『海原』No.47(2023/4/1発行)誌面より◆特別寄稿
俳人金子はるを訪ねて(上)
―秩父山峡に生きる兜太の母― 石橋いろり
皆さんはご存知だろうか。金子兜太師の御母堂金子はるさんも俳句を詠まれていたことを(以後、すべて敬称略)。
夏の山国母いて我を与太という 兜太『皆之』
与太と呼びながらも、母の大らかな愛が滲み出ている掲句を愛吟する人は多い。この句のせいか、はるが俳句をよすがにしていたことを知る人は少ないかもしれない。
*「夏の山国」の句の表記は、句集ではなく句碑や絵葉書などに書かれたものを採用した。
◆◇はるの生い立ち
はるは、明治三十四年三月、埼玉県小川町の濱田篤蔵・さくの間に生まれた。篤蔵は小鹿野町出身。繭で財をなし秩父鉄道(上武鉄道)を創設した柿原万蔵の経営する柿原商店に職を得た。その後、小川町の支店長に抜擢され、小川絹の買継商で財をなしたそうだ。篤蔵は比較的若く逝去し、六歳上の兄篤雄が後を継いだ。
一方、母のさくは小川町の穀物商中村孫七の四人の子の一人で、兄篤雄は、東京の中学を卒業後、銀行員を経て、柿原商店の仕事の傍ら小川町の議員にトップ当選し小川町の政財界で活躍。はるは、地元の尋常小学校卒業後、多分寄宿舎を持つ熊谷の女学校に学んだらしいが、定かではない。嫁ぐまでは、家で花嫁修業し学問も母さくに叩き込まれたという。高い教育水準の環境にあったようだ。
兄篤雄が、宇都宮連隊で伊昔紅と意気投合。こうして、はると伊昔紅の縁が結ばれ、はる十六歳の時、山を越えて秩父に嫁いできた。はるの婚儀で余った資金を社寺に寄付したことが記録に残っているほど、当時のはるの実家は富裕な家で、女中さんを一人連れての嫁入りだったそうだ。
◇◆秩父に嫁いで――壺春堂の句会
兜太の父・伊昔紅の医院「壺春堂」は、今も皆野町に当時の俤を残しており、皆野町初の国の文化財登録がされている。主屋は幕末から明治にかけて建てられ、屋根裏で養蚕をしていた大きな農家。
皆野を流れる荒川に親鼻橋が架けられたのが、明治三十五年。その折に壺春堂は宿として造りかえられた。それより前には、二艘の和舟が親鼻の渡しとして、往来の手段となっていた。現在の橋より少し下流にあったそうだ。親鼻橋開通により往来が増えることを見据えて、宿として造りかえたという。壺春堂の現在の入り口から入った庭の部分に簡単な厨と、母屋との渡しが架けられ、二階に料理が運ばれたそうだ。
昭和元年には、伊昔紅によって住居兼医院に改築された。現在の土間手前半分に待合室と薬局、奥を台所とし、裏口を設けていた。六部屋のうち待合室隣を診察室とし、奥座敷南側を客間(獅子の間)として句会場として利用し、他の四部屋が生活空間だった。祖父母、三人の小姑と三人の連れ子の大家族。熾烈な因習の中、小姑や姑にいじめられた。伊昔紅の学資を稼ぐために働きに出てくれていた小姑だっただけに、伊昔紅は庇うこともできなかったようだ。はるはきつい状況で実家も没落し、孤立無援でひたすら耐え抜いた。
塀白く俯向き堪える夜の母 兜太『金子兜太句集』
この「塀白く」の白の残像が、この句の深い闇を一層際立たせており、「塀」の持つ遮蔽的かつ連続性が果てなき苦境を暗示している。兜太は母の姿を真近で見続け、母への哀切の情が募り封建的家族制度に異論を抱くようになったという。大学での専攻を経済学としたのも、秩父の暮らしを救いたい、とした兜太の反骨の精神が礎にあったのかもしれない。
秩父の俳壇を牽引してきた伊昔紅の元には、養蚕や畑仕事をしている知的好奇心に飢えた若衆が集まってきていた。句会の様子は兜太自身の述懐にある。
天井の煤けた我が家の広間に次々に男たちが集まってきました。その内の一人が各人が選んだ句を読み上げます。楽しそうな大声には時に冗談もまじり、そのつど部屋中に笑いがまき起こります。こんな雰囲気さえそれまでの句会ではありえなかった事でした。 『二度生きる』
そのうちに酒が入ると、全然違うことで取っ組み合いになって、障子は破るわ、襖は破るわ、毎回めちゃくちゃにして帰るんで…… 金子兜太・半藤一利『今、日本人に知ってもらいたいこと』
句会の終わりに必ず酒と饂飩を出した。粉を捏ねて、二十人近い人の饂飩を出すのは、重労働だっただろう。
麺棒抱えて嫁ぎし母の長寿かな 兜太『百年』
この『二度生きる』の引用には、刮目すべき記述が続く。
小学生だった私は横にいてそれを聞いています。他にも、母や出戻りの叔母たち、近所のおばさんたちまでが半分暇つぶしに集まってきて、並んで聞いていました。
金子家にいて、はるは、兜太がそうであったように習わぬ経の如く俳句に親しんでいたことがわかる。兜太には、人に非ずと書く俳人の道に進むことを戒め、医院を継いでほしいと願ったのだ。しかし、はるの中で俳句への興味の種は育くまれていたのだ。正確には四十四年春から、はるは俳句を始めていた。「俳句雑記」と題した手帳が三冊あり、そこに俳句を始める覚悟と取れる言葉があった。
昭和四十四年春より少しづつ俳句の勉強に入る。
秋主人病気全快
千鹿谷鋼泉から本格的にはじめる
◆◇新聞に掲載されたはるの句
昭和三十九年、秩父新聞の一月二十五日号に、宝登山神社の神域に伊昔紅の句碑建立の記事が掲載された。
たらちねの母がこらふる児の種痘 伊昔紅
五月二十四日の除幕式には、石塚友二ら俳句界の有名人も含め一三〇人が参加したと秩父新聞六月五日号にあった。
はるの句は伊昔紅句碑五周年句会にはなかったのだが、六周年の記念句会に初めてはるの句が掲載されていた。
『秩父新聞四十五年六月十五日号』
また一つ京の土産やはもの味 金子はる
伊昔紅翁の講評があり、そのあと句碑建立を撮影した八ミリによってしのび、昨年大病を病んだとは思えぬほど元気な翁の健康を祝した。翁八十一歳。
『埼玉民報四十五年六月二十日号』
長旅によごれし足袋や白あやめ 金子はる
七彩会の会員が呼びかけ、特に今年は愛妻はる夫人や、毎月先生宅で開いている”馬酔木”の会員等も参加……。
この両句、”はもの味”と”長旅に”が、はるの誌上初出の句となった。翌年、秩父新聞に掲載されたのが、
温泉土産の粽を夫と朝餉にす はる(6月25日号)
また、伊昔紅先生叙勲記念句会でのはるの句は、
柿投げて二階の患者手にうける はる(11月15日号)
はるの手帳には叙勲の日のことが詳細に記されていた。
昭和四十六年十一月十二日国立劇場にて伝達式あり文部省より。車で宮場へ。拝謁。主人勲五等瑞宝章受章。豊明殿(230坪)
豊明殿共にあやかる菊日和 はる
賜謁の朝しまる鼻緒やささ鳴ける 〃
山茶花や並ぶ受賞者寫絵に 〃
この頃から、俳句は喧嘩で終わる苦々しいものから日常を詠う楽しいものとして、また、記憶に刻みたいものを形として留める手段として、はるの中で芽生えていったようだ。
◇◆『鶴』への投句の経緯
『鶴』に投句したのは何故なのか。伊昔紅は『馬酔木』、兜太・千侍は『寒雷』。昭和三十七年には兜太が『海程』を創刊していたのだが……。多分、家族と同じ土俵に上りたくなかったのではないだろうか。『馬酔木』ほど耽美的ではなく、『寒雷』ほど人間探求的でない。両方の要素を合わせ持ち日々の生活を題材にする『鶴』がはるには合っていたのかもしれない。伊昔紅が友人水原秋櫻子を通して、石田波郷(元鶴主宰)、石塚友二(当時主宰)と知遇を得ていた。壺春堂にも出入りがあり、それを裏付けるように、壺春堂の襖には三人の直筆の短冊が今も並べて貼られている。
◆◇『鶴』主宰の石塚友二との関係性
思いきやまかりて一夜雛の間 友二『石塚友二句集』
これは、壺春堂の襖の友二の短冊で、昭和十八年春、浅賀爽吉の出征送別会に壺春堂に泊まった時の挨拶句。浅賀爽吉とは、伊昔紅の門下の七人の侍の一人であり、「鶴」秩父支部の会員でもある(七人の侍とは秩父七彩会の母体で、浅賀爽吉・潮夜荒・江原草顆・黒沢宗三郎・村田柿公・渡辺浮美竹・紅梓の事。余談になるが、皆野駅前の鰻の吉見屋の先代が潮夜荒で、伊昔紅の信頼篤く、多くの貴重な色紙などが二階の広間に展示してある)。
この時、秩父は月後れの雛祭りだった。この時のことを友二は『秩父ばやし』の跋文で「調度品が志那色一色の座敷に、床しくも立派な雛壇が飾られ、優雅な古代雛達と共に一夜を明かした」と述懐していた。
また、『石塚友二句集』(「鶴」七百号記念刊行)には、
壺春堂先生も座に菊膾 友二
が掲載されていた。友二との関係性は、伊昔紅の句集『秩父ばやし』の跋文「壺春堂翁と私」で友二が縷縷述べており、その後記で伊昔紅は、
「この句集を編むに当って、秩父人と最も友好接触の深い石塚友二氏が、刊行の一切を引き受けて下さったこと、更に暢穆達意の跋文を以て、巻末に千鈞の重みを加え得たことを深く感謝いたします」
と謝辞を述べていた。
また、それから九年後に上梓された伊昔紅の第二句集『秩父音頭』の序文「縁に因みて」も友二が書いており、その間も交誼があったことがわかる。その序文で、友二は、医師伊昔紅・金子元春は山本周五郎の赤ひげ先生を彷彿すると描写していた。
こうして、夫の絶対的信頼を得ている友二の人となりをはるも十分知った上で友二を師に選んだのだ。
◇◆『鶴』への投句と特選句
はるは、俳句誌『鶴』に四十六年三月から十五年間殆ど欠稿なく投句した。掲載句以外に毎月五句ずつ投句したとすれば、九百句程作句していたことになる。投句はすべて、はるのノートに克明に記録されており、掲載句にはきちんと入選の「入」が付記されていた。
親父が死んだ後、母親は投句中心に始めたんだけど、巻頭句つまり優秀作だな、これにはなったことがなかった。 『日本人に知ってもらいたいこと』
兜太のこの述懐はいささか事実と異なる。俳句を始めたのは、伊昔紅没年の五十二年ではなく四十四年春から。四十六年三月の『鶴』三一号が初掲載なので、投句は四十五年十二月には済ませていたはずだ。
『鶴』の巻頭句「特選句」に選ばれている。
白木蓮や牛小舎飼屋抽ん出てはる(47年7月号)
主宰の友二の特選句の句評も寄せられていた。
牛小舎は兎も角、飼屋といへば、多く二階建ての高い家屋のやうである。その、牛小舎を控えた飼い屋を抽ん出た木蓮だから、大木ぶりも自ら想像出来ようといふものである。また従ってその花の豊かさをも。そして、中天に枝を拡げてその豊かに咲き誇る木蓮の花の、紫でなく白であることが、この句を頓にも匂ひ高いものとしてゐる。牛小舎飼屋の前景も効果的だ。(『鶴』47年7月号)
◆◇伊昔紅とはるの関係
夫は一回り上の丑年だった。
豆を撒く共に丑年老夫婦 はる(48年5月号)
医師で、秩父音頭や秩父文壇を牽引していたカリスマ的な伊昔紅に尊敬の念を抱いていたのだろう。小姑達が出ていき、子育ても終わり、三十七年、兜太は『海程』を創刊。翌年千侍が金子医院を継ぎ病院を開業した。
還暦を迎える頃になると、生活は落ち着いてきたようだ。
元日の生みたて玉子夫の掌に はる(49年9月号)
朝日煙る手中の蚕妻に示す 兜太『少年』
兜太が妻皆子に大事そうに蚕を見せたように、はるは、元日に生みたて玉子を夫の掌に渡している。玉子のぬくもりごと手渡したのだろう。一年で最も寒い季節の寒中の玉子は特
に滋養豊かという。正確には小寒から立春までを寒中と言う
ので、「寒卵」を季語に立てなかったのかもしれない。
元朝に生れ来て夫や米寿たり はる(54年4月号)
掲句から、元日が伊昔紅の誕生日だったことがわかる。そう考えると、
蕗の薹掌にのせ妻の誕生日 伊昔紅『秩父音頭』
との相聞歌ではと紐解きたくなる。
俳句作りにおいては、夫を師とし作品のチェックを受けたこともあるようで、それは手帳にもノートにも、その痕跡があり、夫の評価、◎、〇、△などが付記されていた。
〈次号の(下)につづく〉
*本稿は「海程多摩第二十一集」(2022年)に掲載された同一タイトル「俳人金子はるを訪ねて」を入稿した、2022年7月以降に入手した資料を参照しつつ、加筆・修正したものです。