◆No.34 目次
◆海原秀句 同人各集より
安西篤●抄出
今朝の秋シャインマスカットの水光 石橋いろり
顔のないマネキン運ぶ敗戦忌 大沢輝一
八月のにんげんとして喉鳴らす 大髙宏允
一人居の箸置替えて涼新た 加藤昭子
訃報あり金魚のひれは夜を知らず 故・木村リュウジ
遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
海峡の潮吠えなだめすかす芒 後藤岑生
白い少年どの旅立ちも素足 小西瞬夏
菊の酒下戸はそこそこ艶ばなし 小松よしはる
鉦二死す初秋の闇駘蕩たり 佐々木昇一
鬼灯の如しフクシマにお坐す母 清水茉紀
原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
不器用な二人だったな盂蘭盆会 白石修章
秋茄子捥ぐ刀自に夕星滴りし 関田誓炎
海ほおずき人魚座りの母の黙 芹沢愛子
とうすみの身体を抜けて風になる 高木水志
メールするためらい荻を見ている たけなか華那
秋祭古いお旅所飾られて 竪阿彌放心
フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
風を曲がれば風のおとする仙人草 平田薫
小鳥来よ師は一本の大けやき 船越みよ
老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
ひとり綾取り川の向こうをこぼれ萩 松本千花
黒揚羽何かを伝えたき低さ 松本勇二
秋風の音になりきる駅ピアノ 三浦二三子
ちょれ北斎画樗檪となりてグレートウェーブ 深山未遊
言い訳を聞きおり天使魚眺めおり 村本なずな
秋黴雨逆流の川のよう日常 森鈴
カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
一日やタンポポ綿毛吹いただけ 横山隆
藤野武●抄出
産声という名月のありにけり 伊藤道郎
黙祷も握手もせずに八月過ぐ 井上俊一
玉葱一個今日一日を生き延びた 大髙宏允
美しく夏帽を抱く船医かな 小野裕三
稲妻を吸って吐き出す桜島 上脇すみ子
夏ちぎれ行く一面のちぎれ雲 川崎千鶴子
てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
鳴き移りし木の淋しくて秋の蟬 北村美都子
頷いてここより秋の金魚なる 木下ようこ
洗い髪記憶の端を踏む亡夫 黍野恵
遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
鰯雲あふれ出て来るスピーカー こしのゆみこ
海峡の潮吠えなだめすかす芒 後藤岑生
口中に舌のだぶつく桃の昼 小西瞬夏
芋虫が蛹になってまた思う 小松敦
君の背の醒めゆくままに月光 近藤亜沙美
三日月や言葉仕舞えば帆となりて 佐藤詠子
鬼灯の如しフクシマにお坐す母 清水茉紀
靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
過疎寒村ただ肉色に月を見る 田中信克
スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
首筋を鈍く打ちたる蝉時雨 中内亮玄
マンモグラフィ隣の蔦が伸びて来たハワイ ナカムラ薫
朝日赤しトマトとトマト触れ合って 中村晋
一竿は野良着ばかりや天高し 西美惠子
蟬しぐれ相槌を打つところなし 丹生千賀
笑ってばかり流し素麺速すぎる 平山圭子
返し針のような八月の日記 北條貢司
桃剥けて背より抜けゆくちからかな 前田典子
がまずみの実を指差せば家族めく 水野真由美
◆海原秀句鑑賞 安西篤
八月のにんげんとして喉鳴らす 大髙宏允
八月は上旬に立秋を迎えるが、なお残暑きびしく、花火や盆踊りなどの行事もある一方、原爆忌や敗戦日など歴史的記念日も続く。作者は表立った言上げをしていないものの、「にんげんとして」とあえて平仮名表記することで、乾いたモノとしての人間像を浮かび上がらせる。それは、かつて戦争によって多くの非業の死者をもたらした悲劇の歴史を踏まえているからだ。死に近い人間は必ず水を求める。末期の水は、人間としての最後の欲求だ。「喉鳴らす」は、その限界状況を捉えている。
訃報あり金魚のひれは夜を知らず 木村リュウジ
夜、訃報の電報が届いた。作者にとってかけがえのない大切な人の訃報に違いない。事のあまりに思いがけない知らせに、しばし茫然としている。傍らに金魚鉢か水槽があって、金魚がそんな夜の出来事も知らず、無心にひれを動かしている。劇的なシーンをモンタージュした静止画像で、悲しみの瞬間を捉えた一句。
鉦二死す初秋の闇駘蕩たり 佐々木昇一
「鉦二」とは、いうまでもなく今年の八月十九日に亡くなられた秋田の重鎮武藤鉦二氏のことである。中下は、故人の死出の旅路とみた。「駘蕩たり」は武藤氏のお人柄同様に、のどかな他界への旅を楽しんでおられることでしょう、というもの。それは、安らかなご冥福を祈る思いにつながる。武藤氏は人望の人だった。
原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
広島原爆被害の惨状は、広島平和記念館や丸木俊子夫妻の絵画展等によって広く知られているが、その現実は目を覆うばかりで、如何に過酷なものであったかと思い知らされる。「原色を塗り重ねゆく」とは、生々しい現実をあるがままに描き出そうとする作者の句意によるものではないか。戦後七十六年の時の隔たりによって、決して風化させてはならないという思いを込めているのだ。
海ほおずき人魚座りの母の黙 芹沢愛子
海ほおずきは江戸時代から始まった口に含んで鳴らす玩具だが、今では作者の母の世代までの名残りとなっていよう。「人魚座り」とは、しなだれるように両足を横になげだした座り方。女性のリラックスした時の座り方だ。母にとっては、幼き日に返った気分で、ふるさとの懐かしさや幼馴染の誰彼を思いだしながら、一人海ほおずきを鳴らしている。その母の一人きりのゆったりした沈黙の時間を、そっとしておきたい気分で詠んでいる。
風を曲がれば風のおとする仙人草 平田薫
仙人草は、雄しべの先に白いひげを長くのばしているところからその名があるという。風を曲がるとは、風の向きに添って曲がって行く、風の中を曲がるととった。そのときふと仙人草の白いひげが風に揺れて、なにやら久米の仙人が風を切って飛んでゆくような気配を感じたのかもしれない。そのあるかなきかの風音を立てたのは、仙人草だった。その音は、たしかどこかで聞いたような気がした。仙人草にその名通りの不思議さを感じている。
老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
むらさきしきぶの花は、六月から八月にかけて淡い紫色の小花が葉の付け根ごとに群がり咲く。十月から十一月にかけては落葉して、やはり紫色の小さな丸い実がおびただしく実を結ぶ。源氏物語の作者紫式部になぞらえた名が付けられたのは、紫そのものとも見える気品のある色合いによるもの。老老介護は、家庭の事情により身近な高齢者同士で介護せざるを得ない状況で、夫婦や親子、兄弟間で行われることが多い。介護疲れで共倒れになることも大きな社会問題になりつつある。花に雨とは、哀しみを堪忍んでいる表情そのものなのだろう。
黒揚羽何かを伝えたき低さ 松本勇二
黒揚羽が地を這うような低さで飛んでいる。それは何かを伝えたいと思わせるような低さだという。作者自身のもどかしげな心情を投影したもので、黒揚羽の仕草に重ねて見ているのだ。何かを伝えたい、だがその心情はまだ言葉の形を成さない。もやもやとした深層意識として、澱のようによどんでいる状態なのだろう。そんな言葉を捜している作者の思いのようにも見られる。
カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
カンカン帽は、大正時代に流行った男性用の麦藁帽だが、現在ではお洒落な女性のファッションの一つともなっている。この句の場合、別れを告げるのは、男女どちらとも取れる。まあ今は女性であってもおかしくない。「ひょいと浮かせて」には、ドライな別れの挨拶のニュアンスが滲む。この作者は最近めきめきと腕を上げてきているように思える。若々しい乾いた心情表現に巧みが
ある。
一つお願いしたいこと。投句欄には年齢の記入欄があり、もちろん個人情報なので公にされることはないが、作品の生活感をうかがうには大事な情報源でもあるので、できるだけご記入願えると有難い。
◆海原秀句鑑賞 藤野武
美しく夏帽を抱く船医かな 小野裕三
船医が乗船する船とは、概ね外洋を航行する大型船。青い海と青い空を背景に、(おそらく真白い)夏帽を抱く船医。眩しくも鮮明な映像。「抱く」が船医の人となりを想像せしめる。大きな波のうねりのような眩い時間。そして青春性。
夏ちぎれ行く一面のちぎれ雲 川崎千鶴子
ちぎれ雲というのは、(積雲などの)高層の雲の下層を、ちぎれ飛ぶように流れる雲のことを言うらしい。そのちぎれ雲が空一面に流れゆく。それを見ている作者は、ふっと「夏」そのもの(あるいは「夏」というものに抱いている作者の「思い」そのもの)も、ちぎれてゆくように感じたのだ。日本の、広島の、特別な夏。
てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
「私」の寸法を、「てのひら」「肩幅」と具体的に述べて、「秋草」の可憐さが際立つ。だが一方で、「私の寸法」とは、必ずしも物理的な寸法のことのみを言っているのではないだろう。私という「存在」の寸法。そう受け取ると、秋草に向いていた視線は、翻って秋草のような「私」というふうに逆転する。等身大の「私」。
頷いてここより秋の金魚なる 木下ようこ
秋は、突然やってくる。昨日までさんざめいていた夏も突然、醒めた顔をした秋になっている。ああ秋だと得心すると、ここにいるのは、ちょっと澄ました秋の金魚。軽やかな日常。秋に背を押された作者の心の一歩も。
遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
二物配合の妙。一瞬輝いては消えてゆく「遠花火」と、「デジャビュのごとくハグ」をされたときに生まれた、時をまさぐるような「違和感」とが配合され、日常の狭間に、新鮮な異なる世界が顔を覗かせる。
口中に舌のだぶつく桃の昼 小西瞬夏
舌は、あらためて言うまでもなく、喋り、味わい、飲み込むといった、人間にとってきわめて重要な役割を持つ器官。だがそんな舌も、時に何となくしっくりこず、少々持て余しぎみになることもあるのだ(心と肉体の落差?あるいは心と言葉の落差?)。それを「だぶつく」と表現した。桃の重みや甘い香りが、その落差をさらに増幅する。
過疎寒村ただ肉色に月を見る 田中信克
「肉色」という措辞が心に刺さる。人も疎らでさびれた村に、取り残され、取り捨てられたように在ると、鬱々とした気持ちは、ときにふつふつと沸き立つのだ。冷たいはずの月の光は、この沸き立つ心が投影され、「ただ肉色に」に見える。肌色ではない「肉色」に。
スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
スケートボードの競技をテレビで視て、宙を飛び手すりを滑る姿が、まさにこの「ガリガリと炎天へ」という表現にぴったりだと思う。そしてこの「ガリガリ」感は、既成の概念や秩序に挑戦し、ガリガリと大いなる壁に挑んでいる、若者の思いのようにも見えて来るのだ。「影」がいかにも現代の若者の情況を象徴していて、鋭い。
マンモグラフィ隣の蔦が伸びて来た ナカムラ薫
「隣の蔦が伸びて来た」というフレーズは、実景に由来するのかもしれないが同時に、作者の心の「喩」でもあると思う。マンモグラフィの検診を受けているときに感じる、(そっと侵入しはびこって来る蔦のような)なにか制御しにくいものに対する、不安感。
蟬しぐれ相槌を打つところなし 丹生千賀
話し相手がだらだら喋りっぱなしで、相槌を打つ暇がないのか、相手の話の内容が相槌を打ち肯定する内容ではないのか、いずれにしても半分呆れ半分諦めながら、「蟬しぐれ」の時間は過ぎてゆく。こうしてずっと、どうということなく日常は過ぎてゆくのか。だが一方で、「これでいいのだ」とも思う。軽妙にして洒脱な句。
返し針のような八月の日記 北條貢司
「返し針」とは、裁縫で一針ごとにあとへ返して縫う縫い方。つまり行ったり来たりを繰り返しながら前へ進んでゆく。それだけ丈夫にしっかりと縫うことが出来ると言う。「八月」の日記(思い)はそんなふうに行きつ戻りつ。
がまずみの実を指差せば家族めく 水野真由美
「がまずみの実」を指差すという何気ない行為によって、家族ではない人たちが、まるで家族のような感じになった。温かい「家族めく」心の動きが生まれた、と言う。一人一人がばらばらに(たとえ家族でも)孤立させられてしまっている現代においては、ひと時でも、また仮のものであっても、家族のように心を通わせ合うことが、得難いことなのだろう。寄り集まって実る赤い「がまずみの実」が、ぽっと灯った家族のようで愛おしい。
◆金子兜太 私の一句
レモン握る掌時には開き確信得る 兜太
変動する世界にあって、変転する社会との関係、その度に掌を開いて問われ
たのであろう。啄木の見る嘆く手の平ではなく、後悔の無い清爽なものを捕ら
えたことに間違いは無かったと確信する掌である。この句を知った時、私はこ
のレモンのようなものを握ることが出来るだろうかと羨望した。先生が詠まれ
た御歳の倍を過ぎた今、未だ「確信」を得るものは不明。句集『少年』(昭和
30年)より。柳ヒ文
縄とびの純潔の額を組織すべし 兜太
無邪気に縄跳びに興じている子供たち、その純朴な子らに「子供たちよ平和を希求する大人になって欲しい」と言う、これは作者自身への願求でもあろう。『暗緑地誌』収載句には「校庭が飛んでくしんしんと怒れば」がある。怒りが沸点に達した時、周りは静かにそして風景は歪み校庭も飛んでゆく。戦争への怒りと憎しみを金子先生は後記で述べている。両句には通底するものがあろう。そして金子先生の晩年の平和運動へと続く。句集『少年』(昭和30年)より。輿儀つとむ
◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句
清水恵子 選
連れションは兜太先生聖五月 石川義倫
睡蓮や正しく開く初版本 江良修
○田草取父はいろんな虫になり 大沢輝一
○六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
青大将の青があまりに過呼吸で 大西健司
地獄の黙示録蝦蟇の眼玉浮く 川崎千鶴子
円周率3より後は熱帯魚 木村リュウジ
○アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
○山笑うこれも男泣きの一つ 佐孝石画
火葬場や光が砂になる晩夏 佐藤詠子
叱られた日の次の日の蓮の花 高木水志
茄子の花若き日の恋はもう神話 峠谷清広
第三の眼はひたい鑑真忌 梨本洋子
ネモフィラは風を鏡と思うかな 平田薫
逆縁の母を抱きし祖母立夏 藤田敦子
肉親の会話の余白五月闇 松井麻容子
葉桜の影を測れば父佇てり 水野真由美
昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
梅雨晴れや亡母が遊びにぴょんと来る 森武晴美
若葉なす山は語り部三河弁 山田哲夫
竹本仰 選
不意にでる涙が怖い夏帽子 伊藤歩
神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
蝶つかめばロマンポルノ見たような 井上俊子
六月や心の一部屋空けておく 宇田蓋男
うつろうや百足愛しき封鎖都市 大西健司
草引くや草の神経ぞっとでる 尾形ゆきお
○こどもたちの消えるドア春のオルゴール 桂凜火
○口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
夕立や画集の裸婦のページ折る 木村リュウジ
揚羽蝶あなたに借りた夢がある 竹田昭江
夥しき味蕾わたしに蛇苺 鳥山由貴子
春や春じつに大きなおっぱい来 ナカムラ薫
うつつとは如何なる咎か蟬丸忌 並木邑人
コロナ禍や虹はLINEをはみ出して 根本菜穂子
胞衣壺の出土流域青めたり 野田信章
こんなにも五月の緑出棺す 藤田敦子
卯の花腐しシンバル早めに振りかぶる 堀真知子
もてあます黄泉の万緑奈良夫無し 松本勇二
腹へるよ噴水むやみにたかくさみしく 三世川浩司
なめくじという哲学に塩を振る 宮崎斗士
ナカムラ薫 選
人通るたびにしんぷる柚子の花 伊藤淳子
○こどもたちの消えるドア春のオルゴール 桂凜火
とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
○口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
薬草を手づかみで煮る蛍の夜 小池弘子
生きることけものくさくて夏マスク こしのゆみこ
○山笑うこれも男泣きの一つ 佐孝石画
アカシアは幼い鶴の匂いする 佐々木宏
双極といふもの芍薬咲ききつて 田中亜美
ひまわりは満開全力で君に刺され 中内亮玄
卯の花腐し息継ぎ長き離職の子 中村晋
わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
母逝きて二年夏蝶と友達 松本勇二
麦秋をさびしき鼓手の来たりけり 水野真由美
誰か拾ってください地球髪洗う 宮崎斗士
老人が点滅している緑の夜 三好つや子
花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
母親を脱いで涼しきもの啜る 柳生正名
螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子
並木邑人 選
宇宙儀ってどんな色だろう干瓢剥く 綾田節子
月光の刺さった手斧と眠る岳父 有村王志
幻月や蝦夷のサンショウウオ浮かぶ 石川青狼
接尾語か小さく翔ちて梅雨の蝶 市原光子
春の土をば五指で始めはほぐすなり 宇田蓋男
○田草取父はいろんな虫になり 大沢輝一
○六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
逢いたさのひげ根ひっぱる春の闇 桂凜火
脳は唐草記憶はぷにぷに春愁い 黍野恵
○アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
「人流」どこかプラスチック臭い 今野修三
老鶯や繕いて繕いて今 佐藤千枝子
通潤橋田植えてお神札へ二三言 下城正臣
紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
托卵のごと女子水球のパスワーク 董振華
家蠅の清々しさを持つ夕日 豊原清明
国芳の金魚と遊びたき夕べ 中條啓子
身体の中の綾取り待ち時間 北條貢司
ポンポンダリア昼を出られぬ数え歌 三好つや子
ダダイストです生脚の春の夜 若森京子
◆三句鑑賞
連れションは兜太先生聖五月 石川義倫
女性同士で連れ立ってトイレに行くことはあるが、「連れション」には、男性同士ならではの近しさがある。「聖五月」との取り合わせが、面白いことこの上ない。兜太先生が、親しみの持てる、あのようなお人柄だったがゆえに、こういう句が生まれるのだ。心がほっこりして、嬉しくなった。皆の隣には、今も、先生が居る。
睡蓮や正しく開く初版本 江良修
貴重な初版本への敬意が感じられる。睡蓮が正しく開くのに呼応して、初版本も正しく開かれるのを待っているのだ。長らく古書店に眠っていた本に、目覚めの時が訪れた。静寂の中、耳を澄ますと、睡蓮の開く音、作者が正しくそっとページを開く音が聞こえてくる。
茄子の花若き日の恋はもう神話 峠谷清広
野菜の花は、意外と美しい。茄子の花も、紫色の素朴で可憐な花。俯いて咲く。若き日の恋人は、素朴で可愛らしく控え目で、意外性もあったのだろう。畑仕事を一緒にしたのかもしれない。「若き日の恋」を引きずっている私からすると、「もう神話」とまで昇華して考えられる作者が羨ましい。
(鑑賞・清水恵子)
神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
おかしな話になるが、昔犯罪関係の本で、誘拐犯が子供を誘う時に一番効くのは、昆虫の生死にかかわるものだと読んだことがある。「○○の産まれる所、見たくない?」とか。それでいくとこの句にはこの種の誘いが隠されているように感じた。この世の一番の秘密がすぐそこにある。そんな逆説こそ真実経験してきたものだ。
夕立や画集の裸婦のページ折る 木村リュウジ
感動というもの。実は保存ができない。ほんの一瞬である。フィルムであろうがディスクであろうが、百%は残せない。とりあえず、もう一度とページ端を折る。だが、作者はそんなことはよく知っている。だから、折るという行為に、もう戻れないものだからというメッセージがひそかにこめられているように思えるのだ。
なめくじという哲学に塩を振る 宮崎斗士
なめくじに哲学?生きた人間それぞれに哲学はあるのだろうから、まだ人間のよりはいいものかも。だが接近の仕方が難しい。塩を振るくらい?では消えてしまう。悲しき接近である。そして我々はこういう接近の例を山ほど知っている。例えば原発。そして塩を振りつつこの関係は何なのだろうかと問う、そんな余韻が味わえる。
(鑑賞・竹本仰)
双極といふもの芍薬咲ききつて 田中亜美
ワーグナー〈タンホイザー〉序曲が流れる。「双極」というメロディは、アポロ的分別からもはや秩序など立ち入ることを拒否したディオニソス的嶺へゆっくり確実に昇る。どこにも属さぬ快楽は、どこにも属せぬ混沌。その混沌が響き合う時、例えようもない美の世界が生まれる。咲ききることを選んだ芍薬の耽溺の刹那は、その刹那は狂おしく美しい。
わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
しばらく幻想に浸りたい作品だ。「わが胸へ飛ぶ夏かもめ」が格別にカッコいいからだ。ただのカッコ良さに囲い込まれないのは、「引き潮や」と現実を差し出して上五中七を語り損なうという装いで語っているからである。夏の日差しは命と魂の臨界点を浄化する。夏かもめが咥えて来た昇る太陽の光は明日へのわが胸へと導く。
誰か拾ってください地球髪洗う 宮崎斗士
体温を持つ明快なフレーズからヒトへの愛おしさ切なさが溢れる。WHOは「人類はこの惑星の個体」と定義する。進化するcovid-19と共存し始めた個体は丸裸で目を瞑り髪を洗う。作者が風呂場から発信したSOSは「髪洗う」の本意に与することなく愉快痛快。マッパにこそ新・真がもたらされるのだ。
(鑑賞・ナカムラ薫)
春の土をば五指で始めはほぐすなり 宇田蓋男
なくとも解釈に支障はない強調の「をば」を敢て挿入したところに、宇田の農事への意地と執着を感じる。中下句もあっぱれ。トリセツには書いてない土への限りない愛情が溢れている。同様に綾田、有村、大沢、下城たちの作品にも、農林業と人間の生き様が密接に息づいていることを物語る。
アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
皮肉たっぷりの導入部は、黒沢清監督の映画の題名。そのエッセンスを575に組み替えたものだ。私も創作に行き詰まった折に、俳句以外のジャンルから素材を拝借することがある。旧来のメソッドに固執するか、進んで越境して行くのかは、俳句観の根幹に関わるものであり、その当否は各人の判断によるべきものであろう。
国芳の金魚と遊びたき夕べ 中條啓子
江戸末期の歌川国芳は、現代でも行列ができる人気の浮世絵師。天保の改革の風俗取締りに反発した町民同様、コロナ禍に鬱屈した精神を解放するには格好のアイテムでもある。武者絵や妖怪図、裸の人間を組み合わせた顔や猫の擬人画が著名だが、金魚が煙草をふかしたり、纏を振るう図もなかなか太々しい。
(鑑賞・並木邑人)
◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
紫蘇摘んであしたの天を新しく 有栖川蘭子
叩く蚊にわが血の証し老人ホーム 伊藤優子
歌読めば声裏返る秋ひとり 梅本真規子
簾揺れてわたし振り向いて永 遠遠藤路子
テンションが高いと言われる秋思かな 大池桜子
揮発する言葉八月十五日 大渕久幸
花の枝骨折ごとに舟に落ち 葛城広光
鈴虫や姿見一つ形見なり 神谷邦男
朝月夜カフカのプラハうら思ふ 川森基次
嘘よりも深くなりけり居待月 木村寛伸
ジェラシーは母の愛から燕の子 後藤雅文
秋の田刈る稗田阿礼と人のいう 齊藤邦彦
万有引力あり盛土の霙るるあり 佐久間晟
風天忌今夜あたりは人が降るかも 重松俊一
野分くるぽっかり空地の胸の中 宙のふう
猫の待つ月夜の家へ帰りけり髙橋橙子
神々に異端の交じる鉦叩き 田口浩
メリーウィドーそれとも薄羽蜉蝣 立川真理
現し世の桃啜る時生きている 立川瑠璃
律と母にもっと光を獺祭忌 野口佐稔
不服従彗星の尾として光らん 服部紀子
夕ひぐらしな鳴きそ鳴きそ退院す 原美智子
霧深く君にさらはれて堕落 平井利恵
積乱雲精一杯の「バカヤロー」 深沢格子
木漏れ日は八月に思い当たる感情 福岡日向子
頻尿の垂る日常白日傘 藤好良
健忘症の達人超人枯蟷螂 松﨑あきら
集落の今に限界彼岸花 村上紀子
白鳥や重きロシアのパンに慣れ 路志田美子
四畳半サルトリニーチェ迷い蜂 渡辺のり子