◆No.41 目次
◆海原秀句 同人各集より
安西篤●抄出
今生の別れはライン 薄翅蜉蝣 石橋いろり
遠く住む姉 障子明りが救いです 泉尚子
麦秋や爪弾く禁じられた遊び 大髙洋子
卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
肖像画遺す人生麦青む 小野裕三
籐椅子の窪みかすかや姉の逝く 片町節子
縄文式土器に水の香大田植 刈田光児
卯波立つ靴を脱がずに入ってゆく 河西志帆
桜蘂降る戦禍見ぬふり聞かぬふり 黍野恵
待つという愚かさが好き春夕焼 小池弘子
陽だまりは祈りの白さみどりの日 小松敦
胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
黒南風や完熟という壊れ方 佐藤美紀江
王冠忘れた女王様です白木蓮 鱸久子
初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
羊歯若葉少年いつも老い易く ダークシー美紀
腹這いの自由繋いで土筆かな 高木水志
花は葉に数える影のくいちがう 竹田昭江
無辜の眼の底に昏れゆく麦の秋 田中信克
新茶汲むこの一椀の天地かな 寺町志津子
行く春の愁緒一懐抱きて寝る 董振華
青葉木菟寓話をしまう食器棚 日高玲
爆風へ向く風見鶏ひまわりの国 北條貢司
暗がりの樹々かをりたつ藍浴衣 前田典子
嘆きのように祈りのように熊谷草 松本千花
今日のアレコレかっさらって若葉風 三世川浩司
朧なる人道回廊けものみち 深山未遊
何も無い日々に丸して花水木 室田洋子
地球船みんないるかい子どもの日 森田高司
父の背がここ籐椅子のふくらみに 森武晴美
大西健司●抄出
少年の髯剃る最中遠郭公 石川和子
パンタグラフひゆーいと伸びて夏兆す 石川まゆみ
五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
草城にダニの句多し夏の雨 大西恵美子
卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
怒りにも賞味期限や春の虹 加藤昭子
病む父へ猫は寄り添い余花の雨 鎌田喜代子
縄文式土器に水の香大田植 刈田光児
離婚後も同居してゐる青葉木菟 木下ようこ
はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
目礼の後のひかりや藤の花 佐孝石画
はひふへと藤の花びら散り濡るを 佐々木香代子
薬草のような女になる五月 佐藤詠子
火薬庫の裏口に後家青葉騒 佐藤二千六
夏帽子病院帰りに二つ買い 佐藤美紀江
空蝉やへその緒三つ手の中に 志田すずめ
青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
閉ざされし母校の艇庫冴え返る 新宅美佐子
さびしさに正面ありぬ金魚玉 竹田昭江
生意気なナースの二の腕風薫る 長尾向季
兜太の忌古き鞄を陽に晒す 日高玲
幽霊銃解体すれば猫柳 松本千花
星涼し尾根を狩猟の民行けば 松本勇二
野に老いて父のはみだす草朧 水野真由美
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士
桜蘂降るカーナビは遠回りが好き 深山未遊
マトリョーシカ春は終わったとひとこと 村上友子
幣辛夷田の神様は大股で 横地かをる
円墳に歌舞く役者か黒揚羽 吉村伊紅美
孑孑を水ごと舗装路へ捨てる 若林卓宣
◆海原秀句鑑賞 安西篤
卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
作者の実家は三重県南部の山深い地に住む旧家。「爪の小さな家系」とは、ささやかな矜持を謙遜の意を込めて書いたものだろう。「卯の花腐し」は、陰暦四月卯の花月に降る雨で、春雨と梅雨の中間の霖雨。せっかくの卯の花が腐るのではないかという先人の思いからきたものという。おそらくこの季語の湿り気を帯びた滅びの美しさと、その地に耐え忍んで生きる旧家の宿命を、さらりと書いているのではないか。義父甲子男に通ずる反骨をも感じさせる一句。
卯波立つ靴を脱がずに入ってゆく 河西志帆
作者は、今年、定住の地であった長野県から沖縄へ転居した。その一報を電話で受けたとき一瞬驚いたが、彼女なら迷いなくやりぬくだろうとすぐに思った。この句はその第一報だろうが、まったく物怖じしない気合が入っている。沖縄の海に向かい両手を広げ、ずかずかと靴のまま海に入っていき、どうぞよろしくと叫んでいる姿が目に見えるようだ。海もまた「いいぞ助っ人」と答えているに違いない。
桜蘂降る戦禍見ぬふり聞かぬふり 黍野恵
「桜蘂降る」は、花が散った後の、静かな晩春の風情で、地面をうっすらと赤紫に染めるように散り敷く。掲句は、今の時期ウクライナ戦争を意識しているのだろうから、その惨状を正視に耐えがたい思いで見聞きしているはずだ。「戦禍見ぬふり聞かぬふり」は、それにもかかわらず、見、聞かざるを得ない気持ちを詠んでいるとみたい。その辛さやりきれなさを、逆説的な表現で捉えた一句といっていい。桜蘂は戦禍の血痕のようにも見える。
胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
やはり日常の暮らしの中で、戦争の現実をひしひしと感じつつある一句だ。この世界に戦争しない力を、その念力を私にも、という願いを込めて、胡瓜を揉んでいる。もちろんそれだけで、直接戦争抑止力につながるわけではないが、その願いの集積が、大きな波動となって歴史を動かしていくことはあり得よう。ささやかな日常に平和への願いと祈りを込めた一句。
初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
兜太先生の身辺にあって、同じ風土と空気の中で生きてきた人ならではの、身体的韻律を感じさせるものがある。一句全体が兜太節といっていいのではないか。初蝶は、春の訪れを告げるかのように舞い出て、山河の水はその光に照り映える。あらためてわが産土の地を寿ぐかのように。兜太先生の晩年は、この句のような原郷回帰の思いが濃かったのではないだろうか。
腹這いの自由繋いで土筆かな 高木水志
作者は今年二十七歳、大阪在住の青年だが重度の障碍者で、脳機能はなんとか保全されてはいるものの、肢体の動きはままならず、辛うじて言葉を発することは出来ても、健常者のように会話を自由に操ることは出来ないという。外部とのコミュニケーションや俳句の創作は、もっぱらお母さんが本人の言葉をパソコンに打ち込んで発信する。お父さんは脳科学者でもあり、本人の健康管理は両親の専門的対応によって万全を期しておられる。重いハンディキャップを両親の献身的介護のもとで乗り越え、俳句は大叔母の本誌同人高木一惠さんが受信して適切なアドバイスもしながら、編集部に取り次いでいる。いわば一家一族あげての手厚い支援体制の下で俳句活動が成り立っているわけだ。このような背景を踏まえて掲句を読み直せば、「腹這いの自由繋いで」に作者の懸命な野遊びの映像と、土筆のささやかながら精一杯生きようとする景が重なって、いのちのシンクロニシティの空間を現出しているような感動を覚える。
爆風へ向く風見鶏ひまわりの国 北條貢司
ウクライナの現実を想望した句の中では、戦争の初期の衝撃を映像化したものではないか。爆風で風見鶏がくるくる回っている景。ひまわりの国というウクライナを擬した表現にも、風見鶏の回転に連脈する語感の軽快なリズム感があって、戦争の衝撃に耐える弾力性を思わせるものがある。だがその「ひまわりの国」も、今は略奪と暴行で泥まみれに打ちひしがれている。その現実を我々は想望するだけだが、それでも戦争の悲劇を我々の日常の断片の中に見出して、ささやかな体感を表現していくことは出来よう。
今日のアレコレかっさらって若葉風 三世川浩司
働いている人々の今日のアレコレ。誰にも言えず、ひたすら時間とともに塵芥のように堆積してゆく。その多くは対人関係のものだけに、おのれ自身で背負うしかない。そんなアレコレをかっさらっていけるのは、今頬をなでていく若葉風ぐらいのものだろう。いわば束の間のカタルシスだが、それでもそのひと時あればこそ、明日への生きる力をよみがえらせることが出来る。
◆海原秀句鑑賞 大西健司
離婚後も同居してゐる青葉木菟 木下ようこ
今月号は「風の衆」の俳句がおもしろい。中でも木下ようこさんの句にはショートショートのようなおもしろさがつまっており妄想癖を刺激する。
「こなごなの過去」「記憶の下の下の詳細」などとどこか意味深。そして最後に「離婚後も同居」という現実が述べられ、突然の青葉木菟の出現にびっくり。
元亭主があたかも青葉木菟であると取りたい。
冷え冷えとした家の中の片隅に存在している元亭主のどこか達観した姿とはうがち過ぎだろうか。でも青葉木菟でよかった、たとえばごきぶりじゃいやだもの。
かと思えば「灰吹屋薬局」が出てくる。何とも灰吹屋が気にかかる。調べればごく普通のドラッグストアとか。
ただやはり江戸から続く老舗のようだ。ツバメに好かれる江戸店からいろいろと妄想が膨らむ。諧謔味に溢れた五句が秀逸。
薬草のような女になる五月 佐藤詠子
何とも悩ましい薬草のような女。さてどんな女性なのだろうとまたまた妄想が膨らむ。なかなか渋い味わい深い人だろうか。ノバラ、イチヤクソウ、それともドクダミのミステリアスな白。五月になるとそんな女になるという。みちのくの五月は全てが躍動的になる美しい季節。
そんな季節にどう生まれ変わるのだろうか興味はつきない。
火薬庫の裏口に後家青葉騒 佐藤二千六
後家とは何とも意味深。いまも普通に使える言葉なのだろうか。日常の中に存在する火薬庫の不気味さ、そして何気に佇む女性の存在が何ともいえず秀逸。ここから何か物語が始まるのだろう。
はひふへと藤の花びら散り濡るを 佐々木香代子
言葉遊びの楽しさを堪能。
他にも紫木蓮をティラノサウルスの舌と捉えた感性。
青葉径を横切る狐の尾の愛らしさ。のびのびと書かれていてすべてがたのしい。
パンタグラフひゆーいと伸びて夏兆す 石川まゆみ
ひゆーいと伸びるパンタグラフは路面電車のもの。
やはり普通の電車のパンタグラフはこんなにのどかではない。とりどりの路面電車のなかでもとりわけ古い車輌のものだろう。広島の街を縦横に走る路面電車の愛らしさが「ひゆーい」から伝わってくる。そんな広島にまたあの時と同じ暑い夏が来るのだ。
五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
水墨画の味わいだろう。五月雨に煙る野にぽつんと一頭の山羊がいる。その山羊の姿が全景なのだ。何もかも雨にかき消されている。一頭の山羊に焦点をあてて秀逸。
はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
夏帽子病院帰りに二つ買い 佐藤美紀江
二句とも何でも無いさりげない句だが、このさりげなさが好ましい。黒岡には「春泥に」という重いテーマの句もあるが最終的にこの句をいただいた。
佐藤句はただ帽子を二つ買ったというだけ。しかしそれが病院帰りだということで、ストーリーがそこから動き出す。能動的な夏の始まりがうれしい。
星涼し尾根を狩猟の民行けば 松本勇二
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士
やはり光の衆の句は除けては通れない。なるべく無視しようなどと余計なことを考えるのだが、やはり実力作家の句はあなどれない。さて松本句だが最近とみに身辺詠に冴えをみせるのだが、この句のような壮大なロマン溢れる絵画的な句もいい。むしろこのような句が松本勇二の世界だろうと思う。どこか神話を思わせる。
そして宮崎句だが、君という存在の重さをまず思う。
そしてそこには君の死を受け入れられない現実が横たわる。そのやるせない思いの重さ深さにひたすら摘草を続けるのだ。それは胸の奥深くひっそりと永劫続くのだろう。あまりに切ない。
マトリョーシカ春は終わったとひとこと 村上友子
マトリョーシカはロシアの代表的な木製人形。その愛らしい人形が呟く。「春は終わった」と。やはりこのぶっきらぼうな言い方のその中に、今度の戦争の虚しさが隠れている。すべては終わってしまった。もう元には戻れない、そんな切なさに溢れている。
孑孑を水ごと舗装路へ捨てる 若林卓宣
孑孑の湧いた水を盛大に舗装路へぶちまけているのだ。
その行為のおもしろさ。孑孑を水ごと捨てるという、その捉え方の手柄だろう。一見ぶっきらぼうな言い方に諧謔味があり、この行為を正当化する人の姿の様子まで見えてくる。
◆金子兜太 私の一句
葱坊主童の持ちし土光り 兜太
私の故郷は愛知県の奥三河の山村で、山が迫り空は帯の様に細長い。平地は少なく段々の田畑が細々とあり農業と林業の暮らしである。山と土に育った私には、兜太先生の土に親しみ土に生きるという考え方と、その諸句に強い共鳴と印象を感じ今日まで学んでいる。この句の土が光るというのは、正に土を大事にし、土が全てであると表現されている。秩父の腹出し童と土、先生の俳句の原点と強く惹かれる。句集『少年』(昭和30年)より。伊藤雅彦
海流ついに見えねど海流と暮らす 兜太
入会して間もなく秩父俳句道場で拙句を特選に採って下さり、〈谷底にめしつぶ怒号して百軒〉の色紙をいただきました。色紙の入った額の裏には〈昭和五十七年七月道場兜太書〉と墨で書いて下さった私の宝物です。海流と暮らす五十代から六十代の血気盛んな先生の姿が偲ばれます。後の〈海とどまりわれら流れてゆきしかな〉はオホーツク海を離れ、人間界に戻って流れてゆく「定住漂泊」を詠っておられます。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。若森京子
◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句
狩野康子 選
天国だ地獄だろうと団子虫 阿木よう子
雛人形美は断崖に立っている 片岡秀樹
水喰らい風喰らい阿吽の形の凍瀑よ 刈田光児
越後平野慕わし雲居より白鳥 北村美都子
お日さまにくちびる見せよ春の子よ 三枝みずほ
○おやすみとさよならは似て冬の嶺 佐孝石画
世の中のどこまで信じ地虫出づ 佐藤詠子
能面の男の囲む焚火かな 白石司子
春の霧老いの深さに追いつかぬ 髙橋一枝
○山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
白梅のひとひらふたひら母の鼓膜 月野ぽぽな
流氷接岸夜は一羽の迷鳥に 鳥山由貴子
夜の際が街を呑み込む兜太忌や 藤野武
湯冷めして返しそびれた本のよう 船越みよ
小綬鶏の明るい夫婦喧嘩かな 松本勇二
谷の芽木いま兄呼べば振り向かむ 水野真由美
雪割り草意外と「遺憾です」の顔 宮崎斗士
素心臘梅ためらいは凜々しくもあり 村上友子
心音はこれくらいかと臘梅咲く 横地かをる
泪をながさうまた生まれやう繁藪や 横山隆
川崎益太郎 選
落椿遠くて近い他界なり 宇川啓子
○マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
春の土耕すように脳軟化 大西政司
梅匂う人間鬱になる途中 尾形ゆきお
桜舞うフェイクニュースに踊らされ 奥村久美子
春の闇骨肉の戦車並ぶなり 桂凜火
○おやすみとさよならは似て冬の嶺 佐孝石画
○擦り傷は青春に似て桃の花 白石司子
必死とて死ぬわけでなし亀の鳴く 高橋明江
かじかんだ手を置く頰はあったんだ 竹本仰
黄砂降るそのまた向こう戦あり 竪阿彌放心
デモのない国のかたすみ鳥帰る 田中信克
裏側は決して見せない月の意地 東海林光代
啓蟄やごみの捨て場に遍路杖 長尾向季
秋思など戦禍思へば言い出せず 野口思づゑ
同窓名簿遠い遠いスタートの日 間瀬ひろ子
私に正面くださいチューリップ 三好つや子
フラスコの中のふらここ少年期 望月士郎
天井の闇のひとみや雹の音 森田高司
酔いどれにマスクが月にぶらさがり 輿儀つとむ
村本なずな 選
自分史の過去が氷解雪解川 赤崎裕太
雪吊や知恵とはなべて美しき 石田せ江子
三月十一日と書くもくやしきかな 稲葉千尋
蝶々や無数の仮説あおぞらに 上原祥子
捜し物もともとあらず朧月 片町節子
どこに仕舞おう零れる時の種袋 桂凜火
花あしび野辺に光の荷を降ろす 川田由美子
光りつつ消える俤竹の秋 北上正枝
いぬびわの実なにもおしつけない流れ 黒岡洋子
うさぎまっすぐわたしを抜けて雲 三枝みずほ
椿落つ流水速度あげにけり 佐藤稚鬼
真っ向の新玉の陽を食らわんか 鱸久子
鳥獣戯画そろりと参ろう春の闇 髙井元一
卒業式の後のふんわり鬼ごっこ たけなか華那
花ミモザ仔馬は耳で考える 遠山郁好
しどみ咲く段々畑の日の笑窪 平田恒子
麦青む胸のファスナー空へ開き 藤野武
若き日のダッフルコート日和るなよ 松本勇二
この木から言葉始まる榛の花 三浦二三子
語尾また♯してぼくらも春の一部 三世川浩司
山田哲夫 選
千枚田水が張られてきれいな歯 稲葉千尋
○マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
自粛とやまたしばらくは冬の蜂 尾形ゆきお
抽斗に隠されていく百合鴎 小野裕三
冬の葬火夫少年を抱き寄せし 小松よしはる
遠き世の土偶の無言三月尽 白井重之
○擦り傷は青春に似て桃の花 白石司子
菜の花盛り艶の山気に仮睡して 関田誓炎
それぞれの消えてゆきかた雪催 芹沢愛子
○山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
故郷や笑い上戸の山ばかり 峠谷清広
駅蕎麦の生真面目な艶春出雲 中内亮玄
春一番こける子のゐる地曳網 長尾向季
こぶし咲く戦火を燃やし継ぐ星に 中村晋
反戦句碑は同志のたましい風光る 疋田恵美子
拒否の眼の少女ふり向くヒヤシンス 増田暁子
観念をしまう抽斗猫柳 松本勇二
麦踏みし足が戦車の前に立つ 柳生正名
木五倍子垂る開拓村またひとり去り 吉澤祥匡
私書箱に置き去りにする春愁い 渡辺厳太郎
◆三句鑑賞
山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
山独活は収穫時に根を残すと、ほぼ毎年同じ場所で収穫出来る山の恵み。えぐ味が強いが皮を剥いだ真白な茎を切り水にさらすと透き通り、仄かな苦みと歯ざわりがある。山独活を知り尽くした作者が山独活と民話とに共通する本質的なものを感じとり、それを言い切ることで、読む側への説得力がより強くなったと思った。
白梅のひとひらふたひら母の鼓膜 月野ぽぽな
前書きには「母他界」とある。人の死で最後まで残るのは聴覚と聞いたことがある。作者の母を呼ぶ声も、多分白梅が散りゆくように今際の母上の耳から遠く静かに消えていく。身近な人の死の悲しみをこんなにも美しく表現し、結句に鼓膜という厳然とある器官を据えることで現実に引き戻す作者の句力に脱帽。
小綬鶏の明るい夫婦喧嘩かな 松本勇二
五月の良く晴れた日に友と二人近くの山へ。途中日当りの良い斜面から五〜六羽の子連れ鳥。胸のオレンジ色が印象的。小綬鶏だ。聞き做しは「チョットコイ」二羽が鳴き交わせばまさに夫婦喧嘩。作者がそう思い付いた瞬間の茶目っ気ある笑顔が見えるよう。世界中が小綬鶏の声の聞こえる自然豊かな土地で平和に暮らせたらどんなに良いことでしょうか。
(鑑賞・狩野康子)
落椿遠くて近い他界なり 宇川啓子
落椿という季語について、前触れなく、落ちることを詠んだ句は多いが、「他界」と結び付けたことから、兜太師のことが思い出されて、心に響いた。確かに、遠くて近い、他界は、落椿という季語の本意かも知れない。
マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
ロシアを代表する民芸品であるマトリョーシカの腹に一物と言わせる哀しさ。数々の美しいロシア民謡も何か胸につかえて、昔のように素直には歌えない。ただ一人の男のために…。先の見えない戦に冴返るどころでなく、凍りついてしまう。
フラスコの中のふらここ少年期 望月士郎
「フラスコ」と「ふらここ」をリフレイン的に使った俳味あふれる句である。確かに、フラスコは胎児を守る子宮のような感じを受ける。そこで、子どもが無心にふらここで遊んでる。毎日のように、ウクライナの子どもたちの悲惨な状況等を目にさせられるだけに、幸多かれと祈るのみである。
(鑑賞・川崎益太郎)
椿落つ流水速度あげにけり 佐藤稚鬼
高濱虛子の「流れゆく大根の葉の早さかな」の流れは野趣を感じさせる流れである。一方掲句は椿の花の優雅さのため、庭園の遣り水を思わせる。それまでは流れの速さを特に意識していなかったが、一輪の椿が落ちたとたん、流れは生命を吹き込まれ生き生きと流れだしたのだ。私は思わず黒澤明の「椿三十郎」のワンシーンを思い浮かべてしまった。鋭い観察眼と感覚の一句。
真っ向の新玉の陽を食らわんか 鱸久子
意表を突かれる句。新玉の陽を有り難くおろがむのではなく、挑戦するように真向かう作者。しかも食ってしまおうかと思う胆力と気概。小賢しいレトリックなどこの方には不要だ。確かな矜持をもって生きてこられたに違いない。ずばり踏み込んだ表現に圧倒される。
若き日のダッフルコート日和るなよ 松本勇二
いささか厚手のダッフルコートは学生時代のものだろうか。これを見ると若き日の思い出とともにあの頃の情熱や志が甦ってくる。そのコートが「日和るなよ。あの頃の思いを貫けよ。」と作者を叱咤激励している。作者はその思いを確認するため、このコートを見つめているのだ。
(鑑賞・村本なずな)
冬の葬火夫少年を抱き寄せし 小松よしはる
冬の火葬場で少年が見送るのは、肉親であろうか。それとも兄弟だろうか。悲しみの極にある少年の心を察して、肩をそっと抱き寄せた火夫。その行為の中に日々人の死に向き合っている人の心根の優しさと、それを見た作者の温かなまなざしを美しいと思う。死と向き合うと、人の心は不思議と素直になる。
遠き世の土偶の無言三月尽 白井重之
日々戦争や災害や疫病の蔓延にやるせない思いを抱きつつ生活している身には、こうした句に出会うと急にほっとさせられる。土偶の昔とて、人間の日常の営みにたいした違いもないかも知れぬが、眼前の土偶は、黙して語らぬ。だが、土偶という存在そのものが、既に昔を思わせずにはおかない。「三月尽」が効いている。
木五倍子垂る開拓村またひとり去り 吉澤祥匡
二十数年連続し出生率が低下し続ける日本。都市部も地方も人口減少に歯止めが掛からない。「木五倍子垂る」山国の開拓村とて同様で、一人また一人と村を去り、やがて学校は廃校、切り拓いた農地は荒れ、限界集落となり、自然に還る。過疎を嘆く作者の思いが春を迎えて生き生きと垂れる木五倍子とは対象的に哀しく伝わってくる。
(鑑賞・山田哲夫)
◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
父母のありてさびしさ袋掛 有栖川蘭子
卯波立つうかつにも乳はじかれて 有馬育代
ふじだなの藤の驕りを離れけり 淡路放生
路地奥の波音湿る立夏かな 安藤久美子
蔵座敷の奥へ永久へと青嵐 飯塚真弓
墓石には父の好かない青蜥蜴 井手ひとみ
戦場の轍の跡にすみれ咲く 植松まめ
春野っぱらつきささってる線量計 遠藤路子
アイスティーの氷溶けてく退屈 大池桜子
メガホンの小さい方の穴梅雨入 大渕久幸
芒野に入りし古老の行方かな 押勇次
団欒の声が朧の空き家から 後藤雅文
天網も無力かシェルターからの叫び 塩野正春
雪明り心の闇のバンクシー 重松俊一
臍らしき模様を抱きて蝌蚪の腹 高橋靖史
祖父といふ静けさ囀りの中へ 立川真理
水中花最後の晩餐は点滴 谷川かつゑ
少々の漁獲に五月蝿集りけり 土谷敏雄
緑陰で誰の捨てたる嘘を踏む 服部紀子
麦秋のがっしとつかむ発煙筒 深澤格子
死にたいとき死ねるといいね茄子の花 福岡日向子
道に売るトカゲのおもちゃ薄暑光 福田博之
鷹鳩に化し父さんはなんか変 藤川宏樹
にんげんとは何 ひまわりに砲弾 増田天志
野良仔猫大きな好意は怖いのです 松﨑あきら
夕の虹欄干に居る猿五、六 村上紀子
囀りやうつばりの塵こぼれ浮き 吉田貢(吉は土に口)
スコップに予期せぬ肉感初蛙 吉田もろび
此の身脱ぎたしセーター脱ぐやうに 渡邉照香
夜桜の発火点まで来てしまう 渡辺のり子