『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む:兜太という俳人の今日的人間考察① 岡崎万寿

『海原』No.17(2020/4/1発行)誌面より

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む
兜太という俳人の今日的人間考察  岡崎万寿
《3回連載・その1》

はじめに

 金子兜太生誕百年を記念して、二〇一九年九月、第十五句集『百年』が刊行された。帯文の、兜太のことば
 「俺は死なない。この世を去っても、俳句となって生き続ける」
が、なんとも嬉しい。燻し銀のような声で、じんわりと心へ伝わってくる。
 同じ頃、待望の『金子兜太戦後俳句日記』第二巻(一九七七〜九三年)も出版され、いよいよ兜太という俳人の全人間が、全作品・書籍とともに奥行をもって考察され、理解され親しまれる状況となってきた。兜太研究に関する基本文献が、ほぼ出揃ったといえる。
 そんななか、創刊されたブックレット『朔』一号の「特集金子兜太句集『百年』を読む」に載った、俳人、作家たちの数々のことばの中で、私は他界した兜太のこれから、に期待するといった少し奇妙な発言に、目を止めた。

 私は時折、令和時代の金子兜太、ということを考えます。……大きな足跡を残した金子兜太という存在は、令和の時代をさらに力強く生き抜いていくことができるでしょうか。金子兜太の俳句とその功績はこれからの俳人にどういった影響を与え、継承されていくのでしょうか。(宮崎斗士)

 そう、生身の人間だからこそ言葉が朽ちない。……死後、成長する俳人だろうと思います。優れた作家は死後も成長するんですね、存在していた時以上に。金子さんはそういう一人になるだろうと、そういう予感がいたします。(宇多喜代子)

 この「令和の時代に生きる兜太」「死んでも成長する兜太」といった、未来志向のことばが、光って見える。そうあってほしい。小論は、その未来志向で、『金子兜太戦後俳句日記』の解析を中心に、俳人兜太という人間そのもの、俳句と生き方そのものに肉迫したいと思う。
 六十一年間、全三巻に及ぶ同『俳句日記』は、そのための好個の基本データである。その第一巻、二巻を流れる特徴の第一は、小説「トラック島戦記」を書き上げたい、異常とも言える兜太の執念である。先の小論「俳人兜太のトラック島戦場体験の真実」(「海原」10・11・12号)で書いたように、その格闘は、第一巻(一九五七〜七六年)で十八年かけても終わっていない。では、第二巻ではどうなのか。
 特徴の第二は、人間の極限状態といえる「死の戦場」体験と、その深刻な自己検討に発した、戦後の俳人兜太の生き方である。それは、〈心奥〉の自由を求め、人間のもつ本能、欲望、エゴイズムを率直に見つめつつ、「なすべきは我にあり」と、透徹した自己省察と自己進化、成長を重ね、ダイナミックに時代を生き抜いた、俳人兜太の知られざる内面史である。
 俳人兜太とは何者か。興味津津、考察を深めてゆきたい。

㈠ 兜太の「トラック島戦記」追考

 『俳句日記』第二巻でも、俳人兜太の小説「トラック島戦記」を書く熱意は、依然続いている。その主な部分だけ、紹介することにしよう。それ自体、みごとな日記文学だと思う。

 二月二十八日(一九七七年)
 どうしても戦記を、の執念もえるばかり。怨念にちかい。……当面戦記に徹すべし。
 七月八日
 皆子曰く「戦記を書いているときがいちばん楽しそう」と。気分楽しく、文章苦渋。
 七月十四日
 戦記。……とにかくこれをやらなければ話にならない。朝から蒸し暑いが、気力をこめる。
 七月十六日
 俳諧と戦記。戦記完成まではこの二本に絞る。
 七月二十日
 戦記。どうも稚拙におもえて、途中直したりして、すすまない。かたくなっているせいだ。それと、新興俳句事件
など、新に加えたせいもある。
 八月十五日
 敗戦の日。わが戦記いつ成るや。焦らず、しかし持続的に書きつづけよ。願わくば、せめて成るまででも環境に変化なきことを、父母妻子孫、すべて健康であれかし。
 九月三十日(父死す)
 十二月三十一日
 しかし散漫。……以後「戦記」を主題として、集中方式をとらないと、まとまったことはできないとおもう。
 五月八日(一九七八年)
 はやく戦記に着手したい。なによりも私自身の〈人間のために〉、一刻も早く書きたい。
 八月三日
 朝焼。しきりに「椰子の丘朝焼しるき日日なりき」をおもいだしている。のってきた。この大朝焼は合図のごとし。戦記再開。
 九月十六日
 戦記。……かるい不安もわいたりするが、なんのなんの。戦記のあと、読売の選と一茶季語集の下書き。このほうはあまり気がのらない。
 十一月三十日
 戦記に戻る。まだ雑事はあるが、戦記に集中すれば余暇でやれるていどのこと。戦記と俳論(時評)、一茶(一茶季語集)だけをやること。
 四月四日(一九七九年)
 一茶、戦記、中山道、秩父事件、秩父路の線をやりぬけば、〈死者に酬いる〉自分なりの生きざまが見えてくる。
 九月六日(一九八〇年)
 さて、おれはなにをやるかと考えてしまう。中山道が終ったら、歳時記をやりながら、秩父の日常記録をやる。そして戦記をやり、秩父事件におよぶ。――そんな展望をおっかなびっくり固めながら、「国民文学」とは何かとおもっている。

 見るとおり、一九七九年、八〇年の『日記』では、「トラック島戦記」はいくつもの並立する当面の課題の一つとなっている。そして、事実上の終わりとなったのは、一九八〇年十月二十九日、筑摩書房の編集者から「戦記」の草稿を読んで、「先生らしくない文章」(ゆるい文章)と評されたことだったようだ。その後の『日記』で、兜太はこう書いている。

 十一月四日(一九八〇年)
 筑摩井崎氏より手紙。小生電話して、秩父事件を先にやることを伝える。戦記は〈方法〉をかためなければ繰りかえしになる。そのあと、軽い落胆、不安。戦記をやはりやるべきだったかなどと軽い惑い。

 こうして、一九五八年十一月以来、兜太三十九歳から六十一歳までの、丸二十二年間に及ぶ小説「トラック島戦記」(筆者注・『日記』では途中から「環礁戦記」と変わったが、小論では統一してそのままのタイトルを用いる)の執筆、取り組みは、強烈な書きたい意欲と予想外の難行との鬩ぎ合いの中で、ここで実際上の終末となっている。
 年譜を見ても、この当時、兜太は朝日カルチャーの講義開始(一九七八年)、「海程」秩父道場開始(一九七九年)、第一回俳人訪中団参加(一九八〇年)、現代俳句協会会長就任(一九八三年)、「わが戦後俳句史」海程連載開始(一九八四年)など、ますます多忙を極めている。それでも兜太の中では、トラック島は終わっていなかった。

 十月二十三日(一九八三年)
 そこで話した「戦後の試行錯誤は〈死者に酬いる〉ことを生き方の根柢にしたところからはじまる」という線にやはり執してゆかねば、とおもい、「わが戦後俳句史」とともに「環礁戦記」をと決める。自分で納得できる生き方を、と改めておもう。
 十二月二十五日(一九八五年)
 来年の計画を練る。……小生自身「環礁戦記」に未練もある。しかし、いまの時期、昭和三十六年以降十五年間の俳句と自分に取組むべきかもしれぬ。迷う。

 兜太にとって、「トラック島戦記」とは、なにより自分自身の〈人間のために〉、自らの〈生きざま〉として、精魂をこめた人生的なものだったのである。そのために、二十二年という膨大な時間とエネルギーが投入されている。
 したがってその草稿が未完成、未発表に終わっても、その過程での、生死の戦場体験にもとづく赤裸々な人間考察の反芻、深化は、それからの兜太独自の人間観、俳句観、世界観の展開に、色濃く反映されていることは間違いない。そのことは四章で述べる。

㈡ 人間の極限体験をした表現者

 ここで私は、「トラック島戦記」に執念を燃やし続けた兜太の生きざまを、さらに深く真っ当に理解するため、同じく、第二次世界大戦中、アウシュヴィッツで人間の極限状態を体験した、ユダヤ系イタリア人作家プリーモ・レーヴィの古典的名著『これが人間か』を、改めて読み返した。そして兜太との意外な共通項を発見して、驚いた。
 レーヴィの生まれは、兜太と同じ一九一九年。ナチス・ドイツの強制収容所に送られたのも、兜太のトラック島赴任と同じ一九四四年。そのトラック島戦場は、米軍の包囲作戦で補給路を断たれ、極端な飢餓状態に追い込まれ、軍人軍属四万人のうち八千人が、ほとんど餓死している。うち兜太率いる土建の民間部隊が、もっともひどかった。アウシュヴィッツではユダヤ人をはじめ百六十万人が、ガス室で、無惨に死んだ。
 レーヴィは化学技術者ということもあって、僥倖にも生還した一人である。『これが人間か』は、次の詩から始まっている。

 これが人間か、考えてほしい/泥にまみれて働き/平安を知らず/パンのかけらを争い/他人がうなずくだけで死に追いやられるものが。
 考えてほしい、そうした事実があったことを。/……そして子供たちに話してやってほしい。

 兜太とレーヴィは、二十歳代中頃に、人間が人間でなくなる異常な極限状態を体験し、その生ま生ましい体感、記憶を自らの肉体に刻み込み生還した、数少なくない表現者である。生き残った自分はなにをなすべきか。生涯かけて自問自答し、それを自らの人生の課題としている。そこに共通する三つの特徴を挙げると――。
 一つは、戦争とファシズムによる、こうした超非人間性への体ごとの告発、警告である。

 兜太 戦争体験というものはフィクションじゃない。我々生き延びてきているものには、語り伝える義務がある。(『語る兜太』)

 レーヴィ 「他人」に語りたい、「他人」に知らせたいというこの欲求は、解放の前も、解放の後も、生きるための必要事項をないがしろにさせんばかりに激しく、私たちの心の中で燃えていた。(同著・序)

 二つは、生き残り生還した自己への、微妙なこだわりである。

 兜太 こちらは主計(筆者注・食糧調達の担当官)として、あと何人死んでくれたら、この芋で何人生きられるかとさいないう計算をしてしまう。自己嫌悪に苛まれました。(『のこす言葉 金子兜太』)

 レーヴィ この生き残りの問題は、アウシュヴィッツ強制収容所から解放された後も、レーヴィの心の中でわだかまりとして残った。……死ぬまでそうするのである。(訳者解説)

 三つは、戦後二人とも、表現者としての仕事と並行して、戦場及び強制収容所体験の語り部となって、広く訴え続けたことである。

 「戦争法案」反対で高揚した二〇一五年を頂点とする、兜太の語り部活動は周知のこと。『金子兜太戦後俳句日記』第二巻では、早くも一九八九年四月、国学院大学で自治会主催の講演「危機の時代に生きる学生に望むこと――私の戦争体験と俳句」について、話をしている。
 レーヴィも、「強制収容所について語るのを義務と考え、中学校、高校からの講演の依頼を受けると断らずに出かけ」たそうである。
 『これが人間か』の初版は一九四七年十月だが、強制収容所に関する考察の集大成ともいうべき評論集『溺れるものと救われるもの』の出版は、一九八六年四月。つまり、彼が自死する一年前まで書き綴っている。「若い読者に答える」で語る次のことばは、彼の信念でもあったろう。

 ファシズムは死んだどころではなかった。ただ身を隠し、ひそんでいただけだ。

 兜太とレーヴィの生涯と、その表現を見ると、普通では想像を絶する、人間破壊の悲劇を体験した人間でないと、本当には分からない、人間の尊厳をかけたあるものが確かに存在する。そこから湧き立つ表現意欲は、尋常ではない。兜太が二十二年間にわたり執念を燃やした、「トラック島戦記」が、その顕著な一例であろう。
 最終章の句集『百年』には、そうした惨い戦場体験を抱き、終生語り尽くしたい兜太の内面が、俳句作品として重く立ち並んでいる。

 昭和通りの梅雨を戦中派が歩く
 雨期の戦場雑踏の街旦暮かな
 戦さあるなと逃げ水を追い野を辿る
 南溟の非業の死者と寒九郎

 今日、金子兜太という表現者の人間と俳句、評論、エッセイを論じ、鑑賞する場合、この新しいデータにもとづく視点が、新鮮に求められていると、私は思う。
(次号へつづく)

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