霧過ぎて鈴懸の実の逞しき(二)~埋もれた異才の俳人・出澤珊太郎~ 齊藤しじみ

『海原』No.59(2024/6/1発行)誌面より

シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第7回(その2)

霧過ぎて鈴懸の実の逞しき(二)
~埋もれた異才の俳人・出澤珊太郎~ 齊藤しじみ

 (一)大学生活

 明治時代の小説に最も多く登場する実在の坂道は東京・文京区の「団子坂」と言われ、かつて界隈には夏目漱石、森鴎外、高村光太郎などの自宅があった歴史的に由緒ある場所である。今は地下鉄の千駄木駅から地上に出るとすぐ目に入る比較的勾配が緩やかな二〇〇メートル程の長い坂道である。学生時代の珊太郎と兜太が飲み屋で泡盛をあおって団子坂を駆け下りて酔いの余りにぶっ倒れたという逸話も残っている。昭和一四年に東京帝国大学経済学部に入学した珊太郎が住んだ学生下宿「豊秀館」も団子坂の界隈にあった(写真1)。

▲写真1 現在の団子坂(東京・文京区)

  本郷の迷路なつかし春の猫 珊太郎 (『出澤珊太郎句集』)

 部屋は群馬県出身の水戸高校時代の先輩から引き継いだ二階の八畳間だった。隣室はその先輩の旧制高崎中学の後輩だったという後の首相・中曽根康弘(以下敬称略・静岡高校出身)で、珊太郎と同学年の法学部の学生だった。
 珊太郎が高校から大学にかけての自伝と言える連載「わが俳句的遍歴(一)〜(四)」は「海程」創刊号から四回にわたって掲載一一されたが、その(四)は大学に入学してまもない時期までの内容で中断した形で終わり、連載はその後再開されることはなかった。
 今回取材した珊太郎のご長男の出澤研太さん(七三)から、その続編と見られる下書きの原稿が自宅に残っていることを去年暮れに教えていただいた。それは「わが俳句的遍歴」(六)から(一一)に該当する下書きだった。ただし、(五)は欠落し、各編ともペンによる校正箇所が多く、ページが欠けているものもあった。それでも新たに分かった事実は多く、その下書きも参考に珊太郎の足跡をあらためてたどっていくことにする。
 珊太郎は大学でも自由な学生生活を謳歌していたようだ。講義は聴いたことがなく、日々図書館に通い様々な文学書や芸術書を乱読したり、筆写したりして過ごしていたという。当時の俳句からもその一端を垣間見ることができる。

  朝寝していることのたのしさ花曇
  酒を恋ひをりそっと口笛吹いてをり
  ふかぶかと寝る一夜の風立つらし
  煙草のけむり外套を這ひ論はじまる
  誕生日下宿は瑠璃をひと日磨き

 また、「読書が何よりの心の慰めで刺激だった」と心情を綴り、本を買っては部屋に山積みにし、まとまれば古本屋に売って酒代にしていたことを吐露している。下書きでは当該の箇所は「父から金を貰ひ」という元の一文をペンで消した跡がある。高校時代に詳しい出自を知ったという珊太郎が大学生の時は「星一」との間で連絡を取れる父子関係ができていたのだろうか。
 このほか、一年生の夏休みには長野県佐久市の寺に学友と一か月余り泊り込んだり、二年生の春休みには一週間かけて伊豆半島縦断の旅をしたり、秩父の実家にいた兜太を訪ねて蔵の中で徹夜で碁を打ったりした思い出も書かれている。

  蔵に泊る数日桑の芽山女など 珊太郎

 話の筋からは脱線するが、気になる隣室の中曽根について、珊太郎は泥酔した友人が深夜に下宿に来て騒いだ時の場面について、「わが俳句的遍歴」の中で、次のように回想している。

 中曽根が起きてきて「うるさい」と我々を叱った。無理もない。彼は三年間毎朝きちんと図書館前に並び、帰りも一定時であって(略)高文を優秀な成績で合格して役人になった。その点はたしかにえらい。(略)同じ釜の飯を食べた仲間としてよい意味で出世して貰いたい。

 その中曽根が首相に就任したのは昭和五七年で、退陣は珊太郎が亡くなった翌年の昭和六二年なので、珊太郎は首相在任中の大半を見届けたことになる。

 (二)「成層圏」と東京句会

 珊太郎が大学で最も力を入れたのが俳句だったが、短歌にも関心があったようだ。
 このうち短歌ではアララギの歌会にも出席し、斎藤茂吉にも直接会う機会があり、「頭がつるつるの円満な雰囲気の中に潜む鋭気」を感じとったと書き残している。
 主たる俳句については、東京大学ホトトギス会やそのOBたちの句会に定期的に顔を出し、高浜虚子、山口青邨、富安風生など錚々たる当時の一流俳人の謦咳に接したが、活動の中心は「成層圏」の東京句会だった。東京句会は「成層圏」顧問の中村草田男(明治三四年〜昭和五八年・以下草田男)が指導役、旧制姫路高校出身で珊太郎より学年が一年上の文学部の香西照雄(大正六年〜昭和六二年)が幹事を務めた。香西は後に草田男のいた東京の成蹊学園で教職に就き、草田男亡き後は「萬緑」の選者になった人物である。その香西によると、昭和一四年は「成層圏」の会員に珊太郎をはじめ東京帝国大学に進学した者が多く、四月から毎月一回開かれるようになった。出席者は二〇人程度の時が多かったという。
 珊太郎は当時、草田男の句について表現の難解さやエネルギー過剰の消化不良という表現で批判的な目も持ってはいたが、対象を独自に把握する天才的な能力には舌を巻いたと語るほど尊敬していた。
 東京句会の主な会場は国会議事堂にも近い赤坂の「山の茶屋」で、場所柄もあって政財界の要人が多く利用する店だった。「山の茶屋」は今は鰻料理が自慢の高級店として知られる。お目にかかった若女将の話では大正時代につくられた二階建ての店は空襲の被害を免れたことから、その当時の雰囲気を今も残しているという(写真2)。

▲写真2 現在の「山の茶屋」

 昔も今も学生が出入りするには身分不相応の印象も受ける店だが、それには珊太郎が一役買っていた。珊太郎は六本木の老舗の鰻屋「大和田」の店主夫婦を「肉親」と例えたほど幼少期から二人にとても可愛がられ、店主の妻の実家が「山の茶屋」だったので顔が利いたようだ。店主は慶応大学出身の俳句が趣味の粋人で、著名俳人とも交流があったというので、麻布中学在学中に俳句を詠み始めたという珊太郎が影響を受けていたとしても不思議ではない。
 東京句会での珊太郎の俳句の一部である。

  友逝けり電車ひゞかひ土間ある家
  ひだるさけさるさ鳩ならび来るしき石を
  細き樹に立つ窓のゆう闇顔洗ふ
  おびえつゝ朝日に向きて空地よぎる
  夕焼をはやす子ら皆山河あり

 冒頭の「友逝けり……」の句は、水戸高校の同級で卒業後まもなく結核で亡くなった友人のことを詠んだ句という。珊太郎は電車通りに面した東京世田谷区の三軒茶屋の実家を弔問した。そこには友人の遺体が安置されていた。夫を早く亡くし、一人息子にも先立たれて嘆き悲しむ母の姿に珊太郎は大きなショックを受けたという。
 「成層圏」の会員は最盛期には東京、京都、九州の各帝国大学、同志社大学のほか、水戸、姫路、第六(岡山)、山口、第七(鹿児島)の各旧制高校の五〇人余りに上った。

 (三)母への思慕

 珊太郎には生涯その存在すら知ることができなかった実母を慕って詠んだ数多くの句があるが、「成層圏」の昭和一五年四月号にその代表句と言える句が登場する。

  白墨一すじ塀に低かり母現れよ

 この句は仲間の間では「無季の句の秀逸」と評されたが、珊太郎の出自を知る兜太はその心情を次のように推察している。

 白い線は、塀の低いところ(下の方)に、横一筋に、それもあるていどの長さで描かれてあって、描いたものはそこにはいない。(略)出澤珊太郎という男の、肉親に恵まれない境遇までが見えてくる。肉親ということでは孤独極まりない男だったのだ。 (『遠い句近い句』著・金子兜太富士見書房)

 また、兜太は珊太郎の卓越した能力の源泉についても冷静に分析している。

 私には、この人の「母」への慕情の切実さが妙に気になったものだった。他にも「浅草の昼月虧けて母恋し」「母を識らぬ故の野性か露の月」「ねむの花あこがれひそめ亡母憶ふ」などなどかなりの数があるが、「母を識らぬ故の野性か」は自身のことに違いなく、これは激しい。そういわれてみれば、出澤さんの「野性」には激しく放縦なものがあって、この人の行動力の大胆さとも連脈していたようにおもう。 (『出澤珊太郎句集』)

 (四)「土上」との関わり

 「成層圏」のほか、珊太郎が深くかかわったのが俳句誌「土上」だった。俳句文学館資料室に保存されている戦前の「土上」を調べると、珊太郎の句は大学入学の年の昭和一四年八月号に初めて登場し、その後も毎号掲載(巻頭はうち二回)され、俳句評論も五回連載で執筆するなど、ここでも頭角を現していた。評論では当時、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた若手実力派の俳人・石田波郷(大正二年〜昭和四四年)を批判し、石田から「馬酔木」の誌上で反論を浴びるほど怒らせた逸話も残っている。
 「土上」の代表の嶋田青峰(明治一五年〜昭和一九年・以下青峰)は早稲田大学の講師だった。兜太は東京・早稲田の青峰の自宅を珊太郎に連れられて訪ねている。時期は兜太が高校三年生か浪人生の頃と思われるが、兜太はその様子を書いている。

 出沢さんは青峰さんと親しげに話をしているので、前からの知り合いなんですかと聞くと、「うーん。何となく、このおじさんはオレと気が合うんだ」とか言ってね。(略)。田舎のおじさんという感じ、土臭い感じでした。
 出沢さんという人も、非常に多才な方にもかかわらず、どこか土臭い人でした。お父さんの一さんの関係かな。そのへんが共通していたみたいですね。 (『証言・昭和の俳句㊤』岩波書店)

 (五)青春の終焉

 珊太郎の俳句三昧の大学生活はそう長くは続かなかった。国内では戦時色が日々一層濃くなった。自由や厭戦的な作風がにらまれた俳句結社や俳人に対して治安維持法による弾圧が昭和一五年から始まり、俳人の検挙や俳句誌が相次ぎ、一部の俳句誌は廃刊に追い込まれる事態になった。その中には「土上」も含まれ、検挙された青峰は昭和一六年二月に留置所生活で肺結核が再発して、終戦を待たずして亡くなった。一連の弾圧では四〇人余りの俳人が検挙されたが、最も悲惨な目にあったのが青峰と言われる。戦後、青峰の長男で俳人にもなった嶋田洋一(大正二年〜昭和五四年)は当時を振り返っている。

 帰宅した父は這うこともできぬほど弱り果てていた。骨と皮ばかりにやせて、白ろう色の顔には死相が現れていた。(略)。勤めや商売の余暇になぐさみに作っている俳句のためにブタ箱に入れられ、拷問されるなんて、考えるだけでゾッとさせられることだ。 (「俳句」昭和三六年一二月号 角川書店)

 「成層圏」もその例外ではなかった。昭和一五年一〇月に珊太郎の編集で発行後、警察から廃刊を命ぜられ、発行は翌一六年五月に通算一五号を最後に途絶えた。
 この頃になると仲間の間には大学を卒業する者や召集で軍隊に入営する者が増えて、東京句会も活動が沈滞するようになった。幹事役も香西のあとは珊太郎が継いだが、その珊太郎も昭和一六年一二月には三か月早い繰り上げ卒業(単位不足で翌一七年一月に追試で卒業と下書きに記述)し、句会に出席できなくなった。代わって句会には軍服を着た学生OBや国粋主義の学生も現われ、草田男はその雰囲気に嫌気がさして句会に姿を見せなくなったという。最後の幹事役の兜太も昭和一八年九月には大学を繰り上げ卒業して海軍の経理学校に入校し、自然に休会状態になってしまった。

 (六)軍隊生活

 珊太郎は大学卒業後には海外で仕事をしたいという夢を抱き、就職先として同盟通信社記者職と満州電信電話会社に内定が決まり、どちらにするか悩んだ末に満州に星製薬の工場もあったことやラジオ放送もしていたことから満州電信電話会社を選択した。
 しかし、太平洋戦争開戦の昭和一六年一二月に徴兵検査を受けた珊太郎は就職直前に召集されて、翌一七年二月には東京・赤坂にあった近衛歩兵第三連隊に入営した。
 この近衛歩兵第三連隊は陸軍の組織の一つで、元々は天皇と宮城(皇居)の守備や行幸啓の警護にあたる親兵の総称だった。日清、日露、日中戦争を経て徐々に一線の戦闘部隊となり、太平洋戦争では多くの兵士が外地の激戦地にも出征した。第三連隊の跡地は今の東京・赤坂のTBSテレビ本社あたりになるが、近隣のビルの敷地の小さな緑地に記念碑がある(写真3)。

▲写真3 近衛第三連隊跡の記念碑

 当時、珊太郎と同じ年の秋に学徒出陣で近衛歩兵第三連隊に入営した慶応大学の学生の証言(『「学徒出陣」とその戦後史』啓文社書房に所載)がある。それによれば、「近衛歩兵」配属と聞いて品がいい部隊と思って当初喜んだが、実は第三連隊は天皇陛下を守る第一連隊の予備のような部隊で、大学出は同年代の下士官から徹底的にいじめられたという。
 珊太郎も昭和三七年に発行された学生時代の友人の遺句集(「俳句と知性」著者・堀徹 堀徹遺稿刊行会)に第三連隊での体験談を寄稿していた。それによると、大学出の幹部候補生たちを牛馬のような扱いをしていた見習士官の教官に対して抗議したところ、翌日に連隊長から「俺の命じた教官に不満があるのか」と怒鳴られたという。
 第三連隊配属後の珊太郎の具体的な足取りはわからない点があったが、俳句誌「寒雷」に掲載された珊太郎の句と詞書にその空白を埋めるヒントがあった。「寒雷」は昭和一五年一〇月に加藤楸邨(明治三八年〜平成五年)によって創刊されたが、珊太郎の作品は軍隊時代の昭和一八年二月号に初めて掲載された。

  〇〇陸軍予備士官学校
  友すずめ赤城の裾は海のごと 珊太郎

 詞書から珊太郎は第三連隊に入営した後に当時、群馬、愛知、福岡の各県にあった陸軍予備士官学校に進んだのではないか。名称は「〇〇」と伏せられてはいるものの、「赤城」の地名からは群馬県の榛名山のふもとの前橋陸軍予備士官学校(場所は現在の陸上自衛隊相馬原駐屯地)と推察された。
 そう見立てて前橋陸軍予備士官学校の同窓会名簿「相馬原會員名簿」(国立国会図書館所蔵)を調べると、第七期第三中隊(富士隊)に「出沢三太」の名前を見つけた。第七期は昭和一七年五月に入校し、約半年後の一〇月に卒業したが、その多くが近衛歩兵連隊と宇都宮師団の出身者で占められていたという。
 第七期の出身者が戦後に書いた回想記(「前橋陸軍予備士官学校戦記」戦記編纂委員会 相馬原会に所載)によれば、訓練は短期集中で極めて厳しかったが、全員が将校になる幹部候補生だったために懐かしい思い出がたくさんできたという。そして卒業後は元の所属部隊に戻り、その後は内地や外地を問わず新しい部隊に着任したようだ。同期には大本営をはじめ司令部など中枢部の組織に新たに着任した者が多かったというが、珊太郎もその一人であった。

 (七)父とまだ知らぬ母へ

 兵役中に珊太郎は実の母親の存在をめぐって星一と直接、渡り合っている。場所は東京駅に近い「日本工業倶楽部会館」の一室だった。会館は大正時代に建てられ、約二〇年前に建て替えられた際に建物の西側部分が保存されており、歴史的建造物として今も当時の重厚な雰囲気を漂わせている(写真4)。

▲写真4 日本工業倶楽部会館

 時期は第三連隊から広島県の宇品にあった陸軍船舶司令部への赴任前なので、昭和一八年から一九年にかけての間と推察されるが、明確にはわからない。宇品には当時、陸軍の船舶部隊の本拠地があった。やがて沖縄との間を船で行き来する珊太郎は死を覚悟したはずで、生きているうちに実の母親の存在を知っておきたいという当然の思いがあった(写真5・6)。

 珊太郎の下書きの原稿にはその場面が具体的に書かれているので、そのまま引用する。

 実父とふたりっきりで会って私は母を教えてほしいと懇願した。再びは生きて帰れないからと文字通り人としての最後の願いをしたが、父はにこにこしながら「安心しろ、なまじ知らない方が良い。生きて帰って来るに定まっているからその時に教えてあげる」と、私は涙を拭いて軍人らしく室を出た。
  夏のビル昏し征く子に父と宣り 珊太郎 (出澤珊太郎句集)

 星新一が書いた「星一」の評伝「明治・父・アメリカ」(新潮社)の冒頭のページには父親を描く次の一文がある。

 いつもにこにこしていた。休日は幼い私たち兄弟を、動物園とかデパートの展覧会とか、時には郊外へとか、よくどこかへ連れていってくれた。会社の仕事で旅行に出た帰りには、いつもなにかしらのおみやげを買ってきてくれた。朝の食事はいっしょだった……。

 珊太郎は星新一と異なり、家庭で実の父親の優しさを経験したことは生涯一度もなかったはずだ。
 ただ、振り返ってみると珊太郎が進路にあたって父の出身地(現在の福島県いわき市)に最も近い旧制高校、大学進路では文学部ではなく経済学部、就職では満州電信電話会社をそれぞれ選択したことを考えると、宿命に抗うことなく、偉大な実業家としての星一に近づこうとする血脈のなせる思いがあったという印象を受ける。その純粋な思いが早熟で異才の誉れ高かった珊太郎の戦後の人生にも影響を与えたのではないだろうか。
(次号に続く)

【参考文献】
『星新一―一〇〇一話をつくった人』(著・最相葉月 新潮社)
「俳句研究」俳句研究社 昭和三六年一月号・昭和四二年六月号
『わが戦後俳句史』(著・金子兜太 岩波新書)
『近衛歩兵第三連隊史』(近衛第三連隊史刊行委員会)

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