書くことの力 水野真由美◆第2回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評

『海原』No.28(2021/5/1発行)誌面より

◆第2回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評

書くことの力 水野真由美

 第2回の海原賞と海原新人賞は新型コロナウイルスの感染対策による暮らしの細部や町の姿、社会の枠組みの変化の中で生まれた。受賞後の特別作品二〇句は、この時代に何が変わり何が変わらないのか、何を変えるべきで何を変えてはならないのかを感じ取ろうとし、また考えようとする日々を生きる〈人間の存在の声〉といえる。

りんどうの花 日高玲

 日高は二〇句の季節をほぼ四等分にすることで春から冬に到る四季の巡りを編む。

  草原に仔馬を拾う遥かなり

 なつかしくて明るい春の草原の「仔馬」だが「拾う」は落ちているものを手にする行為である。親馬や飼い主がいる「仔馬」を「拾う」ことは出来ない。「仔馬」は捨てられたか放置された存在なのだ。また「拾う」は現在とも未来とも読める。それゆえこの風景を「遥かなり」という時の空間的、あるいは時間的な眼差しの方向性はかなり曖昧になる。さらに「拾う」を連体形と読めば「遥か」という時空の認識とも読めるかもしれない。「拾う」はイメージを幾重にも屈折させ、拾われた存在と拾った存在の両方に寄る辺なさを生み出す。それは「半地下に打音の響く日永かな」の密閉とも開放ともならない視点の「半地下」からもにじみ出す情感である。

  木星に土星近づく草泊

 二〇年周期という木星と土星の接近には四百年ぶりという大接近もある。それを「近づく」という。妙に親しみを感じる。惑星と惑星につき合いがあるように思えてくるのだ。その親しみに秋の季語「草泊」の風土感が説得力をもたらす。彼岸後の十日間ほど阿蘇の大草原に仮住まいの小屋を建て、家族ぐるみで飼料や肥料のための草を刈るという。野見山朱鳥に「くれなゐの星を真近に草泊」があるように広大な空間に身を置いて働いた夜の疲労には解放感も感じられる。人と人の間にも定住地とは異質な近しさが生まれるだろう。
 惑星と共に土と草と人もまた親しく近づく夜である。

  アイススケート少女に傷の組み込まれ

 「少女」の姿を形成するのは「アイススケート」「傷」の鋭さではない。逃げ場のない苦しさの「組み込まれ」である。
 一句の世界に身体を感じさせる「拾う」「近づく」「組み込まれ」を書くことで日高は目にとどまらず目の奥を感じ取らせる四季の巡りを編んでいる。

あたたかいくぼみ 小松敦

 小松の二〇句は無季の句を複数含むというだけでなく配列の方法からも時間軸を季節にゆだねていないことが分かる。

  振り向くと振り向いている青時雨

 青葉の木立から落ちる滴を時雨に見立てたのが「青時雨」だとする辞典や歳時記がある一方で、この見立てを「青葉時雨」として、「青時雨」を「綠雨」と共に「夏の雨」とする歳時記もある。「振り向くと」に切れを読むならば「振り向いている」のは「青時雨」だ。とすれば滴では動作を感じるボリュームが覚束ない。青葉の時期にさっと降っては移ってゆく雨と読みたい。そして「振り向く」ためには相手が必要だ。「いる」の共時性と気軽さに現実感がある。

  初めての人もう一人夏薊

 自分が「初めて」会う人、または初めての体験をする人がいる。あるいは自分以外にもここに来るのが、これをするのが「初めて」という人がいることに気付いたとも読める。句跨りの「もう」に時間が生まれ「初めての人」は二人になる。「もう一人初めての人」ならば説明となり気付く時間は生まれてこない。棘がある「夏薊」は質感の強さと野趣により「初めて」の不安と緊張を力づけてくれるのかもしれない。

  はまなすの花今日までの映画館

 「今日まで」を閉館の日と読みたい。「はまなすの花」は夏の浜辺に咲く。これは昔ながらの海辺の映画館なのだ。大林宣彦監督の遺作となった「海辺の映画館―キネマの玉手箱」を思い出す。閉館日を迎えた映画館で若者たちが映画のなかに移動してしまい映画の歴史と戦争を体験する作品だった。海辺に限らず私が住む町でも閉館した映画館は十以上ある。「はまなすの花」は消え続ける映画館への哀悼のようだ。
 小松の世界は説明抜きで始まり、日常の言葉でぱっと掴んだ非日常へのドアノブを回す。そのドアを開く力は上五を字余りや七音ではなく句跨りとして伸ばすことで生まれているように見える。二〇句に過去形が少ないことからも一句ごとの今という時間を生きようとしているのだろう。

一枚だけの紙 たけなか華那

 たけなかの二〇句は冬のみを生きる。作品に付された短文で「苛烈な虐待を受け続けた子供」だった過去とそこに自らが俳句を書く根拠があると自己開示する。それが作品の読まれ方を深くするのか狭くするのかを問う暇はないのだろう。

  一日に一枚だけの紙ください冬の青空

 「一日に一枚」の「紙」は日用の消耗品ではない。一枚の紙で出来るのは折紙や紙飛行機を作ること、あるいはそこに何かを書いたり、描くことだろう。いずれも何かを表現する行為である。「ください」は表現への願いかもしれないが「一枚」ではない「一枚だけ」には切迫感がある。許しを求める声のようでもある。この切迫感は韻律からも感じられる。
 意味で区切るならば「一日に」「一枚だけの紙ください」「冬の青空」と五・十三・七音の二五音である。長い。金子兜太は五・七・五には伸び縮み出来るつよさがある、九・九・九の二七音までは伸びると語っていたがやはり十三音はつらい。音読すると「一日に」で軽く息を吸い、「一枚だけの紙ください」と一気に吐き出し、やや深く息を吸って「冬の青空」とゆっくり吐き出していた。中七の十三音は切迫感を生んでいるのだ。それゆえ「冬の青空」は頭上に広がっていると同時に「ください」と願う相手でもあるようだ。

  紫大根擦る夜が明けるようだ

 「紫大根」は酢に漬けると赤くなるが「擦る」だけでは紫だろう。「擦る」という現在が何時であったとしても大根の色を「夜が明けるようだ」と感じるのだ。「紫大根擦る」「夜が明けるようだ」と切りたくなる韻律と共に夜明け前の暗さを身の置き場所とする感覚を伝える直喩である。

  石ころが添い寝をする冬の菫

 五・六・六の不安定さが「添い寝」を揺らす。また「石ころ」も安定には不充分な重量である。「添い寝」は「冬の菫」にとって安らぎになる得るのだろうか。
 たけなかの二〇句は日常語と定型をゆらす韻律で得た風景としての冬を生き直しているかのようだ。書くとは自作の最初の読者として、その世界を生きることなのである。

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