俳人兜太にとって秩父とは何か④ 岡崎万寿

『海原』No.24(2020/12/1発行)誌面より

新シリーズ●第4回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

㈤ 産土から――「土の思想」の深化

⑴ 妻・皆子と秩父の「土」

 金子兜太の句集には、ふるさと秩父の句と並んで、いわゆる愛妻句が多い。兜太自身、堂々その姿勢を述べている。

 四百句(『現代俳句全集』のための自選句)を書き抜いてみたら、秩父の句にはじまり、秩父の句に戻る結果になってしまった。(中略)
 私には、妻ということばを読みこんだ句が多く、妻俳句をたどることによって、自分史が書けるようにもおもっているほどである。(飯田龍太等編『現代俳句案内』)

 そうした数多の妻俳句の中から、ここでは兜太の生涯的な作品だと思う三句を、私なりに挙げる。

  朝日煙る手中の蚕妻に示す(『少年』)
  夕狩ゆうがりの野の水たまりこそ黒瞳くろめ(『暗緑地誌』)
  雪の夜を平和一途の妻抱きいし(『百年』)

 一句目。兜太はトラック島から帰国した翌一九四七年四月、同じ秩父・野上町の眼科医の娘塩谷みな子(後日、俳号皆子)
と結婚した。この句は、皆野町の実家で初夜を過ごし、翌朝、二人で晩春の畑径を歩いてその途中、親戚の農家の飼屋に立
ち寄ったときの作である。
 当時、養蚕は「おこさま神さま」と言われた秩父農家の大事な生業。その蚕を掌に包んで「これが秩父だよ」と、新妻に示した。この「妻に示す」という表現が、この句の眼目である。「蚕を示すことが、妻への親しみの証であり、これからの生活への意思表明でもあった」(『現代俳句案内』)と、兜太は言っている。「朝日煙る」、なんとも清新で生命感に満ちた抒情の秀句だと思う。
 二句目について、これが愛妻句であることは『金子兜太戦後俳句日記』(第二巻)を読んで、初めて判った。その全文を紹介する。

 一九九三年(三月二十九日・73歳)
 結局、いまにして思えば、小生を支えてくれたのは、〈土〉と〈妻・皆子〉だった、と。
  夕狩の野の水たまりこそ黒瞳
 この句は皆子をうたったもの。二人で家族をつくりあげてゆくという基本作業があったこと。いつの日か、『むしかりの花』(皆子第一句集)の句を挙げつつ、二人の来し方を書いてみたい、と思い定めている。

 この句の初出は「寒雷」一九六八(昭43)年六月号である。確かに同年三月二十一日の『俳句日記』には、「毎日新聞の句の題を“暮狩ゆうがり”とほぼ決め、一寸したひらめきあり」と記入し、翌二十二日には「車中、茂吉の『万葉秀歌』。〈古代的声調〉ということについて考える」と書いている。
 その前年の七月に兜太は、妻・皆子の「土の上にいないと、あなたは駄目になります」という、つよい希望に応じて、秩父に近い熊谷に転居した。そして日夜、秩父の「土」を感じつつ、土と親しみ土に根を据えて、人間と自然を見定める暮らしに変わった。それは俳人兜太にとって、人生の大きな節目となる出来事だったのである。その時期、兜太は感謝をこめ、俳句で「皆子をうたったもの」だろう。
 しかしこの句が、兜太の妻俳句だという理解は、一般には薄かったと思う。兜太の「自句自解」(『中年からの俳句人生塾』『自選自解99句』など)でも、そうは書いていない。たとえば――。

 わが家は、北武蔵の野の一隅にあり、散歩もする。そして、夕暮れどきの野に、水たまりが「黒瞳」のように見受けられたこともあった。夕空を映していたのだろう。私は若い頃「万葉集」の「朝猟に今立たすらし夕猟に今立たすらし」の歌句に惚れて、朝猟夕猟の語を覚えていた。そし
て、野の水たまりに「黒瞳」のようだと感応したあと、これこそ夕猟(狩)のときに見受けられたものだろう、と思ったのである。夕狩に立つ人たちを見送る黒瞳。(『自選自解99句』)

 兜太のこと、『俳句日記』に書いたその句の内意は、妻・皆子にも話していないのではないか。それは含羞というより、兜太という男の美学かも知れない。
 三句目。兜太は妻・皆子の遺句集『下弦の月』(二〇〇七年刊)の「あとがき」で、見合いで「一目惚れ」し、結婚五十九年に及ぶ二人の生活・活動を軸に、皆子の全人生を温かくまとめている。そして「妻逝きて十一年」の二〇一六年、妻が秩父から運んで植えた花梨の実の熟す頃、「妻よまだ生きてます武蔵野に稲妻」の句で結ぶ、連作「亡妻つまと平和 十二句」を発表している。掲句はその一句。
 抱きしめる「平和一途の妻」、その皆子自身にも戦時体験があり、長兄(陸軍軍医)はシベリア抑留、従兄はフィリッピン沖で戦死している。その傷みをたおやかな感性で受けとめ、第三句集『山樝子』(二〇〇二年刊)の「あとがき」で述べている。

 戦死した従兄たちのことは、現在の私の感性の中に涙と共に立ち上り、思いや土の匂いを手渡してくれるのです。(中略)私の来し方の歴史の中には、広島や長崎に原爆が落とされた日のこともまざまざとあり、冷静に語り継ぐべき責任をも、しきりに覚える昨今です……。


  戦争いくさ遠くに青年よ青麦の穂よ 皆子

 さきの句集『下弦の月』の「花恋抄」の一句である。
 二十代中頃の戦場体験から、生涯かけて反戦平和一筋を通した俳人兜太が、最晩年に当たって亡き妻へおくる純白な愛の連作が、秩父の自然に裏打ちされた「平和の俳句」であったことに、私はしみじみ熱いものを感じる。
 さて、これを夫婦の絆と呼ぼうか、私は兜太、皆子の句集や文章を読み込む中で、二人の、人間にとって最も肝要な三つの点で、ふるさと秩父に根ざした太い共通項があることを発見した。
 一つは、いのちの原郷としての産土・秩父の土の上に立つ人間観である。先にも取り上げた半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』の中で、兜太は「女房がいなかったら、現在の私はなかったというくらい大袈裟な言い方もできます」と、手放しの妻礼賛の話をしている。妻が他界して五年余の春である。

 今でも、皆子という女は土そのものだったような気がします。透明感のある土の神のような。(中略)おのずから彼女の体には秩父の土がしみ込んでいる。そこで育ったいのちがそのまま、丸々生きている、そういう印象でしたね。だから土のよき理解者、産土のよき理解者という感じでした。

 そのことを証明するかのような、皆子のエッセイがある。「海程」昭和五十五(一九八〇)年四月号に載った、「日常を」である。

 それはすべて斜めの景色なのです。山人の話の中に「和でころがるべえ」とゆう生活くらしの表現がありました。あの山々にかこまれて立ってみますと、その言葉のぬくもりは、手垢のつかぬ、みんなの言葉として充分に人の想いを充たしてくれるものがありました。素直で土の斜面にさからわぬ人々のくらしの言葉が此の上なく美しい。土の匂いもしみ込んで、時の流れの音もしみ込んでなつかしいものでした。

 二つは、秩父で育った冴えた感性で、ともに俳句を詠み、俳句をもって生きる力とした生き方である。先の半藤一利との対談集で、兜太は続けて語っている。

 私の女房も結婚間もないころから俳句をはじめまして、感性がいいんだな。澄んでいて、すばらしくデリケートで、私より俳句の資質があったんじゃないかな。

 作句の動機は、「夫との対話を持つため」だった、という。同時に、勤めの日銀でも、俳壇でも、文字通りの波乱万丈だった夫・兜太を支えて、長い社宅暮らしの不快にも耐え、並はずれの苦労を続けた皆子にとって、俳句は生きる支えともなっていた。
 句歴四十年の一九八八(昭63)年に出版した第一句集『むしかりの花』から、その新鮮で芳醇ないのちの驚きをとらえた、皆子の俳句世界を紹介しよう。

  新緑めぐらし胎児あこ育ててむわれとうと
  土に終るひとりの神楽風の顔
  むしかりの白花白花しろはなしろはなオルゴール

 この年、皆子は現代俳句協会賞を受賞した。
 三つは、なにより人間の自由と平和を願い、時代、文化への批判の目を確かに、個人の生きる価値観を共有していたことである。これも兜太の語り口で聞いてみよう。

 私たちのいいところは、二人の間でいつも闊達な会話がなされていたことです。……妻の関心は、私の立身出世ではなく、むしろ、生きるとは何か、神とは何か、人間とは何か、といった類のことに置かれています。ですから、私たち夫婦の会話も自ずからそのような話題に進展しました。
(中略)
 私たち夫婦に共通した理想とは、一言で言えば、一家を築くことです。……一人一人が平等で、個が確立した、親愛に満ちた家です。(中略)
 夫婦の間で同じ価値観を持ち、日頃から闊達な会話ができたことは、結果的に、私の人生にとって大きなプラスでした。(『二度生きる』一九九四年刊)

 「そうでしたよ」といった、俳人皆子にとっては珍しく硬質な一句を、句集『山樝子』から挙げておこう。

  天人合一心身精霊秋草に 皆子

 こう共通項を並べると、二人はまこと理想の夫婦像そのものであったかに見える。しかし、それぞれ個性的な人間同士、複雑な面もある。長い歳月の中では矛盾や多少の葛藤、幾つかの修羅場もあったかも知れない。兜太自身、妻の他界後のエッセイ「霧の白粥」で、「ほぞを嚙む」思いでこう書いている。

 鈍感もいいところだった。……私は、そうした話をするときの妻の置かれていた苦労の日常に、ひどく鈍感だったから、恵まれたき日の回想を夫に語ることによって、自分の辛さをいやそうとしていたことに、ほとんど気が付いてはいなかったのである。(『酒止めようかどの本能と遊ぼうか』)

 だが――。これから紹介する兜太の『俳句日記』には、知的で率直な信頼に満ちた夫婦像のすばらしさが、正直、胸を打つものがある。ユーモアさえ感じる。

 三月四日(一九七〇年・50歳)
 ついに「梨の木」を書きあげ、さっぱりした気分。……帰って皆子に読ませると彼女夢中で読む。ほめてくれる。珍しいことだ。はじめからほめられたのは。
 四月七日
 角川書店から、蛇笏賞推せん依頼がこず……小生アウトロー――と悲観的になる。皆子にいうと、「自分のもの」に集中して、啓蒙とか民衆とかいうことは忘れたほうがよい、といわれ、やっと眼が――本当にさめる。春のいたずらである。
 四月二十二日(一九七一年・51歳)
 夜明け、うとうとしながら、出版ジャーナリズムがシャクにさわり、俳句関係でも、どこでも、〈陰〉から、次第につぶされつつあるのではないか、という不安がつのり……しかし起きて皆子と話すうち、不安一切が消え、とにかく一茶と小説に集中しろ、と思い定めて、明るくなる。気
分闊達。
 九月十七日(一九七二年・52歳)
 一茶略評伝に入る。午前、いま一度はじめ部分(文化句帖まで)読み直し、皆子にも読んでもらう。彼女の指摘事項十以上。夜、修正。
 一月二十七日(一九七三年・53歳)
 戦記か一茶かで、皆子と話し合う。皆子「一茶をやるべし。俳人としての仕事と評価を確定し。退職後散文へ」。小生「戦記やりたし。……戦記で散文の方法を掴み、「困民党」のように、仕事の幅を作りたし。(俳人が書く小説の意味)……」。
 八月九日
 「わが俳句観」終り、一・五枚、書き直す。皆子「まれにみる不出来ね」。指摘正当。直してすっきり。
 十月十一日(一九七五年・55歳)
 皆子「あなたは俳句に徹底しなさい。富士30句はよかった。あのスケールはほかにはない。碧梧桐をまずやりなさい。その上に立って散文を書きなさい。スケールの大きい記録より畸人伝がむいています」――これは頂門の一針。いい意見だった。
 十月十八日
 皆子、「俳句研究」十一月号を読んで、小生の悪口ばかりだと、イライラしながらはいってくる。チラチラ覗くと、えげつない……小生をぶったたくための特集号の感がある。
 十月十九日
 皆子の「怪物になれ」の言に元気付き、「俳句研究」への寄稿を停止……することを決めて、サッパリする。
 一月三十日(一九七九年・59歳)
 「ふるさと」(NHK放送予定)を、〈原点〉と考える自分の思考のあいまいさを責めているうちにほぐれる。〈ふるさとの翳〉、〈ふるさとの土〉。皆子と喋るうちに構想さらに固まる。伹し、〈ふるさとと血〉に来て議論となる。
 十月十五日(一九八三年・63歳)
 皆子「秩父事件」より、小生の戦時戦後史をゆっくりまとめよ、という。小生もそうおもい定める。

 見るように、日常の夫婦の会話にしては、感心するほど対等で知的な中味である。兜太という「怪物」(皆子)の性格や仕事ぶりをよく承知の上で、大局とポイントを掴んだ適確なアドバイスをしている。兜太にはまたとない人生の相談相手であったことが、よく判る。
 読みながら、兜太の『俳句日記』にも、敬意を込めて八ヵ所ほど登場しているフランスの作家・思想家のジャン=ポール・サルトルと、その生涯の伴侶で作家・評論家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールとの関係が、戦後の私たち学生の憧れであったことを、兜太・皆子夫妻と、微笑ましく思いを重ねている。 (この項つづく)

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