俳人兜太にとって秩父とは何か③ 岡崎万寿

『海原』No.23(2020/11/1発行)誌面より

新シリーズ●第3回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

(承前)

  ⑵ 秩父事件研究史上の俳人兜太の存在

 したがって、その「秩父困民党」の文章には、秩父人兜太の内なるロマンと躍動感が、熱く伝わってくるものがある。

 椋神社竜勢打ち上げのあと、私は蜂起農民の行動経路を追って、秋の秩父路を辿った。そして、小鹿坂峠の札所二十三番音楽寺の庭から秩父市を一望した。武甲山は山肌をあらわに迫ってくる。
 農民たちは、この寺の銅鐘を乱打して山を駆けおり、荒川を越えたという。音色美しいこの名鐘を知っていての作戦だったにちがいない。その鐘声はいまも、彼らの声なき声となって秋天にのこっている。その声に耳を傾けようとするのは、私が同郷人のためだろうか――。

 秋たけなわの明治十七(一八八四)年十一月一日、その音楽寺の名鐘を打ち鳴らしときの声を上げながら、秩父農民たちは一斉蜂起したのである。映画「草の乱」(神山征二郎監督・二〇〇四年公開)のシーンにも見た、白鉢巻きに白だすき、「世直し」に立ち上がった農民の心意気であろう。下吉田の椋神社から、武装した農民軍がぞくぞく行動を開始した。
 蜂起に参加した農民は、秩父を中心に埼玉、群馬、長野、静岡各県からも加わり約一万人(蜂起時は三千人)。郡都大宮郷をはじめ秩父一円にわたる規模で、悪徳高利貸の家を打ちこわし、証書を焼きすて、困民解放の公約を果たした。一般庶民にたいしては、農民の軍にふさわしい気配りをしていたことが、エピソードに残っている。
 そして後半戦。十一月四日に皆野本陣を解体して、十石峠を通り長野県南佐久へ進出。九日の戦闘で壊滅するまでの十日間、困民党軍はその反権力の旗を下ろすことはなかった。
 その「革命ロマンチズム」のみごとさを、同じ秩父出身の歴史学者、井上幸治は、名著『秩父事件自由民権期の農民蜂起』(一九六八年刊)で、こう述べている。

 わたくしは郷土の屈辱の歴史を書くつもりはない。わたくしは秩父事件が自由民権運動の最後にして最高の形態であり、これがわがふるさとの事件であったことを誇りと思っている。(中略)
 たんなる百姓一揆ならば、一発の銃声で四散し、刀剣がきらめくと逃走するのが例であるのに、秩父のばあいは農民が「倒れてのちやまん」の態度である。そのために西南の役以来の変事となった。
 その理由は、武器からいうと、二五〇〇挺という銃をもっている点である。組織という点からみると、党中に総理・副総理・会計長をおき、人員を隊に編成し、進退離合に統一的指揮があり、規律も行届いている。さらに決死隊を編成し、秩父全郡境を前哨線としている。

 また一九八三年十一月、埼玉会館主催の秩父事件シンポジウムの基調報告「秩父事件の基礎問題」(前掲『秩父学入門』所収)で、井上幸治はその結びに、こうも秩父事件研究の困難さを語っている。

 十一月九日未明、信州の東馬流には秩父から八四名の農民が参加し、一〇名ばかり戦死しております。……秩父事件に参加したなかに、こういう限界点までつきあう農民があったこと、その事態をどう解釈するか、なまなかの努力ではとりくめず、わたくしじしん、迷いに迷っているしだいであります。

 碩学の井上幸治さえ、その解明の難しさを語っている。
 ①なぜ山国秩父で、こうした農民集団による歴史的大事件が起こったのか。②その強靱な行動エネルギーは、どこに発したものか。③その組織的な農民軍を支えた意識・思想は、なんだったのか。
 その解明のキーワードは、当時の秩父農民衆のもつ意識・思想の問題にあると思う。兜太自身、同じ秩父出身で郷土史研究者・中沢市朗との「対談秩父事件の源流をたどる」(中沢市朗『秩父事件探索』所収・一九八四年刊)の中で、こう指摘している。

 民衆史の基本は、民衆の意識の問題にしぼられてくると僕は思っている。そうなりますと、なぜ秩父におきたかという基本に、その当時の西北秩父の農民意識の問題がクローズ・アップしてくる。

 この農民意識の問題からの秩父事件解明へのアプローチは、参加した秩父農民を人間の視点で吟味することであり、人間を知り人間を詠むことを生き方の基本としてきた俳人兜太にとって、まさに打ってつけの文学の課題でもあった。
 そして、「秩父山河」(『金子兜太集』第三巻)で兜太が強調している「秩父は特殊である。その特殊のおもい」を込めた、独自の探究でもあった。秩父ならではの秩父困民党事件の特殊性を、秩父人の目で俳人兜太が考察する面白さに、私は思わぬ興奮を覚えた。
 ここでは出来るだけリアルにコンパクトに、兜太が語る秩父事件の特殊性について、三つの点から要約してみよう。
 一点は、当時「負債山積の悲況」と言われた秩父の借金農民たちが、「借金からの自由」(借金十年据置、四十年賦返済)を求めて、村落共同体の耕地(集落)単位、村単位に組織化され、借金党、困民党と呼ばれる独自の行動集団に結集したことである。そこに知的野性をもつ「在地オルグ」(村と耕地の組織者)たちの、身を挺した活動があったことは言うまでもない。兜太は、その底辺の組織化に着眼している。

 これは単なる百姓一揆でもなく、自由党起事件でもない。もっとユニークなものということである。借金農民の抵抗活動が、おのずから生み出した〈党行動〉――いわば、同じ目的で集まり、相談しつつ行動するうちに形成された組織的集団であって……(「秩父困民党」)

 ここで簡単に、その経済的背景にふれる。養蚕農家がほとんどの秩父では、明治十年代、その繭・生糸の好、不況で、暮らしが大きく浮沈していた。明治十三、四年は好景気で、やれ地芝居、花火、ばくちと、わずかに潤った。だが同十六年以降、政府の(松方)デフレ政策も加わり、繭などの大暴落で状況は一変した。高利貸のあくどい取立てで、破産・逃亡に追いこまれる負債農家が続出していた。
 「惨野の流民」とも言われた。そこで動きだしたのが、先の耕地農民の組織化である。かれらは各地で山村集会を開き、借金年賦返済などを相談し、高利貸や警察署・郡役所へ幾度となく合法的な請願運動を繰り返した。しかし、対応は冷酷、無視そのものだった。憲法も普通選挙もなく、生きる手段は――蜂起だった。
 好況時の一時いっときの光、一転して暗鬱きわまる借金地獄、そこから大いなる光芒をみんなで求める蜂起へ。――まさしく光と暗、耐忍と激発という秩父人特有の「山影情念」の世界そのものではないか。兜太は事件に参加した、ある古老の言葉を紹介している。

 「秩父の人間つうなあ、一度肚をきめると、それぁ真直ぐで強情なもんですよ」――彼はいくどか言った。(「秩父山河」)

 二点に、そうした耕地農民を主体とした、秩父困民党の底辺からのうねりが、秩父自由党を介して全国的な自由民権運動と結合し、「板垣さん(退助・自由党総理)の世直し(立憲政体の設立)」の思想を自分なりに取り込み、蜂起の旗じるしとしたことである。
 もともと困民党の組織化は、二年前に発足した秩父自由党員の働きかけによって広がったものである。ユニークなのは、その自由党員が困民党員であることも多かった。秩父人同志である。「自由困民党」と言う人もいた。ただ現実には、秩父自由党員の半数以上は蜂起には参加していない。
 興味深いのは、蜂起に参加した秩父困民党員の意識の高さである。吉田椋神社の副祠官・田中千弥が書き残した民衆史料『秩父暴動雑録』には、かれらが語っていた自由党の「世直し」の思想が、「暴徒のことば」として、こう記録されている。驚くほど端的である。

 ①オソレナガラ、天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ。(筆者注・「天朝様」とはここでは薩長藩閥政府のこと)
 ②板垣公ト兵ヲ合シ、官省ノ吏員ヲ追討シ、圧制ヲ変ジテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ人民ヲ安楽ナラシムベシ。

 ただ、この言葉などをもって、秩父事件全体を評価する向きもあるが、兜太は参加農民の意識・思想の問題として、ありのままもっと複雑に、情念の屈折を見透している。先に挙げた中沢市朗との対談で、こう語っている。

 自由党の思想というのは、基本的にはヨーロッパからの輸入思想の影響が非常に強い。……それを秩父農民はそのままのかたちでは、吸収していない。屈折があり、大きな変形さえある。そこに秩父農民の意識の特殊性というか独自性のようなものがあって、おもしろいわけですね。

 かれらにとって自由党の「自由」は、切実な「借金からの自由」であり、行動へのオプティミズムであった。自由党も困民党も、情念を支える「〈おらが党〉のイメージ」(兜太)が強かった。
 そして三点に、その頃、秩父・西谷を中心に中庭蘭渓の教える民衆宗教・みそぎ教が、済世救民の世直しの教義として、自由党とも結びついて、秩父農民のあいだにかなり広がり、影響力をもっていたことである。
 中庭蘭渓は宗教者のまま、明治十五年に自由党に入党した、秩父自由党草分けの党員である。医者でもあり、潔癖で人間的にも秀れた人物であったようだ。兜太はその先覚者の役割を重く見て、先の中沢市朗との対談でこう強調している。

 私はこの教えの影響は予想以上に大きかったと考えてますね。(中略)当時の民衆が政治に感じていた悪を、蘭渓は鋭く感受する能力をもっていたから、自由党の反政府主義とはすこし質の違った、いわば底辺的動機のなかからの独自の反政府主義を身につけていったのではないかな。そういうかたちで、革新の側に禊教がはたらいていった。

 そこに、秩父農民の意識分析のスポットをあてたのは、兜太の慧眼だと思う。宗教に裏打ちされた民衆の意識は、時として思わぬエネルギーを見せるものである。
 以上、兜太が解明している秩父事件の三つの特質について述べてきた。なるほど「秩父の抗う心」と言われた参加農民の意識状況は、重層構造をもち、極めて強靱で楽天性、行動性をもっていたことが理解できる。ところで、先に紹介したように先学の井上幸治は、歴史学者として秩父事件に参加した農民衆の「倒れてのちやまん」の態度を、「どう解釈するか……迷いに迷っている」と、正直に語っていた。そこに秩父事件研究の一つのネックがあったことは、研究者たちの共通認識でもあったと思う。
 そこで考える。俳人兜太の秩父人らしいアプローチである、秩父事件の三つの特殊性の解明は、結果として、そのネックに照明をあて扉を開く、重要な鍵となるものではないのか。歴史の目で、私はそう評価したいのである。
 もちろんこの評価は、秩父事件の主役だった在地オルグをはじめ耕地農民衆を中心に、事件の基本線をまとめたもので、蜂起に参加し指導した秩父自由党員や困民党員、耕地農民という多様多彩な群像の人間ドラマを、単色化し軽くみるものでは、全くない。
 兜太自身、事件のプロセスにあった、たとえば秩父自由党の困民党軍総理・田代栄助や会計長・井上伝蔵と、在地困民党主流との「ある漢たる割れ目」(兜太)に注目し、その解明に興味をふくらませていた。
 つぎに、そうした秩父事件の全容解明とあわせて、俳人兜太は当然のことながら、当時の秩父地方における俳諧・俳句文化の広がり状況や、とりわけ事件関係者の俳句作品について、その発掘、研究、鑑賞を深める努力を鋭意続けている。その成果は「農民俳句小史―農民のなかの俳句・俳句のなかの農民」(『ある庶民考』所収)や、前掲の「私のなかの秩父事件」などの中でまとめられている。
 ここでは、先に登場した神官・田中千弥と、その俳句門下でもあった困民党軍会計長・井上伝蔵の二人の俳句を通じて、秩父事件とかかわるその内面や背景についての、兜太の穿った考察を探ってみよう。

  岩も木も物いふやうぞ散るもみじ 千弥
  横しまに荒ぶる風の木の葉かな 千弥
  岩根木根こととひやみぬけさの霜 千弥


 神官・田中千弥(俳号・菅廼舎義村すがのやぎそん)が書き残した『田中千弥日記』から三句挙げる。当時、秩父地方は俳諧、連歌、和歌といった民衆文化が盛んで、千弥はその「秩父だに全体の俳句ボス」(兜太)的存在であった。その門下には、井上伝蔵はじめ数名の秩父事件の主力の名が並んでいる。兜太の鑑賞は深い。そのまま引用しよう。

 一句目。蜂起には批判的だったこの神官も、借金農民の鬱屈した心意から目をそむけることはできなかったのである。
 二句目。蜂起農民の大宮郷占拠のとき詠い……「横しまに荒ぶる」という言いかたに、憎しみも嫌悪の情もなく、むしろ「こまった連中だ」といった、どこか親しいものの大あばれに渋面をつくっている人の心理がのぞくのも、納得できます。
 三句目。「こととひ」は、石間村に進出した憲兵によるものだが、「岩根木根」に農民が喩えられていて、農民の維新政府への「こととひ」ととれないこともありません。そんなあいまいさを残しているところに、むしろ、千弥の心理の複雑さを見るおもいがあるのです。

  人の気も仏となしぬ盆三日 伝蔵
  おもかげの眼にちらつくやたま祭 伝蔵
  想いだすことみな悲し秋の暮 伝蔵

 蜂起軍の会計長を務めた井上伝蔵が、事件後、伊藤房次郎という変名で潜行していた北海道での俳句(俳号・柳蛙)である(森山軍治郎『民衆精神史の群像』、小池喜孝『秩父颪』より)。伝蔵は下吉田村の生糸問屋の次男坊で素養があり、秩父自由党に属し困民党を育てた一人で、事件当時三十一歳。逃亡中の欠席裁判で死刑の判決を受けたが捕らず、北海道を転々として、代書業などで家庭ももち、ついに六十五歳で北見に没した。映画「草の乱」の主役でもある。

 一句目。「人の気」への感受のただならぬ鋭さ……背後に、遠く深く、秩父の仲間たちへの思いがこめられていて、だから「仏となしぬ」が無気味なくらいにありありと伝わるわけです。

 二、三句目には、兜太の個別の鑑賞はないが、全体として潜行中の井上伝蔵の「内面の修羅」をとらえた、次の兜太の鑑賞には、人間考察の深淵を見る思いがする。

 感性の明るい人が内閉と耐忍のなかに意思を貫こうとするとき、そこには、それこそ、はた目には分らぬ内面のたたかいがあるものです。明るく感じやすいだけに、自分に対して厳格になり、内面の修羅をふかめます。伝蔵という人は、そういう人であり、そういう内面のたたかいのなかで、三十五年を生きとおした男とおもう。(「私のなかの秩父事件」)

 最後に、俳人兜太が秩父事件の考究に集中して取り組んでいた一九七〇年代に、同じ心意で作句した俳句作品について、私見を加え鑑賞、考察しておこう。第五句集『早春展墓』(一九七四年刊)の末尾の「山峡賦」(21句)に収められた、次の二句に注目したい。

  山峡に沢蟹のはな微かなり
  沢蟹・毛桃喰い暗らみ立つ困民史

 一句目について、兜太は『金子兜太自選自解99句』(二〇一二年刊)で、「私には郷里の大事件として十分な関心があり、文章も書き、ときどき訪れることもあったのだが」と、そのモチーフを感動のまま書いている。

 その山峡はじつに静かだった。その沢で出会う紅い沢蟹も。しかしその静けさが、かえってそのときの人々の興奮と熱気を、私に伝えて止まなかったのである。

 この兜太自解で、秩父山峡の沢蟹を「紅い沢蟹」と表現していることに、私は着目する。言うまでもなく沢蟹は生息場所により紫褐色にも、朱赤色などにも変化する。だが兜太が秩父谷で「出会」ったのは「紅い沢蟹」だった。私にはその「紅い沢蟹」が、なにか秩父事件で散った数多の農民たちの魂とも、化身とも見えてならない。沢蟹たちは鋏をもち、あぶくも出す。「はな微かなり」は、その弔意とも読める。
 二句目。沢蟹も毛桃も食べる貧窮した秩父の農民たち。その困民党員らの「暗らみ立つ」姿に、この句のポイントがあると思う。暗鬱の秩父谷から一条の光芒を求めて立ち上がる。そこに秩父農民たちの根性があった。人間としての誇りと祈りがあったのである。兜太は、その「困民史」に同郷人としての篤い心情を寄せている。
 加藤楸邨の「寒雷」で、兜太の出征前からの盟友であった俳人牧ひでをは、その著『金子兜太論』(一九七五年刊)の末尾の「作品の鑑賞」で、この「沢蟹・毛桃」の句を挙げ、こう結んでいる。

 ここで私は初めて秩父と金子の内面をつかんだようだ。
 ……衆のつきることをしらないエネルギーと山影の情念を、山峡の沢蟹と毛桃に、光の明暗におのが心根をすりつけてうかがう。
 ……そこに、反骨の風土的器量を探るとき収束をいそがない爽やかさが金子の生きざまにおいて逆に見えてくるのである。「喰い暗らみたつ困民史」。まさに俳句における人間探究派の正統を位置づけるものである。
 それは、関東平野と山陵風土の中で存在を詩眼で喰いつぶし背負いたつ存在者である金子兜太のおもいのいさぎよさ、粘着力、剛毅さにほかなるまい。
 抵抗を示しつづけた詩業は特定のイデオロギーにもとづくものではない。山影風土が生んだ日本文化の稀有の必然であった。

 以上、述べてきた秩父事件に関する研究・調査、評論、俳句の総ては、秩父人兜太にとって、己の生きざまに欠かせない文学的課題であった。私はその全体を、広く俳人兜太の輝く俳業の一つとして、積極的に評価したいのである。
(次号へつづく)

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