シリーズ・海程の作家たち《第四回》「命」―北原志満子の俳句~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より

『海原』No.9(2019/6/1発行)誌面より
~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より~ ご参考:2023/04/19お知らせ

シリーズ・海程の作家たち《第四回》

「命」―北原志満子の俳句 谷佳紀

 北原の俳句の個性を語ろうとすると困ってしまう。どこにでもいる女性の健康な声、時たま見せる生活の疲れ、とくに最近は高齢になられているので孤独感を強めているようだが、それらが蜿蜒と表現されているのみで、女性であることを強調しているわけでもないし、特異な感性があるわけでもない。台所はたびたび書かれているが、生活の一部分であるというだけのことで、ここに着目をして生活を謳い上げているわけでもない。境涯俳句のように悲憤慷慨をしているわけでもなく、自己の生活に特別な意味を見出そうともしない。生活に充足しつつも親しい縁者や友が世を去り、一人取り残されている淋しさを嘆いているが、それで健康を害するやわな精神の持ち主ではないようだ。初期には馬が多いとか、現在は猫が頻出するという素材の好みはあるようだが、それも行動範囲が狭いためのようであり、気持ちが穏やかに反応するものを反応するままに書いているということであって、テーマにしているわけではなさそうだ。
 と書いて気づいたのだが、北原は俳句を書いていると心が穏やかになり落ち着くのではないだろうか。力強い表現とか独特の表現とかで心を高ぶらせる俳人や、表現の面白さで感心させられる俳人はたくさんいるが、その表現で読み手の心を穏やかにする俳人となるとどうだろうか。北原の作品を読んでいると気持ちが柔らかくなってくるような感じがする。俳句を書いているときの穏やかな気持ちがそのまま伝わり、読み手の気持ちをも穏やかにしているのではないだろうか。北原の俳句はそういう俳句なのではないかと思う。
 北原は大正六年(一九一七年)佐賀県生まれ、今年九十一歳である。昭和十五年二十三歳で結婚するが三年後に夫は戦病死。昭和十九年夫の一周忌を済ませた後に鎌倉に転居していた実家に戻る。子供はいない。昭和二十年佐賀に引き上げ現在にいたる。昭和五年国語担任教師の訓育で俳句に親しみ、昭和十二年二十歳の頃より俳句を本格的に書き出すが、初期作品として句集で読み得るのは昭和二十年からである。現在一人暮らし。ただし家族として猫(野良猫を含む)が数匹いる。というのが簡略な経歴となる。
  早蕨や厨の土間は昼も冷ゆ
  麦刈って畦のつばなに風つよし
  すかんぽの穂にもこごみて夕べかな

 第二句集の『花神現代俳句北原志満子』に収められた初期作品(二十年―二十三年)最初の三句であるから、終戦の年の作品と思われるがはたしてどうなのだろう。季節は早春や初夏である。もしそうなら戦争はまだ終わっていない。それにしては静かすぎる。二十一年以後の作品なのかもしれない。期間内の作品を編集して並べてあると読んだ方が良いようだ。
  法師蟬お日はあわれの暑さかな
は終戦の玉音放送を聞いての作品と読めるが、この作品とても敗戦の悲憤慷慨はどこにもなく暑さゆえの虚脱感が濃厚という、いつの時代の作品であってもおかしくない。いずれにしろ初期作品からは戦争の面影を見ることができない。俳人としての出発はここからだということなのだろう。
 その姿勢は最初の句集『北原志満子句集』を見ればなおはっきりする。この句集は昭和二十二年から始まっているが、前掲の初期作品の素直な感覚世界をも切り捨てた意志の強さを感じる作品に満ちている。
  稲刈って星しろがねと降りそそぎ
  蚕豆の花びっしりと人泣けり
  裏切りしごと秋風の髪荒し
  鶏の眼の金環冴えて初時雨
  なめくじのあとの銀色旅こいし

 句集で「昭和二十二年―二十七年」としてまとめられている最初の五句である。戦後の食糧難の中での母との二人暮らし、生活に苦労が多いはずだがそんな嘆きを見せようとしない。「稲刈って星しろがねと降りそそぎ」という澄んだ空気を感じさせる豪快な夜景、「鶏の眼の金環冴えて初時雨」の「金環」で感じられる鶏のたくましさと鋭い季節感。胆大小心という言葉があるが、その言葉がぴったりするような、対象を一気にとらえる力強い感性と、景色を内面の景に昇華する行き届いた眼差しが調和した生命力が感じられる表現になっている。
 ただこの後、戦後の俳句は社会性俳句、前衛俳句と、激動の時代へと突入する。生活の中で見える景色、動物や植物に向けていた眼が、その延長という感じで北原の表現にも入り込んできた。ただその影響は「昭和二十八年―三十三年」の作品群の中では目立たない。
  夜の汽笛瞼は尖る葦ばかり
  滝の如き夕立殊に機関車に
  クレーンが摑む涼しき松丸太

 これらは社会的素材に意識を向けようとしている作品と思われるが、「尖る」「殊に」「摑む」という形容でどうにかその意識を表しているのであり、まだ真正面から向き合っていない。むしろ次のような作品に北原の変化が美しく働いているのではないだろうか。
  ねずみの死春の畳に頬つけて
  耕牛おそろし打たれて上眼づかいする

 「ねずみの死」は単なる写生のように見えるが、「春の畳に頬つけて」という悼みの感情は写生ではとらえがたい情愛に満ちている。それは「初期作品」にある「大寒の蹠きよく鼠の死」と比較してみればよく分かる。「蹠きよく」にも情の働きは顕著だが、それ以上に眼の働きが強い。しかし「頬つけて」は逆である。いたわりの心がなければとらえきれない情があり、眼の働きを上回っている。しかもこの情は、家族とか友情という親近者への個的な情というよりも、社会への心の開きがとらえた一般的大衆的な情であろう。「耕牛」における「上眼づかいする」は、牛の従順さの裏にある怒りや恨みの感情、牛というものは油断できないぞというような警戒心、これらが入り混じった複雑な感情に満ちている。この感情に北原の社会意識政治意識の反映を読み取っても良いのではないだろうか。
 社会性俳句という範疇で語るならば、北原の社会性とはこの程度のものともいえる。もちろん「この程度のもの」でよいのである。
  工場出づ枯れしものみなやわらかく
  ネオンに濡れうからの数の柿を買う
  風の青桃少年工に窓曇り

 悪くはないが平凡、北原の良さがない。北原は反応する人であり、意識する人でない。身辺の出来事に言葉が反応してついてくるのであり、言葉を意識してとらえ言語化する表現者ではない。そういう意味ではこの時期からのしばらくの期間は、北原の世界ではない世界で表現活動を行うことになってしまったとも言える。とはいえ、意識を全く無視した表現活動はあり得ないし、言葉というものは意識化を促すものでもある。北原の表現世界とは違う言葉のありようであっても、季語に愛着を持ちつつも季語に閉じこもるという姿勢を持たない表現世界は、どこかで社会というものを意識化せずにはおかないだろうから、時代背景からしても必然であり、その結果として反応する言葉をとらえ返すきっかけになっているのではないだろうか。おそらくその成果の一つが次のような作品と思える。
  村の浴場の残す一灯田水の音
  干すシャツよりも雪白かれと遥かな声
  少年ひとりで切傷愛す杏林
  生きることは賑やか夜業散らかって

 身辺の出来事に感じるまま反応するままでは決してとらえられない、題材を身辺から広げようとする社会意識、イメージを作る構成意識があり、その結果として、生活に反応する肌の温もりで作品を読ませるのではなく、現実の景でありつつも構成された景の美しさが作品を読ませている。もちろん私達はこんなややこしいことを思って読んでいないし読む必要もない。もしそんなことを考えさせながら読むような作品ならばつまらないに決まっている。一灯がつくる明るさと闇の暗さ、シャツと雪の白さは心を開放し、ナルシスを思わせる自己愛の甘酸っぱさ、そして生き生きとした生活風景、これらを一瞬にして読みとり感受するだけである。
  エプロンに卵かかえて夏至通過
  草が枯れ空に落書あるごとし
  えんぴつとげば草刈る音す夜の製図
  夢に過ぎし蛇や一日不器用に
  木の橋ありかしこき農馬たちは消え
  青葦に水満ち昼のねずみの瞳
  鶴を見ず鶴を瞼の旅寝かな
  昼の湯浴みの皆子志満子に芒の朱

 第一句集はこのような作品で終わっている。昭和四十年から五十年の作品である。力を感じる。しかしものたりない。この程度だったのかという感じがする。おとなしいというか、言葉というピースを表現内容に合わせて組み立てているような、ジグソーパズルを完成させているようなところがある。北原も『北原志満子句集』をまとめてみて心機一転の気持ちになったのかもしれない。ここまでは習作期とでもいうかのように第二句集である『花神現代俳句北原志満子』所収の「『北原志満子句集』以降」で、それまでのおとなしさをかなぐり捨てたかのように緊迫感のある作品を書き出す。
  麦秋の光量に夫ありし母たちよ
  猫葬り五月かーんと残りけり
  突然に芋虫の怜悧なあゆみあり
  夜涼の三人笑えば遠く岩を感じ
  枕につけた耳は友達冬の雨
  月の葱畑涙という字も折れて
  霜に覚めにんげんとねこひびきもつ
  ひもじい猫たち冬も可憐な内臓もち
  岸に上がって遂に白鳥のだみ声

 昭和五十一年から五十四年の作品からの抜粋だが、どの作品にも個性があり、他の作品にはない特徴があり、社会性とか前衛に影響されつつも、もうそれには惑わされない自己の表現を確立した安定感に満ちている。とくに「夫ありし母たちよ」という戦病死した夫を思い起こしつつ、子宝に恵まれなかった己れの淋しさ。活動しているときは意識することのない耳が寝る時には存在感を持つ肉体の不思議さ。美しい姿に似合わない白鳥のだみ声。いずれも地味な表現だが心情をとらえる確かさがなければ書けない作品だ。そして猫の俳句。もうこの頃から北原と猫は切り離せない関係になっている。すでに猫俳句はいくつも書いているのだが、猫がお好きなのだという程度の目立つものではなかった。それが猫を書けば心と言葉は自在に反応するようになる。それは猫を扱うことに馴れたということではなく、言葉との関係において意識でも心でも反応しうるようになり、その結果、生活の大きな部分を占める猫との関係が思うがままに書けるようになったということだろう。だからこそ逆に、テーマとしての社会性や前衛俳句にとらわれることなく、生活の中で触れ合うものを相手にするだけで素材は十分だということになったのかもしれない。
 この頃から目に触れるまま、感じるままには何でも書くが、イメージを作る、イメージを書くという表現を思わせるものでも、北原が見たまま感じたままのような、生活風景のようになる。一見したところ表現態度の後退のように思えるところもあるが、それは大きな間違いだ。体質に合わないものを見極めたとか、表現への自信とかであり、自然でもあり当然でもあるだろう。イメージを構成するという意識が表現体験の中でいつの間にか消え失せたとしか思えないほど自然な消え方である。
  細るばかりの老母に春の濁り川
  山路なる青蛙はつれて帰りたし
  ごきぶりの自然死は白き紙にとる
  朝月に猫が草噛む草世界
  雑草の穂絮みな翔べ没り日は華
  猫には猫の大事な手足曼珠沙華
  金盞花の瞳束ねて鳥想う
  われの時間のなか韮が咲き猫あるき
  痛む手を使って痛むかすみ草
  疲れては水中の蜷の世をのぞく
  満面に冬景色あて昼の飯
  かなぶんを今日の光として放つ

 昭和五十五年から六十三年の作品から選んでみた。これらの作品と今までの作品を比べると、初期作品が素朴な感性だけであり、のちの作品が言葉を絞りだそうと苦労していることがよく分かる。ここには大げさなこと、わざとらしいことは何もない。見たこと思ったことの呟きがあるだけだ。それでいながらその呟きが何の障害もなく沁み込んできて、静かな時間、生命の時間を共有する。自然と日常が行き来し、誰でも書けそうな言葉や想いのようでありながら、このように感じてこのように書けるのは北原以外にはあり得ないのだ。例えばごきぶりであろうと自然死を寿ぎ、さらりと取り去る手際の良さ。曼珠沙華の華やかな色と形をとらえつつ、静かに命を見つめている透徹した心情。枯れた死の世界である冬景色を明るい澄明な生の世界に転換した北原の生命力。イメージで書こうとすれば間違いなく観念的になるであろう命が、日常の命となって表現されている。
 ここまで北原の作品を追ってきたがまだ昭和の終わりである。平成十六年に刊行された句集「つくしの抄」を語り終えるまで、十五年間の作品が残っている。しかしもう書き終えたという感がある。この後も命を、観念や宗教的形而上的なものとして扱うことなく、日常の起居と共にある親しさでとらえ、営々と書き続けている。そこに変化があるとすれば、年齢の深まりとともに柔軟性を増し、ときには類型といわれかねない似た表現を繰り返しつつも表現を楽しんでいる。身内や友人の死、さらには子供でもあり、身内でもあり、友人でもある猫の死を次々と見送り、独りになった淋しさを嘆きつつ、それでもお体は元気なのだなと思うような伸びやかな作品を書き続けている。
 そもそも北原の作品について書いてみようと思い立ったことが間違いだったのかもしれない。句集を何度読んでも核になるテーマは単純。説明を要する事柄ではない。書き出せば何とかなると思ってここまで書いたが息が切れた。読んで味わえばよい、性に合うか合わないかで十分という思いを消せなかった。ということで、閉まりのない結果になるが平成元年以降の作品および『つくし野抄』から私の好きな作品を少々選んで終わりにする。

  野の青へ猫十分に食べて出る
  風花やわが知りつくす野のうねり
  じゅず玉は夢寐にも晴れて光るなり
  自転車で散る中学生はあめんぼう
  僧ひとり春の小さな畑を出ず
  葉つき大根すこし無念に横たわり
  白露という日の雑巾を新しく
  秋の菓子夫を亡くした友ばかり
  ”雨は妹“という詩よ夏雨の厨
  猫にする小さき和解草の花
  タオルケット四つに畳み今日が見ゆ
  拭き込みしゴムの厚葉も初景色
  遺影の母にピンクのカーネーション和む
  会う毎に新涼を言う平和つづけ
  初しぐれそれぞれの地へ投函す
  野分あと翁の冴えて在しけり
  唐辛子熟れてますます独りかな
  春残雪当然のごと人逝くや
  膝に来る仔猫にありし夕心
  青き地球の小暗きニュース寒明ける

  老のひと日におやつの時間草青む
  春隣野良猫のらに魚煮る遊びかな

〈「しろ」12号より/二〇〇八年八月十日発行〉

《北原志満子略歴》ーーーーーー
 一九一七〜二○一五。佐賀県生まれ、本名シマ。佐賀県立神埼高等女学校(旧制)卒。一九五一年、「寒雷」同人、一九六二年、「海程」同人(四号より)。一九七九年、第三回「海隆賞」受賞。一九八五年、「佐賀新聞」俳壇選者。一九九六年、佐賀県芸術文化功労賞受賞。句集『北原志満子句集』(海程戦後俳句シリーズ)、『北原志満子』(花神現代俳句6)、『つくし野抄』。金子兜太先生は、北原志満子の俳句について、「ぼくが北原作品を好むのは、素地の健康さにある。なんだ他愛ない、と思われるだろうが、他愛ないことが大事である」と述べている(「寒雷」一九六二年七月号)。
 次号は最終回として、八木三日女を予定。
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