『海原』No.47(2023/4/1発行)

◆No.47 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

咆哮の君ら白紙を冬の日に 石川青狼
「もういい」と点滴の兄冬紅葉 榎本愛子
母さんは百合鴎そう新種です 大沢輝一
ジェラシーの薄くなるまで葱刻む 奥村久美子
余命という白き鳥浮く冬の水 桂凜火
枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
雪蟲や埋れしままの異土の骨 河田清峰
赤心にかざありとせば冬林檎 北村美都子
とろろ汁頭上どこかをドローンかな 木下ようこ
冬の蠅こんな身近に孤独死が 黒済泰子
葛飾や小春日を掃く寺男 小松よしはる
小寒や手押し車の母の息 齊藤しじみ
十二月八日余白に父の海 白石司子
鮫肌の梅の古木に父宿る 鈴木康之
寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
綿虫飛ぶわたしから遠いわたし 竹田昭江
冬の月言いたいことはそれだけか 田中信克
楽譜ひらけば流れだす冬銀河 月野ぽぽな
泥醉や渾身どこも散紅葉 董振華
飴色に焼けた鍛冶屋の鼻に雪 中内亮玄
冬晴れや番い鳥めき生協に 中村孝史
自由ですシベリアからの白鳥群 野口思づゑ
遠い戦禍ドミノ倒しに末枯るる 疋田恵美子
餅ふくれだす昼のふしぎなじかん 平田薫
何に震えてスマホあかりよ白鳥しらとりよ 藤野武
晩年のネコ科の二人小六月 船越みよ
銀杏舞う逆光なれば亡兄が立つ 松本勇二
開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
老いゆくや抽斗いっぱいの空蝉 森鈴
物忘れ叱られているポインセチア 渡辺厳太郎

中村晋●抄出

中村哲さん大根人参太かりし 稲葉千尋
出棺待ち遠し綿虫が騒ぎ出す 植田郁一
歩くほど遠くが見える草紅葉 上野昭子
湯上りの母ほめる父鳳仙花 柏原喜久恵
枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
はたはた食いこめかみ辺り日本海 狩野康子
弟の名多き亡母ははの日記雪 木下ようこ
大根煮る女で母で祖母であり 楠井収
夕やみだか雪虫だかどっと来る 佐々木宏
霜柱踏む確かさや骨密度 佐藤紀生子
アレッポの児らに乳無きクリスマス 高木一惠
みみずくや閉じゆく今を見つめてる 高木水志
甲殻類の男が集う冬埠頭 たけなか華那
着ぶくれてサッカーどうでもいいです 峠谷清広
小鳥来る寂しい日差しを連れてくる 董振華
栴檀の青い実主語のない話 鳥山由貴子
白鯨の座礁しており冬銀河 中内亮玄
「北風がビューンって言ったね」「行ったね」 中村道子
雑巾を投げて冬蝿落ちにけり 梨本洋子
冬鷺の滑空おのれ生かすごと 根本菜穂子
船長は山茶花宇宙船地球号 野﨑憲子
淡々と流されてあり秋のベンチ 日高玲
山茶花溢る確かにあつく兜太の手 藤野武
裸婦像を見あげる仔犬冬ぬくし 本田ひとみ
山眠る小さな村の木の図書館 松岡良子
花枇杷ほのと福耳ともるをちこち 三世川浩司
熱燗や喪中葉書に殴られて 宮崎斗士
えびせんに残る海老の眼秋の風 深山未遊
固太りの子どすんと膝に冬夕焼け 村松喜代
PKのキーパー逆に跳ぶ霜夜 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

咆哮の君ら白紙を冬の日に 石川青狼
 昨年十一月、中国政府の強硬なゼロコロナ対策に、たまらず白紙を掲げて抗議するデモが起こった。この抗議に対する応援の声は、台湾、東京、ニューヨークにも広がったという。白紙の意味は、何を書いても消されてしまうというものだったらしい。掲句は、その運動への声なき声援を送ったもの。時は「冬の日」だが、厳しい現実をも含意しているとみてよかろう。「咆哮の君ら」に、その切迫感が覗える。

赤心にかざありとせば冬林檎 北村美都子
 「赤心」とは、いつわりのない真心のこと。「香」を「かざ」と呼ぶのは、京ことばで、関西や北陸地方でも使われているという。「赤心にかざ」と配した作者の言語感覚に驚く。「せき」「かざ」の音韻の響き合いが、いかにも冬の季節感に通う。しかも「赤」「香」の意味的な照応が、「冬林檎」の質感を浮かび上がらせる。音と色合いが、「赤心」と「冬林檎」に具象感を与えたのではないか。

とろろ汁頭上どこかをドローンかな 木下ようこ
 とろろ汁を食べている頭上に、ドローンの飛んでいる音が聞こえてくるという景。取り立ててどうということのない句ながら、その音韻効果と相俟って、なんとなく冬の日の鬱屈感とどこか不安感を混ぜたような、妙な陽だまりを感じられないだろうか。それは長引くコロナ禍につながる不思議な実感を呼ぶような気がしてならない。その敏感さが作者の詩的感覚なのだ。

十二月八日余白に父の海 白石司子
 開戦の日の余白に父の海があるという。おそらく父にとっては大きな出来事であって、それを機に、その生涯に大きな転機が訪れたのだ。歴史を画する時なら、誰しも訪れる転機だろうが、作者自身の人生にとっても父の転機が、大きく影響したのかも知れない。「父の海」は、作者にも続く海だったのだろう。

寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
 寒雀が地表を盛んに啄んでいる。その様子を、電信で訃報を打っている様子と見た。近頃盛んに舞い込んでくる訃報と見立てたのだ。そのとき、やがては自分自身の訃報も、このようにして打たれるのではないかと感じている。だが待てよ、俺の訃報ぐらい俺が書くから、余計なことはするなという。それは身近に感じている耐えがたい死の恐怖への、裏返しの衝迫だったのかも知れない。

自由ですシベリアからの白鳥群 野口思づゑ
 シベリアは多くの虜囚の流刑の地。そのシベリアから多くの白鳥が帰ってきた。白鳥は口々に、今、私たちは自由ですと呼び交わしているかのようだと見ている。作者の思いの中には、ロシアのウクライナ侵攻で捕らえられた人々の思いを込めているに違いない。上五に「自由です」と置いて、解放感の大きさを訴えた。

晩年のネコ科の二人小六月 船越みよ
 「晩年のネコ科の二人」とは、老いたる夫婦を想像する。二人して小春日の陽だまりの中に座って、日がな一日うつらうつらと日を過ごす。それは従順で愛らしい老い猫のようにも見える。この句はそれ以上のことは書いていないが、何もしない、出来ない二人ながら、そこにいるだけで、二人にとっての平和な温もりがある。

開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
 太平洋戦争開戦日十二月八日は、無謀な戦争を仕掛けた日本の大きな錯誤の日という他はない。もちろんそこに追い込まれる国際情勢があったとしても、長期的な展望を欠いたイチかバチかの賭けだった。またマスコミに煽られた世論があった。さらに「日の丸の下、為せば成る」という盲信がまかり通っていた。「日の丸という赤き穴」は、そんな歴史時評を見事に、感覚的に言い留めている。

老いゆくや抽斗いっぱいの空蝉 森鈴
 老いの意識は、不意に訪れるものだが、「老いゆく」とは、その重なりをいう。空蝉は、気づいたときに拾い集めたもので、それは時間の断続的な流れの中で堆積してゆく。ふとみると抽斗いっぱいに貯まっていたという。そこには人生の虚しさが詰まっていて、こんな形で老いてゆくのかという感慨を誘うのではないか。それを見て、老いへの向かい合い方をあらためて確かめなおしているのかも知れない。

 他に取り上げるべきだった句を列挙しておきたい。

「もういい」と点滴の兄冬紅葉 榎本愛子
母さんは百合鴎そう新種です 大沢輝一
ジェラシーの薄くなるまで葱刻む 奥村久美子
枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
冬の蠅こんな身近に孤独死が 黒済泰子
綿虫飛ぶわたしから遠いわたし 竹田昭江
楽譜ひらけば流れだす冬銀河 月野ぽぽな
冬晴れや番い鳥めき生協に 中村孝史
何に震えてスマホあかりよ白鳥しらとりよ 藤野武
銀杏舞う逆光なれば亡兄が立つ 松本勇二

◆海原秀句鑑賞 中村晋

淡々と流されてあり秋のベンチ 日高玲
 一読不思議な世界に迷い込ませるような句。目の前に存在しているベンチが、淡々と流されてやってきたとはどういうことなんだろう。流浪のベンチ。どこか砂浜にでも作者はいるのだろうか…。そこではたと気づく。この句を「秋のベンチ」の前で一旦切って読み直してみるとどうなるだろう。すると「淡々と流されて」あるのは作者であり、作者はある種の漂泊感を抱いてベンチに腰掛けている、とも読めてくる。読者をひとつの世界に誘い出し、しかしそこでまた別の世界に連れ出す絶妙な間合いのある一句。しみじみと自身の生の意味を噛み締める作者の姿がありありと見えるようだ。

花枇杷ほのと福耳ともるをちこち 三世川浩司
 作者の作品世界はつねに独特だ。まずは韻律のオフビート感が他の作者にはない持ち味である。そして言葉の選択。「花枇杷ほのと」のあとの「福耳」への転換。しかも「福耳」が「ともる」とはどういうことか、つい立ち止まり考えさせられてしまう。しかし何度も味わううちに初冬の明るい光景がじわじわと目の前に広がってくるから不思議だ。そしてなんともいえない幸福感も。「考えるんじゃない。感じるんだ。」という言葉を思い出してしまうほどの感覚の世界。こういう句を作る作家を擁する「海原」の懐の広さがとてもうれしい

山茶花溢る確かにあつく兜太の手 藤野武
 「温く」を「あつく」と読ませるところが実に心憎い。「厚く」もあり「熱く」もあった兜太先生の手を、私も思い出さずにはいられなかった。「山茶花」との取り合わせが、身体が覚えている「温い」記憶を呼び起こすようだ。身体に訴える句の力強さを改めて思う。

熱燗や喪中葉書に殴られて 宮崎斗士
 この句も身体感覚を呼び覚ます一句。「喪中葉書」に驚き、喪失感を覚えるときの心の痛みを、「殴られて」と言い止めながら、作者はその痛みに耐えているに違いない。また「熱燗」を飲む作者の心は少々荒れているかもしれない。だが、その痛みや荒れの奥から、作者の優しさが熱く滲み出してくる。痛いほど優しい一句。

夕やみだか雪虫だかどっと来る 佐々木宏
 俳句を作り俳句を読みながらいつも不思議に思うのは、この短い詩型が、どうしてこれほど風土を色濃く盛り込めるのかということである。おそらく意識して盛り込めるものではないだろう。作者の潜在意識が句に表出されるということなのだろう。俳句の面白さ奥深さという他はない。そしてこの句もその例に漏れない。「夕やみだか雪虫だか」と少しおどけながら「どっと来る」とぶっきらぼうに言い放つ。闇の大きさを感じつつ、これから訪れる厳しい冬の予兆に作者は畏れを抱いているに違いない。北の大地の風土が韻律に刻印されている句だ。

枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
 現在の地方、とくに僻村の状況を活写した一句である。子がいないだけではなく、もはや働き盛りの青年壮年がいないのだ。皮肉なことに残っているのは「屈強」の枯葦ばかり。「屈強」ということばを反転して使った作者の言葉を選ぶセンスが光る。と同時に、風土を徹底して描くことで、句がおのずから社会性を帯びてくることにも気づかされる。俳句にどのように社会性を盛り込むか、地方の俳句作者にとって示唆に富む一句である。

みみずくや閉じゆく今を見つめてる 高木水志
 作者は二十代の青年。私も二十代の後半から俳句を作り始めたが、この年代でこのような時代の感覚を映し出した句を作ることなど到底できなかった。「閉じゆく今」という表現に時代の閉塞感が見事に映し出されていると思う。そして言葉にできない憤りなども。「閉じゆく今」という時代に我々はどう抗うか。これは決して青年だけの課題ではない。多くの人たちと分かち合いたい一句。

アレッポの児らに乳無きクリスマス 高木一惠
 今はウクライナの戦争のことが話題の中心だが、ほんの数年前はシリアの内戦、とくにアレッポの惨状のことがニュースでしばしば報道された。今ここに作者が「アレッポ」を持ち出す理由はどのようなものだろうか。シリア内戦のことを忘れかけている我々を問い質しているのだろうか。ウクライナではなく、あえて「アレッポ」を題材にし、ストレートに句にした作者に共鳴する。

船長は山茶花宇宙船地球号 野﨑憲子
 「宇宙船地球号」という言葉を提唱したのはアメリカの建築家バックミンスター・フラー。1972年ストックホルムで開催された国連人間環境会議においてこの言葉がスローガンになった。私は社会の教科書でこの言葉を学習した記憶がある。しかし今この言葉をどれほどの人が衒いなく使えるだろう。作者の大胆さに感銘する。「宇宙船地球号」という言葉の重さよ。しかも船長は山茶花という。このファンタジーのあつさよ。

◆金子兜太 私の一句

死にし骨は海に捨つべし沢庵嚙む 兜太

 この句を目にした時、胸をガツンと打たれた気がしました。一凡人である私は、世に名を残すこともなく、命が尽きれば、この世から消え忘れられてゆくのだと達観している。だからこそ生を全うしたいと思っている。たとえ沢庵を食ってでも、である。私の人生訓にしたい句です。『少年』(昭和30年)より。佐藤君子

涙なし蝶かんかんと触れ合いて 兜太

 「出会いは、人生の香り」と聞かされてきた。兜太先生と出会わせてもらい、半世紀が過ぎた。ふらふらとずるさもしながら、やっとなんとかここにいる。万謝である。掲句は、「海程」最後の熊谷大会で出句した句が佳作に入選。頂戴したサイン入り『いま兜太は』(平成27年・岩波書店)の中にある。万象の命への感受、天からの声が聞こえてくる。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。森田高司

◆共鳴20句〈1・2月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

泉陽太郎 選
蟋蟀の声脳幹の碧色 石塚しをり
良心に勝る杖なし大花野 鵜飼惠子
雨上がり昔を映す水溜まり 大西政司
曼珠沙華言葉に毒を乗せて吐く 奥山和子
○邪な愛をプチトマト転がる 桂凜火
古稀以後の遊び足りない烏瓜 加藤昭子
人は渦をつくりては解き天の川 鎌田喜代子
花野道兵士は前を見るばかり 楠井収
吊皮に見覚えのない右手かな 小松敦
なんでもないそう言いながら雪の道 小山やす子
十六夜や聖域という揺らぐもの 近藤亜沙美
坂道も人の命も秋色で 佐藤詠子
冬の虹自転車の青年が追う 佐藤博己
晩夏光鍵の匂いを深く嗅ぐ 重松敬子
木の葉髪生きた証しが湯に遊ぶ 立川弘子
はつしぐれ海にも海があればいい 平田薫
○萩白く母はことばの向こう側 藤田敦子
待たされてもいい満月なんだから 船越みよ
自虐とう手近な安堵蝉の穴 森由美子
秋思とはナースコールの一歩前 渡辺厳太郎

刈田光児 選
吹く風に吹かない風に秋の艶 泉陽太郎
被曝地解除揺れつ戻りつ秋の蝶 宇川啓子
鰯雲対策本部事務会議 片岡秀樹
酔芙蓉モデルはすっと笑う面 川崎千鶴子
雁渡し逝ってしまえば反故ですね 河原珠美
秋霖を胸の林へふりそそぐ 後藤岑生
薔薇の門に青き棘あり潜りけり 小西瞬夏
新潟米一年分を取りよせて 小林花代
青春の18きっぷ青みかん 齊藤しじみ
曼珠沙華身のうちそとの水揺れて 佐孝石画
在りし日の母の携帯金木犀 志田すずめ
峡住みの男へぼろんと木の実降る 白井重之
曼珠沙華我魂草木南無阿弥陀 鈴木孝信
十五夜の靴が揃って跡目論 すずき穂波
糸とんぼこんな湧水ある平和 芹沢愛子
虫鳴くや点滴流れゆくからだ 高木水志
指物師ナンバンギセルなど吹かす 鳥山由貴子
毒舌はきみの優しさ曼珠沙華 室田洋子
月そっと心療内科をひらきます 望月士郎
嘘つきの狐になって早五年 らふ亜沙弥

すずき穂波 選
院展や首にあご埋めなおし観る 石川まゆみ
悼む夜を流星の弧のさしこめる 伊藤道郎
いのこずち私の邪魔をしない蛇 奥山和子
○邪な愛をプチトマト転がる 桂凜火
聞き返し聞き返し紅葉かつ散る 川崎千鶴子
秋日影近未来的水飲み場 川田由美子
梨噛んで夫が遠い目をしたる こしのゆみこ
裸電球背中は一本の廊下 三枝みずほ
秩父産土寒凪の水を恋すなり 関田誓炎
蜩や引き延ばされた僕がいる 高木水志
蝉の山は飢餓かな俺の樹が揺れる 竹本仰
歯磨きの母の背骨の寒露なり 豊原清明
霍乱の母に冷凍野菜貼る 新野祐子
たましひのはなるるけはひ霧の杖 野﨑憲子
○茗荷咲く痛みはもぐり込んでゆく 日高玲
○萩白く母はことばの向こう側 藤田敦子
蓮の実飛ぶ水輪のように帰心あり 船越みよ
大花野旅の一座のホバリング 松本勇二
目を閉じることがアトリエ長き夜の 宮崎斗士
迢空忌だんだん怖い葉っぱの面 三好つや子

横地かをる 選
場に小鳥不登校という翼 伊藤道郎
冬瓜転がす時々人間が淋しい 井上俊一
あめんぼうこんなに軽い静寂感 榎本愛子
秋の日はクリスタル新しい靴も 大池桜子
柩おろし野菊の中の人を呼ぶ 大西健司
我が恋は今どの辺り式部の実 川崎益太郎
山法師流れのままに今をゆく 黒岡洋子
同期みな戦力外や新酒酌む 齊藤しじみ
つま先から未来へ入る秋の山 すずき穂波
弦そつと弾く秋雪払ふやう 田中亜美
曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 中内亮玄
○茗荷咲く痛みはもぐり込んでゆく 日高玲
国境の切り取り線に秋夕焼 増田暁子
やわらかい気持ちの余白おでん喰う 松井麻容子
紫蘇の実を摘みし指先水を編む 松岡良子
いつはりなきかたちとなりて枯木星 水野真由美
草雲雀ふっと鉄道唱歌かな 三好つや子
自然薯に山の記憶の容かな 矢野二十四
夕顔の凜と咲く家老世帯 吉村伊紅美
障子切り貼り動物の白過ぎる 若林卓宣

◆三句鑑賞

良心に勝る杖なし大花野 鵜飼惠子
 転ばぬ先の杖、という。何事も前もって準備しておけば失敗しない、といった意味だろうか。でも、と最近思う。杖を作るにもつくにも労力が要る。安全のため、権利のためなどといって日々たくさんの杖が作られる。作っていなければ非難もされる。でも、これって、きりがないのではないか。大花野を見渡す。答えを探して。

雨上がり昔を映す水溜まり 大西政司
 いつのことだったか。よく思い出せない。そもそもそんなことは、どうだろう、でも何かが、どこかに、引っかかっている。聞こえる。これはなんだ。雨、雨か、いや雨の音か。そう、雨だ。わかっている、もう過ぎたこと。もうどこにもない。どこにも。

晩夏光鍵の匂いを深く嗅ぐ 重松敬子
 すべてが気に入っていた。夏の朝日、冬の西日。台所から見える公園、子供たちの声。くしゃみばかりする給湯器、追い焚き機能のないお風呂。妙に縦長の靴箱、持ち上げてから閉める扉。地図の染みがある天井、壁を埋め尽くす本棚。そして、あなたの机。それが、前触れもなく、こんなにあっけなく。それが。でも、これでよかった。きっと、これでよかった。
(鑑賞・泉陽太郎)

峡住みの男へぼろんと木の実降る 白井重之
 一句は、春の季節を裏返ししたような晩秋の峡の美しい景が想像される。青天と紅葉した夥しい木の葉のコントラストの対比に、季節のクライマックスを見る。時折り木の実の落下の響きが周りの静寂を破り、余韻の後に静寂を深くする。〈ぼろん〉というオノマトペが何とも効果的。生活を愛し、俳句を生き甲斐とする作者。

糸とんぼこんな湧水ある平和 芹沢愛子
 この句を試みに数式で読んでみる。〈糸とんぼ+こんな湧水ある=平和〉、動詞〈ある〉は、上下に掛かるあるあるの両掛かりと読みたい。一句は、稚い糸とんぼと湧水の清らかな美の中に自然の真の平和を感受した。ちなみに新潟市郊外に在る「佐潟さかた」に生息している糸とんぼは、ラムサール条約の庇護のもとに平和に生きている。

指物師ナンバンギセルなど吹かす 鳥山由貴子
 指物師という名前に、指の文字が使われており、精巧な細工を施す器用な技能が窺える。細工物を見たくて興味津津。ナンバンギセルは夏の野草。ネーミングが面白く、両者の取合せが実にユニーク。導入の副助詞の〈など〉は、他の物を暗示する含みのある言葉で、戯けぶりが軽妙。読み手に想像の余白を預けた一句。
(鑑賞・刈田光児)

聞き返し聞き返し紅葉かつ散る 川崎千鶴子
 「耳遠くなり、目薄くなり……それが老い、いたしかたなく、かたじけなく、それが老夫婦の両想い?まだまだ人生紅葉、けれど、はらはら散り初めたのよ、ちゃんとわかってあげたいから、ちゃんと解り合えたいから、何度も聞くよ、何度でも応えるよ」こんな慈愛の一行詩。

秋日影近未来的水飲み場 川田由美子
 「近未来的」は「前近代的」の陰画ネガ。不透明で不穏な現代、この二極は同一性を帯びてもいるのだ。秋日影に存在するノスタルジックな一隅、そこに機能美を備えるものの無機質な水飲み場を見つけたのだろう。人間不在の感も漂う。地球砂漠化が言われているが、水の惑星の、水の未来を一瞬想い描いた作者の空疎感、そして倒錯感。

たましひのはなるるけはひ霧の杖 野﨑憲子
 ビデオゲームに「霧の杖」という奇妙なソフト名があるが、掲句は霧中に置かれている杖だろう。人影は見えず、亡き人の魂だけが未だ杖に残っている。その魂もそろそろ杖から離れようとしている。霧が晴れやがて杖そのものだけが遺品と化し、故人の存在が比類なき確固たるものとなる。この句の映像は、幻視に終わっていない。「いのち」が深く捉えられているからだ。
(鑑賞・すずき穂波)

水場に小鳥不登校という翼 伊藤道郎
 不登校を比喩に用い一句を成立させている。さまざまな原因や理由で学校への行きづらさを感じていること子どもの現実がある。「水場」にいる「小鳥」は不登校の子のすがたとも重なり胸が痛くなる。しかし、「翼」にはその子の心を落ち着かせる確かな力量を感じる。広い世界へ飛び立とうとするプラス思考への昇華でもある。

山法師流れのままに今をゆく 黒岡洋子
 三年におよぶコロナ禍の規制。以前の生活とは余りにもかけ離れた日常を余儀なくされ、家の中に籠る作者。「流れのままに今をゆく」思い描いていたコロナ前の暮らしとは甚だ違う生き方を強いられてきた作者の偽りのない心の在り様は尊いもののように感じる。流れに抗えぬ人の暮らしの余情がにじむ佳句。

やわらかい気持ちの余白おでん喰う 松井麻容子
 緊張がほぐれた時、ほっと気持ちが軽くなることを覚える。「やわらかい気持ちの余白」はそのような状況なのかと思う。精神的にゆとりが出てくると何か食べたくなるということも心情的に理解できる。折も折、じっくり味の沁み込んだおでんを口にされたのだ。心も体も温かくやわらかい。作者の真心がしずかに伝わってくる。
(鑑賞・横地かをる)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

いい人と呼ばれたくない冬夕焼 有栖川蘭子
尾を持たぬ巨大な影と日向ぼこ 有馬育代
冬椿人の重さの撓みかな 安藤久美子
胆勇を備へ旦暮のマスクかな 飯塚真弓
水初めて氷る山羊を飼う保育園 石口光子
冬の蝿冬の踊の真青なる 石鎚優
うさぎ抱く少女のピアスしゃれこうべ 上田輝子
ひとり身に横殴りかよ初こがらし 遠藤路子
A型かB型かといえば時雨る 大渕久幸
氷の眼いま恍惚の核ボタン 岡田ミツヒロ
哲の日の降りみ降らずみ雨絶えず 押勇次
帰る家なし押し競らに弾かれて 小野地香
妣命日はこの店のこのシクラメン 樫本昌博
皹を隠しいくばく親不孝 木村寛伸
吊し柿夫婦の糖度高めあう 後藤雅文
聖樹高々人はみな誰かの子 小林育子
銀杏降るこの名画には武器はない 近藤真由美
平和呆け少ししていて開戦忌 重松俊一
ワシントン靴店俺たちの墓標とあり 清水滋生
高一や浮かんで消ゆる春を抱き 立川真理
冬かげろう吾の眼にいない吾を探す 立川瑠璃
絞首台のあった辺りや雪蛍 藤玲人
敵味方の鍵こじあけよ初景色 福井明子
想像の及ばぬ日々を時雨かな 福岡日向子
青春は戦争さなか日向ぼこ 増田天志
雪の道ひしと玉子を買って帰る 松﨑あきら
春の闇六畳一間は脈をうつ 村上舞香
頬かぶり似合える君と手をつなぐ 吉田もろび
机下に垂れるエゴイズムしゃこばさぼてん 渡辺のり子
雪女郎手首にナイフ軽く当て 渡邉照香

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