『海原』No.49(2023/6/1発行)

◆No.49 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

ブチャは雪焦げた戦車と痩せた犬 綾田節子
二月二十日檄文のような星屑 石川青狼
掌の皺を深めて母が手毬巻く 石田せ江子
百歳は八合目なり富士初日 伊藤巌
杜中がシンセサイザー百千鳥 江良修
春一番猫ってそんなんとちゃう 大池桜子
還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
革手袋情死のように重ねられ 桂凜火
手仕事のふっくりとして冬菫 川田由美子
桜蘂降るしっかり残る和紙の皺 北上正枝
紅梅白梅天狗の匂ひも混ざる 木下ようこ
「ご自愛を」とはどうしろと藪柑子 楠井収
労働終はる手のひらの陽炎へり 小西瞬夏
春の木離れどの追憶も流砂 三枝みずほ
春の闇鉄路の揺れのように純 佐孝石画
いぶりがつこ抓めば横に山頭火 佐藤二千六
母遺す御殿手ン毬絹かがり 鱸久子
あたたかや雅彦さんという空席 芹沢愛子
あっほらいまたんぽぽの絮彼女だろ 竹本仰
白梅や兜太の揮毫脈を打つ 月野ぽぽな
夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
寝たきりの窓からの景鳥雲に 中川邦雄
老化とはあの白梅が遠いこと 野口佐稔
連弾のよう花かたくりは風を呼ぶ 船越みよ
除染後の生家よ郁子は咲いたのか 本田ひとみ
記憶喪失のよう更地となって春 三木冬子
百済ほど欠伸さてさて彼岸明け 三世川浩司
囮鴨追い込まれては追い込んで 深山未遊
冬の葬みんな小さな兎憑き 望月士郎
凍雲に端あり産土まで歩く 茂里美絵

白石司子●抄出

山国の父の座標の切株です 有村王志
黙祷のどこを断ちても白さざんか 伊藤道郎
煮凝りって妙な震え独裁者 大髙宏允
還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
一老ありひねもす無口の寒卵 岡崎万寿
決戦のように並んで冬薔薇 小野裕三
革手袋情死のように重ねられ 桂凜火
大股の父の熱量根開きす 加藤昭子
細雪写経一文字一字一字 北村美都子
曲線を君の日永のように描く 近藤亜沙美
ハミングのほどけ二月のうさぎかな 三枝みずほ
梅咲けり憤怒のように火のように 佐孝石画
黒板は緑イタチがいなくなったから 佐々木宏浅
春のビル街墓碑のよう露わ 佐藤詠子
鉛筆を噛んだ感触兜太の忌 重松敬子
節分の鬼に引かれて逝くなかれ 志田すずめ
春夕焼け母が海へとかえる色 竹本仰
柚子いびつ明日は笑顔を売る仕事 田中信克
蝶追って時間から遅れてばかり 月野ぽぽな
忘却曲線急旋回の冬の鳥鳥 山由貴子
夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
手話は苦手ですが春のペンギンです ナカムラ薫
エッセーの着地に迷う春炬燵 長本洋子
くちびるにマスク記憶にございません 服部修一
ほうれん草包む戦禍の紙面かな 藤田敦子
流氷や置いてきたものみな光る 松本勇二
地球を覆う人類という湿疹 マブソン青眼
三月の小石を拾ふ水の底 水野真由美
文机はわたしの港ヒヤシンス 宮崎斗士
冬の葬みんな小さな兎憑き 望月士郎

◆海原秀句鑑賞 安西篤

二月二十日檄文のような星屑 石川青狼
 二月二十日は兜太先生のご命日。亡くなられて早や五年の歳月を経た今、夜空を仰いで先生を偲ぶとき、先生の叱咤の檄文を遠い星屑から受けているような気がするという。おそらくこんな感想は、先生の謦咳に接したものなら等しく感じることではあるまいか。これをしも檄文として受けとめるところが、作者らしい一途さであり、あやかるべき姿勢といえよう。

百歳は八合目なり富士初日 伊藤巌
 人生を富士登山に喩えて、人生百年時代と言われる今日、その百年の八合目あたりに今達したところで、まだ先があるとも、もうここまで来たかとも回想している。「初日」は百年の先に輝くものと解した。もちろん文脈から、百歳自体が八合目で、その先の百二十歳あたりが初日の場所と解してもいい。案外こちらの方が筋が通るのかもしれないが、いずれにせよ、まだまだ頑張る余地ありと言い聞かせている。その心意気を詠んだ。下五の体言止めがきっぱりしていい。

還らざるものへ流木立てておく 大西健司
 「還らざるもの」とは、「失われしもの」さらには「いのち失われしもの」と解していいだろう。そこに3・11を重ねてもいいが、それは評者の自由度にまかせたい。表現は漠とした抽象性を帯びていても、生死を予感することは出来よう。「流木」によって、かなり具体的なドラマを予想することもできる。大西の住む伊勢地方は、多くの津波に洗われた地域でもあるからだ。数知れぬ犠牲者は無名のまま、せめて流木によってその菩提に手向ける墓標としておくというのだろう。

労働終はる手のひらの陽炎へり 小西瞬夏
 「労働」とわざわざ社会的表現を持ち出したのは、「仕事終はる」では済まされない、どこか被搾取的現実をそこに滲ませたかったような気がする。そう考えるのは深読みで、作者自身は、もっと現在的な日常感に即して、老親の介護そのものを「労働」と捉えたという。ところが「手のひらの陽炎」となれば作者の現在を再生したもので、「労働」のような規範化された言葉とは質が違ってくる。そこに、作者世代の新しいふくらみのある言語表現を重ねようとしているのかも知れない。言葉の時代感覚に世代間格差が生まれているのだろうか。

春の闇鉄路の揺れのように純 佐孝石画
 月のない春の夜の潤んだようなやわらかさをもつ闇。どこかいのちの息吹の匂いさえまじるなまめかしさがある。その夜気の情感を断ち切るように、「鉄路の揺れのように純」と捉えたのは、この作者の青春性というべきものかもしれない。やわらかな肉体の奥にひそむ鉄路のような意志。しかもその鉄路は、かすかな揺れを宿しつつ、その純なるものを貫き通しているのである。

あっほらいまたんぽぽの絮彼女たち 竹本仰
 口語調の臨場感で、口ずさむように書いた句。自分の実感のまま、俳句の固有性のこだわりを離れて書くとこうなる、典型的な一句だ。「あっほら」と誘いこむような感嘆詞に始まり、「いまたんぽぽの絮」と受け、「彼女たち」と踊り子のしなやかな輪舞へ広げていく。「いま」は、「あっほらいま」と「いまたんぽぽ」に両掛かりして、躍動の瞬間を捉えている。

寝たきりの窓からの景鳥雲に 中川邦雄
老化とはあの白梅が遠いこと 野口佐稔

 共に加齢による老化現象を背負いながら、懸命に生きていく姿を率直に捉えた句なのだろう。できるだけ他人に迷惑をかけず、一瞬一瞬をおのれのやり方で過ごそうとしているような、そんな生涯の送り方を遠望しているような境涯感とも見られなくはない。お二人の生き方を承知しているわけではないから、作品から受ける評者の感想にすぎないが、そこには近しい世代の老いざまが見えてくるようで、ほのぼのとした共感を覚える。

除染後の生家よ郁子は咲いたのか 本田ひとみ
郁子の花は、アケビの仲間で、晩春、白がかった紫の雄花と雌花が房のようななりに咲く。作者は生家の福島の被災地から今は埼玉に避難しておられ、早や十二年の歳月を経ている。その生家も、どうやら放射能の除染が済んだと聞いているが、かつてあの生垣に咲いていた郁子の花は、今年も咲いたのだろうか、と回想する。郁子の花に寄せる失われた故郷への郷愁。

記憶喪失のよう更地となって春 三木冬子
 本田句は、被災地の生家を偲んでの句に対して、三木句は、その生家跡もすっかり記憶喪失したかのように更地となってしまったという。この句には二つの問題意識がある。一つは、災後十年を越す歳月によって、風化されてしまった被災地、それもかつての賑わいに復活することなく、しらじらしい更地となってしまったという現実。今一つは、その被災の現実も人々の記憶から失われようとしている危機感ではないか。あのフクシマを忘れるなという警鐘に繋げようとしているかのようだ。

◆海原秀句鑑賞 白石司子

黙祷のどこを断ちても白さざんか 伊藤道郎
 戦争や災害、また様々な理由で逝去された方に捧げる黙祷。上五「の」で軽く切れるが、その「どこを断ちても白さざんか」とは何を意味するのだろうか。濃紅や淡紅ではなく「白」から広がってゆく清潔、潔白、無垢などのイメージ、そして花全体が落ちる椿と違って、花弁がさらさらと散って眩しいほどに地上を彩る「さざんか」、それは亡くなられた方の人となりでもあり、作者の祈りの敬虔さでもあると考えていいだろうか。中七「どこを断ちても」に別離の悲痛さがある。もしかしたら掲句は個人的な追悼句なのかもしれないが、黙祷すべき場面の多い人間社会において普遍性を獲得した作品となっていると思う。

煮凝りって妙な震え独裁者 大髙宏允
 煮凝りを凝視することによる視覚を生かした句であるが、「独裁者」と取り合わせたことで感覚的な句となっている。「妙」にプルプルと震えている煮凝りが独裁者の孤独感のようでもあり、また、「煮凝りって」の導入部も読者を作者独自の世界へいざなうのに効果的だ。

一老ありひねもす無口の寒卵 岡崎万寿
 上句の「一老あり」が伊勢物語の「昔、男(ありけり)」の冒頭を思わせ、作者の一代記を語りかけるような句となっている。勿論「ひねもす無口」は寒卵に係るのであるが、それは作者のようでもあり、無口だが「寒卵」のように存在感のある一代・一生とも考えられる。

還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
 無季句。一句全体からは季語「雁供養」の世界を想像させるが、抒情に流されない断定感が俳句なのだと改めて思わせる作品である。また、「還らざるもの」の単数ではなく、「ら」の複数形が個人性、時代性を超えたものとさせている。全く句柄は異なるが、富澤赤黄男の「流木よせめて南をむいて流れよ」を思い出した。

大股の父の熱量根開きす 加藤昭子
 雪国の春を告げる現象で、木の根元だけ雪がとけることを「根開き」というのであるが、それは「大股の父の熱量」によるものだとしたのがこの句の眼目である。また、「大股の」としたことが、いつもより足早にやってくる春、そして元気な父を彷彿させる。

曲線を君の日永のように描く 近藤亜沙美
 長かった冬も終わり、夜よりも昼の時間が長くなって何となく気持ちも伸びやかになる日永。そんなゆったりとした春に対する実感が「直線」ではなく「曲線」なのである。そして「君の日永のような」という「君」への眼差しも初々しくあたたかい。

梅咲けり憤怒のように火のように 佐孝石画
 この句から「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」の金子兜太師を思った。「春告草」の別名「梅」が咲いて青鮫も人間も喜ぶべき春なのにただならぬ今の状況はどうだろう、戦争体験者である兜太師ならどう考えるだろうかという作者の思いが中七・下五の「憤怒のように火のように」なのである。花鳥に遊ぶのもいい、でも「社会性は作者の態度の問題」、「俳句性よりも根本の事柄」なのである。佐孝氏の句に「梅咲いてひとつひとつの目玉かな」もあるが、創作において「絶えず自分の生き方に対決している」兜太師、また、作者の目玉を掲句から感じる。

蝶追って時間から遅れてばかり 月野ぽぽな
 「時間から遅れてばかり」の何となく取り残されたような感覚は、日本を遠く離れたニューヨークだからこそなおさら。でも、その原因は「蝶追って」だから、何となく自分自身でも許せそうな気分なのかもしれない。

手話は苦手ですが春のペンギンです ナカムラ薫
 手や体の動き、視線や表情などを使って意味を伝達する手話が苦手なのは作者、いや、もしかしたらペンギンだろうか。でも、時節は「春」、「ですが」、「です」の意味不明とも取れるようなやりとりが楽しい。これも俳句、兜太師が言われたように口語は俳句の可能性を広げるのである。

くちびるにマスク記憶にございません 服部修一
 「顔にマスク」ではなく、「くちびるにマスク」としたところが意味深。そして「記憶にございません」は、どこかの国のある人物がよく口にする言葉。十七字、季題趣味という約束を守るという「客観写生」とは異なる諧謔味あふれる句だ。

流氷や置いてきたものみな光る 松本勇二
 シベリア東部から南下して海を漂う「流氷」と中七・下五との二物衝撃句。「流氷」は風または海流によって海を漂流する氷の塊であるが、「置いてきたもの」との響き合いから作者の分身という捉え方も可能だ。漂流する為、いや漂流せざるを得ないが為に置いてきたもの、それらはみな光っているのである。郷愁を誘うような句だ。

◆金子兜太 私の一句

質実の窓若き日の夏木立 兜太

 兜太は、少年時代、皆野町から片道一時間余り秩父鉄道を利用し、降りてから二十分ほど歩き、旧制熊谷中学に通った。秩父で育まれた豊かな「感性」へ、熊谷で「質実剛健」が加わったと考える。熊谷での葬儀の場には、「好好爺」の写真とともに、若き日の写真も飾られていた。それは、「精悍」を感じさせるものであった。埼玉県立熊谷高校の校門近くの句碑より(句集未収録)。神田一美

夏の猫ごぼろごぼろと鳴き歩く 兜太

 以前、母は、自分のことを詠った私の句が、兜太先生に褒められたことを涙して喜んだ。先生と母は同い年で、母のほうが一週間お姉さん。ある時、仏間に入ったきり、うんともすんともない。ちょっと覗くと、掲句の書かれたうちわの毛筆の一字一字を指でなぞっているのです。私の声に驚き、ちょっと恥ずかしそうにした表情が、いつもの表情より素敵だった。96歳の他界。句集『日常』(平成21年)より。西美惠子

◆共鳴20句〈4月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

稲葉千尋 選
秋刀魚握る板さんの指って秋刀魚かな 綾田節子
大皿のブロッコリー仁徳陵のごと 石橋いろり
「もういい」と点滴の兄冬紅葉 榎本愛子
風花や兵器すらすら少年語 狩野康子
霜柱すこし斜視なんです私 北上正枝
ラフランス生きた証が顔に出て 佐藤君子
寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
歯を磨く小石の感触木葉舞う 豊原清明
月食やゼレンスキーの赤銅色 永田和子
十二月八日鈴懸に空師いる 並木邑人
○ドニエプルも仁淀も青し冬の川 野﨑憲子
秋めくやひとりの音す広い家 疋田恵美子
とんぼみな交尾んで水のひかりかな 平田薫
ありがとうの「あ」のかたちなる朝日かな マブソン青眼
国葬とか往ったり来たり稲刈機 三浦静佳
紙を漉く皺一つなき水の音 三好つや子
冬ぬくしCM軽き紙パンツ 村本なずな
日記とは嘘書くものです実紫 室田洋子
○開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
紙風船バンバンバシンうつ楽しさ 森田高司

大髙宏允 選
冬近しオール電化の音で病む 阿木よう子
冬日受け木の根は先で考える 石川和子
むかご飯君と暮らすもあと十年か 石川義倫
気持ちよく死んでいるのね枯芒 伊藤歩
ベートーベンに変わる幻聴雪しまき 故・伊藤雅彦
良き生き方は迷わずに逝く仏法僧 植田郁一
辞世の句障子明りの如くあり 江井芳朗
あの音は冬まっ直ぐに来るらしい 大沢輝一
裸木や斜光四十五度の無垢 北村美都子
月ある涼しさ深深と獣道 小池弘子
ひとりづつ棘捨てにゆく十二月 こしのゆみこ
みな寒くゐてもの食うてをりにけり 小西瞬夏
弟よ瓶に入れたい朝霧よ 佐々木宏
まぼろしは何の入り口小白鳥 芹沢愛子
焼き芋や風通しよき仲間たち 高橋明江
幸不幸孝不孝雪雪雪雪 中村晋
「北風がビューンって言ったね」「行ったね」 中村道子
この星の食欲冬の月を食う 三浦二三子
笑うから笑ってしまう小六月 横地かをる
夕景や熟柿の熱烈なる死形 横山隆

野口思づゑ 選
廃業を決断したり月今宵 石川義倫
色のない光を染める柿あかり 泉尚子
先祖みなわれより若し除夜の鐘 岡崎万寿
着ぶくれて平和公園清掃す 奥村久美子
小春日やどこかのピアノが音外す 奥山和子
障子貼る曲り形にも世帯主 加藤昭子
戦中戦後そして戦前冬北斗 鎌田喜代子
極月や棺の和尚の絆創膏 河田清峰
人参臭きにんじん失せ日本このザマ すずき穂波
海の色に縦横たてよこがあるね冬だね たけなか華那
自由とは広場手すりに小鳥二羽 竹本仰
熱燗や今日はどの鬱と遊ぼうか 立川由紀
○綿菓子のようにちちはは冬日向 月野ぽぽな
賀状書くいつも目だけで会う人に 中川邦雄
冬の雲離郷とは母棄てること 中村晋
○ドニエプルも仁淀も青し冬の川 野﨑憲子
姿勢よき人の襟元赤い羽根 平山圭子
熱燗や喪中葉書に殴られて 宮崎斗士
紅葉かつ散るタイムマシン現れよ 室田洋子
小鳥来る隣りばかりが賑やかに 森鈴

三好つや子 選
咆哮の君ら白紙を冬の日に 石川青狼
大銀杏よる辺なきものへと霏霏 石橋いろり
中村哲さん大根人参太かりし 稲葉千尋
折紙の動物園秋の保健室 植竹利江
鱗雲ほんとは怖い童唄 榎本愛子
ボルシチに匂いの移る火薬かな 大髙宏允
大根引き生家すとんと胸の穴 狩野康子
水平線の向うの戦さ肩車 小山やす子
断定は断念なのだろう時雨 佐孝石画
生命線ありのままです枯野原 佐藤詠子
身中の分水嶺を月渡る すずき穂波
甲殻類の男が集う冬埠頭 たけなか華那
冬青そよごの実どこかでだるまさん転んだ 田中信克
浜菊や海女の径へとよじれ咲く 樽谷宗寬
○綿菓子のようにちちはは冬日向 月野ぽぽな
寒林の空かなしみの擬態する 藤田敦子
降り立った烏もしや冬の心臓 堀真知子
冬木立フォークの神様がいない 本田ひとみ
○開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
せっかちな風が九月を蒼くする 森由美子

◆三句鑑賞

寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
 なんと勇ましい句、死んでしまったら書くことができない、訃報を「俺が書く」と言い切っている。きっと前もって書いておくということだと思います。戒名は先に書いてある人もいる。季語の寒雀は何の関係もないようで、やはり寒雀の季語が切れて効いていると思います。

国葬とか往ったり来たり稲刈機 三浦静佳
 この句はもちろん安倍元総理のことである。国葬が良いとか悪いとか言っていないが、何故なんだという思いが作者にあると思います。稲刈機即ちコンバインが行ったり来たりします。国葬の日、稲刈りする作者の姿が見えてきて、評者こんな句を作りたいと思っていて、作者の心に共感しました。

開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
 脱帽!開戦日十二月八日をこれほどに人の心をえぐる句に出くわすのは初めてである。日本にも軍靴の音がヒシヒシと聴こえる昨今、わざと危機を煽っている政府にこの句を見せてあげたい。日本の歴史と事実を忘れたのかと。もっともっと平和外交をやらなければならないのに戦前と同じことをやっている。赤き穴が強烈。
(鑑賞・稲葉千尋)

みな寒くゐてもの食うてをりにけり 小西瞬夏
 一読、深沢七郎を思い浮かべた。いささかアウトローであった彼は、現実を現実離れした視点で見ていたように思う。この句も、どこかそんなところがある。名前を持ち、何かに属して適応している常識人の風景ではない。どんなに文明化・都市化しても遺伝子や生理現象などに支配されている。この句はまさにそれを描写している。

幸不幸孝不孝雪雪雪雪 中村晋
 ヒトに生まれての幸不幸、親不孝かどうかなどは、自分の意図だけで決まるわけではなく、関係性によって決まる。関係性は自分の意図を超える。だから、どうなるかは、「向こうから来る」という要素が大きい。それは相手にとっても同じで、従って自分が招いているようで、向こうから来るという不思議と遭遇する。この句は大胆な措辞によって、我々の日常の不思議さを切り取った。

笑うから笑ってしまう小六月 横地かをる
こうした体験は、誰にでもあるだろう。だから通り過ぎてしまいそうな句でもある。二読三読して、自分の無意識がまたこの句に戻ってきた。この句もまた、関係性によって生じた不思議を、至ってシンプルに表現している。このシンプルさに詠み手の無意識が反応するのだと思う。
(鑑賞・大髙宏允)

小春日やどこかのピアノが音外す 奥山和子
 暖かな冬の午後だろうか。どこからかピアノの音。何気なく聞いていたら間違った鍵盤を触ったようだ。上達した奏者の練習だったら、音が外れてもそれほど目立たないが、初心者の稽古だったらしくはっきりとミスが聞き取れた。小春日の気持ちの良さに弾き手は練習に集中できなくなったのか。微笑ましい句。

人参臭きにんじん失せ日本このザマ すずき穂波
 人参は以前、その独特の味から多くの子供に嫌われていた。それがいつの頃からか食べやすい野菜へと変わっていた。同様に気がつけば日本社会は豊かな個性素性を消した無難な大人を求めている。出る杭は打たれ続けその結果としての今。このザマはなんなのかと令和の日本に明治の親が喝を入れているようで面白い。

ドニエプルも仁淀も青し冬の川 野﨑憲子
 ドニエプル川はロシア侵攻の舞台であるウクライナを流れ現在も、歴史上も戦禍に巻き込まれている。川沿いにロシア、ベラルーシもある。とても美しい川だという。四国の仁淀川も青の美しさで知られる。作者には特別の意味があるに違いない二つの川の固有名詞と自然讃歌が強い平和メッセージとなっている。
(鑑賞・野口思づゑ)

中村哲さん大根人参太かりし 稲葉千尋
 冬の畑で逞しく育った大根や人参を眺めながら、作者は故中村哲氏を偲び、座右の銘だった最澄の言葉「一隅を照らす」に思いを巡らせているのかも知れない。一人ひとりが今居る場所で最善を尽くす。まさにそれは土の声を聞き、土と歩む生産者の心意気だといえる。大地に根ざして生きる人ならではの、滋養あふれる句だ。

水平線の向うの戦さ肩車 小山やす子
 手の届かない所に止まった蟬。見物客が多くて見えない花火。子どもにとって父の肩は、世界をぱっと広げてくれる頼もしくて、幸せを実感できる存在だ。しかしウクライナ侵攻をはじめ、肩車の先に不穏な動きが見え隠れし、誰もが戦争に無関心ではいられない時代、この句に込められた安寧の祈りに、共感が止まらない。

甲殻類の男が集う冬埠頭 たけなか華那
 蟹漁がさかんな冬の港の、活気に満ちた朝が目に浮かび、白い息を吐きつつ、怒鳴るように喋る男たちの声までも聞こえる句だ。潮焼けした赤銅色の顔と腕にちらばる沁みは、手強い海を相手にしてきた漁師の勲章。甲殻類の男という骨太の表現に、荒々しくて朴訥な漁師への愛しさが感じられ、心を鷲掴みにされた。
(鑑賞・三好つや子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

不自由のなかに小さな自由福寿草 有栖川蘭子
老犬の里親二十歳春隣 有馬育代
ジャンピングキス春塵に照れもせず 飯塚真弓
従容として春落日に歩み寄る 石鎚優
むちむちよ呆けたる母のよもぎ餅 押勇次
アネモネを添えて修司への手紙 かさいともこ
春の闇ぼろが出るから喋らない 木村寛伸
果てしなきあなたへの道冬銀河 香月清子
如月や重機で壊す家一軒 近藤真由美
剣道着干したる庭にクロッカス 齊藤邦彦
無錫ムシャクなる湖を広げて春の雁 齊藤建春
ポトフ煮て雪籠りとは気散じな 佐々木妙子
マスク取るコロナの憎愛すでに無く 重松俊一
春深しハコと呼ばれし場所に行く 清水滋生
春の泥削除できない疵あまた 宙のふう
理科室に春は戯むる人体図 立川真理
十代が後ろ姿になりゆく春 立川瑠璃
廃屋に散らばる積木梅盛る 藤玲人
夢にても逢ひたき人よ花やがて 平井利恵
くちびるは一つしかないシクラメン 福岡日向子
金網に自転車括る木槿かな 福田博之
講義室机上にひとつ冬林檎 藤井久代
呼吸静かにふふむ光陰残り雪 松﨑あきら
沢山のきのふのやうに石鹸玉 丸山由理子
入道雲私が持っている余白 村上舞香
ポケツトにこぶし突つ込み海を蹴る 吉田貢(吉は土に口)
恐竜に乗り象に乗りふらここへ よねやま麦
八月や記録写真の中に吾 路志田美子
壁の穴しずかに塞ぐ春の闇 渡邉照香
菜の花の地下茎蒸気機関車へ 渡辺のり子

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