田に会いに行って徹夜で俳句談義をしたり、メンバーが精鋭ぞろいの印象があった「木の馬」と交歓句会を開いたりして親交を重ねていた。昭和三八年一二月には秋田の俳壇をテーマに武田と対談し、その内容を「青泥」に掲載した。
 この中で、武田は県内の俳人や結社同士の交流の必要性を訴え、自身の一年間の活動歴を次のように披露した。

 今年は五月に「幻魚」「能代俳句懇話会」で岩館に一泊吟行句会、七月に弘前市へ、八月能代で新谷ひろし歓迎句会、九月「青泥」「木の馬」交歓句会、十月「魁」大会後、細見綾子を囲む小句会、十一月は森岳温泉での合同句会、「白日」記念大会、そして十二月啞々子居小句会等々と、膝を交えて語り合うことが、どれだけプラスになるか、痛切に感じているわけだ(※②)。

 舘岡は武田について「人との絆を大切にする温かみのある性格で信頼も厚く、若い人たちを流派にこだわらずにまとめる力を持っていた。句会の進行でも座のぬくもりを保ちながら、分け隔てない巧みな采配ぶりだった。後にその才能を(兜太から)見込まれ、海程の運営も任されたのだろう」と語っている。

(十五)禍福は糾える縄の如し

 昭和四〇年代に入り、「海程」誌上で確認する限りでも、武田がかかわる記事や自身の特別作品は次のようなものがある。
【昭和四〇年】
 二月 座談会「風の中の椅子と風景」
 六月 海程秋田支部勉強会作品抄
 一二月 特別作品「牛と海の唄」二五句
【昭和四一年】
 二月 海溝・読後(佐藤鬼房論)
 八月 緑陰鑑賞
 一〇月 「方舟」の軌跡(松林尚志句集鑑賞文)
【昭和四二年】
 二月 「火の花」の世界(土居漠秋句集鑑賞文)
 九月 特別作品「津軽」一三句
【昭和四三年】
 一・二月 座談会「ぼくらの現代詩点」
 一一月 同人作品評「弱い犬のふうに」
【昭和四四年】
 一一月 特別作品「砂の流れ」二三句
 一二月 僕の回顧と展望
 ところが昭和四五年以降、武田の作品が見当たらない号が目立ってくる。特に四六年六月号から四七年七月号まで一年間にわたって空白の状態が続いた。
 この空白について、武田は家業の経営が益々悪化し、事務所を兼ねた自宅にも借金取りが来るようにもなり、俳句を詠む余裕はなかったという。その窮状ぶりを武田は後に書いている。

 のたうち這いずりまわり、ときには明日食う米のない日も何度か。伝来の家屋敷などいくばくかの財産を処分しても、借金の半分も埋めることが出来ず。離郷。(「海程」昭和五二年五月)
  日本海護岸デ倒産シタノデス 伸一(①)

 秋田を離れたのは昭和四八年五月。父親は大阪に出稼ぎに行き、家業に見切りをつけた武田は親子五人の食い扶持を確保し、少しでも返済にまわせる収入の仕事を探したが、そのあては秋田にはなかった。そんな折、新聞の募集広告から、千葉県市川市の東京湾の埋め立て地にある大手製鉄会社の工場に新しい職を得ることができた。三八歳の時だった。家族寮もあり、妻と当時小学校五年生の長男、一年生の長女それに生後半年の次男を連れての離郷だった。家財道具を運び出して空っぽになった家の縁側で、一人になった武田の目から思わず涙があふれ出たという。
 「海程」(昭和四八年五月)に掲載された俳句が秋田時代の武田の最後の作品になる。
  草いちめんの星の中にて家絶える
  家じゅう湧きたつ揺れたつわがテロの夢
  西の巡礼ほどけし紐がわが地中覗く

 その後、まもなく兜太が私事で秋田にやってきて、手代木や野呂田らと一献を傾ける機会があった。そのことを「海程」(昭和四八年六月)で、兜太は一言触れていた。

  武田伸一の姿なし

 武田は親しい俳句仲間にも離郷のことは事前に一切知らせなかった。今でも武田が「夜逃げ同然」という所以でもある。

(十六)我が俳句人生

 再就職先の工場での武田の仕事は鉄板のメッキ作業のラインを監視する作業で、昼夜三交代だった。空いた時間は副業のアルバイトを掛け持ちできたので、数年後には借金返済の見通しも立ったという。
 安西篤は離郷から三年後の句会での武田の様子について次のように書いていた。

 武田が時々大勢の仲間の中で、ふっと一人だけ悲し気な眼差しをしているのを見ると、その視線の向うに、河口の先に拡がる日本海の濃い藍の色が映っているような気がしてならない。(「海程」昭和五一年九月)

 武田は会社では六〇歳の定年まで働き、最後の一〇年間は東京・丸の内の職場で総務関係の事務仕事だった。退職後は「海程」の編集に本格的に携わることになる。
  カマキリやずうっと会社員もの言わず 伸一(①)
 私は今回の執筆にあたって、武田とは自宅がある千葉県市川市のJR八幡駅前の珈琲店で四回にわたって話を伺った。その最後の八月一九日、武田と別れた後に駅前からバスに乗って江戸川の土手の上の停留所で降りた。武田は入社のために市川市に初めて来た際、土手から目の前に大きく展けた江戸川の光景に目を奪われたと聞いていたからだ。強烈な日差の下、河口付近の江戸川は微動だしないように水を豊満に湛え、遠くに東京湾の水面が広がる様子は海を眺めているような印象を受けた(写真5)。

 武田は「(自分は)もともと欲がない人間。とてつもない大きな俳人の兜太をそばで支えたことが自分の俳句人生」と自虐的に語る。秋田を離れてから五〇年余り、視線の遙か向こうに東京湾そして太平洋につながるこの地で武田は俳人としての新しい航路を一から探し求めて見つけたのだろう。
  我思わぬゆえに我なし蕪蒸し 伸一(①)

(了)

【補足】
 今回の取材で強い印象を受けたのは武田と付き合いの深かった俳人たちの存在感だった。鬼籍に入られた方々のことを最後に記しておきたい。

【手代木啞々子】
 昭和五七年に七八歳で亡くなった。「合歓」はその死後も発行が続いたが、令和三年に創刊八一年の幕を閉じた。武田は最後まで同人だった。秋田県大仙市には句碑がある。
  夕焼は艸負いかぶりても見ゆる 啞々子

【上村忠郎】
 平成一〇年に六四歳で亡くなった。「青年俳句」終刊後は八戸市の俳壇のまとめ役として活躍した。晩年、「デーリー東北」の論説委員として一〇年間コラム執筆を担当した。
  報いなき俳誌編集冴返る 忠郎

【野呂田稔】
 平成元年に五三歳で亡くなった。能代高校卒業後は地元の郵便局に勤務した。「海程」同人として、多くの俳論を誌上に発表し、論客として知られた。
  紅梅は畏友のごとし打たるべし 稔

【安井浩司】
 令和三年に八五歳で亡くなった。秋田市内で歯科医院を長年営み、多くの句集や俳論を刊行した。俳人の筑紫磐井に「現在の俳句の世界で最も難解な作家」とも言わしめた。
  持論淋しく椎葉の闇へ入り行く 浩司

【竹貫稔也】
 「木の馬」同人で、「海程」に所属したが、昭和四四年に四二歳の若さで亡くなった。ラグビー強豪の県立秋田工業高校の教師だった。母親は地元では有名な俳人で、稔也も将来を嘱望されていた。兜太が絶賛した句がある。
  惨敗のラガーシャワーに燃え移る 稔也

【武藤鉦二】
 令和三年に八五歳で亡くなった。「海程」元同人。小中学校の教師(校長)だった。三鬼から賞賛された句の石碑が能代市にある。
  あぶり絵の鬼立ち上がる桃の花 鉦二

【大岡頌司】

 平成一五年に六五歳で亡くなった。上京後に句集専門の印刷業を営んだ。「俳句評論」などに参加、多くの句集を刊行した。
  遠船脚母は浅蜊を搔きをらむ 頌司

【※出典】
 ①句集「出羽諸人」(武田伸一著・角川書店)
 ②「俳文集心根」(舘岡誠二著・秋田文化出版)
【参考文献】
・「21世紀俳句時評」(俳句四季文庫25)
・「合歓」、「寒雷」、「海程」、「青年俳句」、「木の馬」の各俳誌
【取材協力・資料提供】
石黒知里(県立能代高校)、京極雅幸(あきた文学資料館)、佐藤詠子(「海原」同人)、簾内喜久江(能代市立図書館)、塚本佐市(能代市俳人)、成田亮子(秋田県立図書館)の各氏(五十音順)にはあらためて感謝申し上げます。

※文中はすべて敬称略

◆シリーズ十七文字の水脈を辿って◆これまでの掲載内容
第1回 カルチャーセンターと金子兜太 2020年9月号(№21)
第2回 果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島 2021年1・2月合併号(№25)
第3回 星一つ落ちて都の寒椿―ある慰霊碑の俳句をめぐって 2021年4月号(№27)
第4回 蛾のまなこ赤光なれば海を戀う―金子兜太と海軍短期現役士官 2021年12月号(№34)
第5回 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す―神戸とロシアを結ぶ点と線 2023年3月号(№46)
第6回 戦争が廊下の奥に立つてゐた―戦後の渡邊白泉 2023年10月号(№52)
第7回 霧過ぎて鈴懸の實の逞しき―埋もれた異才の俳人・出澤珊太郎〈4回連載〉
 その一 2024年5月号(№58)
 その二 2024年6月号(№59)
 その三 2024年7・8月合併号(№60)
 その四 2024年9月号(№61)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です