『臘梅』若森京子句集〈臈と華と 茂里美絵〉

『海原』No.27(2021/4/1発行)誌面より

若森京子句集『臘梅』
臈と華と 茂里美絵

 咳ひとつ肺は薄陽さす森林
 仄暗い葉擦れ。こすれ合う小枝の微音。森は生きている。生温かい肺のように。そして自然界という悠久の時空の中で人もその一部であり、咳をひとつこぼすのも生の証。同時に生きることの儚さをも象徴する白眉の一句と言えよう。
 てのひらにしっくりと馴染むような小型の本。装幀は作者の人物像を髣髴とさせる、やわらかな藤の花のような淡いむらさき。紫。いにしえびとの衣装、或いいは高僧の袈裟を思わせる高貴な色。若森京子を色にたとえれば、たぶん紫。『臘梅』は第七句集とある。つまり、俳句の世界での長い歴史を背負っていることになる。
 本句集は前回の『簟笥』から七年を経た平成二十六年から令和二年までの約七年間の二七七句を収めたもの。厳選された句集なのである。
 今さら言うまでもないが、近代女流俳人の傾向としてこれまで、身辺の日常の中から詩(俳句)を見つけることが多かった。その点この作家は、そのようなスタンスを変え異なった視点から新たな表現の場に立っている。作句の試行の過程を見るとき、虚と実の、虚の部分で大胆に形象化するその様相。

 難聴のふたりブラームスは冬けむり
 痴呆とはブランコ揺れる白い海馬

 ブラームスも、白い海馬もさりげなく置かれてはいるが、実はこの言葉が句のキーワードなのである。そして季語に対する考え方も独特で、他の言葉に重心を置くことによって季語を従とし際立たせる技法。自身の内面に目を向けるこの二句。ブラームスの荘重なイメージと、加齢に身を置くふたりに降りそそぐ冬の煙のような諦念が、じわりと胸に迫る。静かに揺れるブランコに脳のゆらぎを重ねる。敢えて痴呆という厳しい言葉で老いをしっかりと肯定する強さ。言語空間の中から抽象的な心象風景を鮮やかに呼び醒ます。これまでの経験を通して幻想は幻想として、それを具象に転化し、読者に実景を提示してしまうのだ。

 体内に曖昧な部屋春障子
 白内障そこひかなしばらく暗い野の遊び
 春眠や球体感覚のままがいい
 陽炎や胃の腑はやわらかい小部屋

 官能的というか生理的ともいう感覚を知的な手法で処理する時の冴えには並々ならぬものがある。しかも楽しんで。すいと脇道に迷い込む技法で重層的な世界を創り出す。確かに人間のからだの中は肉眼では見えない部位が当然あるが、春障子の持つ明るさで読者は救われた気分になる。白内障を、暗い野の遊びと美的に且つ客観視する余裕もこの作者ならではのこと。陽炎のようにゆるやかに揺らぐ胃の腑も、胎児のように球体感覚で眠るのも、自然界を信じ帰依する心があってこその想いなのであろう。

 絽のきもの解けば万のうすばかげろう
 朱の襦袢二センチ縮め初明り
 紗をまとい忘却にあるのゆらぎ

 ロイヤルブルーは英国の皇族や貴族が好む服飾の色。日本の和装を思う時、どうしても古来から受け継がれた、紫に拘ってしまう。勿論ほかにも美しい色彩があるにはある。偏見と言われれば是とするしかないが。これらの三句は色彩を超越してとにかく美しい。絽も紗も繊細なうすもの。さまざまな記憶が沁み込んでいる筈。そうした想いと共に身に纏う作者の毅然とした感慨が伝わってくる。

 民民民やがて亡びる蟬・国も
 やわらかく人さけ蟻地獄の記憶
 臘梅のほのかな家路また転ぶ

 作句の構成の過程で、言葉の一つ一つはそれほど奇抜ではなくても、組み合わせる操作の結果、謎めいたものに変化する場合もある。そうした効果の前で読者は当惑し、また納得する。若森京子はその様な言葉を操る巧者として見事としか言うほかはない。故に、先に揚げた三句のような諧謔性の濃い作品にも品性は損なわれない。

 東北の紅梅白梅あの子かしら
 二重瞼は八歳のまま敗戦忌
 夕刊は慟哭のごと秋の風

 不条理が罷り通るこの世。災害や戦で命を落とす者たち。犠牲になる子供達も。秋の風の中を慟哭が走り抜ける。作者の眼差しも又。紅白の梅は亡くなった子供達の生まれ変わりと呟く。八歳で敗戦と直面し途方に暮れる少女。

 兜太なき浮世の羅はりついて
 野火恍惚と師よ存分にさようなら

 只一人の師として金子兜太と出逢い才能を愛された幸せを抱きしめる。「この人は俳句の世界でずっと生きてきて、俳句に対して自分の節操を守ってきた。頑張ってきた。それで今、恥ずかしくない状態にいる」と恩師・兜太は評価した。

 幻聴かしら凍蝶一頭と暮らす
 アスパラガス我が余生の青い旋律
 白露踏む又踏む人生の余白

 この瑞々しさに驚嘆するしかない。誠実に詩を追い続ける作者に同じ世代を生きてきた者として敬意を表する。(敬称略)

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