露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す〜神戸とロシアを結ぶ点と線〜齊藤しじみ

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第5回

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
〜神戸とロシアを結ぶ点と線〜 齊藤しじみ

 (1)神戸と西東三鬼

 背後に六甲山、前方に大阪湾に挟まれた細長い神戸は南北に坂が多い街である。俳人の西東三鬼(一九〇〇〜六二)が東京からこの街に移り住んだのは、昭和一七年一二月のこと。ミッドウェー海戦での敗北、ガダルカナル島からの全面撤退という太平洋戦争の戦局の大きな転機の年であった。神戸への転居は当時の社会情勢とは切っても切れない事情があった。いわゆる昭和一五年の「京大俳句」事件(注①)で特高警察に検挙された三鬼だが、その後起訴猶予となり、その保護観察期間が切れた時期が神戸行きと重なるのである。
 しかし、三鬼自身の言葉を借りれば「単身家を出て、神戸に流れていった」という表現どおり、東京の自宅には臨月の妻と幼い子どもを残し、横浜の歓楽街で知り合った女性を連れてのいわば四三歳の中年男の身勝手な家出であった。
 神戸という街は「頭蓋骨の要らない街」といってもいい位、物を考えないでいられる町と「自伝」の中で評した三鬼。神戸での最初の住まいは、現在の神戸市中心部のトーア・ロー
ド沿いにあったホテルだったが、今は中華会館やレストラン、クリニックなどが立ち並んでいるあたりである(写真1)。

▲写真1 三鬼が身を寄せたホテル跡

 芝居のように朱色に塗られたそのホテルがあった……同宿の人々も根が生えたようにそのホテルに居据わっていた。彼、あるいは彼女達の国籍は、日本人が十二人、白系ロシア人女一人、トルコタタール夫婦一組。エジプト男一人、台湾男一人、朝鮮女一人であった(注②)

 思い出多きホテル暮らしも半年余りでピリオドを打ち、三鬼は翌年昭和一八年の夏には空襲への不安を理由に六甲山の山麓に近い、ホテルから一キロあまり離れた家に引っ越した。三鬼によれば、転居先の家は明治初年に建てられた廃屋同然の異人館で、外装のペンキはボロボロ、床はプカプカしていたという。昭和二三年二月までの約四年半住んだのだが、多くの俳人が足を運び、後に仲間から「三鬼館」と呼ばれるようになった。
 俳人の鈴木六林男(一九一九〜二〇〇四)は当時の「三鬼館」に終戦まもなく訪れたことがあり、その界隈の様子について次のように表現している。

 国鉄の神戸元町駅から、三鬼の住んでいた山本通り四丁目への坂道の両側は、すっかり戦災にやられ、瓦礫が散乱していた。坂から神戸の海は丸見えであった……(略)…
…神戸の街は見事に焼けていたが、三鬼館のあるあたりから上は、まだかなり戦前のおもかげを残していた
(注③)

  露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

 この句は「三鬼館」で目にした一場面を題材に戦後まもなく発表した句で、三鬼の代表句の一つになる。
 文芸評論家の山本健吉は「巧まざるユーモアがある。ワシコフという舌を噛みそうな固有名詞も効果的だ」と評している。(注④)
 ワシコフが三鬼館の隣人で、実在の人物であったことを三鬼はその著作で明らかにしている。

 ワシコフ氏は私の隣人。氏の庭園は私の家の二階から丸見えである。商売は不明。年齢は五十六・七歳。赤ら顔の肥満した白系露人で、日本人の細君が肺病で死んでからは独り暮しをしてゐる(注⑤)

 「三鬼館」の場所を戦後の住宅地図で推定することはそれほど難しいことではなかった。
 三鬼は別の著作で隣人が二人いたとしている。

 水洗便所の水槽の鉄蓋を開け、隣家の露人ワシコフ氏、仏人ブルム氏の分も流れ込んだ濁水を汲み出して大切に肥料にした(注②)

 昭和三二年の神戸市生田区(現在は中央区)の地図に住宅街の西端に「F・BLUM」とブルム氏の名前を見つけることができたからだ。その右隣が「KA・SONS」、そのまた右隣は「浅野」という名前が確認できる。
 また、平成三年発行の昭和俳句文学アルバム『西東三鬼の世界』(梅里書房)には作成時期は不明だが、「三鬼館」の正面からの写生図が掲載され、真ん中の「三鬼館」の左隣が「ブルム邸」、右隣が「浅野」と記されている。
 となると結論は一つ、「KA・SONS」の場所にあった家が「三鬼館」と推測されるが、隣家の「ワシコフ氏」の家らしき跡が見当たらないのは「三鬼館」の裏手にあたるのではないだろうか。
 ちなみにブルム氏の住まいだった洋館は、後に岐阜県の観光施設「明治村」に移築され、そこにはブルム氏はフランス人の貿易商と紹介されている。
 昨年九月に現地に足を運んだ私は「浅野」という表札のある戸建ての家を見つけたが、その隣は四階建てのマンション、その隣が九階建の真新しい賃貸マンションの出入り口に通じる幅一〇メートルほどの私道、そして「ブルム邸」の跡地には四階建ての雑居ビルがあった。
 「浅野」の家人に尋ねると、隣の四階建てのマンションはもともと親類が所有していたとのことである。推測すれば、マンションの私道にあたる場所が「三鬼館」、ワシコフ氏の家は、私道奥の賃貸マンションにそれぞれあたるのではないだろうか(写真2)。

▲写真2 三鬼が住んでいた洋館の跡地

 「露人ワシコフ……」の句ができた経緯について、三鬼は具体的に綴っているので引用する。

 私の隣人は六十歳位の、白系ロシア人で、彼の若い妻は日本人で肺病であった。(略)
 彼女がいつのまに死んだのか、私は知らなかった。秋の半ばころから、女の死んだ家では、夜になると、蓄音機の急調子のロシア音楽が鳴り出した。こちらの二階から見下すと、白髪の露人は、立ち上がったセパードを抱いて、狂ったように踊っていた。
 ある朝、隣人は長いサオを持ち出し異様な叫びと共に手当たりにザクロをたたき落していた。その上にはルビーのような実が散り乱れ、ほえながら走り回る犬がそれを踏み荒らした
(注⑤)。

 (2)神戸のロシア人

 三鬼がワシコフ氏を「白系ロシア人」と表現したのは白人のロシア人という意味ではない。戦前のロシア情勢を色濃く反映した当時の一般的な語句であった。
 一九一七年(大正六年)のロシア革命による帝政ロシア崩壊の影響で、革命政権による迫害などを恐れて約二〇〇万人のロシア人が難民として欧米を中心に海外に亡命したという。その亡命先の一つとして日本を選んだロシア人は正確な数は不明だが、一時的には数千人規模だったといわれている。亡命ロシア人は社会主義としての赤いソビエト政権に対立する存在として「白系ロシア人」と呼ばれた。
 亡命者の多くは神戸や横浜の港町に定住し、特に大正一二年の関東大震災の後は神戸へ移り住む人が急増したという。
 「神戸市統計書」などによれば、神戸市内在住のロシア人の数は「労農ロシア」として括られている。そのうち白系ロシア人については「( )内ハ白系ロシア人の無国籍者ナリ」という注釈が付いて、上段の「ソ連人」とは区分けされて下段に(人数)が表示されている。データの存在しない年も多いが、次のような人数の推移だった。
  昭和八年 三一(二二五)
  昭和九年 四七(三八九)
  昭和一〇年 三八(三八五)
  昭和一三年 四〇一
  昭和一四年 三一七人
  (※昭和一三年と一四年のデータはソ連人と白系ロシア人の合計と思われる)
 おそらくは神戸在住の約三〇〇人の亡命ロシア人の一人だったワシコフ氏は何の職業に就き、どのような人物だったのか。三鬼の著作からはこれ以上知ることができない。
 「神戸市史」によれば、昭和五年の在神戸ロシア人の職業のうち、最も多かったのが行商人の七八人で半数以上を占め、次に商社員の二五人、無職の一〇人、音楽家の七人、貿易商の五人、教師の四人となっている。
 青山学院大学のポダルコ・ピョートル教授は、欧米に亡命したロシア人に比べると、日本への亡命者は財産、技能、知識などの水準は高いものではなく、貧しい教育の者が多かったと分析している(注⑥)。そうであればワシコフ氏は数少ない成功者の一人だったのだろう。
 というのも当時、欧米人が多く住み、領事館も集中していた山手の住宅街の洋館に住み、大型犬を飼い、日本人の妻を娶ったことを考えると比較的余裕のある生活を送っていたことが推測されるからだ。
 三鬼の妻のきく枝は昭和二二年の夏に幼子を連れて神戸の三鬼と同居生活を送り始めたが、その随筆「遠い日々」の中で隣家のワシコフ家について触れている(注⑤)。

 (三鬼に)叱られて泣き声を聞くとワシコフ家の女中さんが窓下に来て喚きました、「小さい子供を虐待してッ。そんな親(三鬼のこと)は年とってから碌な事ないよ、うちの旦那が養子に貰っていいというよ。」

 ここに登場する旦那とはワシコフ氏のことだが、戦後も家政婦を雇うほどの経済的な余裕があったことが伺える。

 (3)ワシコフ氏は何処に

 三鬼の妻の話によれば終戦後も神戸にいたことになるワシコフ氏であるが、その後の行方を知るすべはないのだろうか。
 昭和二三年の神戸市在住の白系ロシア人は一六三人とあり、戦前に比べると半減している(注⑦)。
 東海大学の中西雄二准教授は関係者の聞き取り調査を踏まえ、戦争中から戦後の混乱期にかけて海外へ再移住した白系ロシア人が多かったことを指摘する一方で、戦後に残った白系ロシア人は海外に身寄りのない高齢者が目立ち、その多くは日本国籍を取得したとしている(注⑧)。
 後者であれば終戦後も神戸で暮らしていたワシコフ氏は地元の墓地に埋葬されている可能性が高い。
 神戸には外国人墓地があり、正式には神戸市立外国人墓地と呼ばれる。ここにはロシア人の名前が明確に書かれた墓は一六〇基以上あり、ほとんどは亡命ロシア人や一九五〇年代までに来日した者だという。神戸発祥の洋菓子「モロゾフ」の創始者ともいえるモロゾフ氏も、ここに眠る亡命ロシア人の一人である。
 墓地の調査をかつて行った青山学院大学のポダルコ・ピョートル教授は、墓碑の名前が判読できた名簿をまとめている(注⑥)。
 その名簿番号の二〇番目にロシア語で「BacLKoB(30/3/1891-10/9/1958)」という名前があった。日本語で「ヴァシコフ」と記されている。他に似た名前はなく、この人物は墓碑に刻まれた生没年からすれば、三鬼と出会った時は五四歳だったことになる。三鬼はワシコフ氏のことを「年齢は五十六・七歳」と書いていることから、年齢的にはほぼ一致している。ワシコフ氏だとすると明治三三年生まれの三鬼より九歳年上で、三鬼が六一歳で死亡する四年前の昭和三三年に六七歳で亡くなっていたことになる。
 亡命ロシア人の多くは日本で文化や生活習慣だけでなく言葉の壁にぶつかり、日本で大変な苦労を強いられたという。
 ワシコフ氏はおそらく革命で混乱の母国に別れを告げて単身、日本の地を踏んだ時は二十代半ばの青年だったと考えられる。その人生はロシア革命だけでなく、太平洋戦争には日本在住のロシア人が官憲の監視下に置かれたことも踏まえれば、激動の二十世紀の世界史に翻弄された一人だったに違いない。その境涯に思いを馳せた時、石榴の実を打ち落したワシコフ氏の発したという叫びは、宿命へのやるせない思いからの慟哭ではなかっただろうか。
 石榴はペルシャ原産で、日本には平安時代に中国から伝わったとされ、その独特の深紅の色彩から必ずしも明るい印象を与える果樹ではなく、秋の季語としても歳時記で見る限りは、何か哀しさや不安を漂わせる句が目立つ。
 散文の世界でも広島原爆を題材にした井伏鱒二の名作『黒い雨』で、疎開先からたまたま帰省していた男の子が自宅の庭で柘榴の実一つ一つに「今度帰ってくるまで落ちるな」と声をかけていたときに爆風の直撃を受けて即死したという話が母親の口から語られる一節がある。
 また、川端康成の『掌の小説』に収録されている短編「ざくろ」では、出征する幼馴染が食べ残した石榴の実を口に含む少女の揺れる心について、「ざくろの酸味が歯にしみた。それが腹の底にしみるような悲しいよろこびをきみ子は感じた」と綴られている。いずれの作品でも「石榴」は哀愁を秘めた題材として異彩を放っている。
 ワシコフ氏の庭の石榴の木は、時期は不明だが、戦後「三鬼館」の新たな家主になった中国人が「風で揺れると板塀を擦る」とワシコフ氏に苦情を言って強引に切り倒したと伝えられている。

【引用文献】
注① 京大俳句事件:昭和一五年に新興俳句運動の中核を担った俳誌「京大俳句」の編集に関与した主要俳人一五名が治安維持法違反の容疑で検挙されたもの。(『現代俳句大事典』三省堂)
注② 『神戸・続神戸』(西東三鬼著・新潮社)
注③ 『俳句』(昭和五三年一一月号・角川書店)
注④ 『定本現代俳句』(山本健吉著・角川書店)
注⑤ 『西東三鬼読本』(第29巻第5号・角川書店)
注⑥ 『白系ロシア人とニッポン』(ポタルコ・ピョートル著・成文社)
注⑦ 『新修神戸市史歴史編Ⅳ』(神戸市)
注⑧ 「神戸における白系ロシア人社会の生成と衰退」(人文地理・第56巻第6号)
 このほか、『西東三鬼自伝・俳論』(沖積舎)、『西東三鬼』(著・沢木欣一、鈴木六林男・桜楓社)、『西東三鬼全句集』(角川ソフィア文庫)、『果物の文学誌』(塚谷裕一・朝日新聞社)、『文豪たちの美味しいことば』(山口謠司・海竜社)などを参考にさせていただいた。

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