果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島 齊藤しじみ

『海原』No.25(2021/1/1発行)誌面より

◆シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第2回

果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島 齊藤しじみ

 今から十八年前の私事だが、鮮明に記憶に残っている思い出がある。転勤族の私は当時、松山で暮らしていた。初心者向けの俳句教室で、まだ全国区では無名だった講師の夏井いつきさんから俳句の手ほどきを受けていた。何がきっかけなのかは思い出せないのだが、金子兜太先生(以下・兜太)の掲句に魅かれて、刊行まもない「金子兜太集」全四巻を近所の書店で衝動的に買い求めた。その晩、自宅で麦酒を飲みながらお目当ての句が掲載されたページをめくった。正直、真夏にふさわしく、麦酒のホップが心地よく脳裏に染み渡るようなイメージが湧きあがった。

  果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島

 この句が初めて世に出たのは「俳句」(昭和三十五年十月号)誌で、兜太は中年に一歩足を踏み入れた四十一歳だった。その同じ年の五月に福島、神戸、長崎と九年半に及ぶ地方支店での生活にピリオドを打ち、日本銀行本店に転勤してまもない時期であった。
 私はこの句に出会ってから果樹園の存在が気になっていたが、去年十月、暑さが一段落着いた頃を見計らって、果樹園探しを思い立った。場所は生前、兜太が語っていた内容から推測できる。

 長崎から東京に移り、杉並区今川町(旧称沓掛)に住む。あちこちに梨の果樹園があって、沓掛の旧称を懐かしんでいた。四十代はじめの頃で、俳句専念を決め(略)、夏の果樹園の葉づれの下に、シャツ一枚で、気負って立っている自分の姿を思い描くことがあった。ここは実りを待つ孤島、と。(『金子兜太自選自解99句』角川学芸出版)

 また、兜太は俳人の池田澄子さんとの対談の中で、次のように語っている。

池田 この果樹園というのは杉並区にあったんですって?梨園が。
金子 あったんだ、沓掛町に。五郎という犬を連れて歩いたんだよ。
池田 それを知らなかったときには、「果樹園」って言われたら、広い大梨園かな、葡萄園かなとね、いろいろ想像していました。
金子 そのとおりです。そこから来る想像の句ですね。
 (『金子兜太×池田澄子』ふらんす堂刊)

 右記の話をまとめると、昭和三十五年、兜太の自宅があった杉並区今川町(旧称沓掛町)周辺の梨園ということになる。
 まずは当時の住宅地図から兜太の自宅を探し出すことから始めた。都立中央図書館で検索した昭和三十年代の杉並区の地図は複数あったが、個人の名前まで記載されているのは昭和四十四年の「杉並区全図」(公共施設地図株式会社編)だけだった。そこに昭和三十六年発行の「文藝年鑑」の文化人名簿から兜太の自宅住所を調べて、先の住宅地図と照合すると、該当の番地に「金子」という姓の戸建ての住宅を見つけることができた(実際には兜太は昭和四十二年の時点では杉並区から埼玉県熊谷市に転居)。
 そのことを兜太のご長男の眞土さんに尋ねようと住宅地図のコピーを郵送した後に電話でお話を伺った。眞土さんの話では自宅は当該の場所で間違いないが、周辺に梨園があったかどうかはっきりした記憶はないという。
 しかし、長崎から連れてきた五郎という名の秋田犬の散歩コースは自分と父(兜太)も同じだったということで、眞土さんは「コース沿いに開けた畑があった。あるとすればこの辺り」として可能性のある場所を地図上から教えてくれた。昭和四十四年の地図では、周辺に果樹園を示す地図記号はなく、確証は得られない。私は当時と現在の住宅地図を手に周辺で二日間にわたって聞き込みを行った。
 現地は環状八号線から百メートルほど離れた閑静な住宅街で、兜太の自宅跡には建売の瀟洒な分譲住宅が立ち並んでいた。跡地の住宅に住む中年の女性に話を聞いたが、「日銀の社宅があったことは知っていますが、金子兜太という俳人は知りません」とのこと。今から六十年前のことなので、すくなくとも六十代後半以降の世代でなければ、当時の記憶はないだろう。
 眞土さんが梨畑の可能性のあるとした場所の近くに住む七十代後半の男性は「昭和三十年に梨園があった記憶はないが、あなたの言う場所はきっと梅林だと思う。詳しくはSさんに聞くしかない」と教えてくれた。
 Sさんは大邸宅に住む住民の名前だった。地図では眞土さんの話にあった散歩コースに自宅の敷地が面した家でもある。Sさんの家のチャイムを鳴らし、「戦後の郷土の歴史を調べている者?です」と名乗ると、六〇代半ばと思しき、商社マン風さわやか系半ズボン姿の長身の男性が門のところまで出てきてくれた。
 Sさんは終始、軽妙な語り口で約四十年前に亡くなった父親が自宅周辺一帯に畑を持っていたことを明かしてくれた。昭和三十九年までは桃畑だったが、それ以降は梨畑、昭和五十六年からは梅園をやっていて、地元の農協に出荷していたことも教えてくれた。私は頃合いを見つけて、手にした画帳に貼り付けた「果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島」という句を見せ、今川にあった梨畑が句の題材になったことを伝えた。
 Sさんは兜太の名前を知らなかったが、「このあたりで梨畑と言えば、私の家の梨畑ですよ。小さいときにはよく梨を捥いで食べましたよ」と笑顔で話してくれた。
 兜太の自宅から約百五十メートルは離れたところにある果樹園の跡地はすでに住宅が軒を連ね、梨畑の面影は全く残っていない。Sさんの後に訪ねた町内会の班長を務めるという森茉莉(鴎外の長女)似の女性からは「昔はSさんの家と道路を挟んだ場所に梨の無人の販売所があったので買いに行っていました」という話も聞くことが出来た。
 Sさんの話のとおりであれば、兜太が句を詠んだ昭和三十五年当時はまだ桃畑であり、その後、梨畑、梅林に代わったことになる。勝手な推測を許していただければ、現地の複数の住民が梅しか思い出せないことでわかるように半世紀前の記憶はあいまいになるのも仕方ないことであるが、結果としては「果樹園」であり続けたことには違いない。俳句が創作である以上、徹底的に事実関係を追求すること自体は意味がない。
 ちなみに杉並区の農業の歴史をたどると、昭和三十年代半ば頃は果樹の内訳では裁判面積では「桃」が断トツに多く、次に「梨」となっているが、その後、栽培に手間がかかる「桃」は労働力不足から急速に減少し、やがて「梅」に取って代わったとの記述がある(「杉並区農業のあゆみ」杉並区編昭和五十年)。

 実は当の兜太は昭和四十年には句の「果樹園」は梨畑であると明言している。

 五年ほどまえ、いま住んでいるところに引っ越したばかりのときできた。(略)この近辺、いまも果樹園が一つある。梨の木で、花の時期、袋をかぶった実の時期と、それぞれに特徴があるが、私は、実の時期の重なり合った葉と、その下にいて触れる強い太陽の匂いが好きだ。(略)シャツ一枚の身軽な気持と、緑の果樹園は、私を解放してくれる。果樹園が自分の城のように思え、城主のように自由になる。(『今日の俳句』金子兜太著・光文社)

 兜太が「梨畑」と明言していると言っても、「果樹園」が桃や蜜柑や葡萄であっても俳句の読み手が自由にイメージを抱くことは許される。
 私は「桃」と仮定すれば、戦後十五年しか経っていない時期、兜太が戦争体験をしたトラック島とだぶらせて「孤島」、兵士としての「俺」、そして見た目が南国的な色彩を持つ「桃」を連想しても不思議でないと思う。
 その一方で、「梨」と仮定しても、「幸水」と「豊水」の二品種が全盛の今でこそ店頭で姿を見かけることがなくなったが、何だかごつごつとした手触りが特徴の赤梨「長十郎」が兜太の朴訥としたイメージが重なり合うと感じる。
 勝手にそんな表層的なイメージに思いを巡らせていたが、『金子兜太戦後俳句日記』(白水社)の昭和三十五年の記述を読むうちに、私は当時の兜太の心の葛藤を滲ませた句という解釈もできるのではないかと思わずにはいられなかった。
 それは作家・杉森久英(一九一二〜一九九七)の存在である。杉森は戦前、兜太の母校の旧制熊谷中学の教師を務め、戦後は直木賞受賞の流行作家として「天皇の料理番」など数多くの評伝を世に出したが、日記からは兜太と親交のあったことが伺える。兜太はその杉森から励まされた言葉を次のように書き記している。

八月六日(土)
 夕方、松の屋で杉森先生を囲む座談会。(略)先生の話で―飲屋での―銀行も俳句も辞めるな。どちらからもはみ出した男、あゝいう大きな人物がいるといわれるような、そん
な男になるのが一番よいのではないかと言われたが、非常にありがたく、また我が意を得た。

 当時の兜太は東京帝大卒と言っても仕事に一歩も二歩も距離を置いており、働き盛りの年齢にもかかわらず出世街道から外れていた。働き方改革の言葉など存在しない時代、上司や同僚たちは高度経済成長を支える日銀のブランドとプライドを背負って日夜仕事一辺倒の生活を送っていたはずだ。さりとて「俳句専念」を決意してもプロ俳人として大成できるかどうかわからない不安の中、他人には打ち明けられない中年男としての焦燥感があったはずだ。
 実際、兜太は当時の葛藤を正直に吐露している。

 私は三十代後半で俳句に専念することを決心しました。(略)「あいつは勤めながら俳句をやって結構うまくやっている。すこしズルイじゃないか」。在職中もそんな声がありました。(略)あいまいな姿勢では、何をやっても道は開けません。私が俳句の世界で曲がりなりにもやってこれたのは、「死んで生きる」ぐらいの覚悟でいたからです。(『人間・金子兜太のざっくばらん』金子兜太著・中経出版)

 そのことを知って、「果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島」の句に思いを馳せると、果樹園とは俳句の世界であり、その果樹園を他人の評価を気にせずに堂々と生きていくのだという兜太の気高く、力強い孤高感が伝わってくるのである。

《本シリーズは随時掲載します》

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