「見る」人と「聴く」人 佐孝石画◆第3回海原賞・海原新人賞受賞作家の俳句を読む

『海原』No.38(2022/5/1発行)誌面より

第3回海原賞・海原新人賞受賞作家の俳句を読む

「見る」人と「聴く」人 佐孝石画

◇鳥山由貴子特別作品「ピロピロ笛」

  動体視力わたしとアオカナブンの距離(二〇二一)

 「見る」という行為は実は不確かなものである。鳥山の句からはその曖昧さと変幻性の具現に対するこだわりを感じる。人体に付属する目は二つあり、対象に近づけば近づくほど、距離感(対象の奥に広がる世界)と焦点の混濁に惑わされる。カメラが一眼で、一つの焦点にかっちりと対象物をとらえるのとは全くの別の世界が、我々の普段目にしているものなのだ。かつて彫刻家のジャコメッティは肖像画を制作する際に、顔の最も先端にある鼻がどうしてもうまく出来ず、キャンバスの鼻を何度も削り取り、やり直しながら、「メールド(糞)、実際にはこんな風に見えない」と叫びながら制作し、ついに顔の中心部の鼻を描くことができなかった。彼女は「見る」。「アオカナブン」は一眼でもなく、二眼でもなく複眼である。カナブンと顔を突き合わせ、「見る」ことの不思議を感じながら、「動体視力」にまで彼女の思いは馳せる。

  停止線あまた誰かが鳩を吹く(二〇二一)
  ツバメノート罫線は露草の青(二〇二一)
  プラタナスの青き実わたしの垂直跳び(二〇二一)

 目に飛び込んでくる様々な風景。ぼんやり眺めるのでなく、それぞれの対象に確とピントを合わせ「見る」。白く引かれた「停止線」から、ノートに引かれた「罫線」から何かが始まる予感がする。もしかしたらこの気づきは別の世界への「入口」ではないかという予感。その入口は徐々に仄明るい光源から、明確な色彩を帯び始め、新たな異世界のメルヘンが描き出されていく。そしてその世界に自らも「垂直跳び」をしながら加わっていく。
  うらを見せおもてを見せてちるもみぢ 良寛

 彼女は「見る」人である。人(パーソン)が仮面(ペルソナ)を語源とするように、人には仮面とその内に潜む別の顔がある。彼女のややシニカルな視点はものごとには裏表があることを前提にしたところから始まっているような気がする。

  落し穴少し欠けてる冬の月(特別作品)
  やさしさと赤いセーターちくちくす(特別作品)
  鳰を待つ夕暮色の椅子ひとつ(特別作品)

 彼女の俳句を見ていると、この世の表裏をシニカルに傍観しながら、ときにその局部を凝視し、ぼやけはじめる世界の全体像と、焦点を合わせた異世界の入口との風景の揺れ幅に酩酊する姿が見えてくる。そしてサーファーが波を見つけて嬉々としてそのライドに挑むように、俳句という小さな器をもって、異世界の前に愉悦して佇む作家の姿が見えてくる。

  手のひらに文鳥文庫二月果つ(特別作品)
  春の蠅ガラクタの中にあるひかり(特別作品)
  野遊びのようピロピロ笛を吹鳴らす(特別作品)

 前へ、先へ歩みを進めるうちに、彼女は軽やかさを纏い始めた。それは異世界を汲み取る俊敏さ、そのためらいのなさである。その俳句感覚は金子先生の言う「定住漂泊」に限りなく近づいている。

◇木村リュウジ既発表作品を読む

  冬蜂や目と目を合わせない握手(二〇二〇)

 木村さんとは会ったことがない。が、この句を手にすると、会ったような気持ちになる。悴んで動けない冬の蜂と、人見知りで目を合わせたくても俯いてしまう自分。でも、手を差し伸べてくれた右手のその温もりと、柔らかさに、胸の奥からじーんと何かが解されてくる。存在を「許される」感触。
 金子先生と会える機会がある度、俳句の明日を許されるおまじないを得るように、先生に「握手」を求めた。地方から集った海程人が先生の前で列をなす中、僕もどきどきしながら「目を合わせない握手」を待っていた。その温もりのおかげで、俳句を続けて来れた気がする。木村さんは、金子先生と握手してもらえただろうか。君と握手がしたかった。目を合わせない者同士が握手したらどんな感触がしただろうか。

  夜という大きな鏡冬蝶来(二〇一九)
  とどかない言葉ばかりの雪の朝(二〇一九)

 「夜」という時空は一枚の鏡となり、我が身を映しながらも、受け入れることなく突き放してくる。白一色に塗り替えられた雪の「朝」もまた、「とどかない言葉」の中でくぐもる自分を眩く撥ね返す。でもその突き放し方がまた、彼にとっては優しさでもあったのだろう。

  賢治の忌雲に名前をつけてみる(二〇一九)
  寒色のペディキュアを塗る太宰の忌(二〇二〇)
  紀音夫忌や鞄の本が濡れている(二〇二一)

 賢治、太宰、紀音夫に会いたかったんだろうなと思う。彼らも「とどかない言葉」だと知っているからこそ、言葉を探し続けていた人達だったから。そんな仲間に会えるかもしれないと「海原」に投句していたんだろうと思う。

  詳しくはないけど虹の手話だろう(二〇二〇)
  耳鳴りに明日のかもめを描き直す(二〇二一)
  はじまりの台詞に吃る冬菫(二〇二一)
  まだ声を持たない嘘や実紫(二〇二二・一月掲載)

 彼の身体感覚には独自のものがあったように思う。それは視覚と聴覚の混濁。芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が、蝉の声を聴いている感覚から、岩肌に水が染み入るかのごとく視覚へと変換されていくのに対し、木村の場合、「虹」が「手話」へ、「かもめ」が明日を象徴する「耳鳴り」へと、視覚から聴覚へ世界が変容していく。「冬菫」は吃音し、「実紫」は声なき「嘘」となる。彼は「聴く」人だった。「言葉が終わるところから音楽ははじまる」とドビュッシーが言うように、彼が向かっていたのは言葉の向こうにある音楽的余韻ではなかったろうか。

  過去形の空をはがしてかりん生る(二〇二一)
  立冬や赤の減りゆくボールペン(二〇二一)
  寒紅梅白紙のような空あげます(二〇二一)
  夜の秋指先という孤島あり(二〇二一)
  鈴虫は夜のすべてを読み上げて(二〇二二・一月掲載)

 海原新人賞の審査を任されてから、彼の作品にいつも注目していた。釘付けにされたといってもいい。何にそこまで惹かれるのか、海原の他の作家とは異質の何かを感じていた。言えないこと、見えないこと、手にすることができないこと、そして少し諦め切れないこと。彼の作品の魅力、それは「余白」の大きさだと。句に立ち現れる圧倒的喪失感覚。その余白の光が君の未来の光であるはずだった。皮肉にも、この世に取り残された一ファンとしての感慨が、君の俳句世界の秘密をひとつ手繰り寄せたような気がする。

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