『海原』No.36(2022/3/1発行)誌面より
〈特別寄稿〉
シン・兜太晩年(上) 宮崎斗士
筑紫磐井さんから今回の「豈64号・金子兜太特集」のお話を賜り、あらためて金子先生を論ずるに当たって、私にできることとは何か?をじっくりと考えてみた。何せ金子兜太論はもうすでに様々な場所、様々なコンセプトで語られており、私などの出る幕があるのだろうか……としばし逡巡。結果、「海程」の運営委員の一人として、私がごく間近で見聞きしてきた金子先生のリアルな晩年の日々をここにお伝えすることができたら、と考えた。雑誌「兜太」(藤原書店刊)第一号に書かせていただいた「“存在”ひとすじに金子兜太の生涯」のささやかな補完にもなるかと思う。
平成二十一年、金子先生が卒寿を迎えられた頃よりの金子先生の晩年期の俳歴、その他の様々な活動の歴史を、私なりの視点で紐解いていきたい。
以下、金子先生の呼び名を「兜太」とさせていただく。
平成二十一年(二〇〇九年)兜太九十歳
第十四句集『日常』刊行。生前最後の句集となった。
――この日常に即する生活姿勢によって、踏みしめる足下の土が更にしたたかに身にしみてもきた。郷里秩父への思いも行き来も深まる。徒に構えず生生しく有ること、その宜しさを思うようになる。文人面は嫌。一茶の「荒凡夫」でゆきたい。その「愚」を美に転じていた〈生きもの感覚〉を育ててゆきたいとも願う。アニミズムということを本気で思っている。
これは句集『日常』の後書きの一節だが、ここに「生きもの感覚」「アニミズム」という兜太の晩年期の重要なキーワードが掲げられている。
生きもの感覚に関しては、兜太自身により「生きものを生きものとして自ずから感応できる天性」とはっきり定義づけされている。
また、アニミズムとはもともと生物・無機物を問わない全てのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方だが、これは十九世紀後半イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』の中で使用し定着させたものとされている。ただ、兜太はそれを転じて「アニミズムは原郷」である、としている。原郷、つまり故郷、ホームランドということだが、
「人間は元々森の中に住んでいて、全てのものに神を認めていた。自然の中でお互いを神として信仰していたのである。森の暮らしの中で養われた本能の姿こそがアニミズムであると、今そういうアニミズムの時代に戻るべきではないか」
と兜太は常々語っていた。
海とどまりわれら流れてゆきしかな 句集『早春展墓』より
兜太はこの句を「人間は生きてゆくために〈社会〉に〈定住〉を余儀なくされているが、こころの奥ではアニミズムの原始の世界〈原郷〉に憧れて〈漂泊〉している。定住しつつ漂泊しているのが人間の今生きている姿なり」と自解している。
また兜太は「アニミズムとは知的野生である。理屈ではなく体でわかることが大切だ」「アニミズムを生きていれば戦争なんか起こらない」ともよく語っていた。そんな折、「俳壇」二〇一一年一月号に漫画家水木しげるとの対談「ゲゲゲと俳句―生きものたちの声」が掲載される。その一節。
水木/目に見えない世界が好きなんです。
金子/すごいよね。驚くよ。虫や石ころにも命がある。大好きだし、努力はしてますが、しげるさんみたいに「おのずから」というところにはまだ行ってませんね。「おのずから」というのが怖いんだなあ。
水木/変わってますよ。
金子/まあ、変わってるということになるんでしょうね。だけど、そちらのほうがまともかもしれません。こっちが変わってるのかもしれません。普通の人は見えないんです、常識的に考えていくから。お化けだってそうで、普通の人には普通にしか見えない。
まさにアニミズム、生きもの感覚を追求する作家二人がお互いに理解し合い認め合う名シーンではないだろうか。その意味でこの箇所、わくわくしながら読んだ覚えがある。
平成二十七年(二〇一五年)九十六歳
一月より、東京新聞で、いとうせいこうと「平和の俳句」の選者を務める。
――いまのわたしたちは不安定のなかにいる。平和に不安がある。それは何故か。そして、望ましい平和とは。俳句で自由に書いてほしい。(金子兜太)
――平和への切実な希求、戦争の記憶、未来の私たちがあるべき姿、景色、季節の感覚。あらゆる年齢層の方々から、俳句という短詩だからこそいつでも口ずさめる鮮やかな世界を募集いたします。これは国民による軽やかな平和運動です。(いとうせいこう)
いとうせいこう氏と生前の兜太は本当に良い関係だった。もともとは「お~いお茶新俳句大賞」の選考委員同士ということで知り合った二人。非常に呼吸が合う、ウマが合うという感じだった。
平成十三年(二〇〇一年)に共著『他流試合―兜太・せいこうの新俳句鑑賞』が出版される。この一冊、「お~いお茶新俳句大賞」の入選句を兜太といとう氏の二人であらためて鑑賞し直すという内容で、さまざまな入選句を題材に俳句の面白さ、俳句の可能性を紐解いてゆくといった一冊である。当時、俳壇内外でも大変話題になった。
そしてその十三年後の平成二十六年八月十五日、東京新聞に「終戦記念日対談金子兜太╳いとうせいこう」が掲載される。〈梅雨空に「九条守れ」の女性デモ〉という俳句作品、この作品のさいたま市の公民館による掲載拒否問題から始まり、「社会の問題をすぐに庶民がすくい取って読める詩が、日本の場合は俳句としてある」といういとう氏の指摘、「戦争中の自己反省、自己痛打が私に句を作らせたと同時に、私のその後の生き方を支配した」という兜太の述懐、と、どんどん二人のトークが展開していく。それで最終的に、いとう氏の「東京新聞でぜひ、何俳句と呼ぶか分からないけれども、募集してほしい。あえて戦後俳句と言っていいかもしれません」という発言。それを受けて兜太が「二人でやるとなると、ちょっと面白いと思いますよ。変なやつが二人でやってるっていうのは。」と返すという。この対談が「平和の俳句」の大きなきっかけ、大きな動きの始まりという感じになった。
いとう氏は兜太の逝去に際し、「金子兜太の俳句には圧倒的な幻視能力と、それを言葉で解体、創作する力がある。けれども同時に、本人が持っていた山脈のごとき存在の大きさやなだらかさ、温かさやユーモアにも希有なものがあり、それは文学とは別に後世に残されるべきだ」と、俳句作品のみならず兜太の人間性をも称賛している。
同年「アベ政治を許さない」ムーブメント。
兜太揮毫の安全保障関連法案反対のプラカード「アベ政治を許さない」が、日本中至るところのデモ活動などで盛んに掲げられる。
当時兜太は「アベをカタカナにしたのはこんな政権に漢字を使うのはもったいないから」「アベという変な人が出てきたもんだから私のようなボンクラな男でも危機感を痛切に感じるようになりました」と語っている。また当時の兜太の作品に、
集団自衛に餓鬼のごとしよ濡れそぼつ
朝蟬よ若者逝きて何の国ぞ
がある。
「海程」東京例会(句会)の開催日と全国一斉デモの開日が重なったことがあり(二〇一五年七月十八日)、「海程」有志が兜太と共に句会場の大宮ソニックシティの入り口付近で「アベ政治を許さない」のシートを一斉に掲げた。その有志が例会参加者の三分の二ぐらいだったろうか……。句会場に戻ると、デモに参加しなかった方々がずっと待っていらして、参加組と不参加組とで何やら微妙な空気が漂った。
私は参加組だったわけだが、不参加組に対して何がしかの反感があったような気がする。でもこれはいささか危ない精神状態だったかも知れない。私は昭和三十七年生まれで太平洋戦争にも学生運動にも関わっていないが、こういう全体主義的な意識の流れってやっぱりあるのだな……と今にして思い当たる。
確かに「海程」の中でもこのムーブメントに賛否両論といった感じであった。もともと「海程」の所属メンバーの方々、兜太の戦争反対の意志は十分に理解していたわけだが、こういう形で有名になるということに抵抗を感じた方も少なからずいらしたということである。担ぎ上げられただけじゃないのか、俳句作家としての立ち位置はどうなるんだ、など様々な意見が飛び交った。
令和に入ってから、芹沢愛子(「海程」「海原」同人)が当時を振り返り一文を物している。以下抜粋。
――「安全保障法制」(二〇一五年成立)に反対するため掲げられた金子先生揮毫、「アベ政治を許さない」の文字は圧倒的な力に満ちていた。当時私は率直に言えば、いかに長期政権であってもいつかは終わるのだから、「アベ政治」でいいのだろうか、と感じていた。ところが菅総理は安倍政権の路線を継承すると言い、今だに何も変わる気配もない。私はふと、この政権も含めて「アベ政治」なのではないかという事に気づいた。表記を「安倍」でなく「アベ」と直感で選んだ先生の感性。「広島」と「ヒロシマ」のような使い分けに少し似て、「アベ政治」は強権政治の象徴として用いられているのだ。
金子先生が政権への強い不信を私たちに語ってくれたのは、二〇一三年に成立した「特定秘密保護法」についてであった。時代を遡り、先生が大学に入り句会と酒に明け暮れていた頃のこと、特高警察に拷問されて生爪をはがされた先輩の手を見て、「ぞっとしました。体が震えて、気持ちが萎縮していきました」と著書の中でも語っている。思想弾圧の嵐の中、先生が所属していた「土上」の主宰・島田青峰は獄中生活が体を蝕み自宅で血を吐いて亡くなった。「私も自由人でありたいと願いながら、強いものの影におびえ心に蓋をしてしまいました。秘密保護法は言論や思想の自由を蹂躙する悪法として名高い戦前の〈治安維持法〉みたいなもんです。こんなこすっからいやり方を許しておくわけにはいかない。これまで述べてきたように、私には体制に対する警戒心が常に念頭にあります。まさかとは思うけれど、島田青峰先生のように、もしかしたらいつ、この九十六歳の老骨がひっぱられないとも限らない。でも私は矛を収める気はない。ぎりぎり限界までやってみようと決意しています。〈アベ政治を許さない〉のプラカードは日本という国が二度とあんな馬鹿な間違いを犯さないように、という思いを込めて掲げました」。この平和への信念と熱量が金子先生を「アベ政治を許さない」ムーブメントに参加させた。それは「俳諧自由」を守る俳人としての行動でもあった。
平成二十八年(二〇一六年)九十七歳
一月、二〇一五年度の「朝日賞」受賞。その受賞スピーチの中で兜太は「存在者」というキーワードを掲げた。
――私は「存在者」というものの魅力を俳句に持ち込み、俳句を支えてきたと自負しています。存在者とは「そのまま」で生きている人間。いわば生の人間。率直にものを言う人たち。存在者として魅力のない者はダメだ。これが人間観の基本です。私自身、存在者として徹底した生き方をしたい。存在者のために生涯を捧げたいと思っています。
朝日賞を受く 二句
炎天の墓碑まざとあり生きてきし 兜太
朝日出づ枯蓮に若き白鷺 〃
兜太の朝日賞受賞理由には「俳人としての根幹に反戦と前衛性を持ちながら、指導者として、決まりにこだわらない詠み方も許容し、幅広い年齢層に俳句を定着させた」ということが挙げられている。
この兜太の一句目、あの「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」からはや七十年……。「生きてきし」の余情に弟子の胸も熱くなった。
平成二十九年(二〇一七年)九十八歳
五月の「海程」全国大会にて、兜太は翌年(平成三十年)をもっての「海程」終刊を宣言。俳壇に波紋を呼んだ。
――「終刊」の第一の理由は、主に私の年齢からくるものです。第二の理由は、俳人―金子兜太―個人に、今まで以上に執着してゆきたいという思いです。
終刊に当たって兜太は、「海程」という雑誌名を私一代で終わらせていただきたい、との意向を示した。
「海程」終刊のニュースは、この宣言のあとすぐインターネット上、各方面にて報道され、翌日の東京新聞朝刊、朝日新聞朝刊にも掲載された。
この前の年(平成二十八年)の秋頃、朝日新聞社内のレンタルスペースにて、緊急の「海程」運営委員会が行われた。出席したのは兜太と金子家長男の眞土氏、そして運営委員会のメンバー六名ほどだった。その席の冒頭、眞土氏の方から「海程」を終刊したい、との意向が示された。その後三時間ぐらい話し合いが続いただろうか……。その間兜太は一言も喋らなかった。眞土氏がスポークスマンとして運営委員会サイドと話し合うという図式だった。私は「海程」に入って二十年以上経っていたが、「海程」の内部であんな緊張した場面はなかった。だいたいこういう場だと兜太が緊張をいい感じで緩和してくれるのだが、とにかく兜太は一切口を開かなかったので。
「海程」運営委員会の意向としては、できれば「海程」を継続させてほしい、その上で先生の口から後継者を指名してほしい、の二点が提示された。しかしそのいずれにも眞土氏は「父はノーと申しております」の一点張りだった。
結局は金子家サイドの意向を全面的に受け入れるという形で委員会が終わった。解散の際に初めて兜太が私に「いろいろと大変だろうけどひとつ頼むな」とぽつりと声を掛けてくれた。それがとても印象に残っている。
同年十一月二十三日、帝国ホテル東京にて現代俳句協会創立七十周年記念大会開催。兜太は特別功労賞を受賞。
現俳協創立七十周年記念大会、兜太が出席するかどうかが一つの大きなポイントだった。兜太の体調がいささか不安定な時期でもあった。事前に宮坂静生現俳協会長と私とカメラマンの方とで兜太の自宅へ赴き、ビデオレターを撮影。もし兜太が出席できぬ場合は、そのレターを会場にて流す手筈だった。
果たして当日、兜太は午後五時半ごろ帝国ホテルに到着、そのまま車椅子で祝賀会場入り。体調、活力万全の様子だった。特別功労者の表彰を受けたあと、二、三十分の予定を一時間近く会場にいた。そして、帰る直前、席についたまま秩父音頭を熱唱。これがもう圧巻だった。拍手の嵐。そのあと車椅子で会場を退出することになり、その道すがら、五百数十名の集う祝賀会場が大盛り上がり。拍手、握手、抱擁、写真撮影、感謝、祝福、激励、泣いている方も大勢おられた。まさに出席者の方々の兜太への思いが爆発するひととき……どなたかが「これぞ俳人金子兜太の花道だ」とおっしゃっていた。
そして、この日が兜太が公の場に出る最後の機会となった。
(以下、4月号掲載の「下」につづく)
〈同人誌―俳句空間―豈(第4次)64号(2021年11月1日発行)より転載〉