シリーズ・海程の作家たち《第一回》巡礼・林田紀音夫~ 谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より

『海原』No.6(2019/3/1発行)誌面より
~ 谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より~ ご参考:2023/04/19お知らせ

シリーズ・海程の作家たち《第一回》

巡礼・林田紀音夫 谷佳紀

 林田紀音夫の表現世界は暗い。戦争体験や戦後の結核療養所生活、それによる失職と生活苦、さらには誕生してまもなくの子を亡くしていることなどが影響しているのだろうが、生活環境が変わってくれば表現も変わってくるのが自然である。ところが職を得て生活が安定し長女誕生と言う喜びを得てから、死やその周辺のイメージに固執するようになる。となればこれは性格や生活環境が大きく影響しているにしても、自分の表現世界はここに限定すると決めた意志によるものだと思わざるを得ない。実際に作品を見てゆくと、自ら表現の世界を狭めていったとしか思えない軌跡を辿っている。林田は自省力が並外れて強い人なのだろう。性格と生活そして表現体験が林田の思念を左右し、徐々に一定の方向に表現を導き意志を決定させたものと思える。
 一九六一年に刊行された最初の句集『風蝕』は、次のような美しい作品で始まっている。
  あぱーとにひそと飯食ひあたたかし
  たちむかふ山脉あはれ葱の花
  樹の下の夕ぐれみんな乳房もつ
  飴なめて花下の愁ひのいづこより
  人待てる椅子やはらかに暮春かな
  筍の空を発破のこだま駛す

 派手ではない。飛躍した言葉もない。淡々とした叙述は韻律に支えられ、静かだがしっとりした叙情が輝いている。真昼の輝きはないが、夕暮れの落着いた日ざしが感じられる穏やかさがあり、感傷的であっても決して暗くない。ところがこれらの作品は後の林田の選集に選ばれることがなかった。
 林田の選集は一九七〇年刊のシリーズ版と一九七八年刊の全集版がある。シリーズ版は第二句集『幻燈』としてまとめられる作品を書きつつあるときの選集であり、全集版は『幻燈』刊行後の選集である。この間わずかに八年間だが選句の傾向が大きく変化している。
 一番目立つのは『風蝕』には労働者という視点を強く打ち出した連作「吹田操車場二十一句」と「製鋼一〇句」がある。シリーズ版にはそれぞれから五句と二句選ばれているが全集版ではすべて削除された。
  信号掛若さ制へて硝子の中(吹田操車場)
  貨車も仲間暗き風雨を敵として
  救はれぬ色ばかり連結手渇いて来る
  仮眠四時間硝子一重に貨車ひびき
  構内にシャツ干す純白はあきらめ
  悪食の平炉を馴らし毛孔ひらく(製鋼)
  手が低く這う製鋼の冷めた部分

 選ばれなかった作品も少し揚げてみたい。
  傍観者に貨車の重量次々消ゆ(吹田操車場)
  日差しふんだんに操車場鉄の秩序
  倶に白シヤツ連結手には日が弾け
  貨車の牛も突放されて同じ速度
  製鋼所ごと加熱され眼窩くもる(製鋼)
  火葬より濃く稼動する炉の人体
  製鋼クレーン錆びた胃の腑を抽出する

 これらの連作は夕ぐれや月光の中でしか書かない受身の姿勢の林田が、突然変異したかのように、生の躍動感を捉えようとし積極的姿勢の力技で書いた作品群となっている。選集に選ばれなかった作品にその傾向が特に顕著である。「火葬」という語が生の力強さとして使われ、「錆びた胃の腑」も同じく積極的イメージとして捉えている。ところが、これらの外に向っている視線、陽光を浴びている作品群は、第二句集『幻燈』の諸作を書きつつあったときのシリーズ版ではまだ肯定されていたのだが、『幻燈』を刊行した二年後の全集版では姿を消したのである。目指す方向とは異質な表現と判断したのだろうか。さらに選句を見てみる。
    シリーズ版で選ばれ全集版で削除された作品
  一夜来し紫陽花の辺の濡れゐたる
  鴉ども梅雨このごろの米とぼしき
  川波をあきらかに見し珈琲のむ
  薬罐より出でたる白湯の咽喉をこす
  洟拭きしあと天国を希ひけり

    シリーズ版では削除されたが全集版で選ばれた作品
  なほ焦土蹠冷たく橋を越ゆ
  人妻の乳房のむかし天の川
  狛犬にそびらの虚空のぞかるる
  鬼灯の赤しと跼むことなしに
  雲雀より高きものなく訣れけり

    両方の選集で選ばれている作品
  月光のをはるところに女の手
  歳月や傘の雫にとりまかる
  風の中唾ためて貨車見すごせる
  汚されし川が朝より流れをる
  木琴に日が射しをりて敲くなり

 これらの作品は句集『風蝕』の始まりから類別に五句目までを自動的に抜き出したものである。前にあげた選集で選ばれなかった作品とともに見てみるとその違いが鮮明に見えてくる。すでに見たように日常性があっても感傷的叙情を湛えた作品は削除されている。日常性そのものが表現の発想となり、景をなし、しかも感傷的叙情に侵されていない作品が戦後シリーズで選ばれている。しかしこのような作品も全集版では削除されることになり、代わりに日常性よりも内面性を重視し抽象性が高く感傷的でない叙情的作品が全集版になって選ばれる。日常性を内面より捉えその結果抽象性が高い作品、一般的に林田の作品として評価が高い作品は両方の選集に選ばれている。そしてこのような作品系列がペシミズムというレッテルを林田に貼り付けることになる。しかしどうしてこれらの作品がペシミズムなのだろう。女性の手の美しさは絶唱だ。退屈をもてあました何気ない動作であっても日の光に輝いている木琴の音の透明感はすがすがしい。残りの三句の生活感は誰もが感じるちょっとした疲れである。散文的韻律が本来の俳句の韻律の華々しさと対照的に陰々としているため、疲労感を強調して受け止められたのだろうかとも考えてみたが、それも無理だ。林田が学んだ日野草城や下村槐太等の新興俳句系列の韻律であり、定型の韻律だ。レッテルで読むとそのように読めてしまうのだろうとしか思えない。療養所俳句も生活俳句も、多くの俳人のように定型と季語を利用して叫べば療養所俳句になり生活俳句になったのだが、呟きで書き続けたためペシミズムになった。
 『風蝕』は林田紀音夫の名を高めた。同色で彩られているようでありながら細かな色合いに彩られている多様な作品は、社会的俳句さらには前衛俳句という運動に連帯し、社会を内面化した視点から捉えようという姿勢のもと、時代の重苦しさを引き受けるように書かれた、林田特有の表現を実現しているのだった。
  乳房嵩なし死者の形に落着けば
  黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ

 この作品には事物を正確に観察し正確に書き取ろうとする冷静な目が働いている。
 句集の最期、両方の選集に選ばれている作品を四句あげてみる。
  引廻されて草食獣の眼と似通う
  消えた映画の無名の死体椅子を立つ
  低い融点の軍歌がざぶざぶ来る
  洗つた手から軍艦の錆よみがえる

 これらは内面の告白でもあり、社会の告発でもあり、両面から読み取れる表現になっている。決して自己に閉じこもっていない。閉じこもりはむしろ第二句集『幻燈』になってからが顕著だ。しかし『幻燈』の暗さは林田の意識的操作によるもので、家庭生活とはまったく無縁である。表現の根底は日常性が豊かであり暖かな呼吸が感じられる。
 『幻燈』は誕生した長女を主題にした句集のようなものだが、なぜか幼女は常に死と隣り合わせの薄明か闇の世界に置かれてしまう。
  ねむる子の手に暗涙の鈴冷える
  砂深く幼女が父の悲しみ掘る
  象へ手を出す幼女壊れた日差しのび
  手花火の童女の背後壊れぬ闇
  綾とりの母子茫々と暗くなる

 なぜ愛する子をこのような世界で包むのかとあきれるが、この暗さは林田の表現思想であり、林田でなければ書かれたであろう家庭の平安を、「暗涙」「哀しみ」という一語でひっくり返してしまった。しかし表現を丁寧に読めば、愛児を見る目は優しさに満ちている。幼女や家庭の暖かさに表現では同化できない林田が気の毒になるぐらい、幼女を慈しみ、一緒に遊んでいる父親の姿が見え、日常生活においては仲の良い父子であることをうかがわせる。暗さは生活を観念でひっくり返した虚構の世界である。
  青年よりパンジーと根の土を買う
  星はなくパン買つて妻現われる
  米洗う手の歳月を粗末にする
  産院のなまあたたかい廊下で滑る
  銀行が石となる夜の雨に濡れる

 このように幼女以外の作品をみると、慎ましやかな穏やかな家庭生活がうかがえるのである。一見平凡と思える「石」という語も、心情で語られた具象性を持っている。これは日常を具象として感じ取れる力がなくては捉えられないものであろう。
 つまり林田の表現の根底には常に日常の具体性がある。ところがこの具体性に林田は安住できず抵抗せずにいられない。抽象化思念化しようとする。ここまでは大方の表現者は誰でもそうだといえる。ところが林田はこの先が独特である。言葉の飛躍を極度に排した散文性と散文的韻律。無季俳句への極度のこだわり。自己模倣と非難されかねない同一の言葉の多用と似かよったイメージの作品群。これらの特徴は林田の定型観と季語観を抜きにしては考えられないほど限定的であり不自然である。私は林田の定型観や季語観を知らない。しかし作品を読めば推測できる。それぐらい徹底した実践をしているからだ。
 言葉は、発する「場」、もしくは書き留める「場」なくして発することも書き留めることも出来ない。場を形式と言い換えることが出来る。日常の話し言葉も話し言葉という形式であり場である。それは書き言葉である散文でも小説という形式、随筆という形式があって書けるのであり、これらに使用される言葉の現れ方はみな違う。話し言葉をそのまま小説で使おうとしても小説にならない。小説の言葉に加工した話し言葉にせざるを得ない。そういう意味で俳句形式の言葉が散文の言葉と違うのは場=形式が違うのだから当然である。しかも形式は言葉の感じ方や意味を微妙に変える。それはあたかも染色の際、同じ材料でも媒染剤の使い方で色合いが変化するようなものである。俳句の言葉は畸形であるという必要はない。畸形と感じるのは散文を標準とするからで、散文の言葉は日常の使い慣れた言葉に近いから自然な感じがするが、俳句の言葉は日常と離れているから不自然な感じがするだけなのである。ところが林田は俳句形式の言葉を極力散文に近づけようとした。俳句を書きつつ俳句の言葉を拒否したのである。俳句形式は散文の意味性からかけ離れている。切れはその装置であり、言葉の格闘技的な飛躍によって表現世界を獲得している。それを別な視点から見れば、読み手の感性に読み取りの大部分を任せた曖昧な表現であるということになる。この二面性を林田は嫌った。書かれていることを確実に読み取れる表現、いかなる読み手であろうとも読みに揺れが生じない表現を求めた。そうであれば飛躍のない意味の連続性を表現手段にしている散文的な書き方に徹するしかない。これは季語の排除にも通じる。
 季語は季題でもあり、季語と季題は一体化している。つまり季節の観念であり、季節感であり、季節であり、季語に分類されてしまったなんでもない言葉であったりする。筑紫磐井氏によれば季語という言葉は明治末年に荻原井泉水と大須賀乙字が使い始めて、新傾向俳句運動の広がりとともに一般化した言葉であるという。一方、季題はもともと王朝文化の美の観念と季節感が一体化し、連歌・連句・俳諧という変遷を経て定着した観念としての季節感、美意識である。約束であり自然とともにあるが自然そのものではない。ところが、季題が季語と言い換えられたことにより混乱が生じてしまった。言葉と自然現象の結びつきが強まり、季題という観念の美意識は軽視され、季節のものなら何でも季語になった。しかし季節感さえあればなんでも季語だと、季語として登録するときには軽視した季題という観念、美意識も季語に加わったままだから季題の作用は季語にも作用する。観念の季節と自然の季節がごちゃ混ぜになってしまった。例えばトマトが季題であれば、トマトの季節は観念としての自然、美意識であり、夏と限定してもなんら問題はない。そういう美意識を私たちは共有しましょうと約束しただけのことである。しかし自然であるならば、年中出回っているのにどうして夏なのかということになる。雪月花という古くからの季語は季題の作用が強く働き、トマトのような新しい季語は自然の作用が強く働く。南国と北国の季節のずれも季題であれば問題にならないが、季語という自然でもあるために問題になる。さらには歳時記によって類別される季節が違うものまである。季語は俳句の要だと言われながらでたらめに近い混乱状態である。正岡子規以前は季題であるため混乱はおきようがない。「そういう約束になっている」でよいのだ。しかし写生ということになれば自然現象が問題になってくるのは避けられず、季題の変質、季語という言い換えと混乱はいずれ生じるものであった。とは言え俳人は俳句観や表現の内容に応じて意識しないまま使い分けているから実作の場での混乱はない。季語があれば俳句であるかのように活用されている。
 林田も季語が単なる自然現象であり、美意識と言う観念を持っていない無化された言葉であったならば問題にしなかったであろう。しかし季語をどのように無化しようと試みても無化できるものでない。美意識が強いか自然が強いかの差はあれ、作者の意図を超えた美を作り出す。俳句では季語は表現以前にすでに季語なのである。書き終えた俳句の内容によって季語になったり普通の言葉になったりするのでない。季語は季語であり、その美を表現者は利用しているのであり、その美は表現以前に美として決定されているという観点から見れば、表現者は季語に支配されていると言ってもよい。これもまた俳句の特徴であり、活用によっては表現を大きくする力なのだが、勝手に表現を支配してしまうという困った言葉でもある。特に林田のように言葉を自己の管理下におき、勝手な働きを許さない表現者にとって、表現以前に美を持っている季語は許せない言葉である。林田が無季俳句しか書かないと決意したときの無季俳句は、季語からの開放という、表現の自由、表現領域の拡大を目指したのではない。表現者の意図を忠実に実現するための無季俳句なのである。もともと季語の使用が少ない林田も療養所時代までは季語をそれなりに使っているが、療養所を退所してまもなく、ほとんど季語を使わなくなった。もうこのころには考慮していたのだろう。
 『風蝕』の最後の抄「風葬」で文語表記から口語表記に変わっている。表記方法の変更というのは時には表現思想の変更になるのだが、林田の場合はそれまでの表現に合わせた、内容にふさわしい表記に移ったに過ぎないような印象である。
  鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ
 は林田の名を不動のものにしたが、療養所から退所してまもなくの作品であるから『風蝕』の前半に位置し、文語表記時代に書かれている。ここで表現されている死には観念性がない。情緒的であり通俗的だとも言える。それは「鉛筆」という語がいささかも抽象化されておらず、鉛筆=消しやすいというイメージの常識と飛躍のない通俗的連想を利用して提示された「遺書」であり、さらに「忘れ易からむ」と鉛筆に絡めた蛇足に等しい説明を加えて書かれているという、徹底した説明文に仕上げ、ここまで書いたならわからない読み手はいないはずだというぐらい具体化することにより、逆に遺書の存在が鮮明になるという思いがけない表現を実現した。しかも鉛筆と遺書という組み合わせは意外でありつつも、読み終えてみれば抵抗なく情にしみこみ違和感がない。ここで使われた言葉や組み合わせは決して滑らかなものでないし内容もそうなのだが異物を感じさせない。これは情そのものが表現動機であり、観念が存在しないからと思われる。林田は戦争でそして療養所で死というものになじみ、死は生活の一部で情に溶け込んでいたということを示している。句集では
  顔洗ふときにべとつく雨の音
  月になまめき自殺可能のレール走る
  鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ
  鏡裡の顔以上たり得ず木の葉髪
  いづれは死の枕妻寐し月明に

 と作品は並んでいる。いずれも情が濃厚にあるが個人の情に終始し、人とのつながりの意識がない。一方、
  舌いちまいを大切に群集のひとり
 は句集の後半「風葬」の抄で書かれている。ここには群集の中にあっての孤独と同時に、群集とつながっている自分を熱く意識している林田がいる。情は社会意識とともにあり、情の質が変化した。「鉛筆の遺書」のような甘さはなく、輪郭が明確な映像がある。「舌いちまい」の暖かさに命は燃え、死の影はない。
  夜の重みで失速する河押される胸
  ラーメン舌に熱し僕がこんなところに
  舌いちまいを大切に群集のひとり
  ペンキの赤が落ちない襤褸を風呂で着る
  競艇のない日の湖で何が釣れる

 「風葬」の抄はこの五句で始まっている。「鉛筆の遺書」を書いたころは「死」は生活の中にあり、それゆえに死は情に溶け込んでいたが、情であったがゆえに観念として林田を支配していない。療養所を退所したが、生きるため生活の再建のための就職活動の困難さは、遠のいた情としての死にこだわる余裕を与えなかったということもある。それに吹田操車場二十一句を書く意欲があったように、社会という外部状況に反応する姿勢があり、内面に閉じこもる意思もなかった。口語表記に変わるときも死の観念は姿を現していない。このころの林田には社会に向って積極的に発言する意欲があった。孤独だが社会意識が強い。無季俳句の前途になんら問題はなかった。
 ところが長女の誕生で明瞭になるのだが、林田の社会意識は家庭を断ち切ったところにある。家庭は社会と別の宇宙を作っている。したがって家庭の外では「しゅう」という意識を持つのだが、家庭に入ったとたんに「孤」になる。孤は純粋を目指し観念にとらわれて身動きできなくなる。
 皮肉である。生活が安定し長女が誕生し家庭の幸せにつつまれたときに「死」は林田に取り付いた。さらに皮肉なことには、林田が手に入れた表現手法は「死」に取り付かれた林田をますます「死」に縛り付ける力として働いた。
  ねむる子の手に暗涙の鈴冷える

 昭和三十九年秋に長女を得て、そのちいさな存在が、私の俳句に新しいテエマをもたらした。ただ、ずっと以前にひとり亡くしているだけに、生命の脆さ・はかなさが意識されてならなかった。そのために、世のめでたさとは別のところで、嬰児から幼児への生育を見ることが多く、愛すべき存在というよりは、怖いもの・危ういものを培うような切なさにしばしば捉えられた。

 全集版に添えられた「自作ノート」のこの一文に疑問はない。生命を手にしたとたんに死も手にしてしまった。しかも意識を忠実に捉えることを目的にした表現は死を拒否できない。幼女=生命は死の観念を誘発する。幼女と死は一つのものになってしまった。
  傘濡れて立つ一隅に日々親しむ
  河に落暉を見て吊皮の触れあう他人
  熔接の火を星空の暮しへ足す
  鉄骨を組み全天の錆あつめる
  石油罐音たて苦さつのる軍歌

 幼女を捉えなければ死を捉えずに表現できた。しかし『風蝕』では孤独であっても集に連帯する生命が燃えていたが、『幻燈』では孤独は孤独に終始し、集は無関係な「他人」になっている。こうなると悪循環だ。
 表現は心を開放する。名句が出来ればうれしい。実力以上の作品がまぐれで書けることもあり、そこには定型の力が働いている。季語信奉者なら思いがけない季語の働きもある。ところが林田は「まぐれ」とか「思いがけない」という作品の書き方を拒否している。林田の表現は設計図の読み取り作業のようなものだ。その設計図に定型の「切れ」や、俳句の宿命としての季語が紛れ込んでいれば、表現者の混乱、番狂わせが生じ、思いがけない事態になる可能性があり、そこから転機が生まれるということもありうるが、そんな余地はどこにもない。崖の一本道を歩いているようなもので、林田に取り付いた観念は林田を支配してしまう。崖の道に枝道はない。林田自身が閉ざしている。表現者としての矜持は表現の余地を狭め、表現を観念に導いた。表現は心を開放するものとならず観念を提示するものになってしまった。表現の喜びは林田から消え去り、苦さだけが残った。それでも書き続ける。何という意志の強さだろう。
 『幻燈』以後の句集はない。全集版に『幻燈』以後(昭和48―51年)として少々残されているだけだ。そのためやむを得ず『幻燈』以後の作品を知るため手持ちの海程のバックナンバーから作品を拾うことにした。作品をパソコンに入力しつつ私のこのような行為を林田は喜ばないだろうと思った。頻出する似かよった言葉、類想句のおびただしさは、雑誌への作品発表は試作品を試す場であり、あれこれ試作しつつ完成品になるべき作品を発見しようとしているのだろうと思わせるものであった。しかし自己模倣と批判されかねない作品の頻出は、表現手段の厳格さとテーマの狭さ故に、避けられるはずがない。二句集でも目立つ特徴でもある。さらに作業を進めているうちに、林田は荒れ狂うたましいを鎮めるために念仏を唱え御詠歌を歌っているような気がしてきた。ままならぬ表現ではなく、ままならぬ自身の心に苦しんでいるように思えた。こういった作品を、バックナンバーという雑然とした状態で読まれることを忌避したい気持ち、句集という精選した場で読んでもらいたいという気持つを持つのではないか、という思いが伝わってくるのだった。あえて最後の作品をあげてみる。
     一九九七年 三二九号
  巡礼の鈴の幾夜か夢寐に聞く
  向日葵の日を失えば見殺しに
  空缶を並べて薄暗い卒塔婆
  空缶のいくつ冥土へ連らなる色

           三三〇号
  深爪を切っていよいよ夜に向う
  渚まで数歩数十人の翳
  何処をどう歩いて海のこがらしか
  杖をひく軟骨いずれ寂寞と

           三三一号
  日箭幾条のさびしさか午前午後
  木の葉草の葉さらに残照他人ごと
  枯葉枯枝みな兵爨の彼の日より
  取りとめもない雨終の小糠雨

 三三一号で林田の作品は終えている。この最期の三号分十二句は偶然のことだろうが林田の作品テーマが全部そろったと思えるようなものになった。しかしかつてのような苦しみの様子は薄れ、言葉の粘り気が消え、さらさらとした穏やかな言葉になっている。茫漠とした空間に放下した影がゆったり歩んでいるような静けさである。晩年には草花も少し姿を見せるようになったが、それでも季語臭さを消すように、草花の情にもたれないように注意している。結局林田は意志を貫いた。表現の静けさは年齢によるものなのだろうか、それとも死をまもなく迎える安堵なのだろうか。「死」もさらさらになった。
     一九九七年 三三八号
  午後になる炊き出しの湯気ひとの息
  瓦礫また瓦礫テレビのそのつづき
  薄明の身を苛んで余震の揺れ
  廃屋のやがて瓦礫の夜の弱震
  洗顔の水何ごともなく消える

  巡礼の海山の恩そらんじる
 この六句は記念号のため、発表済み作品からの自選作品で、最後の自選である。阪神淡路大震災の作品は吹田操車場二十一句を思わせるような外部に目を向けた息吹が伝わってくる。そして感傷的な言い方であるが、自選最後の作品は林田自身が日常を巡礼していたようなものであったと自覚していたかのように読めるのである。

〈資料〉
句集『風蝕』昭和三六年六月、一七音詩の会刊(現代一〇〇名句集8・東京四季出版の再録版を使用)
句集『幻燈』昭和五十年八月(牧羊社刊)
戦後俳句作家シリーズ18林田紀音夫句集(海程戦後俳句の会一九七〇年刊)
 *文中でシリーズ版と表記
現代俳句全集6 林田紀音夫集(立風書房・一九七八年刊)
 *文中で全集版と表記
海程八九号〜三三一号・三三八号掲載の林田紀音夫作品。(但し、百七〇号及び二七六号〜三〇四号は欠本のため未詳)
現代俳句の展開43・現代俳句と読み 現代俳句協会青年部
 *筑紫磐井氏の発言(現代俳句協会 一九九九年刊)

〈「しろ」6号より/二〇〇五年十二月十五日発行〉

《連載にあたって》編集部ーーーーーー
 谷佳紀氏が急逝した。ただ呆然とするのみである。谷氏は「海程」初期からの同人であったが、俳句の可能性に挑み続けた作品群とともに、歯切れのいい率直な批評と鑑賞で俳句仲間を魅了してきただけに、返す返すも残念でならない。
 谷氏は二○○四年から二○一三年にかけて個人俳句誌『しろ』を19冊刊行した。「自分の問題は自分で解決するしかない」(1号のあとがき)との信念からで、自身の俳句だけではなく、多くの優れた俳句作家論を執筆している。谷氏の追悼と多くの方々に読んでいただきたいとの思いから、「海程の作家たち」と題して、何人かの作家論をシリーズで紹介することにした。
 無季俳句の実践で著名な林田紀音夫(一九二四〜一九九八)論は、「しろ」6号(二○○五年)に発表。なお、翌二○○六年に『林田紀音夫全句集』(富士見書房)が発刊されたことを付記しておく。次号は、阿部完市を予定。
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