『海原』No.37(2022/4/1発行)誌面より
〈特別寄稿〉
シン・兜太晩年(下) 宮崎斗士
平成三十年(二〇一八年)九十八歳
一月、熊谷市内の病院に入院。一旦は退院したが、二月六日誤嚥性肺炎の疑いで再入院した。二月二十日午後十一時四十七分、急性呼吸促迫症候群により逝去。享年九十八。三月二日、葬儀・告別式が熊谷市の斎場でしめやかに営まれた。戒名「海程院太航句極居士」。
この年の一月の初旬、兜太は真夜中にトイレに立ち、そのまま朝まで便器に座っていたということがあった。38度4分の高熱を出し、すぐ入院。肺炎と診断された。その後病状は着実に快復し、無事退院したのだが、二月六日再入院のあとはもうほとんど意識が戻らなかったという。以下、晩年ずっと兜太のそばについていた篠田悦子(「海程」「海原」同人)の文章より。
――二月二十日。今日も先生は目を開くこともなく、お声をお出しになることもなく、特別苦しそうでもなく、口を開けてごうごう呼吸をしているばかりでした。只一つ痰を吸引するとき駄々っ子のように口を固く結んでしまいますので、そのことが意識のある証でした。こちらの呼び掛けは聞こえていらっしゃる感じはしていて、検査の数値には気がかりもありましたが、小康状態は保たれているようでしたので、私は夕方五時過ぎに病院を出ました。
その夜です。病院から連絡を受けて、深夜零時十分に駈けつけました。先生のお顔は蒼白ですが、重い荷を下ろされたかのように穏やかで何かさっぱりとなさっていて安らかでした。揺すぶれば、今にも「よしてくれ」と言いそうなお顔でした。
平成三十年二月二十日午後十一時四十七分、先生は急性呼吸促迫症候群にて永眠されてしまわれました。
三月二日の告別式の喪主挨拶の際に、喪主の長男・眞土氏から「父は二、三年前から認知症を患っておりました」とのお話があった。思えば「海程」終刊もそういった状況に鑑みての金子家としては苦渋の決断だったのだろう。
火葬のあと骨上げをさせていただけることになり、「私ごときが……」と恐れ多かった。「金子兜太の骨を拾う」という行為が自分の中で全く現実味が湧かなくて、ただただ心身が真っ白になってしまった。それでいて、そのひとときの感触や空気を今でも鮮明に思い出せるのだ。
「海程」四月号に兜太最後の九句(一月二十五日から二月五日の間に作句)が掲載される。
雪晴れに一切が沈黙す
雪晴れのあそこかしこの友黙まる
友窓口にあり春の女性の友ありき
犬も猫も雪に沈めりわれらもまた
さすらいに雪ふる二日入浴す
さすらいに入浴の日あり誰が決めた
さすらいに入浴ありと親しみぬ
河より掛け声さすらいの終るその日
陽の柔わら歩ききれない遠い家
兜太は亡くなる前の年から、眞土・知佳子夫婦が時にどうしても留守にせざるを得ないこともあり、熊谷市内の介護・サポート付施設「グリーンフォレストビレッジ」の一部屋をチャーターしていた。
一句目二句目四句目といたく静かな景が描かれている。この三句目「友窓口」の「春の女性の友」が先ほどの篠田悦子
ではないかと思われる。実際篠田は足しげく施設に通っていた。そして五句目から七句目にかけて、これはおそらく施設の介護入浴サービスのことを詠んだのではと思う。六句目の「誰が決めた」……いかにも兜太らしい、キャラクターの立っている一句。そして八句目のこの「さすらいの終るその日」という措辞、やはり兜太は自らの死期をしっかりと受け止めていたのだろうか。「河より掛け声」の措辞が気になるところだ。そして九句目、この「歩ききれない遠い家」、もちろん施設から遠い熊谷の家という読みが正しいのかも知れないが、私にはこの「遠い家」、兜太の生家のような気がしてならない。まさに九十八年の生涯を一瞬にて振り返るような力をこの句に感じた。
「海程」では、「秩父俳句道場」という一泊吟行会を定期的に開催。二〇〇八年より私がその幹事を務めていた。主宰である兜太の意向で、「海程」同人・会友以外で、広く俳壇で活躍されている方々にゲスト参加をお願いしてきた。
道場では、ゲストの方と兜太とのフリートークの時間を毎回設け、各々の俳句活動の述懐、あらためての俳句理念などを語ってもらった。
兜太の晩年十年間に渡る、貴重な肉声、証言の数々。兜太による様々な俳句論、人生論のアナザーサイドとしてここに提示したい。
◆「前衛」と「伝統」
筑紫磐井/私は二十二歳の時「沖」に入会した。「造形俳句」論の兜太と「諷詠」論の能村登四郎では対照的に思われるようだが、通底するところもある。当時の俳壇では前衛・伝統がバランス良く機能していた。俳句史を検証してみると、「前衛」俳句が生まれたからこそ、「伝統」は自らの本質に再び向き直る契機を与えられたのではないか。
兜太/筑紫さんの論には「余裕を持った」客観性がある。これまでは伝統・現代(前衛)などの二項対立、既成のポレミックな図式にそのまま乗っかって書いている評論ばかりだったが、筑紫さんの『定型詩学の原理』はそうした既成のポレミックな議論を超越しており、画期的だ。今日の俳句世界は動いており、伝統も現代もない。それらを包摂する生きもの感覚、「土」というところから自分はものを考えていきたい。
◆造型論について
「造型」という言葉は固くて彫刻でも使われ分かりにくいという指摘が当時からあり、今は余り使いたくない。「映像俳句」の方が良かったと思うが、今さら紛らわしい。「写生」を唱えた正岡子規は明治維新後の社会に鋭敏に反応していたため、実は「客観」と「主観」という二物対応でモノを考えている。これに対して、私の「造型」の考え方は「一元論」。すべてを取り込んで考える。明治以降の俳句の手法は近代俳句を確立した子規と現代俳句を確立した兜太に尽きる(会場拍手)。
「造型論」にぴったりくるのは富岡鉄斎が富士山を描いた作品について小林秀雄が書いた評論がある。小林は鉄斎がこの絵を富士山を見ながら描いたのではなく、てっぺんまで登って富士山とは何かと考えた経験をもって描いたことがわかったと言っている。これは「造型論」の考え方と同じだ。(「何処から見ても決してこんな風に見ることはできない。見て写した形なのではなく、登って案出した形である」小林秀雄『鉄斎Ⅱ』)
(一般の人にとって「造型論」で俳句を作ることは適切なのか?との問いに答えて)
論から入るのは難しいというのが私の実感。物と自分の一元化に努力して映像にまとめていくことは必要で逃げてはいけないことなのだが、考えたまま書いてしまうこともある。禅も同じだが、ある時は最高の作り方をして、ある時は安直な作り方をする。どっちでも自由自在になったらいい。年中「造型論」で作るというのは無理だし、本気でやったらダメになってしまう。作品は個性という面白さにある。
◆新興俳句運動
マブソン青眼/戦前の新興俳句運動の弾圧について、歴史的な検証が不十分ではないでしょうか。
兜太/マブソン君はフランス人だから堂々と言える。これからの俳人は政治の世界、生活という面を考えてほしいことを訴えている。戦争中に俳句がどのような状況におかれたのか?日本の俳人は余りにも無視してきた日常性の狭さがある。
京大俳句事件に関係して私がリアルに接した唯一の人物が青峰。旧制高校から大学にかけて三年位「土上」に投句していた時、早稲田大学の講師だった青峰が検挙された。獄中で血を吐いて仮釈放された後、自宅へ見舞いに行った。青峰は
「同人の二人がリアリズムなんかを言ったおかげでこんなことになってしまった。花鳥諷詠以外の俳句は治安維持法に触れる、異端という考え方が当局にあった。アメリカナイズされた考え方は危ない」とぼそぼそ話していた記憶がある。
リアリズムで俳句を作ろう、虚子の唱える花鳥諷詠では書きたいものが書けないということで始まった新興俳句運動だが、運動の軸になった若者が逮捕された京大俳句事件のキーパーソンと言われる人物がホトトギス同人の小野蕪子。事件の背景には虚子の姿は全く見えてこないし、蕪子が虚子のご機嫌をとろうとしたのかはっきりしない。
個人的には、京大俳句事件で検挙された平畑静塔をどう顕彰するか、虚子以上に評価することを私の目の黒いうちにや
りたいと思っている。
◆なぜ俳句を作るか
戦争を知っている世代が社会の中核にいる間はいいが、戦争を知らない世代ばかりになると怖いことになるという田中角栄元首相の言葉を私は非常に重く見ている。今の政治家は戦争体験がなく、正義感だけで抽象的な議論をして、非常に軽薄に見える。
世の中が変われば、変わったテンポで俳句も変わるものだ。歌人は「短歌はすぐに社会問題を取り上げるが、俳句の場合
は少ない」と軽蔑するが、それは正当な形だ。思想が徐々に熟していけば一般大衆の思想現象として俳句にも表れてくる。俳句は指導性が欠けて社会に遅れてもいいと思っている。俳句や短歌で世の中を変えることができると思う人が多いが、それは間違いで馬鹿げている。
俺が若い頃から俳句を作る上で常に考えていたことは、自分の思っていることを十分に正確に正直に詠むことができないかということだ。高邁な思想を書くのではない。このため、俳句の方法論を追求し「イメージで書けば」と提示したのが俺の「造型論」だ。上手な句を作るテクニックを考えたことはない。虚子が盛んに唱えた花鳥諷詠も方法論。「いいなあ」という句は自分の思っていることを十分に書いている句だ。芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」の句も十分に書けた瞬間の充実感がある。決して最初から皆を驚かせよう、世の中を変えようという目的意識があったのではない。
◆戦争体験、そして現在
戦争末期にトラック島にいたんだが、迎撃のため飛び立った零戦が毎日のようにグラマンの機銃掃射で撃墜されていた。
朝はじまる海へ突込む鷗の死
その時の光景が頭に入って日銀神戸支店に勤務していた時作った句だ。「これからは銀行を食い物にして好きなこと(俳句)をやろうと決意し、自分の人生の朝がここで始まった」という意味で、俺にとっては忘れられない句だねえ。
戦さあるな人喰い鮫の宴あるな
トラック島で島々をポンポン船に乗って回っていると人が海に落ちないかと鮫が頭を出しながら船の後をついてきたんだ。鮫は頭がサメているからね(笑)。
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
この句もトラック島の人喰い鮫を思い出して作った。今の時代は乱暴な暴力主義がはびこっているが、俺の青春期の気配に非常に似ている感じがする。トランプ米大統領を見ると「あの男は危ない」という本能が働いてしまう。大便した拍子にうっかり核ボタンを押すのではないかと不安がある(笑)。
その後
そして「海程」は二〇一八年七月号にて終刊、兜太の遺志を後世に繋げるべく、同年九月「海程」の後継誌「海原」を創刊した。これは私たちの新たなる挑戦であり、また一つの正念場でもあった。
兜太の「海程」創刊のことば「(俳句を)愛することから出発し、愛する証しとしても、現在ただいまのわれわれの感情や思想を、自由に、しかも一人一人の個性を百パーセント発揮するかたちで、この愛人に投入してみたい」は、そのまま「海原」創刊の理念「俳句形式への愛を基本とし、俳諧自由の精神に立つ」に直結している。
「海原」代表・安西篤、発行人・武田伸一、編集人・堀之内長一、私は副編集人に就任。今年二〇二一年の九月で創刊三周年を迎える。
「海原」の歩みと並行して、多方面での兜太関連の動きもまた活発だった。各俳句総合誌にて追悼特集、各地で追悼イベント、雑誌「兜太」創刊、金子兜太の名を冠した俳句賞が複数誕生、映画『天地悠々兜太・俳句の一本道』、『金子兜
太戦後俳句日記』シリーズ刊行……。
そして二〇一九年九月二十三日、兜太生誕百年のその日に兜太の第十五句集『百年』発行。七三六句、晩年期十年間の兜太の作品をほぼ全句収載している。
同年の七月六日、句集『百年』発行に先立ち「兜太俳句の晩年」という公開シンポジウムが荒川区「ゆいの森あらかわ」にて開催された。パネリストは宇多喜代子、高野ムツオ、田中亜美、神野紗希の四氏。私が司会を務めた。定員の百二十名を超す大勢の方にご来場いただいた。
そのシンポジウムの終盤、パネリストの方々に「金子兜太とは何か?」という質問を試みた。
田中亜美「先生の父・金子伊昔紅と同じく、人を生きよと励ましてくれる〈医者〉だった」。
神野紗希「兜太は俳人だと言うか、兜太は人間だと言うか、迷っていた。(中略)体をもって、心をもって、今、有限の時間を生きている人間として、自分が見つめられるものを見、自分が書けるものを書いた。まさに人間・兜太だった」。
高野ムツオ「金子兜太は先生自身が言っていたように〈俺は俳句なんだ〉ということだと思います。ということは〈俺は言葉だ〉ということになります。だから、これも先生の言葉ですが〈俺は死なない〉と。俺は俳句、俺は言葉なのだから、この世から去って、俳句として生き続ける……」。
宇多喜代子「大きな存在の、俳句が好きな人間、言葉そのものであった人間。だからあまり神格化してほしくない」。
私としては、金子兜太とは一つの「祭」であったと思う。まさに兜太は生きているお祭のようだったな……と。兜太がそこにいるだけで場が華やぎ、活性化する。兜太が元気だということが周りの人たちをも元気にしてくれる。ますます俳句を頑張ってみようという気にさせてくれる。そして、その祭の「灯」を消さない絶やさないことが残された私たちの義務なのだろう。
金子兜太という存在は、令和の時代をさらに力強く「生き抜いてゆく」ことができるだろうか――。及ばずながら、私も尽力を惜しまない所存である。
切り株は静かな器兜太の忌 斗士
(了)
〈同人誌―俳句空間―豈(第4次)64号(2021年11月1日発行)より転載〉