追悼 松林尚志〈「金子兜太の俳句―鑑賞と批評」松林尚志著『現代秀句昭和二十年代以降の精鋭たち』より〉

『海原』No.45(2023/1/1発行)誌面より

●松林尚志さんを悼む
 2022年10月16日、一年あまりの闘病のあと、松林尚志さんが他界されました。享年92。松林さんは「海原」の前身「海程」創刊年の1962年(昭和37年)、第4号より同人参加され、60年の長きにわたり活躍されました。第4号の「同人スケッチ」(金子兜太執筆)には、次のように紹介されています。「この朴訥な髭面が繰りひろげる精細なる論理、博識。この柔和なる物腰に秘める表現への意欲。まったくアキレタもんです。囲碁四段(碁の話はヤメましょう)三十代、銀行員。色白眼鏡、中肉中背。暖流同人、東京」。
 松林さんの多彩な活動のなかから、ご遺族の承諾を得て、金子兜太先生の俳句を鑑賞・批評された文章を掲載し、追悼とさせていただきます。

 1930年、長野県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。句集『方舟』『冬日の藁』『山法師』、詩集『H・Eの生活』『初時雨』、評論『古典と正統伝統詩論の解明』『芭蕉愛執と求道の詞花』『日本の韻律五音と七音の詩学』『子規の俳句・虚子の俳句』『現代秀句 昭和二十年代以降の精鋭たち』『芭蕉から蕪村へ』『俳句に憑かれた人たち』『桃青から芭蕉へ詩人の誕生』『和歌と王朝』『一茶を読むやけ土の浄土』『詩歌往還遠ざかる戦後』
(編集部)


金子兜太の俳句ー鑑賞と批評

松林尚志著『現代秀句昭和二十年代以降の精鋭たち』より

  朝日煙る手中の蚕妻に示す 兜太

 兜太の全句集に載る最初の作品は、「水戸時代」昭和十二年に出る「白梅や老子無心の旅に住む」である。水戸高校に進んだ兜太は先輩の出沢珊太郎の勧めで俳句を作るようになり、竹下しづの女が選をしていた「成層圏」に出句を始める。「成層圏」は全国高校学生俳句連盟の機関誌で、後に草田男も指導に加わるが、十六年五月号まで続いた。その間、十四年から嶋田青峰の「土上」に珊太郎と兜太は投句を始めている。「土上」は青峰が新興俳句弾圧事件で検挙され、十六年二月号で終刊となった。兜太の作品が「寒雷」に見られるようになるのは十六年七月号からで、この年兜太は東大経済学部に進んでいる。十五年十月、加藤楸邨が創刊した「寒雷」には当時すでに沢木欣一、安東次男、森澄雄、田川飛旅子、古沢太穂、原子公平、小西甚一らの名前が見られる。兜太の父、金子伊昔紅は「馬酔木」の同人で、兜太にとって俳句は少年時代から身近なものであったが、兜太を俳句に熱中させる機縁となったのは出沢珊太郎との出会いが大きかったようである。
 兜太は十八年繰上げ卒業して日銀に入行するが、すぐ海軍主計短期現役として海軍経理学校に入り、翌年には主計中尉としてトラック島に赴任した。トラック島では激しい爆撃と食糧不足を経験し、終戦を迎えている。兜太が復員したのは二十一年の十一月のことであった。
 トラック島では、
  魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
  被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり

というような句が作られている。
 掲句は『少年』(三十年刊)所収で、二十二年四月、塩谷皆子と結婚した時の句。養蚕が盛んだった秩父に育った兜太には蚕に特別な思いがあるようだ。兜太初期の秀作に、
  蛾のまなこ赤光なれば海を恋う 『少年』
  山脈やまなみのひと隅あかしのねむり 〃
という句があるが、一句目は茂吉の『赤光』を背景に感じさせつつ蚕の羽化した蛾とも関係してくるし、二句目は養蚕と一体になった生活そのものである。兜太の初期にこのような青年らしい清潔な抒情が歌いあげられていることに注目する。「朝日煙る」の句はこの清潔な抒情がロマンを奏でていて美しい。手中の蚕はこれから繭を紡いでいくに違いない。その蚕のように二人して美しい未来を紡いでいこうと示すかのようである。煙る朝日に輝く蚕と新妻の顔がまぶしい。豪放にして繊細、ときに野武士のような兜太とは対照的に、皆子夫人は、美しく優しくこまやかで、その素朴でやわらかな感性は、柔剛相補い合うかのように今日の兜太を兜太たらしめる守護神的存在となっていくのである。

  彎曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太

 復員し、日銀に復職した兜太は、「風」の創刊に加わるなど俳句活動を積極的に進めるが、職場では組合活動に首を突っ込むようになり、二十四年には日銀従組の事務局長に押され、組合専従となった。しかし、最も保守的な銀行のしかもその総本山の日銀である。二十五年には折柄企業のレッド・パージが始まり、兜太は福島支店へ転勤させられる。二十八年には神戸支店、三十三年には長崎支店へと以後支店生活を続けるのだが、組合活動は兜太の日銀での出世を断念させるに充分な減点材料となったようである。「縄とびの純潔のぬかを組織すべし」「原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ」というようなスローガン的俳句がこの時期に詠まれている。
 神戸時代、世評を賑わした句に、
  銀行員等朝より蛍光す鳥賊のごとく 『金子兜太句集』
がある。私は旧館時代の日銀本店に兜太を何回か訪ねたことがあるが、古色蒼然とした石に囲まれたその内部は薄暗い洞窟のような海底のような感じであった。そこまででなくとも大方銀行という建物はコンクリートに囲まれた外光のない蛍光灯だけの空間であった。この句はそういう意味で実に的確に銀行員の生態を捉えている。しかし、蛍光灯から蛍光が出、そこからほたる烏賊が導かれて、鳥賊のごとくと続くのはいささか連想ゲーム的で飛躍がない。その物足りなさがこの句を弱くしているのであろう。
 掲出の「彎曲し」の句は『金子兜太句集』の四部に載る長崎での句。三十三年二月から三十五年五月までの長崎の章には一八五句が収められており、この時期には話題になった「粉屋が哭く山を駆けおりてきた俺に」とか、「華麗な墓原女陰あらわに村眠り」「西の海にブイ浮く頭蓋より濡れて」というような無季の句がある。「彎曲し」の句もはっきりした季語はないが、原爆の投下された夏の焦熱地獄を連想させ、季感は充分である。
 長崎の爆心地は港のある町の中心部からかなり奥へ入った浦上天主堂のあたりである。マラソンはこのあたりで彎曲するように迂回したのだろうか。彎曲は喘ぎながら走る人体ばかりでなく、鉄骨のひん曲ったような被災の建物を連想させ、火傷は灼ける地を踏む熱気と汗にまみれた苦しげな走者から連想される被災者の姿そのものである。感性そのものとして捉えられたこの句は自ずから社会的な現実を反映した重い思想詩となった。社会性は態度の問題と述べた兜太の社会性俳句の一つの結実といえると思う。この句には彎、心、ソンと三つの撥ねる音があってリズミカルな音律を持っている。しかし、彎曲とか爆心とか火傷という重い言葉が軽いリズムに流れないための重石のように効いている。

  人体冷えて東北白い花盛り 兜太

第三句集『蜿蜿』(四十三年刊)の最後に載る句で「東北・津軽にて(七句)」のうちの一句。『蜿蜿』は李賀の「蛇子蛇孫麟蜿蜿」からとっている。四十二年五月、兜太は皆子夫人、堀葦男夫妻と青森、弘前、秋田を旅している。この句はその時のもので、白い花はいうまでもなく林檎の花であろう。無機質な感じを与える人体という硬い感じの言葉が、やはり同じように硬い東北という言葉と冷えるという体感を通して緊密に結びついて、白い花をいやがうえにも純潔、清爽な美しさに輝かせる。この場合、もはや林檎の花というように特定せず、ただ白い花そのものとして受け取った方が、抽象化されたこの句の世界に相応しい。『蜿蜿』の「あとがき」に、「この句集とともに、私は四十代に入った。(中略)たしかに四十歳の声を聞く前後から体調が変化しやすくなり、体力の低下を感じはじめた。(中略)作品も、だんだん脂気あぶらけが抜けて漂白されてゆくように思えた。」と書かれているが、この脂気が抜けて漂白されてゆくという言葉はそのまま巻末のこの句を意識した言葉のように思える。しかし、この漂白は決して肉体の衰えからくるものでなく、最初の句でも触れたように、兜太自身の資質としてある清潔な抒情の表れだというように私には思える。「人体冷えて」の句はこの清潔な抒情のそのままの形象化なのである。
 兜太は三十五年、長崎から東京本店に転勤してくるのだが、「海程百句」「造型俳句六章」などを発表し、三十七年四月には同人誌「海程」を創刊する。私が同人となったのは四号からであるが、兜太を支えた出沢珊太郎が星書房を興し、私の評論集『古典と正統』はそこから昭和三十九年に出版された。栗山理一の序文は兜太の口添えによるものであった。

  谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな 兜太

 『暗緑地誌』(昭和四十七年刊)に載る句で、「古代胯間抄・十一句」の連作中の一句である。兜太は縄文的な生命力に溢れた野生児の面が強いが、この句はむしろ意図的にそのような生命を謳歌した作品といえる。兜太が色紙に書いたりしてこの句に愛着を示す気持がわかる気がする。ここにいう「夜の歓喜」が斎藤茂吉のいう「交合歓喜」(『童馬漫語』)であることはいうまでもない。それは「古代胯間抄」の連作が自ずから示しており、私はこの連作を日野草城の「ミヤコ・ホテル」と並べてみたい気がする。この連作は「泡白き谷川越えの吾妹わぎもかな」に始まり、
  胯深く青草敷きの浴みかな
  ほとしめる浴みのあとの微光かな
  唾粘り胯間ひろらに花宴はなうたげ

などが続き、「谷に鯉もみ合う」が出て、「瞼燃え遠嶺夜空を時渡る」で終る。いわば古代のおおらかな性の讃歌なのである。
 草城の「ミヤコ・ホテル」連作は結婚初夜の一部始終をいわばぬけぬけとのろけた趣があったが、兜太のこの連作にはそういう甘えはなく、あからさまで直截である。それでいてばれ句的な卑猥さがないのは兜太の古代的純朴さを証しするものであろう。「ニイッチェはRausch(酩酊)といった。予は交合歓喜といふ。」と書いた茂吉も古代的朴直さでは際立っていた。兜太の清潔さや茂吉の純一さはこの古代的感性と別のものではないと思う。
 私は兜太の句に対して連作としての解釈にこだわり過ぎたかもしれない。「谷に鯉もみ合う」というダイナミックな表現のもつメタフォアはかなりの拡がりを持っている。歓喜は鯉の雌雄がもみ合うように産卵するさまと重ねられる。鯉は主に午前中に一尾の雌と複数の雄が激しくもみ合うように水草に産卵するという。ともあれおおらかな鯉を格闘させることで交合歓喜を表現しているところがいかにも兜太らしい。この句の無季が気にならないのは鯉の産卵という季節感の故であろう。

  樹といれば少女ざわざわ繁茂せり 兜太

 『暗緑地誌』の「狼毛山河」と題した作品中の句で、四十五年の作。連作には次のような異色な作品が並ぶ。
  山上の白馬暁闇の虚妄
  火山一つわれの性器も底鳴りて
  噴け火山わが意識下の透明童子
  白馬奔る地平にありや烏滸の衆
  篠枯れて狼毛の山河となれり晩夏

 まさに神話的な人物であり、山河である。火山のように奔出するエネルギー。烏滸の衆を見下ろす山上を奔る白馬。山河は巨大な狼のような姿を現わし、樹木は少女となって生い茂る。兜太はこの頃から秩父の山河や困民党のことを書いたり、放哉や山頭火など漂泊者に関心を持つようになり、それらは四十七年の『定住漂泊』にまとめられた。山河と山上の白馬とは定住と漂泊がせめぎ合っている趣がある。
 兜太の掲出の句に私がとりわけ印象づけられたのはエズラ・パウンドに「少女」と題した次のような詩があったからである。なんと似通っているではないか。
  樹は私の手に入ってくる、
  私の腕に樹液がのぼり、
  樹は私の胸に育つ―
  下の方へ、
  枝は私を出て育つ、腕のように。
  樹はお前、
  苔はお前、
  お前は風に吹かれる菫だ。
  子よ―そんなに背の高い―お前、
  そしてこれはみなこの世界にとって愚かしいことだ。

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 兜太の第九句集『遊牧集』(五十六年刊)の冒頭「青鮫の抄」五句のうちの一句。この句は最初「現代詩手帖」の五十三年四月号に「青鮫十句」と題して発表されたもので、発表当初より賛否こもごもの評判を呼んだようである。詩人の宗左近は兜太とのNHKの対談でこの句をあげ、俳人はこのような宇宙語ともいうべき語法を使えるから羨ましいというようなことをいい、兜太はこれに対して、これを原(ウル)風景であるというように答えていた。安西篤は『金子兜太』で、兜太自解の、「ぼくのぎらぎらした魂の状態のようなものね、それを出したいわけなんです。そういう得体のしれない実態をですね。」という言葉を紹介している。私も現代俳句協会五十周年記念号の「二十一世紀の俳句を考える」という座談会で、司会者としてこの句を取り上げてみた。この句が、白梅の咲く庭に海を泳ぐ鮫をもってくるようなとてつもない非現実な内容を持っていることはいうまでもない。全然受け付けない人もいて当然であるが、この異様な取合せがダイナミックな迫力を持っていることも確かである。
 「青鮫の抄」の他の四句は、
  俯ぶせの霧夜の遊行青ざめて
  霧の夢寐青鮫の精魂が刺さる
  青鮫がひるがえる腹見せる生家
  嘔吐はすでに草原の果て金魚売

という作品で、掲出の句は三句目に置かれている。これらを見ると、この句の生れた背景がかなり浮彫りにされてくる。兜太は久しぶりの秩父の生家にあって、自らを生み育くんできた土地の精霊のごとき激しい生命の息吹に囲繞されているのだ。獰猛で精悍で美しい姿の鮫は生命そのものの原風景であるかもしれぬ。夢寐のうちにそんな青鮫が群がり泳ぐ世界に置かれている。しかもそれは白梅の咲く早春の庭の出来事である。この二つのまったく異質な風景の出現も、それがただの意外性の面白さに終っていないのは、青鮫のもつ原始生命的なイメージ故であろう。そして、この青鮫のイメージは兜太にして初めて出現させ得たのではないかと思う。

  起伏ひたに白し熱し若夏うりずん 兜太

 第十一句集『皆之』(六十一年刊)所収、「沖縄にて」の四句のうちの句。兜太の郷里は秩父盆地の皆野町で、現住所は熊谷市上之、夫人は皆子で、兜太は句集名『皆之』がこの三つのうちのどれにも通じるところが嬉しいと記している。この句の面白いところは、六・六・四という全く五・七・五とかかわらない破調であろう。三句で成り立つが、これはさらに3・3、3・3、2・2というように割れる。3・3はやや重く滞る感じになるが、i音の韻を踏んだ強く重い三音のリズムがいきなり2・2の軽い切れのいいリズムに転換して終る。全体が強く歯切れのよい調子の一句となっている。うりずんは沖縄で旧暦三月頃の大地の潤う季節をいう言葉で、この言葉の持つ美しい響きのように、陽光きらめく沖縄ならではの待ちどおしい季節なのだという。珊瑚礁の白い砂の起伏の続く大地の熱気に、沖縄のうりずんを眩しく受けとめているのである。

  冬眠の蝮のほかは寝息なし 兜太

 『皆之』の巻末に置かれた句で、秩父の生家で作られたものと思われる。『皆之』の終りの方には「秩父山中盛夏(十八句)」もあって、その中には、
  伯母老いたり夏山越えれば母老いいし
  夏の山国母いてわれを与太よたと言う

というような伯母や母を詠んだ句も見える。兜太が母にとって今もって与太であるというところが実に面白い。餓鬼大将でずけずけ憎まれ口をいう少年兜太が見えてくるようである。親にとって子供はいくら偉くなっても子供のままの与太なのである。『蜿蜿』には、
  露の村石をうらば父母散らん
というような句もあって、故郷の風土への裏返された思慕がこちらは抒情的に表現されている。
 掲句は聞こえるはずのない蝮の寝息を持ってきたところに凄さがある。この蝮を兜太と読み替えればすんなりとわかってくるはずだ。すべては冬眠に入っている山国の森閑とした深夜、兜太だけが寝息を立てて眠っている。ふと自分の寝息に眼を覚した兜太は改めて山中の静寂を思った。蝮も深々と冬眠の眠りについているはずだ。すると風土と一つになって眠っている自分が蝮そのものではないかと思えてくる。蝮は風土の精のごとき存在であり、自分はいつのまにか蝮と一体となり、風土そのものの芯に深々と身を横たえているのである。この句は蝮を地霊のごとく捉える原始的感覚が見事に表現された句と思う。
 平成七年十二月に出た第十二句集『両神』には、「山国や老母虎河豚とらふぐのごとく」という句があって、母堂が依然健在であることがわかる。
  酒止めようかどの本能と遊ぼうか
  禿つつもなお禿きらず青葉騒
  オットセイ百妻は一妻に如かず

など自在無礙を加えた句で詩歌文学館賞を受賞した。枯淡と無縁なところがまさに兜太だと思う。


松林尚志句集『山法師』二十句抄

若き母白くいませり半夏生草
今朝の秋布衣の雀もきてゐたり
黄金田や女神の臥せしあと残る
リュックには餡パン一つ山法師
連なる蔵王茂吉メッカに秋惜しむ
手術果つ羊の顔して夏の雲
花かたばみ帰りはどこに佇んでゐるか
術後二年泰山木の花仰ぐ
母がりの遠の紅葉尋めゆかな
新涼や那智黒を先づそつと置く
亡羊を追ひきし荒野月赤し
綿虫の一つ浮かんではるかなり
広場にガーゼ踏まれしままに凍ててあり
鉄棒に五月の闇がぶら下がる
大根提げて類人猿のごときかな
妻に紅茶われに緑茶や冬あたたか
ポストに落す原稿の嵩年の果て
虎ふぐでジュゴンでありし兜太逝く
足寒し戦後を刻みしわが齢
遠い日向見つむるわれも遠い日向

(山中葛子・抄出)
*初出:「海原」(NO.15/2020年1・2月合併号)

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