俳人金子はるを訪ねて(下)―秩父山峡に生きる兜太の母―石橋いろり

『海原』No.48(2023/5/1発行)誌面より◆特別寄稿

俳人金子はるを訪ねて(下)
―秩父山峡に生きる兜太の母―  石橋いろり

▲はるさんの百歳を寿ぐ金子兜太先生の弟千侍氏の色紙
(皆野町の壺春堂にて)

◆◇ヤマブ味噌蔵句会

 兜太の句碑が秩父に集中して建立されているが、そもそもは伊昔紅の句碑が先に建立されていた。その立役者がヤマブ味噌の創業者の新井武平だった。秩父の味噌醤油製造業のヤマブ味噌は県下に販売網を広げていた。商工会長などの要職についていた初代が秩父音頭家元の碑建立の発起人代表もしていた。秩父の活性化・秩父音頭の普及という大志を共通言語にして、伊昔紅と武平は昵懇の間柄となり、昭和四十三年味噌工場の敷地内に伊昔紅の句碑を建立することとなった。
  味噌つきや負はれて踏みし日の記憶 伊昔紅(秩父ばやし)
 その後武平は、伊昔紅の門下となり、句作を開始。後日、武平は次の句を詠んでいる。 
  師の句碑を神とし念じ味噌造る 武平(呟醪けんろう
 毎年、味噌搗句碑記念句会が持たれ、以後味噌蔵句会と名打って四回おこなわれた。メンバーは、伊昔紅を主座に、千侍、七彩会などと盛会だった。句会の模様は、武平の遺句集『呟醪』の金子千侍の序文から知ることができた。
 第一回……昭和四十六年七月四日
 第二回……昭和四十七年六月二十五日
 第三回……昭和四十八年十一月二十三日
 第四回……昭和四十九年十月十三日
 初回から第四回まではるも伊昔紅に寄り添うように毎回参加していたそうだ。句稿は入手することが叶わなかったが、手帳に六月二十五日の第二回の味噌搗句碑会に五句出したものが残っていた。そのうちの三句。
 2 抱卵の燕ささやき交替す はる
 3 板前が空樽洗ふ黴る前 はる
 3 不如帰御客も覗く橋普請 はる

 この数字は得点なのかもしれない。
 生憎、伊昔紅が体調を崩したことで、句会は四回までで、その後は千侍に引き継がれ、長年句会は続いた。会場はヤマブで、その準備・接待は二代目郁夫の弟隆治の妻伊都子と郁夫の妻和子が一切取り仕切り、はるは武平の妻むめに離れの茶室に招かれ話をするのを楽しんでいたそうだ。むめ逝去の昭和四十五年七月に詠んだ
  病みきりて静かに逝きぬ合歓の花 はる
 この句を短冊にして、今も壺春堂に掲げてあることからも、佳き親交があったことが推察される。
  花冷やもろみつぶやく仕込蔵 武平(呟醪)
 掲句はヤマブ敷地内に句碑として建立されている。
 蓑山山頂に伊昔紅先生の秩父音頭歌碑建つ
  薫風や師の歌碑の今日除幕 武平(呟醪)
 金子伊昔紅先生
  薫風や米寿迎へし師や悠ゝ 武平(呟醪)
  割込んで小さく踊りはじめけり 武平(呟醪)

 伊昔紅逝去後も、変わらず千侍を師に味噌蔵句会を継続し、兜太の記念碑を多数建立した。初代のみならず秩父への思いを引き継いだ二代目郁夫氏、現在社長の藤治氏よりの有形無形の尽力を得ている。現在もヤマブホームページに兜太句碑や壺春堂記念館(兜太・産土の会)にリンクが張られている。草葉の陰で感謝しておられるはずだ。
 皆野町観光協会の「金子兜太句碑巡りの旅」のリーフレットで句碑が紹介されている。
  おおかみを龍神と呼ぶ山の民 兜太(壺春堂)
  裏口に線路が見える蚕飼かな 兜太(皆野)
  夏の山国母いて我を与太という 兜太(円明寺)
  山峡に沢蟹の華微かなり 兜太(萬福寺)
  おおかみに螢が一つ付いていた 兜太(椋神社)
  僧といて柿の実と白鳥の話 兜太(円福寺)
  よく眠る夢の枯野が青むまで 兜太(ヤマブ味噌)
  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 兜太(水潜寺)
  日の夕べ天空を去る一狐かな 兜太(天空の里)
  猪が来て空気を食べる春の峠 兜太(長生館)
  谷間谷間に満作が咲く荒凡夫 兜太(宝登山神社)
  ぎらぎらの朝日子照らす自然かな 兜太(総持寺)
  舞うごとし萩の寺いま夕暮れて 兜太(洞昌院)

◇◆はると秩父音頭

 伊昔紅は金子社中の頭として秩父音頭の歌詞と振り付けとを練り上げ、日本中に伝播させていった。その渦中にいたはるにとっても「秩父音頭」は生活の一端であり、切っても切れないものになっていたと思う。
 秩父音頭の様々なイベントに金子社中は参加していた。
○明治神宮遷座十周年(紀元二千六百年の記念式典)でのお披露目
 昭和五年十一月三日。全国より選ばれた神事舞の一つとして秩父豊年踊りとして出演。その後、昭和二十五年、豊年踊りが埼玉県の代表民謡と認定され、以後「秩父音頭」と改名され、県下小学校の体育の実技として教えられた(金子千侍「踊神」)。
○秩父音頭歌碑の建立
 皆野町美の山(蓑山)に建立されたこの歌碑には秩父音頭の歌詞が刻まれた。
  一目千本
  万本咲いて
  霞む美の山
  花の山

 この副碑には伊昔紅の文の并書に由来が書かれていた。

 この地方の古い盆歌を編曲して、けい節の調べを加え、歌舞伎の流れを汲むといわれるこの踊の正しい型を温めて、宛転たる表情を与えたものが、今の秩父音頭である。昭和五年十一月選ばれて、明治神宮遷座十周年祭に出演奉仕してから、星霜二十五年を経て、秩父音頭も漸く全国的に愛好されるようになった。この盛名を今日かち得たものは、即ち金子社中であり、不肖伊昔紅その主催者たるの故を以て、家元碑を建設して戴いた。まことに感激に堪えない。
 昭和二十九年十一月三日 文化の日
                 伊昔紅 文并書

  時雨れては松より青き踊の碑 伊昔紅(秩父ばやし)

 この「一目千本」の句碑建立式典に招待された伊昔紅とはるのにこやかな写真が「秩父音頭」に収められており、夫妻にとっての秩父音頭の重みを窺い知ることができた。
 句碑の隣には、捩り鉢巻を巻いた伊昔紅の堂々たる銅像も建立され、今も秩父を望見している。この銅像建立に際して百五十名を超える個人・企業の寄付によることが銅像脇の碑に刻まれている。また金子社中の後継となった金子千侍の第二句集『踊神』のあとがきに秩父音頭の全貌が具さにまとめられていた。
○ラジオで秩父音頭放送
  冴え返へるわが掛声の何処へゆく 伊昔紅
  秩父新聞(45年1月25日号)より。
○NHKうた祭出演
  欅落葉ふる下に待つ踊の出 伊昔紅(秩父音頭)
○大阪万博
 万博にははる自身は参加せず留守番だったのだが、心は共にあったはず。はるの「俳句雑記」には、
 八月八日出発九日、十日、十一日出演、十二日帰宅す
とあった。
  蜩や万博出演いよよ明日 はる
  万博の出演長し百日紅 はる

○秩父音頭の替え歌
 皆野町では、古くから町を挙げて秩父音頭の普及を目指して替え歌を公募していた。学校でも力を入れ作詞するよう指導していたそうだ。はるの昭和四十九年五月二十六日の覚え書きノートには「句碑十周年記念献歌」と副題が添えられているものがあり、はるオリジナルの秩父音頭と思える歌詞が見つかった。
  ハーアエー
  おらが隣りじゃよいむこ貰った
  医者ではくらくで大工で左官
  うすのめも切る小石もかける
  わるい事にはエサシがすきで
  農の五月もその六月も
  くくりづきんにかみこの着物
  腰にモチつぼ手に竿さして
  うらの小山へちょっくらちょっとのぼる
  トロンコトッキントン ヒーヒャロトキー

 節をつけて唄ってみると、なるほど秩父音頭。
 この詞の肝は一行目と二行目であろう。大工で左官のフレーズは、憶測であるが、千侍の『寒雷』初掲載の句
  大工左官焚火の煙に顔つくる 千侍(絹の峠)
に感化されたかもしれない。掲句は千侍が敷地内に自宅を建設した昭和四十五年当時の句ということで、はるにとっても、大工・左官が日常の中で触れていたということもあるだろう。ただ昔はなんでも家の修繕は自前でこなした時代だったと考えると、伊昔紅の一面を表現したのかとも思える。伊昔紅をおどけたように描写していると解釈すれば、諧謔性があり、夫婦間の温かい心の通いあいがあったことが感じられる。
○秩父音頭の歌手吉岡儀作への追悼句も残している。
  冴え返るその声ばかりいきいきと はる( 54年6月号)
 コロンビアレコードに音源がありYOUチューブで聴ける。

◆◇はるの句

 秩父には馴染のある鳥や植物と交歓しつつ詠んでいる。
○想夫恋の句
  春愁や杖に馴染まぬ夫に踪き はる(49年9月号)
  濡縁に夫が爪剪る菊日和 はる(50年2月号)
  なやらひの声張る夫の腰ささふ はる(52年5月号)
  夫の日日悠悠自適石蕗咲かす はる(52年2月号)

(昭和五十二年伊昔紅没後)
  石蕗咲けど夫の座空し香捧ぐ はる(53年2月号)
  一人居の玻璃戸に寄れば夜の蟬 はる(53年12月号)
  法筵は亡夫の好みし鮎料理はる(54年1月号)
  後れ咲く白芍薬は亡夫のもの はる(57年10月号)
  鰯雲夫の墓まで腰曲げて はる(60年2月号)

 苦難の中、はるはなぜ実家に戻らなかったのか。理由は、実家が没落したからだけではなく、伊昔紅がとても優しかったからと伝わっている。句の中にそれが読み取れる。
○旅に出て詠んだ句
 伊昔紅とは温泉や琵琶湖、奈良、京都、倉敷、伊勢路なども巡った。伊昔紅の心遣いが見える。
  魞の風かほる琵琶湖の橋渡る はる(48年9月号)
○壺春堂庭先の榠樝
  亡き夫が形見の榠樝捥ぎてけり はる(55年2月号)
  榠樝の実欲りし人の名しるし置く はる(56年2月号)

○祭の句・秩父音頭
  見てゐしがいつしかおどる輪の中に はる(51年12月号)
  山梔子の咲けば稽古の祭笛 はる(53年10月号)

○諧謔味・ユーモア性
  柿投げて二階の患者手にうける はる(秩父新聞46年)
  無尽講誰彼欠けしちちろ虫 はる(46年12月号)
  春炬燵昼餉の後の夫蝦寝 はる(46年7月号)
  自転車に干大根のをどりゆく はる(55年4月号)

◇◆妻を想う伊昔紅の句

  鏡台に向ひて今朝の栗を置く 伊昔紅(秩父ばやし)
  老夫婦団扇ひとつを隔て寝る 伊昔紅(秩父ばやし)
  菜を漬けて老妻足の冷えかこつ 伊昔紅(秩父ばやし)
  筍を煮るさへ妻のかくし味 伊昔紅(秩父音頭)
  犬ふぐりおばば年金貯めてをり 伊昔紅(秩父音頭)

◆◇母を想う兜太の句

  狼が笑うと聞きて母笑う 兜太(百年)
  山国や老母虎河豚のごとく 兜太(両神)
  母さんの涼しい横顔黒潮来 兜太(百年)

◇◆「鶴」の句に見る季語の使用頻度数

 「梅雨」が十五回、「榠樝」「笹鳴き」が七回。他は平均して一回から三回だった。
 「梅雨」が多いのは、兜太の言う秩父が山影の地であることからか。秩父の年間日照時間、雲の張り出している時間の長さに因るのかもしれない。
  夫の腰迂闊に起てず梅雨炬燵 はる49年11月号)
  梅雨満月思はず落す蔵の鍵 はる(54年11月号)
  裏山に鳴くは狐か梅雨の果 はる(59年9月号)

◆◇伊昔紅遺句集『玉泉』

 伊昔紅亡きあと昭和五十六年九月に、紺桔梗の布張りの表紙に『玉泉』と刻印された遺句集が上梓された。因みにこの『玉泉』の出版記事は朝日新聞同年九月二十一日号に千侍の写真入りで掲載されている。
 千侍が編集委員長となり、七人の侍の手を借りて作成された。親交のあった水原秋櫻子、石塚友二、篠田悌二郎、及川貞、牧ひでを、加藤楸邨、草間時彦などの玉稿と伊昔紅の薫陶を受けた百人余の作品が収められた。その中には金子家の面々(はる・兜太・皆子・千侍・律子・洸三)の句作も収められている。友二が序文を書き、跋文には兜太が「親たるもの八十五歳までは生きる義務があるということなど」を寄せていた。
 編集後記には千侍ら編集委員の言葉が添えられていた。
 謹んで弟子たちの作品集『玉泉』を伊昔紅先生の御霊前に捧げます
 『玉泉』より
 杜鵑 金子はる
  老人のまた重ね着や戻り梅雨
  榠樝の実欲りし人の名しるし置く
  艶拭きの手先のぬくみ笹鳴ける
  杜鵑夫は日課の小太刀握り
  蔵閉めて立待月と顔合す
  元朝に生れて夫や米寿たり
  蟷螂が夫の位牌の辺にあそぶ
  春雪の積む間もあらず日射しけり
  掌に受けて重き包や寒卵
  春分は母の忌の年となる

◇◆一句入魂のノート

 晩年のはるは、出不精を決め込んでいた。
  籠りゐてけさ気づきける花榠樝 はる(57年9月号)
 居間にいて庭の樹々を見ながら、細い罫線のB5のノートに隙間なく自分の句を清書していた。美文字で一句一句清書してあった。あの数十冊に及ぶノートを手にし、これは精神統一して認めた「写経」ではないかと感じた。

 百二歳まで俳句をずっとノートに書いていました。私の小さいときは、あれほど俳人嫌いだったおふくろです。(今、日本人に知ってもらいたいこと)

 このノートの存在により、はるの余生が俳句と共にあったと確信した。このことは夫が「俳句を生涯捨てない覚悟」と言い切った思いが胸奥にあったのかもしれない。或いは夫と息子たちが生涯手放さなかった俳句を自分も身近に置くことで満たされたのかもしれない。
 いや、純粋に俳句が好きだったからなのだろう。

◆◇百四歳ではるは他界

  母逝きて与太な倅の鼻光る 兜太(日常)
 気力体力で負けることなく、天寿を全うしたはる。秩父の滋味豊かな風土の中で俳句を詠み続けたはる。はるを訪ねて、改めて兜太のこの句が沁みてくる。
  母よりのわが感性の柚子熟るる 兜太(日常)

〈後記〉

 はるが俳句を詠んでいたということを岡崎万寿氏から伺い「兜太に俳句を禁止したはるが俳句を詠んでいた?」という疑念が端緒を開くこととなりました。いかにせん、はるの句集があるわけではなく、資料集めが作業の大部分を占めました。折しもコロナ蔓延の頃と重なったため図書館利用も制限がかかり不便なこともありました。
 しかしながら、調べるにあたって、多くの方のご協力を得ることができ、少しずつはるのデータが、まるで繭玉のように大きく育っていってくれたことで、なんとか纏めることができました。
 『鶴』の現主宰の鈴木しげを氏。ヤマブ味噌の現社長新井藤治氏。小川町の文化財審議委員の吉田稔氏。熊谷女学校の取材をして下さった石田せ江子氏。お孫さんの金子真土氏。金子医院の金子桃刀氏。塩谷容氏(鰻の吉見屋店主)。兜太産土の会のスタッフ(菊池政文氏・根岸茉莉氏・榎本順江氏・山本令子氏・須田真弓氏)。東京多摩現俳協の大森敦夫氏、また安西篤先生、岡崎万寿氏にアドバイスをいただけたことは大きな指針となり、なんとか脱稿することができました。
 遅ればせながら、皆様に深く感謝を申し上げます。

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