『海原』No.54(2023/12/1発行)誌面より
追悼 木村和彦 遺句抄
傷もたぬ人間が来る森林軌道
幼なき妻よ未来は雲を耕やそう
尻のリズムで背負い籠の杉苗揺れて居る
明日ありて金魚に残すパンの芯
朝顔にお早よう妻がはたらきに
妻裁つ生地のヨット奔放夜雪湧く
土工の宴げへ城なす砂利船星逢う夜
青年の旅心北向く雁の棹
浮塵子が恋う一灯我が生く証しとす
ベルトの穴の位置にたしかむ冬越す意志
街の真ん中寒星仰ぐ債負う胸
白木蓮は傷みに耐える鶴である
赤とんぼ祝祭空間とび交えり
はつなつのライトブルーの上半身
本籍は水のきれいなかたつむり
ぼろぼろの少女を愛す渇水期
寒林の明るさそれは他人の食卓
「海原」最後の投句から三句(二○二二年三月号)
徘徊老人案山子に道を聴いている
思い出す母の塩味零余子飯
晩生刈る足柄平野は海だった
(佃悦夫・抄出)
田んぼの人 佃悦夫
冒頭作の〈傷もたぬ人間が来る森林軌道〉は無季。現在でこそ有季が圧倒的な「海原」の創刊期の作として象徴的だが、現代俳句協会全国大会の兼題として首位であったか。ゆえかあらぬか彼は意気軒昂。まさに肩で風を切るの面構えであった。
「海程」創刊時から現在まで轡を並べるように「海原」と誌名が改まって引き続き作品を欠稿することは無く、生粋の同人としてその白皙にふさわしい書き振りと言えた。駿馬を並行して触れれば激しく弾け合った、茫々六十余年。先年、夫人に先立たれ、子宝に恵まれなかったこともあり、その寂寥感は想像するに余りある。結果、介護施設に入居したまま九十二年の生を全うした。
木村家と当家は距離的に近いこともあり、家族ぐるみの付き合いだった。私の二人の息子が就学前に伊豆の今井浜に海水浴に行ったのが良き影像として残っている。
人生百年という昨今だが、生を全うしたと言っても良いだろう。
彼は茨城県猿島郡の出身だが、既に「谺峰」と称し作句。縁あって東京から小田原に在住することになった。小田原での俳句大会には欠かさず出席し、もちろん雑用も厭な顔一つもしなかったし、私と得点を争って、まさに一喜一憂。
アルコールは嫌いではなく、上手とは言えそうもない唄を良く通る声で響かせてもいた。その声で大会終了の三三七拍子の音頭取で締めたものだ。二次会も嫌いな筈もなかった。
「海程」「海原」と行動を共にしてきた。年齢も彼は二歳上だった。「海程」入会は私の姿勢を見てのことと勝手に思うのだが、半身を剝がされたようで茫然自失の態である。今や私といえば無用の用の日々を過ごしている。「海程」諸氏と同じく兜太の人間性に傾倒し今日まで来ている。
本名の「和七」とは昭和七年生まれに由来すると以前に本人から聞いたことがある。別掲の作品が示すように永遠の青春を謳い上げていた。有り得ないことを有り得るごとく詠み続けた。
今、まさに夫人の待つ浄土へ急いでいる。