後藤雅文句集『傾山』〈故郷と新たなる地と 山本まさゆき〉

後藤雅文句集『傾山』
故郷と新たなる地と 山本まさゆき

 傾山(かたむきさん)は、後藤さんの故郷・大分県に聳える祖母傾山系の三百名山である。弟さんの手による扉絵には、広大な耕地の遠景に、険しい岩の頂をもつという独特の山容が描かれている。
 後藤さんとは、「海原沼津句会」と「するが路句会」(前の船団静岡句会)でずっとご一緒させていただいているが、大分のご出身であることを意識させられたことは殆どなく、そのためか、タイトルを見た時に意外な感じがしたのが正直なところである。しかし、読み進むにつれ、そんな思いは完全に消えていった。

  麦の秋父母の背中に傾山
  かなかなよ名前間違えられ故郷
  寒肥やこの地に根ざす覚悟する

 後藤さんは、二〇〇〇年に静岡市の熊谷愛子主宰「逢」に入会した。右の句はその時代のものであり、不動産鑑定士として全国規模の財団法人の静岡支所に勤めていた時期と重なる。「麦の秋」の望郷、「かなかなよ」の、故郷への複雑な思い。「寒肥や」の、静岡を終の住処とする決意。後にはご両親を弔うために帰郷した際の句が現れる。故郷と新たなる地と。それが本句集の背骨になっているのだ。
 本句集は、所属した結社の順に、「逢」時代、「船団」時代Ⅰ、「船団」時代Ⅱ、「海原」時代の四部構成となっている。
 第一部の「逢」時代は、文語調のものや「や」「かな」などの伝統的な切れ字を使ったものが少なくないが、後藤さん持ち前のユーモアが徐々に顔を出す。

  初富士や雲竜型のせり上がり
  十二単衣かき揚げ走る蜥蜴かな
  春の月ホットミルクの匂いする

 「逢」は、熊谷主宰の死去により二〇一〇年十二月号をもって終刊。後藤さんは、二〇一二年から、坪内稔典代表の「船団」に活躍の場を移す。

  「役を解く」辞令頂くラムネ玉

 退職と、儚いが明るい「ラムネ玉」の絶妙な斡旋。後藤さんが退職されたのは、船団入会から間もなくのことだと思われる。実は、このころ私は後藤さんと仕事でご一緒している。俳人であることは知る由もなかったが…。
 「船団」時代Ⅰ以降は、すべて口語調となり、伝統的な切れ字も姿を消す。そして、等身大・自然体を保ちつつも写生を超えた、豊かな世界が広がり始める。

  夜行バス初蝶点呼始めます
  芋焼酎のグラス流星入ります
  友情のバトンぶっとい唐黍よ
  昼月の引力強し黒揚羽

 「夜行バス」の、初蝶による幻想的な空間演出。「流星」の、芋焼酎を取り合わせた大人の洒脱。「友情のバトン」は、作者の熱い一面を感じさせる好きな一句。そう、後藤さんは、飄々としつつも、静岡人にないようなパッションとしぶとさを内に秘めているのだ。「黒揚羽」は、蝶という小さな存在で宇宙を把握した秀句。坪内さんが高く評価し、帯句にもなった。
 「船団」時代Ⅱになると、後藤さんワールドは更に加速してゆく。

  春は恋逆さに回る観覧車
  婆ちゃんはポストの中よ鉦叩き
  時々は舌をからませペチカの火
  老人に普通になって山茱萸の花

 どの句も一筋縄ではないが、借り物の言葉はひとつもなく、自由である。それが読者に新たな発見と共感をもたらす。
 船団は二〇二〇年をもって「散在」。後藤さんは、以前より沼津句会のメンバーだった海原に入会し、早くも二〇二一年一・二月合併号で海原集巻頭を飾る。

  土間のある暮らし燕と住む暮らし
  アラ私自粛警察ホトトギス
  焼き茄子のお尻モーロクしています
  秋の富士黒はんぺんをもう一枚

 「土間のある」の、シンプルなリフレイン。「アラ私」は、コロナ禍社会への風刺だが、上五と下五のユーモアにより嫌みがない。「焼き茄子の」は、海原集巻頭句であり、とぼけているが、繊細な観察眼に裏打ちされている。「秋の富士」は、静岡人の食欲をそそる極上の挨拶句。静岡の風土をすっぽりと手中に収めている。
 そして、本句集を語るのに欠かせないのが、小さな生き物たちへの温かな眼差しである。動物の句はどれも捨てがたいが、ごく一部を紹介する。

  特売の浅蜊フクフク潮を吹く
  小春日の犬小屋犬は家出中

  新松子ポンポコポンぞ猫の小屋
  三島湧水蛙のみんなとうがいする
  冬の蠅足の臭いを嗅いでいる
  結婚に離婚を足して猫の恋
  猫が先ず落ち葉ゲレンデ上級コース

 どの動物も、自分の意思を持ち、今を飄々と生きている、憎めないものばかり。後藤さんにとって、小さな動物たちは単なる観察の対象ではない。肩を組んで現在を生きる同志に他ならないのだ。
 本句集を通読すると、現代俳句でありつつも、一茶を彷彿とさせるものがあることに気付く。小動物を愛で、社会への鋭い眼差しを備え、ユーモアを忘れない。そして、内に秘めた熱い心と粘り強さ。
 後藤さんの俳句世界は、静岡の地でますます深化していくだろう。

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