星一つ落ちて都の寒椿―ある慰霊碑の俳句をめぐって 齊藤しじみ

『海原』No.27(2021/4/1発行)誌面より

◆シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第3回

星一つ落ちて都の寒椿――ある慰霊碑の俳句をめぐって 齊藤しじみ

 大勢の若者でにぎわう渋谷駅前のセンター街の喧騒から外れた界隈が「奥渋」と呼ばれるようになって久しい。こじんまりした店構えの飲食店をはじめブティック、ミニシアター、書店がぽつぽつと建ち並んでいる。行き交う人たちの年齢層もセンター街に比べると高めで、全体に落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 その「奥渋」のメイン通りに面した四階建てビル(二年前までは精米店)の入り口わきに高さ六〇センチほどの慰霊碑がある。私は去年夏まで通った職場が「奥渋」にあり、慰霊碑の前を通るたび足を止める人を見かけたことがないにもかかわらず、花や缶ジュースなどが絶えず供えられていたことが強く印象に残っている。

 黒の御影石の慰霊碑の正面に俳句が刻まれている。

  星一つ落ちて都の寒椿

 そして、碑側面には次の文字が書かれている。

  殉職 昭和四十六年十一月十五日
     新潟中央警察署
     中村 恒雄 警部補(享年二十一歳)

 星一つとは巡査の階級章を指す。中村警部補(死亡当時は巡査で二階級特進)が殉職したのは、世にいう「渋谷暴動」である。今からちょうど五〇年前の一九七一年の一一月一四日、沖縄返還協定に反対する過激派の「中核派」が呼びかけて約五〇〇〇人の学生らが渋谷に集結して起こした暴動であ
る。当時の新聞記事などによれば、ハチ公前や道玄坂など渋谷駅周辺のあちらこちらの路上で火炎瓶が炎上し、約三〇〇人が逮捕されたという七〇年安保闘争を象徴する事件の一つである。
 当時、中学一年生だった私は学校が渋谷に近かったことから、担任の先生から「週末は渋谷駅周辺には出かけないように」と注意を受けたり、「渋谷に革命」「機動隊せん滅」という電柱に貼られたビラを目にしたりした記憶がある。
 中村警部補は当時、新潟県警から警備の応援で派遣された機動隊員の一人で、所属する小隊はNHK放送センター周辺の警備が担当であった。当時の報道では慰霊碑の前の路上で約一五〇人の武装集団と遭遇した際に鉄パイプや角材で滅多打ちにされて意識を失ったところに、火炎瓶を投げつけられて火だるまになり、翌日全身やけどで亡くなった。同じ小隊の機動隊員の三人も火だるまになりながら、近くのパン屋に逃げ込んで火を消しとめられて助かったという話も聞く。中村警部補は新潟県の佐渡島の県立高校を卒業して警察官になってまだ三年目だった。
 慰霊碑ができたのは事件から二九年後の二〇〇〇年のことである。慰霊碑の前にある小さな交差点のマンホールの上で倒れて虫の息になった中村警部補に声をかけ続けたという近所の精米店の店主(故人)から、当時の話を聞いた渋谷警察署の署員が同僚から寄付を募り、店の軒先の一角を提供してもらうことで、慰霊碑の建立にこぎつけたという。慰霊碑に刻まれた俳句は誰の作品で、いかなる経緯をたどったのか。
 今年一月、私は中村警部補の実兄で新潟県佐渡市に住む秀雄さん宛に手紙を出した後、頃合いを見計らって電話をかけた。秀雄さんは事件の首謀犯とされる容疑者が四六年間の逃亡生活の果てに四年前に逮捕された時にテレビや新聞でしばしば登場し、その穏やかな話しぶりと顔立ちが印象に残っていた。勿論面識は全くない。
 電話に出たのは秀雄さんではなく、ご長男の長生さん(四三歳)だった。秀雄さんは去年二月に病気で亡くなっていた。七七歳だった。亡くなる前まで、四人兄姉の末っ子だった弟のことを常に気にかけて、特に去年一一月に五〇回忌を地元の菩提寺で執り行うことに思いを馳せていたという。
 長生さんは叔父にあたる中村警部補が亡くなった後に生まれたので、生前の叔父の記憶はない。
 しかし、秀雄さんから事件のことを小さい頃から聞かされて、自宅には今も中村警部補の遺影や肖像画それに制服が飾られているという。そして渋谷に慰霊碑が出来た時には都内の大学に通う大学生で、秀雄さんと一緒に完成式に出たという。卒業後は地元の佐渡に戻ったが、上京するたびに供え物を携えて慰霊碑に立ち寄り、最近では去年一〇月にも現場で手を合わせたという。
 私は秀雄さんが亡くなっていたことで、慰霊碑に刻まれた十七文字の手がかりを失ったと思い込んだが、「星一つ落ちて都の寒椿」について何かご存知のことはないかと尋ねてみた。長生さんの答えは予想外であった。
 私からの手紙を受け取った後家にある資料を見ていたところ、参考になりそうなものが見つかったという。
 それは中村警部補が亡くなった二か月後の昭和四七年二月に新潟県警が発行した内部向けの広報誌「護光」の「中村警部補追悼号」である。その中の「追悼文芸」の俳句欄に死を悼む警察官や警察職員から寄せられた一四句が掲載されているが、そのうちの一句だった。名前から推測するには柏崎警察署に勤務していた女性であろう。

  星一つ落ちて都の寒椿  佐藤とし(柏崎)
(評)犠牲となったいたましい中村警部補の魂が消えて、東都に凜とした寒椿が悼むかの如くに咲くのである。

 他の一三句には警察官を彷彿させるような文字がなく、その意味で掲句が慰霊碑に刻むのにふさわしい句であることはすぐにわかった。
 また、掲句が三〇年近く経ってから慰霊碑に刻まれることになった経緯もわかった。
 平成二二年に社団法人全国警友会連合会が発行した都道府県の警察機関紙の優秀作品を集めた冊子だった。その中に掲載された作品の一つが慰霊碑の建立に尽力した渋谷警察署の警察官の体験記だった。
 それによれば、今は亡き、警察署の女性職員が「護光」に投稿した詩を県警の承諾を得て引用することを決めたと書かれている。著者は「詩」と表現しているところから「俳句」という認識は薄かったとも思われるが、むしろ十七文字そのものが一編の詩に昇華した印象を受けたのかもしれない。

 その後、長生さんからは故郷・佐渡島にある中村警部補が眠る墓地の写真を送って頂いた。墓地は長生さんの自宅から歩いて一〇分くらいの長手岬と呼ばれる、日本海を臨む海岸段丘の高台にあるという。写真から墓石の正面には戒名の「警覚院殿恒久明道居士」の文字が刻まれているのが読み取れた。墓の正面の前方には灰色の日本海が横たわっている。風が強ければ荒波のしぶきが届きそうな距離に感じる。長生さんの話ではかつては地元の子供たちの遊び場で、泳いだりタコやナマコをとった
りしたという。
 故郷の墓が二一歳で亡くなった青年の冥福を祈る場であるのに対して、渋谷の慰霊碑は殉職という死を悼む場である。その表現として十七文字、季語の「寒椿」が際立っていることにあらためて驚きを感じてならない。

  寒椿の紅凛々と死をおもふ 鈴木真砂女
  今生の色いつはらず寒椿 飯田龍太
  寒椿落ちて火の線残りけり 加藤楸邨
  父も夫も師もあらぬ世の寒椿 桂信子

 「寒椿」は華やかな色の割にどこか不条理な死と隣合わせのイメージを抱かせるものだ。
 この原稿をほぼ書き終えた一月下旬、私は中核派の最高幹部の清水丈夫議長が半世紀ぶりに公の場に姿を見せ、記者会見をしたという記事を目にした。八三歳という清水議長は渋谷暴動で警察官が殺害されたことについても触れ、「どうしても必要な闘争だった。当時は猛烈な弾圧があり、仕方がないのではないか」と語ったことを知った。渋谷暴動の時は三〇代前半の若者だったはずの清水議長の顔写真は、普通の品の良いおじいさんにしか見えないことに違和感を覚えた。
 沖縄返還・安保闘争という当時の激動の社会情勢の中で、中村警部補の死は無謬のイデオロギーという人間が生んだ業の犠牲と言える。
 そう思うと同時に、金子兜太先生がトラック島からの復員船で、戦時中に亡くなった仲間たちのことを「非業の死」と悼んで詠んだという代表句がふと浮かんできた。

  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 金子兜太

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