俳人兜太にとって秩父とは何か⑥最終回 岡崎万寿

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

新シリーズ●第6回〈最終回〉

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

 ㈥ 秩父に発した俳句と哲学

 ⑴ 兜太の思想体系とその俳句

 見るとおり俳人兜太の思想・哲学の探究は、老子・荘子からマルクス、安藤昌益、サルトル、ハイデッガーに至るスケールのもので、広くて深い。そして人生的である。
 驚くことは、それらを取り込んで、産土秩父の体験に発した自らの「土の思想」を、「アニミズム」「生きもの感覚」「定住漂泊」「天人合一」「存在者」といった、より普遍性、具体性をもった独自の思想体系にまで仕上げ、その俳句・俳論に結実させていることだ。先に取り上げた中世の安藤昌益の「土の思想」に対して、まさに現代に生きる金子兜太の「土の思想」と言えよう。
 ここでは試論として、その特徴を三つに簡明にまとめておきたい。
 第一は兜太生来の「土の思想」を、宇宙を大きな生命体と見る「アニミズム」と一体化し、進化させている点である。もともと兜太の「土の思想」自体が体験的で、「『土』をすべての生きものの存在基底」(『東国抄』あとがき)と思い定めるものだったが、その当然の発展として、宇宙すべてのものが生物・非生物を問わず、石ころまで霊魂(アニマ)を宿し流れている、というアニミズムの世界へと深まっている。
 その思想状況を知る上で、兜太が秩父を、特に「産土」と言うことをめぐって、俳人で哲学者の大峯あきらと、「俳句」(二〇一六年七月号)誌上で交された遣り取りが面白い。

大峯:僕の故郷の吉野を産土と言うのはよく分かるんだが、俳句を語るのに産土がなぜポンと出てくるのか。科学技術化した現代は産土なんて感じられなくなった時代です。恐らく現代の俳人たちはほとんど産土なんて感じは持てないのではないか。

金子:俺の場合は、四十代半ばくらいかな、……熊谷に住むようになった。熊谷から秩父まで約十キロです。そこで分かったのが「土」ということでした。産土を支えているものが土だ。その土への親しみ。土というのが自分の中で力として高まった。これがまさにアニミズムだ。いわゆる「存在」ということの体感であると、そう思ったのです。それで作った句が、〈おおかみに螢が一つ付いていた〉です。(中略)
妻の皆子と一緒に秩父を往復するようになって、土、特にふるさとの土に異常な体感を覚えました。

 ここで注視したいのは、産土の概念についての、両者のもつ感覚の違いである。大峯あきらが、現代の俳人たちの薄らいだ産土感一般で発言しているのに対して、兜太は「体感」、それも「異常な体感」という言葉で、産土・秩父の土から受ける自らの実感から語っていることである。トラック島戦場でも、産土神(お守り)に加護されたという生死の体験が、三、四回あるという。
 そして兜太はその実感的な「土の思想」が、アニミズムや生きもの同士を感じ合う「生きもの感覚」を養い、次第に俳句の映像にまで高まってきたという進化の経緯を、いくつもの著書で平明に語っている。

 土の上で、自分の考え方は次第に固まっていきました。土への思いがまず深まり、そのなかでさらに“生きもの感覚”への思いが深まっていきました。
 土の塊として、私に真っ先に立ち現れたのは、幼少年期を育った秩父という山河・山国です。この山国が私の
産土うぶすなであり、この産土の土が、私にとっての「アニミズム」、“生きもの感覚”の養いの母である、と思うようになりました。……産土の土のことを考えるプロセスのなかで、そこから生まれ、生きていった人びとは、たとえば狼とか狐とか狸とか猪とか蛇などに、だんだん重なってきます。彼らが浮かび出てくるわけです。
 彼らが浮かび出てくることによって、それが私の俳句の栄養にもなり、映像にもなってきた、とはっきり言えます。私の七十歳代から八十歳代の句集の基本には、そういった経緯があります。(『荒凡夫一茶』)

 これで、大峯あきらが対談で、「俳句を語るのに産土がなぜポンと出てくるのか」、といった疑問も氷解できよう。兜太の「土の思想」は、ここに来て明確に「土のアニミズム思想」といえるものに進化したのである。そこで作られた俳句を、兜太の七十代八十代の句集『両神』『東国抄』から、五句だけ挙げる。

  蛇来たるかなりのスピードであった(『両神』)
  春落日しかし日暮れを急がない(同)
  鳥渡り月渡る谷人老いたり(『東国抄』)
  おおかみに螢が一つ付いていた(同)
  小鳥来て巨岩に一粒のことば(同)

 これらの作品には、兜太の哲学「土のアニミズム思想」が背骨に据り、自然と人間兜太が新鮮に交流し合っている感がある。「おおかみ」の名句は後で詳述することにして、最後の「小鳥来て」の句。秩父山峡か、むしろ原始の内面風景のほうが面白い。小鳥一羽がやって来て、そこにでんと存在する巨岩に止まり、チィと一声。その「一粒のことば」のアニマと、巨岩のアニマが交感、相互貫入する一瞬のこと。それを全身で感応する兜太が、そこに居るのだ。
 第二は、その兜太の「土のアニミズム思想」を基本に、生涯の課題としてきた「自由とは何か」「人間とは何か」「どう生きるか」といった思索の成熟と重なり、一つの思想体系に融合して、「土の総思想」あるいは「土の思想体系」と言える哲学にまで、深化している点である。
 先の「兜太という俳人の今日的人間考察」で紹介した『兜太俳句日記』をもって、その到達点を再確認しておきたい。一九八九年の同じ七月、兜太六十九歳の時の日記である。

七月六日
自己の哲学を確認し、そして句。すると充実して物が見えてくる。

七月十八日
哲学を繰りかえし嚙み確かめる。芭蕉を語る昨今、小生のうちに固まってきた世界は、天然(人間を含む)との共存(ともに流れる、ともに交響する)ということ。季節など小さい。存在ということも体感できてきた。句作り専念ということ。この哲学を嚙みつつ句を作れ。

七月十九日
小生のなかに、〈天然と一体化〉の思想がますます熟している。

 そして俳人兜太が、己の人生課題としてきた自由(存在)論、人間(本能とエゴ)論、生き方(態度)論などが、渾然一体となって成熟していくプロセスについても、闊達自在に語り尽くしている感がある。少しダブルが兜太の生の言葉をもって、リアルに考察することにしたい。

『私の履歴書』(「日経」一九九六年七月)
 わたしの考えが、「社会性」から「存在性(そして存在)」へと移るのもこの時期(引用者注・一九六七年熊谷へ転居以降)。存在を見詰めて、〈原郷〉、〈漂泊〉とか〈定住漂泊〉、さては〈純動物〉とか〈アニミズム〉といった自己流の言葉や解釈を作り出して書きつづけたのも、この時期。ここから、小林一茶、種田山頭火、尾崎放哉への強い関心が更に育つ。

『わたしの骨格「自由人」』(二〇一二年刊)
 人間および万物の存在の美しさ……結局は存在ということの美しさ、確かさ、それがオレの求めていることになるでしょうね。さっきの自由人でありたいとか、そういうことも一緒にあるわけですけれども、根本で求めているものは何かと問われれば「存在」です。その存在をたしかに支えてくれているのが土。
 だから、土と存在というのはわたしにとってはイコール。したがって、存在の根っこは産土神秩父ということになるのですけどね。

『荒凡夫一茶』(二〇一二年刊)
 私はかつて「定住漂泊」という言葉を使いました。その時期はちょうど長年の勤めを終え、いまいる熊谷に定着したころと重なります。先ほど述べた「人間は流動的だ」という思いのなかで、妻と北海道を旅行したとき、
  海とどまりわれら流れてゆきしかな
という句をつくったころです。忘れもしません、オホーツク海岸を歩き、この句を詠んだときに「定住漂泊」という言葉が出てきたのです。……「定住漂泊」とはまさに、「流動する」人間の姿です。(中略)
 人間は“原郷”指向をもっているけれども、「定住」の生活をしなければ食べていけない、……そのために“原郷”指向はつねにうろついている。それが漂泊の姿である。

『他界』(二〇一四年刊)
 すると少しずつわかってきた。……「本能にはどうやらふたつの触角がある」らしいってことです。……普段は愚の塊ですから欲にどっぷり触れている。ところが、その本能が何かの拍子にひょいと非常に美しいものに触れる時がある。……「原郷」、アニミズムの世界というものに触れている瞬間です。(中略)
 その原郷を求める心を、わたしは「生きもの感覚」と名づけました。(中略)
 それからわたしは“自由人”という言葉を盛んに言い出し、考えるようにもなる。そして、ご承知のとおり一茶の「荒凡夫」なんていうことに注目した。自分は野暮で馬鹿な人間だけど、野暮で馬鹿な人間のままに生きたい、と言う一茶とわたしと非常に肌が合う感じがするのです。

 長い引用となったが、兜太の成熟した哲学・思想体系の多角的な全容をつかむには、これだけは必要だと思う。兜太自身、この時期の己の哲学について、論理的なまとめ方はしていない。むしろ俳人らしく、自己流の用語を使って、その鮮明な映像をもって俳句に表現している。

  谷間谷間に満作が咲く荒凡夫(『遊牧集』)
  存在や木菟みみづくに寄り添う木菟(『両神』)
  定住漂泊冬の陽熱き握り飯(『日常』)
  言霊の脊梁山脈のさくら(同)
  質実剛健自由とアニミズム重なる(『百年』)

 うち一句目だけ一と言。秩父の谷間のあちこちで咲く早春の花まんさくは、鮮黄のひも状のねじれた花弁が、枝先にかたまるように咲く。その様子が兜太には「ほおかぶりをして豊年満作の踊りでもやっている感じ」に見え、「荒凡夫」という言い草が、この花によく合うと思った、と言う。
 第三は、そうした兜太の哲学・思想体系が、それ独自に存在するものでなく、あくまでも己の俳句・俳論の土台、背骨となり、一体となって、作品の奥行き、風格として開花、結実している点である。それこそ「オレが俳句だ」と言い切った、俳人兜太ならではの内面の深め方であり、その哲学・思想体系の有り様だと思う。
 先に紹介した作家・歴史家の半藤一利との対談でも、ずばりこう語っている。

 結局、自分自身がどうあるのか、いや、「どういう認識のもとに、どういう哲学を持つことが一番自分を生かす道なのか」……「自分の胸の内はこうだ」ということを俳句を借りてさらけ出すことに意義を感じていたんです。(『今、日本人に知ってもらいたいこと』)

 したがって兜太の思想体系は、文字通りの構造性を持ち、俳句・俳論を上部構造として、それを支える「土の思想」全体が下部構造となり、両者は相互に深く関連しつつ弁証法的に進化する仕組みとなっている。俳人兜太はそう思考し、そう生きてきた。この兜太の思考方法については、兜太研究の第一人者である安西篤が、その著『金子兜太』でこう考察している。

 兜太は、その流れを俯瞰しつつ、問題の基底部分に目を向ける。これは兜太の発想の特色といってよいほどのものだが、つねに問題の下部構造から弁証法的に認識を展開してゆく。しかも、その認識に人間の、いや肉体の裏づけを忘れない。(中略)
 兜太の俳論は、その生き方をふくめた一貫した存立構造をもつ一つの系のように見えてくる。その系は独自の論理体系をもちながら、決して内部に閉じようとするものではなく、外部に開かれた柔構造をもつ。

 そうした思想体系の成熟の流れとあわせ、兜太の俳句も、作品としての円熟した深み、新しみや、得も言えぬ俳諧の味わいを見せている。その兜太山系にそびえる秀峰の峰々を、私なりに確認しつつ、八十代『東国抄』までの五句を挙げておこう。「おおかみ」の句が何回も登場するのは、次節への布石と見ておいてほしい。

  ぎらぎらの朝日子照らす自然かな(『狡童』)
  霧に白鳥白鳥に霧というべきか(『旅次抄録』)
  梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』)
  冬眠の蝮のほかは寝息なし(『皆之』)
  おおかみに螢が一つ付いていた(『東国抄』)

 ここでは朝日子、つまり太陽までも同じ生きもの同士。「土」に発したすべての存在の有り難さ、美しさ、生々しさ、無気味さ、そして孤独さが、時空を超えた詩の世界に、みずみずしく映像化されているのだ。まさしく秩父の自然児、金子兜太独自の俳句世界である。

 ⑵「おおかみ俳句」の新考察

 いよいよ兜太の生涯的名句といえる

  おおかみに螢が一つ付いていた

について、突っ込んだ考察をするところへ来た。その句碑は、兜太の産土神であり、秩父困民党軍の蜂起の地、皆野椋神社の境内に、でんと建っている。その除幕式は二〇一四年四月、兜太九十四歳の春のこと。そこでの兜太の挨拶が、この句に込めた兜太の真意をずばり語っている。

 私は運に恵まれ、守られて今日まで命ながらえております。戦地に赴くとき、母親が千人針で埋めたさらしの布に、ここ椋神社のお守りを収めて手渡してくれました。私がトラック島から生きて還り、今日まで元気でおられるのは産土の椋神社のお陰です。トラック島での日々、餓死者がつぎつぎと出てくる状況の中で、ときどき夢の中に、ボーッとかすかな光が現れます。蛍だ。皆野の蛍だと思いました。
 昔から土地の人たちは両神山りょうかみさんを敬まい、この山には狼がたくさんいたと言われています。土地の人たちが狼を龍神りゅうかみと呼ぶとも聞いていました。この句は産土への想いと私の若き日の戦場体験、この両者の上に恵まれた句です。(『語る兜太』)

 さて、小論「俳人兜太にとって秩父とは何か」の結びとして、この「おおかみ俳句」を取り上げたのは、この一句に秩父と兜太と俳句がみごとに融合し結実した、次の三つの要因を、しっかり確認しておきたいからである。
 第一に、この俳句こそ、兜太が求めてきた秩父の「土の思想」が、アニミズムの独自の哲学・思想体系として成熟し、その全人間的な円熟の上に、産土秩父の象徴として時空を超えた「おおかみ」を発見、それを己の「生」のあり方として映像化した作品だ、ということである。その必然ともいえる成り行きを、ずばりこう明言している。

 「おおかみに螢が一つ付いていた」は、まさに自分の今言った考え方が熟してきた、自分の体のものになった、そのころにできた句です。(『いま、兜太は』)

 さらにその、「おおかみ俳句」を詠んだほぼ同じ時期に、自らの内面を見据え、こうも書いている。

 そして、細君の忠告が「存在の基本は土」の思念を信念にまで高めてくれた、ということだった。その後、その信念に立って、わたしは、「生きものの存在の原始」を見届けたいと願ってきた。……
 わたしは狼を見つめてきた。「狼の生」を見定めようとしてきて、気付いてきたことがある。それは、かれの生は見事に空間のものであって、そこには時間というものがないということだった。生れ、生き、そして死ぬ、ほしいままに山河を跋渉して生き、そして死ぬ。(中略)
 わたしは、この時間意識を越えて、「狼の生の空間」を自分のなかに獲得したい、と願うようになったのです。「生そのものである生」の獲得。その限りない「自在さ」。(「〈かたち〉と自己表現」「海程」一九九七年十二月号)

 この瞬間、兜太は産土の「おおかみ」と、時空のない「生そのものである生」に同化しているのである。
 第二に、この「おおかみ俳句」が作句方法の上で、己の俳句作りの基本としてきた造型(映像)俳句を、より存在的に、秩父そのもの、いのちそのものの「生」を暗喩、映像化した、刮目すべき到達点を示していることである。
 兜太が幼少のころから、よく耳にしてきた秩父山河に生きていた狼のイメージと、トラック島戦場で、時折夢の中にかすかな光として現れていた秩父の蛍が、奇しくも、そしてみごとな配合で、存在感のある俳句表現となった。この句碑の除幕式での兜太の挨拶にあるように、その蛍と狼は産土神のお陰、いや兜太の内面では、産土神そのものであったかも知れない。
 同じ時期に書いた、先の「海程」評論で兜太はこう語っている。「感の昂揚」の大切さである。

 基本に感動の盛り上がりがあってものを掴まえたときは、素晴らしい。……「感の昂揚」を俳句作りの土とするということは、五七調最短定型の韻律と微妙に且つ十分に重なる。詩は叙情を基本とし、定型詩の韻律はとくに叙情で決まる。その叙情の質を「感の昂揚」が決めるのだ。

 兜太の「おおかみ俳句」には、この「感の昂揚」がものすごく高まった背景があったに違いない。
 第三に、この「おおかみ俳句」の作句の経緯を見ると、兜太は同じ秩父皆野の詩人・金子直一の詩集『風の言葉』の中の「狼」という長い詩を読んで、ショックを受け、その「感の昂揚」のまま、「ある日、突然、わたしの中にオオカミが跳び出してきた」(『他界』)という、秩父らしいドラマがあることである。
 その秩父ドラマの時期を、私はたぶん一九九七年十、十一月頃ではないかとみている。兜太はその内面の真実を、各所で語っている。たとえば「三田文学」(二〇〇四年冬季号)の特別企画「私の文学」で。

 それを読んでまたショックを受けた。あっこれだという感じがあって、数日後に狼が私の映像のなかに飛び出してきたわけです。
 それまで私は、秩父と狼、産土と狼という結びつきはあまり意識していなかったんです。それが彼の詩を読んでわかってきた。……その守り神から産土が出てきて、産土のなかには私がそのときははっきり想像していなかった大神、竜神のような存在があった。そういうイメージの連続で、最後は直一さんの詩の言葉によって気づかされたということになる。

 また季刊「やま かわ うみ」(二〇一二年秋)の巻頭インタビュー「金子兜太『生きもの感覚』俳句渡世」でも、その瞬間をよりリアルに、こう述べている。

 私は直一さんに私淑していましたから、直一さんの詩を読んで、ニホンオオカミというのを念頭に置くようになりましたね。(中略)
 ある日、朝起きた時、ふと目の前にオオカミが現れまして、「おおかみに螢が一つ付いていた」という句を作ったんですね。オオカミに触れた時に、なんか私の中でほおーっと明かりが灯ったっていう感じがした。オオカミと私との生々しい感覚の繋がりができたというか、繋がりを感じました。それ以後、私のなかで産土の象徴みたいな感じでオオカミが存在しています。

 ところで、この「おおかみ俳句」の初出は、「海程」一九九八年二・三月号である。同句を収めた第十三句集『東国抄』には、以来二〇〇〇年一月号まで随時発表された「狼」俳句二十句が、まとめて収録されている。うち兜太が『自選自解99句』で取り上げた三句を挙げると

  おおかみに螢が一つ付いていた
  おおかみを龍神と呼ぶ山の民
  狼生く無時間を生きて咆哮

 三句目のこんな自解に、注目してほしい。

 狼は、私のなかでは時間を超越して存在している。日本列島、そして「産土」秩父の土の上に生きている。「いのち」そのものとして。時に咆哮し、時に眠り、「いささかも妥協を知らず(中略)あの尾根近く狂い走ったろう。」(秩父の詩人・金子直一の詩「狼」より)

 金子直一とのこと
 兜太の『俳句日記』には、その直一とのことが二回ほど記されている。一回目は一九七二年十月六日。秩父事件の実地調査で「途中で金子直一先生を(車に)乗せ…」と、一泊二日の同行をしている(小論第2回・96頁参照)。そのことについては『俳句専念』の「私の履歴書」の中に、こう書いている。

 秩父事件について朝日新聞「思想史を歩く」に書く機会を得たのも縁。秩父から信州佐久を、郷里の作家金子直一氏と歩くことができ、秩父の人と山影がわたしの体に染みた。

 二回目は直一氏逝去の報である。「一九九一年十月二十七日雨、かなり強く一日中金子直一氏死去のこと千侍より。」
 次は、兜太著『中年からの俳句人生塾』(二〇〇四年刊)の中でのこと。「アニミズム」の項で、根っからの「自由人」だった、先にも書いた旧制水戸高校時代の出沢珊太郎先輩と長谷川朝暮先生などに続いて、「その秩父に、これもなつかしい日本人の一人、金子直一氏がいた」と、突然、直一が登場している。本を書きながら、ふっと浮かんだのだろうか。

 (彼は)高校の英語教師で、小説や詩を書いていたが、「岩に対す」という詩が思い出される。氏にとって、「岩は土のもと」だから、「岩こそわれらのはじめのふるさと」だった。「われらは土より出でて土に帰る」しかし「ついに岩に帰る」ことはないから「岩にあこがるるなり」。「われら生ぐさきゆえ/岩に向かいてこころ驚くなり。/谷川のしぶきに濡るる/大いなる岩に向かいて涙するなり。」

 見るように兜太にとって直一という秩父の詩人は、同郷の親戚筋というだけでなく、心通う「忘れえぬ人々」の一人であったのである。生き方の基本点で、不思議に秩父人らしい共通項がある。

 ① 二人とも秩父皆野生まれの東大卒。本職でない文学への強烈な志向をもち、生涯を貫いている。しかもその志向の原点も終点も秩父。その山河と人間、「土」「岩」「狼」にあった。
 ② 二人とも郷土史の秩父困民党事件について、熱い関心をもち真剣に調査、研究を続け、兜太は俳句と評論、直一は詩と小説(「一茶の花」「土蔵」「総理と金」など小説集三冊)を残している。肝要なことは二人とも、権威にまつろわぬ、その抗う精神を、自らのものとしていたことだ。
 つまり金子直一という名前は、俳人の間ではあまり知られていなかったが、兜太にとっては人間として「ひそかに尊敬」「私淑」「信愛していた詩人」であったのである。その直一の詩「狼」がヒントとなって、兜太の「おおかみに螢が一つ付いていた」という名句が誕生しようとは――兜太は「運命です」と言うに違いない。

 筑紫磐井評論のこと
 「海原」二〇一九年十二月号に、俳人・評論家で「兜太TOTA」の編集長でもある筑紫磐井の特別論考「兜太は何故おおかみの句を詠んだか――兜太文学の本質と秘密」が掲載(「藍生」同年九月号より転載)され、新鮮な話題を呼んでいる。私自身、ちょうど小論の執筆準備中であり、むさぼり読んだ。そして二つの面で有難く参考にした。
 一つは、直一のその「狼」詩の全容があきらかとなり、兜太がなぜ「ショック」を受け、感動し、「おおかみ俳句」誕生の切っかけとなったかが、感覚的に鮮明となってきたことだ。少し長いので一章、終章を割愛して、行を詰めて紹介させていただく。

けわしい岩肌の目にしみる山の、/そのどこかにむかし狼がいたという。

おおかみ、またはりゅうかみ。/竜のあおい鱗を/山犬のきびしい姿体によろい、/耳までさけた口は常にうえ、/いささかも妥協を知らず、/他をうたがい、己れをうたがい、/それゆえ他をくらい/自れをくらい、/青土色の孤独となって、/あの尾根近く狂い走ったろう。

岩ひだに滴る滔々の清水に/しばらく狂気をしずめたろう。深い、もっと深い/真実の谷はどこにあるのか。/けわしい、もっとけわしい/山そのものと言うべき高所はどこにあるのか。

こらす瞳は血の如く悲しみ、/怒らす牙は山てんの星を映したろう。けれどもついに空しかった。牙はボロボロの骨片と化し、/瞳は焦点を二度とむすばぬ――

 ――私も感動のまま、この詩を繰り返し読むうちに、その狂い走る狼の映像とともに、「山影情念」の真直ぐで強情な秩父人たちの表情や、貧しさのあまり蜂起した秩父困民党の人びとの姿が、次々に重なり浮かんできた。そしてこの直一の詩は「狼」を詠みながら、その真意の底に、同じ産土に狼とともに耐え生きてきた秩父人そのものを、表現しているのではないか、とも感じた。
 兜太が産土の自覚を深めるなかで、はっと気づいて、この直一の詩集を読み、イメージを連続させ、ある朝、ふっと狼の映像が飛び出し、この「おおかみ俳句」に結実したという経緯が、生々しい感覚で分かってきた気がする。
 そう言えば秩父の狼たちは、明治政府によって軍馬保護のためみじめな犠牲にされた。困民党も同様、明治政府によって惨い弾圧、処刑にされ、秩父ではその事件を口にすることさえ憚られた。秩父の狼も困民党も抗い、そして消滅させられたのである。その孤独さ。
 筑紫評論で参考になった二つ目は、直一没後七年目の「文芸埼玉」第六十号(一九九八年十二月)に、兜太が「人間として親愛」する直一の、奇行と「反骨」如実のエピソードを綴った、「金子直一粗描」という回想録を書いていることを、長い抜粋を交えながら紹介されているところだ。
 「とにかく承知していることをすべて書いて、金子直一という人間が存在していたことを世に伝えたい」というのである。反骨の秩父人同士、なるほど兜太らしい、懇ろな心遣いだと思う。
 最後になったが、筑紫評論の本命は次の言葉である。

 言いたいことは、直一の「狼」はこうした秩父事件以来の反骨の精神が生み出したものであり、また兜太の狼の句は、直一の「狼」の思想を引き継いだものに違いないと言うことである。

 その通りだと思う。小論でもその真実を、さまざまなデータをもって証明してきた。
 そこで残る問題は、筑紫評論が、兜太が直一の「狼」詩を読み、あ、これだと「おおかみ俳句」を作ったのは、一九九六年五月、日本詩歌文学館賞受賞の折、訪れた北上市の高橋盛吉市長が、たまたま直一の教え子だったことから、語り合いが進み「直一の再認識」をしたことが、その切っかけだった、と推定している点である。
 話は面白いが、兜太にとって「忘れえぬ人」だった金子直一について、そうした推定の前提として、「なぜならば、直一はすでに平成三年に亡くなって記憶から薄れていたにもかかわらず」という、判断を据えていることは、いかがなものか。
 そうした偶然の可能性を否定するつもりはないが、しかし兜太の「産土の自覚」の深化の中で、秩父―産土―「龍神」―直一―「狼」詩(抗い滅びていった狼のイメージの獲得)―「おおかみ俳句」といった意識の自然の流れ、その必然といえる過程がありうることも、十分に想像できる。小論はむしろその可能性を、実証的に探求してきた。
 いずれにせよ、近くその時期のことが記された『金子兜太戦後俳句日記』第三巻が刊行されるので、その機会を楽しみに待ちたい。
 全体として筑紫評論が、俳人兜太の存在を正確に、そして興味深く探る上で、積極的な意味をもっていることは言うまでもない。筑紫評論に刺激され、句集『東国抄』を改めて読み直した俳人もいる。これを機会に兜太の俳句論、人間論が、さらに活発化することを願っている。
 筑紫評論は冒頭に、この兜太の「おおかみ俳句」が、俳句総合誌「俳句」(二〇一九年五月号)で、その俳人アンケートで、平成俳句のベストテン中、飛びぬけて第一位を占めていたことなどを紹介し、「平成の俳壇は金子兜太によって築かれたように見える」と称賛している。

 この現代俳句の巨匠であり、秩父の自然児、自由人であり続けた金子兜太が、他界の後も時を超えた存在となって、これからの時代に生き親まれ続けることを、真剣に興味いっぱい見届けたい、と切に思う。 (完)

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