柳生正名著『兜太再見』書評◆「再見」と「再生」 小松敦

『海原』No.40(2022/7/1発行)誌面より

書評 柳生正名著『兜太再見』
「再見」と「再生」 小松敦

 〈「兜太をどう読んできたか」。本書に記していくのは、つきつめれば、このことについてのひとつの物語である。〉との書き出しで始まる兜太との「再見」の物語は、第十一章でとりあえず終えてはいるが、〈大海原の上の道のりとでもいうにふさわしい、遙かな旅〉と著者が述べるように、本当は終わりを知らない。これからも著者のみならず読者それぞれが兜太再見の旅を続けることになるだろう。『兜太再見』は「兜太をどう読んできたか」と言いながら、兜太を〈眺める〉のではなく現前に今の兜太を「再生」し、むしろ「兜太をどう読んでゆくか」と読者に〈呼びかける〉書物であった。
 のっけからぐいぐい引き込まれる旅物語であっという間に読み終えてしまったのだが、内容は「おおかみに螢が一つ付いていた」の句末の「た」および「漢語・兜太VS.やまとことば・虚子」をめぐる第八章までの論考と、それ以降に分かれる。第九章からは時枝誠記の「言語過程説」を中心に兜太と虚子の対立と「微細な」差異を考察している。
 あとがきで〈兜太という存在も「言葉」、それも日本語という枠組みの中で捉え直したいと考えた〉というように、全編にわたって〈兜太が世界に送り出した「言葉」のありよう〉から語られており、作家の生涯を説明するような本とは一線を画し、ある種フォーマリスティックな「金子兜太論」になっている。以下、特に印象的だった箇所について記しておきたい。
  ◇
 〈第二章生きもの感覚の「た」〉において、兜太「アニミズム」の本質として「無時間」性を挙げている点が私にとっては新鮮だった。「狼生く無時間を生きて咆哮兜太」の句からマーク・ローランズ『哲学者とオオカミ』を経て、ハイデガー・サルトルの実存主義的人間中心主義を超越して兜太の言葉「私はどうも死ぬ気がしない」にたどり着く。〈眼前の今に集中する命は、今という瞬間の位相では死に捉われず、「不死の存在」たりうる。〜中略〜未来における自身の死の自覚から「実存」を照らすハイデガーらと一線を画し、今は今の生のみ、という「生きもの」のまなざしこそ、兜太のオオカミが生きる「無時間」の本質ではないか。今の瞬間を断固として生き抜く命の輝きが遠吠えとなってほとばしる―そのような眼でものを見る姿勢が兜太の「アニミズム」の本質なのだ。〉と喝破するくだりに感動した。                                            
 兜太「アニミズム」のポイントはアンチ「人間中心主義」だ。隣り合わせのキーワード「ふたりごころ」の「ふたり」が「やれうつな蠅が手をすり足をする」の一茶と蠅の関係でもあるように、人間が「主」、人間以外の対象を「客」とする主客二元論=「人間中心主義」から脱し、森羅万象の関係性の中の一部として人間や社会があるとの認識が兜太の「アニミズム」であることは承知していたが、兜太「アニミズム」が「無時間」に生きること、つまり、人間が〈「時間的存在」になる以前〉の記憶をもとに〈オオカミに学んで瞬間そのものを生きる〉境地であると知って大いにうなずいた。兜太は他人に対しては「生きもの感覚」とか「アニミズム」と説明しているが、実は兜太自身が「無時間」に今この瞬間を生きることのできる「生きもの」だったのだ。そういう自分と同じような「生きもの」を「存在者」と言っているのだ。
 「生きもの」兜太は今この瞬間をどのように捉えてどのように表現するのか。その方法の一つが「おおかみに螢が一つ付いていた」に代表される切れ字としての「た」であった。確定の過去形「た」は、取り返しのつかない「事実」性を作り出し〈事実より強い効験を持つ。読者を虚構による現実世界へ引き入れてしまう〉技術であり(いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』)、明治期の言文一致運動の中で生まれたはずなのだが、俳句では一茶が「我やうにどさりと寝たよ菊の花」として先駆的に活用し、また兜太はこれをしっかりアニミズムの句として見出している(『流れゆくものの俳諧』)。
 著者は切れ字の「た」をめぐり、一茶から兜太までの遍歴を概観し、〈晩年の兜太が一茶や山頭火を自身のうちに取り込むことで血肉化した「定住漂泊」〉の〈極限の姿を示しているのが〉兜太の絶唱「最後の九句」の6句目「さすらいに入浴の日あり誰が決めた」だとし、〈この巨人最期の心のあり処が「さすらい」を「た」という決辞でまとめた一句に透けて見える。「た」は兜太の生を締めくくるのにふさわしい句末だったというべきである〉と述べているが、兜太という存在をあくまでも「言葉」と向き合い対峙する「言葉の人」として捉えたいとの著者の企図が見事に達成されている。〈それが自分のうちで兜太が生き続けていることの最大の証なのである〉との思いに強く共感した。
  ◇
 〈第九章呼びかける俳句、眺める文学〉以降では、「芸術的な言語と、芸術的でない言語の間に、一線を画することが困難」という時枝誠記の文学観が、法律用語だろうと何だろうと「言葉は区別しない」という兜太の「態度」に通底することが示される。そして、兜太の「呼びかける文学」を擁護しつつ、「花鳥諷詠」=「眺める文学」の虚子が「勅撰集」由来の刷り込みに戦略的に便乗し「無意味」導入に至る経緯が論考されているのだが、日ごろから私が感じている「作品は読者のもの」との思いを強くした。この思いは、著者が最後に述べている〈「微細な差異」〉を〈新鮮なまなざしで見詰め直すこと〉のヒントになるのではないかと思っているし、兜太との新たな「再見」と「再生」をもたらすかもしれない。   了


ご参考「WEP俳句通信 127号」(ウエップ)の特集より抜粋(敬称略)

角谷昌子:本書では、兜太の俳句ばかりでなく、現代俳句についても広く論考する。柳生氏自身が兜太という存在を日本語という枠組みの中で捉え直し、「言葉の人」としての存在感を提示したいというとの思いは、ほかの作家論と一線を画す。

岸本尚毅:「図々しさ」が俳諧の一要素と言えるかどうかについて私は所見を持ち合わせていないが、少なくとも、兜太の「直截な社会詠」の持つ一種のすがすがしい読後感が何に由来するかについて、本書は今までにない回答を示してくれた。

筑紫磐井:兜太論としては、柳生は、大概が地に足の着いた論理をたどっている。特に中心となるのは、石倉・田附の『野生めぐり』などを踏まえての秩父の風土と風俗だ。「生きもの感覚」「産土」「アニミズム」はここで一直線に重なる。

西池冬扇:『兜太再見』で一貫して流れている思想は、二項対立的価値観からの超克である。(略)残念なことに近代以降の俳句界は社会や文芸の思潮の変化には常に情報僻地的対応でその歴史を歩んできた。だが、正名氏の投げかけた課題は、今後の俳句の向かう方向を考えたとき、非常に大きい意義を有していると考える。

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