「他界」としての『百年』  小松敦

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より。
《誌上シンポジウム》金子兜太最後の句集『百年』を読む

「他界」としての『百年』  小松敦

◆『百年』より五句鑑賞

 果てしなく枯草匂う祖国なり

 果てしなく枯れている。でも、果てしなく枯草のいい匂いがしている。むんむんと匂う枯れ草の匂い、土の匂い。その匂いをかぐ人間として、私はこの句の世界に引きずり込まれる。枯草は、また生えてくる。果てしなく青々とした大草原になる。そしてそんな土地が私の祖国なのだ。もしかすると、祖国であってほしいと願う希望かもしれないが、「なり」と断定し強く信じている。
 「祖国」という言葉には過去から現在まで連面と命をリレーしてきた歴史を感じる。たった十七音の韻律に、壮大なスケールの空間と時間が枯草の生命感とともに出現する。これが、兜太の「生きもの感覚」だ。産土秩父の猪や狼だけでなく。あらゆる命やものごと、自然やその上に構築された社会、過去・現在・未来も共存する、そういうパースペクティブの世界認識が、兜太の「生きもの感覚」であり、アニミズムである。だから、「生きもの感覚」でいると、「他界」も「この世界」も混然一体となる。
 兜太は「生きもの感覚」のことを近接した既成概念「アニミズム」とも称しているが、これは自説を説明するのに便利だったからアニミズムと言っているのであって、タイラーの定義や原始信仰を指しているものではなくむしろ〈アニミズムを生む人間の生な感覚『荒凡夫一茶』177頁〉のことを指す。
 また、「生きもの感覚」は、俳句の素材のことを言っているのではない。何を俳句に書くのかではなく、どう俳句を書くのか、という態度に必要な感覚である。「社会性は態度の問題」としてどんな思想も肉体化し日常をすすめる態度になってはじめて俳句になると述べていたのと同様に、俳句をつくる者の生き方そのものを指す。
 そしてくれぐれも誤解しないでほしいのは、兜太の「生きもの感覚(アニミズム)」や「他界」は、宗教とかスピリチュアルとかオカルトの話ではなく、リアルな世界と存在の話であるということだ。最近の人類学で主流の「多自然主義」を先取りしているし、この「生きもの感覚」や「他界」の思想を、リアルに哲学しているところがすごい。たとえば、95歳で出版したまさに『他界』という本で兜太はこんな考察を記している。
 〈ふと「今」を生きる人間にとって、他界は「未来」にあると閃きました。その未来は、わたしたちが予知できない手つかずの領域なはずです、本来は。だが、ちょっと待てよ、と青鮫を通して思えてきたのです。結局、わたしたちが想像している未来は、過去の経験や感情を通して思い描かれた、「時」の写し絵ではないのか。さらに言うなら、その過去とは、時の試練を経てもなお風化せず、わたしたちの心の奥底で静かにしぶとく棲息し続けてきた記憶です。『他界』199頁〉
 どうだろう。兜太のいのちは「他界」に行った。しかしその「他界」はどこにあるかというと、わたしたちの記憶にあるのだ。
 〈過去、現在、未来の「時」の同化。これこそいのちに段差のないアニミズムの世界ではないか。『他界』202頁〉
 「他界」とは過去、現在、未来の「時」の同化であり、記憶であり、「生きもの感覚(アニミズム)」の世界である。というのが兜太95歳に肉体化した思想であり、『百年』の世界である。

 散ることなし満開の桜樹に寝て

 「散ることなし」が力強い。寝て、まで読むと、散ることがないのは、寝ている者だとわかる。散ることのない花万朶。太平洋戦争のイメージが重なる。肉体は散ったかもしれない。現在と過去、桜木と人間、生と死が一体となって、魂は決して散ることがない、という安心感を覚える。

 山百合群落はげしく匂いわが軽薄

 山百合の横溢な生命力の中にあってはどんなに強い思いも軽々しく薄っぺらくなってしまうと自己を客観視する。客観視というのは自分ではない誰かの視線だ。誰だ。山百合の視線だ。山百合群落に心を寄せているうちに山百合になって己を見た。「人間中心」ではない。これも「生きもの感覚」に通じる。

 新聞紙夏の狐へとんでゆく

 新聞紙がとんでゆく。薄毛の夏の狐に対する愛情とも感じる。この時作者は「新聞紙」に「成っている」。「情(ふたりごころ)」が極まると対象に成りきり対象の視線を得る。誤解を恐れずに言えばそれはシャーマン的な技。アントナン・アルトーがタラウマラ族に触れて「器官なき身体」に覚醒したのと似ている。それは、「生きもの感覚(アニミズム)」と「情(ふたりごころ)」の実践であり、若き頃に理論付けようとした造型俳句論では未分化だった兜太作句の奥義である。
 積極的に対象に「成ってみよう」。違う世界が見えてくる。違う俳句が生まれるだろう。

 動きなし山人の晩夏の総て

 動きなし、が強く決まっている。せせこましく動くものはいない。晩夏の暗緑の森に暮らす山人はこの森と同化している。山人は晩夏の山そのものであり総てだ、という感覚。
 物や自然や動物や人間が分け隔てなく入れ替わったり同化したりする世界が、おとぎ話ではなく目の前の日常にある。

◆「金子兜太最後の九句」より一句

 さすらいに入浴ありと親しみぬ

 現在・過去・未来、記憶のさすらい。現実の中にいながらにして原郷を求める「定住漂泊」を最後まで実践している兜太。「入浴あり」がリアルである。
 我々も日々さすらっていると思う。昨日の失敗を後悔し、明日の試験を心配する今、気分はそんなにすぐれないかもしれない。過去や未来と繋がって、今がある。だからこそ、今のリアリティに、原郷に漂泊しよう。今この時の豊かさを知ろう。そうやって俳句が生まれることを兜太は他界してもなお教えてくれる。

◆「他界」としての『百年』

 この句集『百年』は、他界とこの世界、現在・過去・未来が混然一体となった句集だ。それはそのまま金子兜太晩年の日常であり「生きもの感覚(アニミズム)」そのものである。
 「生きもの感覚」は世界を慈しむ。記憶は語り継がれ、魂は連綿と滅びることなく、育まれる。だから兜太は「死なない」のである。

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