『海原』No.33(2021/11/1発行)

◆No.33 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
花氷含み笑いをYESという 綾田節子
手編み物ばかりの遺品昭和の日 有村王志
木洩れ日にひとり影踏み自粛の子 伊藤巌
枯草を敷く移植葱梅雨籠る 江井芳朗
苔の花たっぷりと雨すこし鬱 狩野康子
今更のハザードマップ水中花 河西志帆
竹節虫のつかむ熊野の木下闇 黍野恵
紀音夫忌や鞄の本が濡れている 木村リュウジ
逃水は原発ママチャリが過る 黒岡洋子
聴力検査ゆわーんと過ぎる梅雨の蝶 黒済泰子
夏館静かな文字のような人 小松敦
やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
草刈機読経のごとく享く心地 佐藤稚鬼
さみだるる唄いつくした子守唄 鱸久子
うりずんや過去はかけらにシーグラス 芹沢愛子
蚕豆の莢のふわふわ家族って何 高木水志
茄子の馬ひと雨すぎて帰りしか 田口満代子
石蕗ひらくいつかやさしく死ぬために 田中信克
みんみんのこだまも埋む土石流 董振華
田の神の化粧直しや半夏生 永田タヱ子
冬ざれのベンチの老人ストレッチ 野口思づゑ
ほうほたる会津の姫のぽつと笑む 野﨑憲子
梔子が昼を大きくして咲いた 平田薫
驟雨去り寄港のごとく靴並ぶ 藤田敦子
訪ね来し児に校長が新茶汲む 前田典子
金雀枝と次男傾き易きかな 松本勇二
大夕焼野生馬ただいま勃起中 マブソン青眼
壁の青蔦残り時間はわからない 故・武藤鉦二
ほたるぶくろ黙読のふと独り言 望月士郎
紋白蝶止まっていいよ信じていいよ 森由美子

茂里美絵●抄出
みみずの伸縮さよならを急ぐ 泉陽太郎
頬杖の行方決まらずさくらんぼ 伊藤雅彦
夫といて淋しいときは郭公になる榎本愛子
飛魚の翼銀なり未完なる 大西健司
空き缶がひらき直っている酷暑 大西宣子
投げ上げて取りそこねたる大西日 奥山和子
崖のぞく刹那や夜濯ぎの渦 川田由美子
悩みにはまず肯いてところてん 木村リュウジ
昼すぎのアールグレイとさびたの花 黒岡洋子
聴力検査ゆわーんと過る梅雨の蝶 黒済泰子
遠野へと言ってきかない白桔梗 小西瞬夏
影踏んで来て夕暮れの花氷 三枝みずほ
怒りとは光なりけり夏燕 佐孝石画
天才は雲と老人夏野菜 重松敬子
柔らかな虹の向こうのシーソーよ 高木水志
風と来て風に置き去り青葉木菟 竹田昭江
ノクターン硯の海といふところ 田中亜美
たくらみの匂って来るよ栗の花 東海林光代
眩しさは訝しそうに夏のうしろ 遠山郁好
噴水やここは泣いてもいい所 仲村トヨ子
あの橋をわたれば風の祭りあり 長谷川順子
アジサイは考えぬいて海の青 服部修一
ソフトクリームあるいは没落貴族かな 本田ひとみ
夜空遠ししゃくとり今日を測り終え 松本勇二
短夜やタコ足配線はおしゃれに 深山未遊
思いきり自分罵るかなぶんぶん 村本なずな
夢のままよこしまなまま顔洗う 森田高司
晒されて朽ちたフレーズ夏の果て 山下一夫
月球儀のうぜんかずらのゆくえ 山本掌
川底に陶土鎮まり星祭 吉村伊紅美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

花氷含み笑いをYESという 綾田節子
 「花氷」は、夏の涼をとるために美しい草花や金魚などを閉じ込めた氷柱。この句の花氷は、一句自体の象徴的題材であるが、具体的な思い人の立ち姿のようにも見える。花氷の次第に溶けていくにつれ、少しずつ歪んでくる様は、含み笑いのようでもある。それはまさに、告白へのYESの回答のよう。そう思いたい。

手編み物ばかりの遺品昭和の日 有村王志
 昭和の戦争の時代、出征する人々は、皆家族手製の心を込めた衣類を身につけて戦地へ赴いた。今に残る遺品の数々は、手編み物ばかりで、あの時代の家族の絆をあらためて思い知らされる。昭和の日に当たり、作者の世代なればこその痛切な反応といえようか。

枯草を敷く移植葱梅雨籠る 江井芳朗
 東日本大震災から十年を経て、放射能汚染の地にも移植葱が植えられるようになったのだが、やはり食用に供するには、土地の除染や枯草を敷いての養生は欠かせない。梅雨籠りの季節にも、その準備は怠れないのだ。かつて物生り豊かな地であった福島の、今なお過酷な現実をひそやかに詠んだ一句。

苔の花たっぷりと雨すこし鬱 狩野康子
 苔むした庭園に、久しぶりにたっぷりと雨が降り、苔の花がにわかに息づいた。だがそのたたずまいには、すこしばかり鬱っぽい気配が漂う。それは満ちたるがゆえの、故しれぬ不安かかなしみか。その鬱がどこから来るものかもわからない。どこか不条理ともみられるような不安につながるものかも知れない。それは苔の花の質感を言い当ててもいるのだ。

草刈機読経のごとく享く心地 佐藤稚鬼
 暑い盛りの草刈は、大変な辛抱の要る作業だが、最近は電動式の草刈機で随分楽になっている。その作業をしなければならない人にとっては、草刈機のうなり声が読経のように有難い物音に聞こえているに違いない。「享く心地」にその実感がうかがえる。これは農作業をした人ならではのものかも知れない。

ほうほたる会津の姫のぽつと笑む 野﨑憲子
 この句は、今年亡くなった会津の田中雅秀さんへの悼句だろう。彼女が亡くなってから、各地の句会で多くの追悼句が寄せられたのは記憶に新しい。それだけ彼女の人気は全国的なもので、多くの人々に爽やかな印象を残したのだ。この句は、蛍狩の夜、雅秀のまぼろしのような蛍を追ってゆくと、闇の中に彼女の明るい笑みの面影が、ぽっと浮かんできたという。それは作者の体感そのものだったに違いない。「ぽっと笑む」に、温かい灯を灯すような雅秀の出現ぶりが見えて来る。

梔子が昼を大きくして咲いた 平田薫
 梔子は、大きく純白の六弁花で、ジャスミンのような芳香を放つ。実は熟しても裂けないところから、「くちなし」の名があるという。二〇〇三年に俳優の渡哲也が、同名の曲を歌って彼の生涯最大のヒット歌謡となった。渡の歌(水木かおる作詞)の一節に「くちなしの花の/花のかおりが/旅路のはてまでついてくる」とある。
 掲句の「昼を大きくして咲」くとは、梔子の花の存在感が、真昼の時空にゆるぎなく立ち上がっていることを意味していよう。もちろん渡の唄とは比較にならぬ乾いた存在感だ。

驟雨去り寄港のごとく靴並ぶ 藤田敦子
 おそらく吟行の途次に、驟雨に見舞われ、近くのお屋敷に駆け込んだのだろう。時ならぬ大勢の客にもかかわらず、そのお屋敷では温かく迎え入れてくれて、茶菓のもてなしに加え、句会までやらせてくれたのかも知れない。玄関先には、靴の大群が並ぶ。やがて驟雨は去ったが、句会はまだ続いていて、靴の群れは、避難のため寄港した多くの漁船のように、腰を据えて居並んでいる。「寄港のごとく」の直喩が、その時の臨場感をよく捉えている。とまあ、見てきたように想像したのである。

壁の青蔦残り時間はわからない 故・武藤鉦二
 廃校の校舎や古民家の壁に、青蔦が這っているのだろう。年代ものの建物の故に、その壁もいつまでもつのか、いつ途中で取り壊されるのかはわからない。壁に残された時間は、青蔦の残り時間でもある。掲句はそこに、おのれの境涯感を重ねている。
 この句を読んだとき、虚子の次男で、音楽教育家にして俳人の次の句を思い出した。
 蔦茂り壁の時計の恐ろしや 池内友次郎
 武藤句は、まったくこの句とは関係なく作られたものと思うが、池内句と期せずして同じようなモチーフで書かれているのに驚いた。人間の死生観には、古来共通のものがあるからだ。
 それは『徒然草』一五五段の次の一節にも通ずる。「四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。」

◆海原秀句鑑賞 茂里美絵

悩みにはまず肯いてところてん 木村リュウジ
 生きていく上で、悩みから逃れることが出来ないのが人間。それも真面目な人程その感が強い。作者もそのひとり。この句はとても前向きで明るい涼感がただよう。
 心を悩ませる事柄に対し、まず肯定してひたむきに向き合う姿勢。「ところてん」の、少しとぼけた季語に何故か読者はほっとする。作者はさまざまな悩みを、これからも克服していくに違いない。

聴力検査ゆわーんと過る梅雨の蝶 黒済泰子
 まず、「ゆわーん」のオノマトペの効果。中原中也の詩「サーカス」の中に〈ゆあーんゆよーん〉があるがそれに匹敵する素晴らしさ。聴力の曖昧さを調べるこの検査は誠にうっとうしい。その感覚を、ゆわーんと。そして湿り気のある「梅雨の蝶」も言われてみれば、確かに「ゆわーん」とした存在。

怒りとは光なりけり夏燕 佐孝石画
 人はさまざまな感情に翻弄されて生きている。そして負の想いの中でも怒りには暗い影がつきまとう。しかしこの作者は「怒りとは光りなり」と断言しているが、それなりの理由があるはず。怒りの概念として「個」であるとは限らない。たとえば、海を見ていて波のうねりの美しい光が、突如悪魔に変貌することへの連想。
 私情を超越したところに怒りの想念が湧き上がる。夏燕の鋭い、しかし飛翔の純粋なひかりが、この作者の心情を象徴しているのかもしれない。

天才は雲と老人夏野菜 重松敬子
 すっきりと、しかも堂々とした言い切りがいい。諧謔性があり、ドラマチックな童話のようにも。雲が「天才」は分かる。そして思いがけない行動や言葉を発する老人も天才と。きっと食卓に並べられた夏野菜に向けて語りかける「老人」の言葉がとても愉快だったのかも。

眩しさは訝しそうに夏のうしろ 遠山郁好
 大げさに言えば、詩歌は不条理を承知の上で成立している部分もある。この句の場合、理屈を考えず強いて説明をせず、素直に共感すればいい。すると静謐で、すこし弱くなった光の混沌や、晩夏の風景が見えてくるのではあるまいか。自然の中に佇む作者の、すこし哀しげなシルエットも。

あの橋をわたれば風の祭りあり 長谷川順子
 遠近法の成功した作品。「風の祭」なら風の中の行事としての祭だが「り」があるため祭の動詞化、つまり初秋の風の動きとも思える。橋の向こうの芒やコスモスが光りながらそよぐ。それを「風の祭り」と見立てたところが鋭い。加えて時の移ろいの淋しさも。

短夜やタコ足配線はおしゃれに 深山未遊
 暗くなりがちな現在の巣ごもり生活を、明るく表現したところがいい。多分リモートで仕事をする女性。さまざまな電機器具のコードが、部屋を占拠している。〈もうすこしオシャレに置こうかな〉との呟きも聞こえてきそうで、思わず頬がゆるむ。

思いきり自分罵るかなぶんぶん 村本なずな
 軽いようで重い句。誰しも順風満帆な生活を送っているとは限らない。いや、そんな生活は現在では稀有にひとしい。自宅で仕事をする機会も増えた。必要な書類の置き場も不足しがち。ついイライラして自分を罵りたくなる。〈分かってはいるんだけど〉と。しかし、かなぶんぶんの出現で、この小煩い昆虫の声に吹き出している自分。〈コイツも文句言ってる〉と。読者もほっとする。

晒されて朽ちたフレーズ夏の果て 山下一夫
 いろいろに想像ができて面白い。「朽ちたフレーズ」とは、いま世間を騒がせている有名人(多分政治家?)の空疎なことば。厳粛語の対極にあるのが朽ち果てたフレーズ。その語句(フレーズ)に群がるマスコミという魔物に「晒されて」ますます混迷が広がる。半ばやけくそになる国民。あぁもう夏も終わりか、とつぶやく。

月球儀のうぜんかずらのゆくえ 山本掌
 幻想的な作品で、思わず立ち止まる。月球儀。永久に滅びない薄白い荒廃を想像する。そしてのうぜんかずらの、太陽の光のような色彩の花を司る蔓の存在。まるで生き物のように少しずつ伸びる。突如として現れた花への驚きと共に、そのゆくえには月を照らす惑星群の微光がうっすらと流れているのかも。

川底に陶土鎮まり星祭 吉村伊紅美
 陶芸家の創作の過程を、テレビ番組で見たことがある。まずいい陶土を見つけることから始まる。陶芸家にしか分からない劇的な存在を川の底に認めた時のときめきは読者にも伝わってくる。丁度七夕の頃の澄んだ水底を想像すると「鎮まり」と「星祭」が響き合い、呼応し合っているようにも思えてくる。俳句は不思議な文芸。こんなに短い言葉の中に無限を感じたりもする。

◆金子兜太 私の一句

殉教の島薄明に錆びゆく斧 兜太

 掲句は、「海程」創刊以前に、「小田原桜まつり俳句大会」の講師として来られたときの特撰として戴いた句である。あれから六十年以上の歳月が過ぎたが、その短冊は家宝として飾られており、日々不肖な弟子を鞭打つのである。掲句は、言うまでもなく長崎時代の句であり、キリスト教の弾圧によって死んでいった信徒と、トラック島で飢え死にした部下への鎮魂の想いが込められているのだろう。『金子兜太句集』(昭和36年)より。木村和彦

ぎらぎらの朝日子照らす自然かな 兜太

 金子兜太先生、皆子様の眠っておられる総持寺の境内にある句です。墓所までの細い登り坂の途中、沙羅(夏椿)の木陰に、二メートルはあろうかと思われる大きな自然石に先生のどっしりとした文字で彫られています。先生の最初の句碑であり、句は皆子様が推されたとか、お二人の思いのこもった句碑であると思います。いつか先生の墓所をお訪ねしたいと願っています。句集『狡童』(未完句集・昭和50年)より。金並れい子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

清水恵子 選
花は葉に日紡ぐ手編みの遺品かな 有村王志
夏近し一枚だけの回覧板 伊藤歩
廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
○人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
深爪の夕べぼうたんゆらめきぬ 狩野康子
水中花お尻が貧弱で困る 河西志帆
水を抱く少女玉繭冷えゆけり 小西瞬夏
ソプラノに光る薄暑の空き地かな 小松敦
○夕焼電車ときどきバッタになる人と 重松敬子
○紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
ifばかり零れて机上夏兆す 遠山郁好
てんと虫君の点せし言の葉よ 中條啓子
花は葉に恋の綻び縫いますよ 中村道子
父さんは母さんが好き柿若葉 服部修一
風でした樹でした遠くまではつ夏 藤原美恵子
身罷るを身籠ると読み夕朧 船越みよ
鱗粉のつきし少女の指も蝶 松本千花
追伸は嗚咽のごとし花辛夷 武藤暁美
心音ぽぽぽぽ老猫に眠き春 村本なずな

竹本仰 選
三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
テッペンカケタカ他愛ない話しよう 柏原喜久恵
追慕かな娘へ一吹きのシャボン玉 小林まさる
雨匂うよく似た人のワンピース 小松敦
家族という青い落書き新樹光 佐孝石画
かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
○春山に眠り父母星に濡れ 十河宣洋
臍の緒のゆるり絡まる桜かな 高木水志
コロナ禍を真直に立ちて夜の新樹 竪阿彌放心
フィボナッチ数列として秋茜 田中信克
更衣してしばらくは風でいる 月野ぽぽな
春の雪ときにあやまちの疾走 ナカムラ薫
みどりの耳ひしめくばかり晩霞かな 野﨑憲子
土人形の危うき重心梅雨晴間 藤野武
わたくしのいびつ眺める夏の滝 藤原美恵子
銀河の尾まがりくねって港かな マブソン青眼
夕べに蝶わが過ちのように過る 望月士郎
○あなたきっと生きてるつもりね亀鳴くから 森由美子
男運とか言ひ海雲もづく啜りけり 柳生正名
青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子

ナカムラ薫 選
樹雨樹雨真夏真昼間樹の真下 石川青狼
五月雨は映画のあとのよそよそしさ 泉陽太郎
漂泊さすらいは梢にありて朴の花 伊藤淳子
○国のこと薄めて流せばワカラナイ 植田郁一
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
春の園児母の手縫いの翼です 大沢輝一
白藤や家系図という不燃物 奥山和子
○人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
ふろしきに不要不急の水を詰め 河西志帆
サイダーの思い続けている世界 小松敦
懐しい紙片を拾うごと緑雨 佐孝石画
○紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
○春山に眠り父母星に濡れ 十河宣洋
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶すみながし 鳥山由貴子
春の渚へ蹠はひらききる感情 野﨑憲子
木に木の音がたまって若葉かな 平田薫
しゃべるだけしゃべって帰るねぎ坊主 藤田敦子
また水の景色に座り桐の花 水野真由美
青嵐撤退に美学は要らぬ 梁瀬道子

並木邑人 選
鳧の擬傷は見ていないことにする 稲葉千尋
○国のこと薄めて流せばワカラナイ 植田郁一
ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
黄砂降るコロナに混る機関銃 大西宣子
断層ですかえごの花降る街明かり 川田由美子
遊女の声洛中洛外図の垂桜しだれ 黒岡洋子
○夕焼電車ときどきバッタになる人と 重松敬子
連翹に撃たれイマジン唄う姉 鈴木千鶴子
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
春陰の子午線という古本屋 竹田昭江
バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
五月雨を降ろし足早のプリウス 服部修一
B案は防疫体勢かひやぐら 松本千花
梅雨えやみ家々偽卵抱くごとし 松本勇二
○あなたきっと生きてるつもりね亀鳴くから 森由美子
桜餅つねる戦艦大和の忌 柳生正名
大工道具なくし蛇として生きる 山下一夫
火蛇かだ走り汚れるまえのぼうたんや 山本掌
海面のような長髪雨期始まる 輿儀つとむ

◆三句鑑賞

夏近し一枚だけの回覧板 伊藤歩
 回覧板が、プリント一枚ということが、時折ある。コロナ渦の現在、祭りや会合の中止を知らせるものばかりだが。その、ヒラヒラとした「一枚だけの回覧板」を見て、今年も寂しい夏になりそうだと感じたのだろう。「来年こそは、夏祭りができますように」という作者の願いも込められているのではないだろうか。

ifばかり零れて机上夏兆す 遠山郁好
 「もし…ならば」と机上で悩んでいるうちに、いつしか夏の兆しが…。こういう人は、世の中にたくさんいるだろう。だが、「ifばかり零れて」という、しゃれたことは、なかなか言えるものではない。英語が、これほど見事に、ピタッとはまった俳句は、珍しいのではないだろうか。作者の詩的センスに脱帽。

鱗粉のつきし少女の指も蝶 松本千花
 鱗粉のついた少女が、繊細な指を、蝶のようにヒラヒラと振っているのだろう。「少女も蝶」のようにしがちだが、「少女の指も蝶」と「指」にクローズアップしたことで、少女の瑞々しさが、より際立った。願わくは、この少女に、蝶のごとく未来へと羽ばたいていってほしいものだ。
(鑑賞・清水恵子)

かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
 詩「くらげの唄」で金子光晴はくらげの弱々しい存在の中にもその生活臭を「毛の禿びた歯刷子が一本」と表していた。この句にも歯ブラシ特有の本人にしかわからない生活感情が鋭く出てくる。もはやそこに何があったかどうかも定かならぬ更地だからこそ、歯ブラシ一本に大切な暮らしがあったことを語らせているのだ。

更衣してしばらくは風でいる 月野ぽぽな
 『不思議の国のアリス』の、あのアリスが成長してふと我が姿に立ち止まった時、こんな句になるのではと思った。少女でも大人でもないあのとりとめもない境地を衣更えの瞬間に見出して、「風でいる」と確かに言い切ったところにこの句の醍醐味があると思った。と、そういう物語的鑑賞に誘う魅力のある句である。

男運とか言ひ海雲もづく啜りけり 柳生正名
 男が「男運」を云々することはまずないのだが、それがとある酒場での女同士のうちとけた呟きの中にふと聞こえ、聞き耳を立てた、そんな句かと想像した。「男運」というリアルな語感の世界から、男女という社会のある意味深い背景が見える仕組みになって面白い。そして仕上げはモズクのぬるっとしたオチ。取り合せの妙である。
(鑑賞・竹本仰)

樹雨樹雨真夏真昼間樹の真下 石川青狼
 言葉と音の戯れがとてもイカしている。「き」イ音の冷ややかさと「ま」ア音の晴れやかさの連打は、濃緑の雨粒、湿った大地、樹を照りつける白い日差しに命を吹き込む。樹の真下に何があるのだろう、と思ったら樹下で何度もこの詩を呟いてみることだ。「解かない謎解き」を、その異界をただ全身で享受したい。

血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
 木下闇の匂いに懐かしさと興奮を覚えるのは、そうか、あれは血の味だから。「うっすらとして」の後、小さな息継ぎがあり、そして木下闇に着地させられる。そこにはきっと、すとんとしたワンピースを着た清楚な女性が佇んでいるに違いない。「血の味」を得た作者の静かな感動が伝わる。

また水の景色に座り桐の花 水野真由美
 「水の景色」が桐の花そのものを感じさせてくれる。大いなる水は、自分を自分たらしめる過去を引いてくる。自分を果てしなく遡行させる水に座れば、その流れは清く穏やかで、日常の憂さを、誠につまらないものへと変え、ついにはその傷跡さえ覆い尽くして広がる。そんな清麗な水を纏う桐の花に今日もまた会いにいく。
(鑑賞・ナカムラ薫)

ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
 今月もコロナ禍の俳句が山盛りだったが、ワクチンを巡る騒動が今なお続いている。「まるで蚕室」が言い得て妙。その場を経験した人の正直な感懐で、待つ人の気持ちの有りようや不満の声、噎せ返る汗や薬品臭、終わった後の小さな安堵感などがスクランブルエッグのように凝縮している。

春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
 生き抜くことが常に駆け引きの時代にあって、この純粋な繊細さには舌を巻いた。この句の裏返しのような句だが、蕉門十哲の一人内藤丈草に「春雨や抜け出たままの夜着の穴」がある。重苦しい搔巻が人間の形態をそのまま留めているというユーモアのある句だが、どちらも春雨の句の絶品として残るべき作品であろう。

火蛇かだ走り汚れるまえのぼうたんや 山本掌
 山本が何をイメージして火蛇と表象したのか不明だが、イザナミの産んだカグツチ、亡骸を奪う妖怪火車の類であろうと推察。直ぐ連想したのは現在のアフガニスタンやミャンマー、そして香港の清純な少女たち。彼女たちが遭遇している艱難辛苦を思うと、困窮もなく俳句に遊んでいる自分が申し訳ない気持ちになる。
(鑑賞・並木邑人)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

母を叩く夕立や腹に穿刺針 飯塚真弓
逝きし揚羽焼く母その匂い忘れず 伊藤優子
大好きな百合がぎゅうぎゅう柩窓 植朋子
辻褄は合わなくていい夏の母 梅本真規子
俯瞰して自分みている守宮のように 遠藤路子
今日は話せたガーベラを抱いてゆく 大池桜子
咬み傷のいつまで夏は惜しげなく 川森基次
形よく西瓜も赤ん坊も転がっているよ 日下若名
頷けば楽になれるか虎落笛 近藤真由美
憂き夜や動かざる灯蛾見てをりぬ 佐々木妙子
言ひ遺すこと何もなく涼しさよ 佐竹佐介
大海のかくもしづもりサングラス 澤木隆子
ひまわりや原爆の朝も咲いていた 宙のふう
はるがゐて与太ゐて我の合歓の盆 高橋靖史
虹消えてひとまず老いに戻りけり 田口浩
汝は花野拡大鏡に消えて行く 立川真理
運命線いつから流れ星の順路 立川瑠璃
わしゃわしゃと納豆の泡文化の日 谷川かつゑ
螢袋とっても柔らかい個室 中尾よしこ
小雀にも蟻にも今朝の梅雨晴間 野口佐稔
指先に駄菓子べたつく雲の峰 福田博之
清昭一ひさし昭如泥鰌鍋 藤好良
三男坊ちょっぴりぐれる凌霄花 増田天志
手鏡に水の匂ひの緑夜かな 松岡早苗
エコバッグに文庫とニッカ夏の雲 松﨑あきら
借金を倍返しする男梅雨 村上紀子
どうしても横向く向日葵七十路は 吉田和恵
死にたればこの裏山のかなかなや 吉田貢(吉は土に口)
蜘蛛の囲の端正と真面目ただそこに 吉田もろび
白薔薇と燃へて発光父の体 渡邉照香

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