『海原』No.53(2023/11/1発行)誌面より
マブソン青眼句集『妖精女王マブの洞窟』
「妖精女王マブ」がもたらす可能性 中村晋
マブソン青眼さんの句集『妖精女王マブの洞窟』が届いた。前作『遥かなるマルキーズ諸島』から間を置かずに上梓されたこの最新句集。しかもこの題名。読む前からすでにただならぬオーラ。
まずはあとがきから拝読する。それによれば、「マブ」とは、アニミズム的世界観が中世ヨーロッパに残っていた頃の妖精女王のことを指し、その妖精は心ある人間に夢を見させ、夢の中で「洞窟」まで連れていき、そこで苦難多き人間界を眺めたあと、目覚めると清らかな眼でこの世を再発見させてくれる不思議な存在なのだとのこと。ふむふむ。では早速作品を拝見することにしよう。
メタセコイアの最上の葉の美しい死
季語ならぬ咳咳咳よ木々へおくる
日向ぼこ死後は痛まぬかもしれぬ
第一章の冒頭数ページ、「死」や「病」を感じさせる不穏な雰囲気を持つ句が並ぶ。これはおそらく、マルキーズで罹患した新型コロナウイルス体験と帰国後も続いた後遺症を素材にしたものだと察せられる。句が重くならない工夫が見られるもののどこか暗い影が漂う。
遠山の雪見る 死後を見るように
極楽たぶん白鷺あまた居て寒し
白鷺が夕日の影を踏む絶望
先に、「暗い影」と書いたが、この三句はどれも白い世界で色がない。前作の『マルキーズ諸島』では色彩豊かな世界が描かれていたのとは対照的に、今作第一章では、色のない世界が展開する。そして章末の一句。
靴穴が愛おしい さすらいが終わる日
これは、金子先生最後の九句の中の一句「河より掛け声さすらいの終るその日」と呼応するものだろう。この呼応は作者が死の世界をさまよっていることを示唆するのではないだろうか。つまりこの第一章は、作者が「妖精女王マブ」に「洞窟」に誘われるという物語が始まる第一幕ということなのだ。
そう考えると、第二章は「洞窟」=「死の世界」から見える我々の世界が描かれることになると推察できる。
日本国二重国籍を認めず春
外国籍を持ちながら日本に住むからこそ見えるこの国の不条理。フランスでは認められている二重国籍が日本では認められない憤り。個人を尊重する感覚の鈍いこの国の後進性を厳しく問う一句だ。
薔薇提げて独裁国家通りけり
夏落葉死刑ある国はみな殺人
俳人としてだけでなく、一個人として問われる句である。「独裁」がまかり通る国。また欧州には存在しない「死刑」が当然のごとく存在する日本。マブソンさんならではの鋭い問いである。
切株や戦死者靴を天へ向け
ミサ曲のような沈黙 空爆後
ロシアによるウクライナ侵攻に題材を得た作品群。作者の実体験による句とは思えないにもかかわらず、実にリアルな映像が浮かび、生々しい感情をかき立てられる。マブソンさんは、長野上田無言館近くの「俳句弾圧不忘の碑」建立に尽力した。この句はその抵抗精神を直に受け継いだもののように感じられる。かつての新興俳句を現代に蘇らせた結晶と言っても過言ではないだろう。そして第二章末の一句。
おお四季よおお城よおおけがれの世
ランボオ「地獄の季節」の俳訳である。この世界はここまで地獄なのか。
さて、いよいよ最終章。「けがれの世」を見たあと、我々は清らかな眼を獲得できるのだろうか。
子を見つめ子に見つめられ大西日
花火見るたびウンチする赤子かな
拍子抜けするほど明るい句の連続。こちらまで気持ちが晴れ晴れしてくる。生き生きとしたいのち、アニミズムの世界が溢れ、この世にはまだまだ生きる価値があるのだと思わせられる。
雲美しき惑星に住む蝶とわたし
大河を挟んで郭公と郭公の会話かな
千曲から浅間へ鷹の一分かな
小林一茶に傾倒し金子兜太に師事し、いのちの本質を追い求めてきたマブソンさん。「マブ」とは一茶と兜太の生まれ変わりなのかもしれない。それにしてもこの清々しいアニミズムと句境の展開。
ところで、句集末に並ぶ「五七三」句をどう評価すべきか。この変則リズムを私自身否定するつもりはない。ただこの 韻律だけに頼るのだとすればやや単調さを感じないわけでもない。評価は今後の課題にしたいと思う。
韻律の問題提起も含めてこの句集が掲げる大いなるアニミズム的世界観と新たないのちの蘇り感覚。それは現在の「けがれの世」を突き破る可能性を示すものだろう。そしてさらに世界文学としての俳句の可能性を広げるものでもある。第二章末、俳訳されたランボオの一節。ここにその象徴を見ることは決して無理なことではないと私には思えるのである。