『海原』No.8(2019/5/1発行)誌面より
~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より~ ご参考:2023/04/19お知らせ
シリーズ・海程の作家たち《第三回》
堀葦男と前衛俳句および言葉と季語 谷佳紀
ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒
十代後半、写生に馴染めなかった私は、意識がそのまま言葉になっているような前衛俳句に、訳が分からないまま感心していたような記憶がある。その頃に堀葦男の名前とともにこの作品も覚えたはずだ。その後批判精神が旺盛になるにつれて、否定したり肯定したり、今になっても半々だ。
「黒」という観念にとらわれその観念を書き流しているだけのように思える。しかしぶつかり合って言葉が流れているようなスピード感、それを支えている熱気、一見理知的に見えながらも理知を押しのけて湧き上がってくる息づかいの激しさは、抽象絵画のように何かを比喩した黒を書いているだけの意味の塊のようであり、抽象絵画のように情念を言葉として吐き出しているような生命の流れを眼前に見せる。
「黒」という意味性の強い色のイメージにとらわれると意味の塊のようでつまらないが、韻律に乗って流れる「黒」の力強さにとらえられると「黒」そのものが具象として感受できる表現。この二つのはざまで私の思いは揺れるのだが、堀葦男という俳人が展開した前衛俳句は、このはざまで否定され肯定される典型的な作品ではなかろうか。
奇異な雨の大暗黒を銀行占む
燈を遮る胴体で混み太る教団
愛も無力河口黄昏に砂塵あげる
起きていた鏡ぼく真っ黒に存在して
見えない階段見える肝臓印鑑滲む
沼いちめん木片かわき拡がる慰藉
ある日全課員白い耳栓こちら向きに
沖へ急ぐ花束はたらく岸を残し
すべてが去りすべてが在り浮桟橋の動揺
全部途中の眼と手足轢死者のほかは
海へ散る課員稜線の松のように
顔の激流暗緑となり遅れる者ら
箱のような俺 中流で回転する
堀の第一句集『火づくり』は一九六二年(昭和三十七年)に刊行された。堀の名を高くした前衛俳句とされる作品のほとんどがこの句集にある。「ぶつかる黒」およびここにあげた作品もそうである。
さて、これらの作品と「ぶつかる黒」は対照的である。「ぶつかる黒」は動的であり表現されている意味が情的である。意味性の強い言葉で構築されているが、とことん抽象であり、韻律の軽快さが読み手の心中を駆け巡り、具体的な感情や景を導き出す力を持っている。ラッシュアワーやデモ行進、オートメーション工場の製品の流れ、それこそ黒という意識の流れでもよい。読み手の感情や意識に応じた景を導き、それによって表現を理解する手掛かりにする仕組み、つまり韻律がその仕掛けの役を担い、抽象でありながら具象を感じさせる表現で韻律なくして読めない。
一方、「奇異な雨」その他の作品の景は抽象化されたり、デフォルメされたりしているが具体的であり、容易にイメージ化することができる。主題を明確にする意図のもと言葉の意味性を生かしたイメージの表現になっている。イメージと言葉の意味は一つであり、読み手によってイメージが異なるという恐れはほとんどない。韻律の有無や相違はイメージに影響を与えない。韻律がよく働いている作品、韻律はあまり関係ない作品と様々だが、概ね韻律は脇役であり、堀の意識が生み出した韻律というよりは、定型詩という形式が生み出す韻律のようである。
その一方で「流れる黒」も「奇異な雨」その他の諸作品も言葉の表情は同じように見える。主題意識が強く、言葉は合理的に分類構築され、言葉の意味を最大限に活用している。情の迸るままという危うさはない。書かれているイメージの意味を読み取れば表現の役割は終了する。
おそらく堀はイメージが表現の核心であると考えている。自身が抱えている社会への関心や問題意識を明らかにする表現はイメージを書ききることであるとイメージに集中している。だが言葉の意味で形成するイメージ、意識や言葉が図式化され不分明なものが捨象されている表現は、不易流行でいうならば流行に偏りすぎているのではないか。俳句史を語る時には欠かせない作品であっても、読み継がれていく作品、影響を与えて行く表現であり続けるのだろうか。表現の肯定要素がそのまま否定要素になる、相反する性格がこれらの作品に付きまとっているように思える。「海へ散る課員稜線の松のように」「顔の激流暗緑となり遅れる者ら」に感じられる抒情が他の作品にもあれば様子がかなり違ってきただろう。
そういう懸念をはらんだ作品に対して以下の作品をあげてみたい。
太陽の専制・アメリカ(四句)
ぬくしかたし若く確かな牡牛の頸
旭はビル連峯に鐘の古塔は影の見方
孤影かきまわすバスの湯に水突き立て
「顧客選択権保留し」厚いテキ焼く店
太陽の専制・メキシコシティ闘牛(二句)
がくんと前肢大定型の死へ折る牛
鰤のように牡牛ひきずり二流の馬
(以上、句集『火づくり』)
赤道草原(四句)
天澄むと野猿禿鷹沼ふちどる
河馬に乗る河馬湖船にうずく黒乳房
愛の極みの黒人夫婦河馬など見ず
故障ラヂオのごとき夜の蟬椅子寄せ合う
(以上、句集『機械』)
いずれも海外へ出かけた時の作品である。「太陽の専制」には多少抽象性があるが、「赤道草原」には抽象の影がなく徹底して具象である。そして両方とも景をそのまま言葉で書き写そうという執念に満ちている。
「ぬくし」と断定し「かたし」とさらに強調し、なぜそのような断定と強調が必要か、その理由を明らかにすべく「若く確かな」とこれまたダメ押しの説明をして「牡牛の頸」と書きとめる。言葉に言葉を重ね、決定的な「頸」を突き付ける。その言葉の重なりを確実なものにする韻律も鈍く力強い重さでぐいぐい押してゆく。
日本の風呂とは違い西洋のバスタブは何とも侘しい。トイレットと一緒というのも奇妙な感じだ。殺風景で温かみに乏しいバスにお湯を張り温度調節をする。「孤影かきまわすバスの湯に」という哀感を淡々と叙述した後に突如屹立する「水突き立て」。蛇口から落下する氷柱のような水の柱。ミズ・ツキ・タテという詰まった言葉の響きは孤影の響きでもあり、「水突き立て」を立体化する。
有色人種である堀が、「顧客選択権を保留」されて入店したステーキ屋で居心地の悪い思いをしつつ、分厚いステーキに圧倒されている様子が映画の一場面のように浮かび上がってくる。事実を散文のように書き流しているだけだが、「顧客選択権保留し」という一文は鋭い彫刻刀で彫りこまれた文字のように尖り、この散文性が心を押し隠している堀の心を露わにしている。これは散文のような韻文であり、韻律の働きがなければ人種差別の状況報告でしかない表現になってしまう。
アフリカの大地に繰り広げられるおおらかな性の営み。河馬の大きな図体とその尻、黒人女性の大きな乳房と恍惚とした表情、河馬も女性も彫刻のような立体感がある。
この彫刻のような立体感は、これらの諸作品に限らない堀作品の特徴でもあり、言葉に言葉が重なってゆく重層感は、対象にのめりこんだ無意識を引き出すかのように働く韻律を得て、大きな彫刻作品が完成したような力強さがある。
ただ問題はこの韻律が表現に伴って派生する自然発生の韻律、俳句経験の韻律のように感じられることだ。短詩形における韻律の役割にはさほど注意を向けていないように思われる。
俳句という定型を支えているものは、五七五もしくは十七文字という文字数にあるのではなく、韻律の働きが根本にあると私は思っている。五七五で書かれた標語が時代を映す鏡として歴史に残ろうと俳句ではない。もちろん季語の有無を言っているのではない。標語の韻律とは標語に必要な調子を持っているが、それは俳句が俳句であるための韻律とは違う。五七五が生み出す韻律は単純でほとんど同じようでありながら、表現そのものを支配し、表現によってすべて違う、ということは論理で説明できなくとも俳句そのものが証明している。だが堀はその韻律を経験で活用するだけだったように思われる。
堀の俳論集に『俳句20章―若き友へ―』がある。俳句を志す若者に向けて書いた入門書を兼ねた堀の俳句観をまとめた書だが、そこで『「かたち」で書く』ということをしきりに強調している。ところがこの『「かたち」で書く』ということ、懇切丁寧に解き明かし、色々な俳句を例にあげて具体的な説明を心がけているが、結局のところ私にはよく理解できない。山口誓子の意識を写生に生かした構成法に触発されて考えを深めた内面の形象化をさすらしいが、論を読むより堀の作品そのものを見たほうがよほど分かりやすいと思える。すでに述べたように彫刻や浮き彫りを思わせる言葉の構築、奥行きのある絵画的景、そのような立体感のあるイメージが堀の特徴であり、写生説の平面から、眼と心の働きを統一したイメージの立体像を「かたち」としてとらえていることは間違いがないように思える。しかしこの「かたち」というものに韻律がどのようにかかわってくるかは語られていない。そこのところを堀に解き明かしてもらいたかったが、韻律がイメージを活性化させるものであり、韻律なくして言葉の自由は得られないということは、「奇異な雨の大暗黒を銀行占む」よりも「顔の激流暗緑となり遅れる者ら」のほうが内面をより具体化しているし、この作品よりも、上司として部下を支配しつつ思いやっている複雑な心情が具体的に書かれている「海へ散る課員稜線の松のように」の方に抒情性が強く社会への広がりがあるように思える。「孤影かきまわすバスの湯に水突き立て」は単に孤独であるというのではなく、心中を鋭く突きさす「水突き立て」という荒々しさは異国を旅行中の生活者の疲れが背景に感じられる具体感があり、「河馬に乗る河馬湖船にうずく黒乳房」には言葉を分厚く積み重ねてゆくことによって得られる言葉のおおらかさと強さを感じるのである。このわずかな例を見ても韻律が働くということは表現の要であると言えると思うのだが、その韻律について堀はどのように考えていたのだろう。
このように堀の作品に私は前衛俳句の頂点を見つつも同時に弱点も見てしまうのだが、堀はその弱点に気付かずに晩年を過ごしたように思えてならない。そのため前衛俳句の絶頂期に刊行された「火づくり」と、その勢いを持って書かれた多くの作品が収録されている「機械」以後の堀に私は興味を持てない。佳品がないというのではない。たくさんの作品を書き、発表し、活躍している。
エル・サルバドルにて
コーヒー林眼鏡いつしか火山灰ぐもり
コーヒー林深し黙って歩く人ら
太平洋硬し夏の日噛み入るに
メキシコ・シティにて
朝から逢引アカシヤ落葉掃かれつつ
インド曼荼羅
牛の眼のどれも穏やか洪水村
少女愉しげ仏弟子のごと繰棉機に坐し
粗衣の高官足の爪には酷暑の垢
(以上、句集『残山剰水』)
見る物すべてに自然に感応しようとするがごときの抒情の発露は、自然に親しみ人情に親しみ解放された情感が豊かに息づいている。まるで「太陽の専制」等の諸作に見られた熱気ある抒情を、穏やかな安らぎの抒情に置き換えたような落着きを持って表現を楽しんでいる。
花辛夷わが歯いくつか亡びつつ
燕来る巻き立つ濤の肚透きて
友らまたくせもの揃い海鞘膾
(以上、句集『山姿水情』)
肉体は老いても精神のたくましさを見せている。
鬼わめくこの世ながらも冬桜
木影みな縦縞となり水温む
流れては泊りわれらもゆりかもめ
伊吹山模糊と雪野に寺多し
雪富士やここは茶山に隠れつつ
2月9日病床
浅春ベッド管と数字に取りまかれ
2月13日病床
長滝ややがて花みずきよく決まる
漂客に点滴隣の寺に春の句座
遺句集『過客』からの最後の八句である。「鬼わめくこの世ながらも」という社会のとらえ方、「木影みな縦縞となり」という眼の働き、ここには前衛俳句の闘士であった堀の姿が見える。「管と数字に取りまかれ」と現状を嘆きつつも笑いがあり、季節感をあざやかにとらえている。だがこれらの作品を肯定したところで、堀が全身全霊を傾けていた前衛俳句の迫力に及ばない。堀の新たな展開は、堀の俳句生活を豊かにしたかもしれないが、私が堀について何かを書きたくなるような「何か」が見えてこない。
反対に、晩年の作品のほうが抒情豊かであり、人間性がよくあらわれ、表現も確かだ。前衛俳句の堀よりこちらの堀のほうが本来の堀なのではないかという見方もできる。そうなのかもしれない。そのような見方に反対はしないし、人生と俳句を楽しんでいる姿に野暮は言うなと思う。しかし前衛俳句のトップに立った俳人なのである。とりあえず今は野暮を言わせてもらう。
ところで本筋から離れるが、ここで無季ということについて考えてみたい。
無季俳句を推進した俳人が季語を肯定し有季俳句を積極的に書くようになると、季語俳人は有季俳句の優越性を宣伝し、無季俳句は若気のいたりであるかのように語るが、何と単純な反応だろうか。
そもそも季語を否定し、季語を排除し、季語を使わない無季俳句を書き続けることは不可能である。もしそれを貫こうとするならば、同じ生活を繰り返し書くか、同じ観念を書き続けるしかない。つまり類型化する。そんな表現は表現者として表現活動を続けることは不可能ということだ。なぜならば生活の言葉を失うからだ。季語に戻らざるを得ない。季語に戻ってはじめて本来の活動ができる。
季語といえども言葉である。しかも言語表現において欠かせない言葉、私たちの生活を支えている多くの言葉というより、ほとんどの言葉が季語として扱われている。俳句では季語であっても、俳句を離れた日常では言葉であり、生活に欠かせない生活語なのである。季語を排除した表現は生活を排除するに等しく、一時的には可能であっても、持続するものでないことは説明するまでもなく明らかなことだ。言葉であるが季語、季語であるが言葉、この二重性に有季に溺れまいとする俳人は向きあい、対峙しているのである。
季語という言葉は明治の末年に荻原井泉水と大須賀乙字が使い始めたのだそうだ。それまでは季題という言葉しかなかった。なぜ季題を季語と言い換えたのか、その理由を知らないが推測はできる。季題とは和歌の伝統を受け継いだ貴族の美意識を約束事としたものである。自然を反映しているが自然そのものでない。ところが正岡子規が写生説を唱え、写生を俳句の基本に据えた時、美意識でとらえた自然である季題では、自然そのものをそのままとらえようとする写生意識を濁らせる。そこで季語と言い換えた。美意識ではなく見たまま感じたままの自然、それが季語なのだ。これは季題の美意識を否定した革命的なまったく新しい言葉、単なる言い換えではなく思想の転換を促す言葉でもあった。しかし季語と言い換えることにより季題の美意識が消滅することはない。すでに言葉に付与されている思想をその言葉から排除することは不可能であり、季語という言葉の中に季題は吸収され、自然でもあり美意識でもある言葉になった。
このように季語という言葉を得て季題は更新されたが、俳句は季語に制約される表現であり続ける。それに疑問を持ち、表現の自由を求め、表現の領域を拡大しようとする表現者が現れるのは当然だ。しかもそういう表現者は実験精神に溢れている。新興俳句、社会性俳句、前衛俳句と様々な表現を試みる。無季俳句とこれらの表現運動が結びつき、無季俳句を書くためにこれらの表現運動があるかのようになってしまうし、これらの表現運動が表現領域の拡大のため無季俳句を必要ともする。そして無季俳句を積極的に推進しようという意識は有季俳句の否定、有季俳句を否定しないまでも表現意識は無季俳句へと向かう俳句運動となる。しかしそのような無季俳句の推進者もいつしか有季俳句に戻る。有季俳句しか興味のない俳人は無季俳句の敗北を嗤い有季俳句の優越を説く。
だがそんな単純なことではない。季語は季題としての長い歴史を持ち、私たちの精神と生活を支配し豊かなイメージを生み出す言葉になっている。季語として更新されたために約束としての美から解放され、生活すべてを包括する自由も得た。
季語は繰り返し耕され繰り返し肥料を施された豊かな土地なのである。名句とされる果実をたくさん生みだしているし、生み続けている。無季俳句はどうか。恋の句ならば書けるだろうという程度の、未開拓の痩せた荒れ地である。しかもほとんどの土地は季語に奪われている隅っこの狭い陽のあたらない土地でしかない。実績もない。そんな土地を耕して直ちに果実を得るなど夢物語である。少々の能力があれば果実を得られる季語という土地と、天才でも難しい無季という土地での勝負は明らかだ。それでも表現の可能性を求める俳人は無季を耕し続ける。そのうちに少しは無季の果実を得る。その一方で生活は季語と無関係でいられるはずはなく、季語の新しい活用に気づくようにもなる。無季によって見えてくる有季、才能が豊かであればあるほど、有季の緑野に開拓地を見ることができる。それは季語に新しい姿を付与することでもある。新しい表現は無季に限定されないものとなり無季の開拓にこだわる必要がなくなる。有季俳句に埋没し、有季俳句の範疇でしか表現を試みない俳人より、無季俳句を実践し言葉の実験を試みた俳人のほうが、季語を客観的に把握し可能性を見出す。そのようにして無季俳句と積極的にかかわってきた俳人も有季俳句を主とする俳人に戻ってゆく。これは後退ではなく当然の行動なのだ。現在も活躍している金子兜太、阿部完市の名をあげるまでもなく、無季俳句を積極的に開拓してきた俳人が、季語をより豊かにしていることは有季俳句しか見えない俳人には気づかないことなのかもしれない。
言葉と季語は切り離せない。季語を否定する俳人であろうと、季語を否定しないが無季を積極的に推進する俳人であろうと、言葉である季語なしで表現はできない。積極的に季語意識を受け入れて活用する姿勢に転じようと、季語も言葉なのだと、季語意識よりも言葉の普遍性を強調しようと、季語に戻るのは必然だ。繰り返すが、季語思想の受け入れを拒否し季語とされる言葉を排除すれば、その言語世界はいびつにならざるを得ない。季語は原罪のようなものであり、いびつな言葉世界から正常な言葉世界に戻るには、原罪を受け入れるしかないのである。ただそこにはやはり表現者の覚悟を見たい。堀の態度は自然の成り行きという感じでものたりないのだ。
〈資料〉
句集『火づくり』昭和37年12月1日・十七音詩の会
句集『機械』昭和55年5月1日・海程新社
句集『残山剰水』昭和55年9月1日・海程新社
句集『山姿水情』昭和56年8月1日・海程新社
句集『朝空』昭和59年5月25日・現代俳句協会句集『過客』平成8年4月15日・天満書房
評論『俳句20章―若き友へ―』昭和53年9月20日・海程新社
〈「しろ」11号より/二〇〇八年三月十日発行〉
《堀葦男略歴》ーーーーーー
一九一六〜一九九三。東京生まれ、大阪府箕面市に住む。東京大学経済学部卒。大阪商船を経て社団法人日本綿花協会、同専務理事。一九六二年、第10回現代俳句協会賞受賞。長く「海程」同人会長を務める。「火星」顧問、電通「一粒句会」講師。句集『火づくり』『堀葦男句集』『機械』『残山剰水』『山紫水情』『朝空』、遺句集『過客』。評論集『俳句20章―若き友へ―』。
堀葦男論では、第一回の林田紀音夫論に続き、谷佳紀氏の季語論が展開されている。次号は、北原志満子を予定。
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