追悼 永田タヱ子 遺句抄

『海原』No.53(2023/11/1発行)誌面より

追悼 永田タヱ子 遺句抄

剥がれゆく春よもういちど
村祭真中の道通りけり
いわし雲ふるさとの昼焦げている
夕べしゃべりすぎ掌の流れ星
今は枯れ心の湖の静けさや
腸の落ちる夢見る原爆忌
若葉風急ぐことなき塩の道
雪積るみごもる夢をみていたり
栗の花村をじんじん豐かにす
黄落や風の尾さがすふるさとです
言葉乏しきこの世やぞろぞろ蛍狩
さくらがりひとりぼっちが三人で
貌よりも古稀をショールに包みけり
死に仕度終えた者から大花野
神になるまでのがやがや根深汁
蟬の木をたたいて兄をよびもどす
風呂敷に春を包んで客が来る
コスモスとゆれてやさしい人となる
花に逢う余生は笑うことだけです
しなやかに夢折り返すつばくらめ

(服部修一・抄出)

いつも忙しかった永田タヱ子さん 服部修一

 あと十日あまりで卒寿を迎えるはずだった永田タヱ子さんが亡くなった。永田タヱ子さんの訃報を聞いて、ずいぶんと生き急ぎ、死に急ぎをしてしまったなあ、と思った。満九十歳を目前にして亡くなった人にこんな言葉は当てはまらないかもしれない。
 俳句仲間によれば、玄関にバッグが二つ置かれたまま家の中で倒れていたところを発見されたそうだ。すでに息は無く、どのくらいの時間がたっていたかも不明だったとのこと。そんな話の断片から私は、タヱ子さんは外からあわただしく帰って来たばかりの時か、これから出かけるという時に倒れたのではないかと思った。
 どちらにしてもいつも人のために忙しく活動してきた永田さんの姿を思い浮かべる。そしてつくづく、急いで生きてきた人だなあ、と思うのである。さらに、誰にも看取られることなく一人で逝ってしまわれたことに胸がつぶれる思いがしている。
 永田さんは人から何か頼まれると断らず、何でも引き受けた。まず公職では地域の民生委員、刑務所篤志指導員、小学校における情操教育支援などがあり、時期により戦争体験者としての語り部活動その他たくさんの仕事をこなしてきたのである。私たちも参加する各種の俳句行事では率先して世話人に手をあげ、誠実にこなしてきた。まさに、暇を惜しんで人のために何かをしてきた人である。
 そこで、いかにもタヱ子さんらしいエピソードを。タヱ子さんは宮崎県内で大型トラックの免許証第一号保持者だったそうだ。それで金子兜太先生から、「宮崎では必ず永田さんの車で移動したい」と言われていたそうだ。金子先生は宮崎に十回以上見えていたので、その都度をタヱ子さんが出迎え・移動を担当したものと思う。その一つ、宮崎市から串間市まで吟行の行程に私もドアマンのように同乗した。車の中では運転のタヱ子さんが世界の金子先生を相手に気軽に話しかけ、金子先生も冗談を交えながら会話が進んでいく、というとても貴重な時間を共有したのである。さらに日南市贄波の道の駅では、ソフトクリームに塗れた兜太先生の顔を拭いている、タヱ子さんの姿とされるがままの兜太先生の安心顔が忘れられない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です