『海原』No.25(2021/1/1発行)

『海原』No.25(2021/1/1発行)

◆No.25 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

まんじゅしゃげ心の隅に原野あり 阿木よう子
夏蝶の昏さよ古き手紙のよう 伊藤淳子
タクト振り止まず白鳥鳴き止まず 植田郁一
鹿の目に山の空気の吸われたり 大髙洋子
本日は単身赴任のバッタかな 奥野ちあき
愁思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
反論は十数えてから涼新た 奥山富江
風はおる君にぞっこん花芒 加藤昭子
雁渡し私のどこかが鳴りました 河原珠美
生き恥をどすんと曝す榠樝の実 北上正枝
水底から水面仰ぎて原爆忌 楠井収
鉄臭き校庭の水原爆忌 黒済泰子
晴れた日の鯨の余暇の過ごし方 小松敦
鹿の眼やゆるく窪んだ空ひとつ 三枝みずほ
雑念も時に祈りか曼珠沙華 佐藤詠子
蜘蛛の巣の向うにドローン天高し 篠田悦子
ハンガーに我かけておく鵙日和 白石司子
返信を待つ間のゆらぎ鳥渡る 田口満代子
頬杖の置きどころなしこの秋思 竹田昭江
美しき樹形のようなの言葉 遠山郁好
地下水が噴き出す蛇口中村忌 鳥井國臣
石棺に少年の骨つづれさせ 鳥山由貴子
タクト振りはじむ月下の枯蟷螂 野﨑憲子
じいちゃんの案山子に錆びた鉄兜 平田恒子
ちちろ鳴く女いつでも刺客です 松井麻容子
検温から始まる順路紅葉寺 三浦静佳
マスクはずす朝の緑道をセキレイと 三世川浩司
置き手紙に「遠くへ」とだけすすきの穂 宮崎斗士
見回してわたしもいない芒原 望月士郎
彼岸花囲むソーラーパネルの田 森武晴美

高木一惠●抄出

何から省こう麻畑暮れてゆく 伊藤淳子
生国へ訃を届けんと鳥帰る 植田郁一
配膳を下げる女を見て慰む 宇田蓋男
捕虫網補修している自由かな 小野裕三
欠伸からうまれたお前しじみ蝶 桂凜火
曼珠沙華愛しき女優自死選び 川崎千鶴子
葡萄房とりどり歌仙一と巻きの 北村美都子
なめくじり夢で生業けっとばす 黍野恵
青蛙家族みたいに棲みついて 木村和彦
海ほおずき母にも好きな子のありて 黒岡洋子
素ぴん勝負コスモスの道の駅 小泉敬紀
秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
豊作だってぎゅっと雑巾絞る姉 佐々木宏
独り身の息子に仔猫良夜かな 志田すずめ
少女趣味という趣味捨てず蛍草 芹沢愛子
ハイリゲンシュタット朝露踏まぬやう 田中亜美
星祭り疎水の水の確かさよ 田中雅秀
曼珠沙華死ぬ時も弱音吐くだろう 峠谷清広
水面飢え馬のすべてを映す秋 遠山郁好
電線の隙間に痺れ白き月 中内亮玄
コロナ禍の裂け目に嵌まる泥鰌かな 並木邑人
じいちゃんの案山子に錆びた鉄兜 平田恒子
月への坂道徘徊の友上りしか 船越みよ
美しきもの見つけよと父秋の雲 前田典子
葛の花の遠さが好きだ透きとおる 松本千花
鷹柱もっと遠くを見ておかな 松本勇二
台風一過答えのような雲がひとつ 宮崎斗士
つくつくし流砂のなかの白い石 茂里美絵
俳諧に自由しからずば枝豆 柳生正名
引き際は野葡萄のごと野にはにかむ 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

まんじゅしゃげ心の隅に原野あり 阿木よう子
 人間の心の世界は、多層構造をなしている。もちろん年齢や経験の深さ、生い立ち、個性によってもさまざまだが、この場合の「心の隅」とは、その人のよって立つ心の原風景のようなものではないか。「まんじゅしゃげ」は、その原風景に咲く花に違いない。兜太師の〈曼珠沙華どれも腹出し秩父の子〉のような原風景ともいえる。おそらく作者の心の基層にある「原野」なのだ。

タクト振り止まず白鳥鳴き止まず 植田郁一
 「宮川としを逝く」の前書がある。宮川は、海程創業期以来の同人で、古賀政男賞を受賞したプロの作曲家。今年の六月、食道がんで亡くなった。享年八十六。亡くなる直前まで、仕事をし続けたという。出身が旧日本領の樺太だったから、今は帰らぬ故郷である。掲句の「白鳥」は、その故郷に棲息していた白鳥をイメージしているのだろう。亡き人のタクトはいつまでも「振り止まず」、白鳥はいつまでも「鳴き止まず」。そこに追悼の想いが内籠もる。植田の今月の五句はすべて宮川への追悼句で占められている。その中の〈夢の望郷岸を離れる流氷に〉は、宮川生前の句集『離氷』にちなんだものである。

本日は単身赴任のバッタかな 奥野ちあき
 作者は北海道江別市の人。江別は札幌のベッドタウンだから、札幌勤務の会社員が多く住んでいる。その中には本州から来た単身赴任者も多い。彼等を「バッタ」に喩えているのは、多分に皮肉を込めた見方であろう。同時発表の句に、〈秋晴れの大群となるわたし達〉がある。ここにも大量の食害をなすバッタの大群を、無為徒食する「わたしたち」と予想している。「本日は」には、バッタに変身したおのれの、諧謔味豊かな挨拶ぶりが見られよう。作者は才気煥発の四十代。

雁渡し私のどこかが鳴りました 河原珠美
 「雁渡し」は、秋も深まり雁が北方から渡ってくる頃、野面を吹き渡る北風をいう。「私のどこかが鳴りました」とは、その「雁渡し」の風音に響き合うように、自分のからだのどこかが音をたてたというのだ。その音は、意識的に自分がたてた音ではなく、無意識のうちにからだのどこからか立ち上がってきた音のようだ。季節の移ろいとともに、からだが何かに反応してたてた物音のようでもあった。

ハンガーに我かけておく鵙日和 白石司子
 この句の第一感としては、いつも出かけるとき着ている洋服がハンガーにかけられている景が浮かぶ。いつの間にやらハンガーにかかっている服は、自分自身の影のようにも見えて来る。ああそれならこの際、いつも建前で生きている自分はハンガーにかけておき、本当の自分自身はハンガーから抜け出して、大いに羽を伸ばそうか、外は鵙の鳴くよきお日和だから。

美しき樹形のようなの言葉 遠山郁好
 「美しき樹形のような」「言葉」とは、大らかでのびやかな、はりのある言葉なのだろう。それにしても美しい樹形のようなという形容句の見事さはどうだろう。この直喩によって、読者のさまざまな過去の記憶のなかから、自分を貫いていった樹形のベストワンを取り出し、相手から聞いた見事な言葉に重ねて捉え返すのである。さらにこのような言葉を吐く「」とは、連れ合いかごく親しい友人のような気のおけない間柄。だからこそ、思いがけないほどの言葉の衝撃を受けたともいえよう。

置き手紙に「遠くへ」とだけすすきの穂 宮崎斗士
見回してわたしもいない芒原 望月士郎
 芒原二題。「遠くへ」とだけ書かれた置き手紙は、感情にまかせて衝動的に家出したからかもしれない。とはいえ「遠くへ」には、家のしがらみから遠く離れた世界へ逃れたいという離郷のこころや漂泊への想いがこもっていよう。それは決してあこがれ出づるものではなく、ひたすら彷徨う思いのなかにある。「すすきの穂」は、そんな心情を受ける季語としてピタリと決まっている。
 さて、芒原へ来てみたが、そこには誰もいない。誰もいないばかりか、「わたしもいない」。となれば「見回して」いる「わたし」は誰なのか。「わたしがわたしである」ところの自己同一性には、もともと不安定な要素があった。「わたし」は、「本当のわたし」を求めるという「自分探し」の在りようを模索しているのだろう。その答えはまだ出ていない。

愁思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
頬杖の置きどころなしこの秋思 竹田昭江
 愁思二態。「海月の足を掴むよう」とは、掴みどころのない漠然とした哀しみ、故知らぬ悲しみのような得体の知れぬものの在りどころを求めている「愁思」。対する「秋思」の方は、「頬杖」に支えられつつも、その「頬杖」の「置きどころ」がないという。中野信子の新著『ペルソナ』の表紙に、崩れた頬杖に顔を乗せている著者自身の写真があり、本の帯には「心の闇を愛でよ」とある。ふと掲句に通底するものを感じた。

◆海原秀句鑑賞 高木一惠

何から省こう麻畑暮れてゆく 伊藤淳子
 通気性の良い簡素な麻衣は、古来、綿よりも庶民に重宝されてきたが、化学繊維の登場で栽培農家も減少一途。そんな麻の畑が作者の視野に暮れてゆく。新型コロナ禍の逼塞感の中で、私なども妙に終活を意識したりするが、兜太先生の愛弟子の「省こう」の措辞が深い。万葉集に〈庭に立つ麻手刈り干し布さらす東女を忘れたまふな〉と、都へ帰る恋人に贈った常陸娘子の別れの歌がある。二人の逢瀬はきっと、丈高い麻畑の日暮れだった。

生国へ訃を届けんと鳥帰る 植田郁一
 初鴨が水飛沫を響かせて妻問いに励んでいる。春には家族を増やして帰るのだけれど、ヒマラヤを越えてゆくアネハヅルの渡りの壮絶さを論外としても、親子無事に生国の地を踏むのは大変だ。人間界も葬祭の為の帰郷が多い。それも叶わず、空ゆく鳥に訃報を届けてと願う。

葡萄房とりどり歌仙一と巻きの 北村美都子
 三十六歌仙に擬えて、発句から挙句まで長短三十六句を並べた連句の歌仙形式は、芭蕉が整えて『猿蓑』に新風を結実させた。俳諧宇宙の趣向を凝らした一巻、葡萄なら評判のマスカットか。私は種のある甲斐路が好き。

引き際は野葡萄のごと野にはにかむ 若森京子
 野葡萄は食べられないが、初秋に白や紫、碧色の小さな実をつけて愛らしい。「野にはにかむ」とは、なんという瑞々しさ。こんな引き際に憧れる。

水面飢え馬のすべてを映す秋 遠山郁好
 連句の師眞鍋呉夫の〈草束子ほどけ流るる月夜かな〉は「牛馬冷す」晩夏の景だが、秋水を詩心鋭く描きとった佳句を前に、馬の「すべて」に拘った。なまじ馬への思い入れが強くて、果たして「すべて」を映すことができるのかしらと立ち止まってしまった。作者の感得したものを真っ直ぐに受けとめられぬ曖昧気質、要注意。

つくつくし流砂のなかの白い石 茂里美絵
 昔愛読した山川惣治の『少年ケニア』に、流砂が恐竜の世界へと導く話が出て、怖ろしくも不思議な流砂の存在に惹かれた。法師蟬の声が呼び込んだ流砂は生々流転の輪廻の流れ。白い石は個なる存在と思われる。季語も流砂も儚い取り合わせだが、白い石は案外堅固だ。

ハイリゲンシュタット朝露踏まぬやう 田中亜美
 大事な耳の疾患と失恋に自死を思いつめて弟に宛てた「ハイリゲンシュタットの遺書」に、ベートーヴェンは「人との社交の愉しみを受け入れる感受性を持ち、物事に熱しやすく感激しやすい性質をもって生まれついている」と自身の性情を記している。絶望の果てに、交響曲「田園」がウィーン郊外にある此処で作られた。ハイリゲンシュタット…地名が醸す情趣を想うが、俳句にこれを入れると残りは僅か。独文専攻の作者は実際に楽聖の散策路を辿って「朝露踏まぬやう」を得たのであろう。この地に寄り添う作者の有り様も揺るぎなく伝わる。

俳諧に自由しからずば枝豆 柳生正名
コロナ禍の裂け目に嵌まる泥鰌かな 並木邑人
 漢文調の「しからずば」が、米国独立戦争開始時に発せられたパトリック・ヘンリーの「われに自由を与えよ、しからずんば死を」を想起させる柳生作品は、「自由無き俳諧なら捨てて、枝豆でも食しておれ」というのか、自由無しでも「枝豆があれば結構」なのか聊か迷うが、何れにしても俳諧への強い想いを俳諧を以て表した感。その枝豆が定番の庶民の居酒屋が疫禍に遠ざけられて、並木作品の泥鰌にも、客足途絶えて大地震の裂け目のような現場でもがく人々の姿が重なる。今は養殖が頑張る泥鰌鍋だが、冬耕の鍬にかかった泥鰌を篠笹に刺して、畦で待つ私に渡してくれた父の笑顔を忘れない。

捕虫網補修している自由かな 小野裕三
 捕虫網を繕っていて、ふと、「捕虫」という、自由を縛する行為に加担するわが身に気付いて、「自由」に詠嘆が籠る。所詮は人間の天下。そのことを承知しつつ、自由への真心を抱えた「自由かな」であろう。

秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
 蒼く張りつめた空には筋肉があり、上下左右かるがると舞い始めた蝶はまるで空に操られるかのようだ。秋蝶は約束のように来て、空の誘いに身を任せる。太陽に迫る天体望遠鏡の映像に、支配者の素顔を覗き見したような、逃げ出したい気持ちになる私も、実は秋の人だ。

台風一過答えのような雲がひとつ 宮崎斗士
 台風一過、決まって爽やかな秋天に恵まれたのに、この頃は温暖化のせいか、かの「天晴れ」感が薄くなった。諸処の被害、友人知人の安否も気にかかり報道に釘付けの数日を経て、どうやら大丈夫そうと空を見上げたら、雲がひとひら浮かんでいた。多くの句会を束ねる作者はとりわけ台風の行方に気を揉んだであろう。群雲でなく雲はひとつ。明るく光っていたはずだ。

◆金子兜太 私の一句

豹が好きな子霧中の白い船具 兜太

 作品は、金子家の一人息子の眞土少年を中心に、家族三人で神戸港の埠頭を散策している和やかな雰囲気の情景が描かれている。この作品を読んで図らずも、三十年前に仕事の関係で神戸市郊外のホテルに宿泊し、翌朝ホテルの窓から広ーい港湾内に多くの船が停泊している光景に感動し、時間を忘れて眺めていたことが懐かしく思い出された。『金子兜太句集』(昭和36年)より。刈田光児

春の河原に人間もくと原始なり 兜太

 先生はサインの折りに句を書かれることもあり、「君にはこれだよ、決めてあるんだ」と〈果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島〉の御句を。また私の海程賞受賞の際の色紙には〈海とどまりわれら流れてゆきしかな〉の御句を。そして「やっと宿題を済ませた気分だよ」と。懐かしい御言葉のかずかず。掲句は、その受賞特集号の、東国抄の中から。「もく」とルビを振る先生のお背中が、私には見えてくる。句集『東国抄』(平成13年)より。村上友子

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤道郎選
麦秋や長女は木綿の匂いして 加藤昭子
夏布団まざまざとある手足首 こしのゆみこ
○白靴より砂の零るる独語かな 小西瞬夏
僕という嘘がはじまる白雨かな 佐孝石画
緑夜かな身体がこころの荷物となり 芹沢愛子
くらやみの太古の民ら椎匂う 田口満代子
水平のさびしさのあり花うばら 竹田昭江
六月の部屋のまま若者逝けり たけなか華那
○遠いものばかりを夏至の耳拾う 月野ぽぽな
○独語満ちゆく自室水のないプール 鳥山由貴子
夏煮えて酸っぱい雨の降るバス停 中内亮玄
みんないて青野に翼つけてもらう ナカムラ薫
孫で子で父で祖父であり花火 藤野武
かりがねや開けつ放しといふ平和 前田典子
蚤の市海夕焼の叩き売り 三浦静佳
夏蝶の来て電柱の傾けり 水野真由美
角ひかる葛切ふうっと未明のにおい 三世川浩司
○螢呼ぶ母はいつしか水になり 武藤鉦二
○悲しんだ身体の残る昼寝覚 村本なずな
青岬母の声して耳のかけら 望月士郎

加藤昭子選
物音に影あり風の凌霄花 伊藤淳子
心音の直下に春の谷のあり 内野修
解き放つ揚羽窓より海が見ゆ 大西健司
客のごとく亡夫むかえる夏座敷 狩野康子
ハンカチが白いもう空をわすれそう 三枝みずほ
てのひらって案外重いんです緑雨 佐孝石画
孝行の質を問うかな盆の月 佐藤詠子
逃水を小舟のように亡父ちちが行く 清水茉紀
戦ぐ夜の胸底に鳴くこおろぎよ 関田誓炎
雨の鹿目に万緑の詩が写る 十河宣洋
○ジャガ芋の花の白さの流浪かな 田口満代子
○遠いものばかりを夏至の耳拾う 月野ぽぽな
○家ごとに雨の音です青くるみ 遠山郁好
父の日やルビを振るごと家事習ふ 中神祐正
原爆忌造花のやうな式辞かな 前田典子
八月という永遠の立ちくらみ 三好つや子
○螢呼ぶ母はいつしか水になり 武藤鉦二
すべりひゆ膝の関節錆びている 室田洋子
滑莧まなざしはときに絡むよ 茂里美絵
定位置に風なる夫の来て涼し 森由美子

董振華選
栗の花胸に微熱があるような 大西宣子
十月の並木蠢く物落ちて 荻谷修
蟻の列その先の石その下の穴 小野千秋
○白靴より砂の零るる独語かな 小西瞬夏
老いてなお細身に丈る立葵 小松よしはる
遠雷やブルーシートの家に座す 清水茉紀
スケボーの虹の高さへ翻る 鱸久子
東京のあいまいな空かたつむり 芹沢愛子
○ジャガ芋の花の白さの流浪かな 田口満代子
響きあう東塔西塔春夕焼 樽谷寬子
○家ごとに雨の音です青くるみ 遠山郁好
破片焚く唇は八月の赤 ナカムラ薫
逃散をひとまず怺え断髪す 並木邑人
鷺一羽青田に降りる涼しさよ 畑中イツ子
髪洗う渚は群れ鳥のひかり 船越みよ
酒蔵の酵母ぷくぷく夏至る 増田暁子
短夜や宵っ張りの癖老いてなお 松本節子
蕗の糸たどりてやがて母の膝 深山未遊
くちなしの夜半よは壮年のぬかに雨 山本掌
青年のあをき旋毛や雲の峰 吉田朝子

室田洋子選
糸偏や夕焼けは青春の傷跡 阿久沢長道
皇帝ダリア旅を予定しているよ 伊藤淳子
異国訛りの英語で売られハンカチーフ 小野裕三
大津絵の地獄ぞんざい西瓜切る 片岡秀樹
捥ぎたての走り出しそう茄子の馬 鎌田喜代子
どくだみを跨げば思ひ出す失恋 木下ようこ
夏ぐみ食ぶ夕べの二人貧しきや 小池弘子
小さき耳見せてはならぬところてん こしのゆみこ
紫陽花や手に群青の診察券 佐々木義雄
青簾はじめて夫の髪を切る 高木一惠
夏の霧櫂を放したのはわたし 竹田昭江
○独語満ちゆく自室水のないプール 鳥山由貴子
ふいに逝き眩しさ残す麦藁帽 永田タヱ子
夏蝶や何があったのその落胆 西美惠子
踊子草ドガの絵の隅にいる男 松岡良子
かなぶんの不意のブローチ外れない 松田英子
昼寝覚しきりにオランダ通詞など 三世川浩司
○悲しんだ身体の残る昼寝覚 村本なずな
ねぎ坊主岡本太郎かの子の子 森由美子
若返ることはなけれど更衣 梁瀬道子

◆三句鑑賞

六月の部屋のまま若者逝けり たけなか華那
 現代の都会の片隅を切り取った一句。若者がどのような背景で逝ったのかは句からは不明だが、「六月の部屋のまま」とあるから突然に逝ったのであろう。しかも、都会で独りひっそり暮らしていて「六月の部屋」を遺言のようにして逝った。そこにはまだ若者の呼吸の痕がある。「六月の部屋」は現代の若者の孤独極まる景だ。

独語満ちゆく自室水のないプール 鳥山由貴子
 こころ塞ぐときや悔いの鎖に束縛されるとき、溜息にまじり独語が溢れ来る。そして時間とともに独語はこころに沈殿する。金魚鉢の金魚が浮いてパクパクするように作者はだんだんと泥濘にはまる。空気の澱んだ部屋は水のないプールのようだ。ただ風と落葉だけが舞うプール。そう、プールは作者のこころの内なのだ。

夏煮えて酸っぱい雨の降るバス停 中内亮玄
 いきなり「夏煮えて」と来る。この措辞が詠む者の心に突き刺さる。日本特有の重い湿気を帯びた暑さ。そして「酸っぱい雨」と続けば、余りの蒸し暑さに心も身体も折れそうなほどの不快感を表出する。時折混みあったバスの車内で半乾きの噎せるような匂いに悩まされるこ
とがある。作者の鼓動は乱れ酸っぱさを増してくる。
(鑑賞・伊藤道郎)

心音の直下に春の谷のあり 内野修
 一読、吊橋の真ん中に立っている作者が見えた。一歩ずつ足元を確かめながら渡る。心臓がバクバクしている。眼下には春になり、緑濃い草木がたっぷり。吊橋の揺れと心音の緊張感が作者を楽しませ、谷の深さや緑の美しさが旅の思い出になったことだろう。

父の日やルビを振るごと家事習ふ中神祐正
 本来なら「父の日」は家族から崇められる最大のイベントだと思うが、掲句は家事を習うと言う。テレビCMのように退職後の夫が料理を習う情景が浮かぶ。奥さんから一つ一つ教わることも円満の秘訣と思うし、ルビを振ると言う措辞にほのぼのとした様子が伝わって来る。

すべりひゆ膝の関節錆びている 室田洋子
 加齢と共に足、腰は悲鳴を上げる。サプリメントに頼る日常だが、すぐに効きめがあるとは確信出来ない。草むしりしていると立ち上がりや移動の際、膝の痛さを覚えるのだろう。膝の違和感を錆びたと捉えたところに納得。滑莧の茎や葉は多肉で潰すと粘りがあり、錆との対比が面白い。
(鑑賞・加藤昭子)

ジャガ芋の花の白さの流浪かな 田口満代子
 ジャガイモの原産地は南米で、のちに欧州へ伝えられた。最初は観賞用植物とされたが、やがて食物として庶民に広めた。江戸時代に日本に渡来し、栽培されるようになった。花は薄紫やピンク、白などあり、清楚でとても綺麗だ。作者はジャガイモの白い花を人に見立て、まさに住む場所を定めず、各地を彷徨い歩いていると詠嘆。

家ごとに雨の音です青くるみ 遠山郁好
 作者は「胡桃」をわざわざ「くるみ」としている。なぜ仮名に拘ったのか、恐らく漢字で表現すると、青の感触を損なわれること。雨の音が偏りなく、世の全ての家に行き渡っている。勿論、宙から俯瞰するのではなく、窓から見える景から連想している。口語の「です」の表現も「くるみ」と響きあい、句の柔らかさを感じさせる。

くちなしの夜半よは壮年のぬかに雨 山本掌
 梅雨の時、しとしと降る雨に気分が沈みがちだが、突然どこからともなく清涼剤のようないい香りが漂ってきて、思わずその香りの元を探してしまう。静まり返る夜半の梔子の香気がより澄み切っている。それと額を打つ雨が相まって、梔子の花言葉のように「とても幸せ」な気分になる。「壮年」のとろり感とのバランスが佳し。
(鑑賞・董振華)

どくだみを跨げば思ひ出す失恋 木下ようこ
 放課後、校舎の裏の片隅で好きな彼に告白したのだろうか。そして彼の返事は残念ながら…うつむいて立ちすくす私。ふと目が合ったのはどくだみの真っ白な花。鮮やかな白花は大きな瞳のようだ。ああ見られてしまったとその場を走り去った。青春のほろ苦い思い出。「跨げば思い出す」に何とも言えない可笑しみと切なさ。

夏の霧櫂を放したのはわたし 竹田昭江
 遠い夏の日すべてを隠してしまう霧の中、櫂を流されてしまった。でも本当はわたしが手を放したのよ、ふふふ。そんな声が聴こえる。フランス映画のような倦怠感とナルシズムを感じさせる大人の句。芹沢愛子さんの〈あなたが櫂を失くしたという芒原〉この句と相聞のようでもあり、どちらもとても素敵。

若返ることはなけれど更衣 梁瀬道子
 更衣は四季のある日本の大切な行事だ。同じ温度でも春の服と秋の服は違う。取り掛かるまで面倒なのだが結構楽しい。でも昨年まで似合っていた服がどうもしっくりこないことがある。年をとったのだ。きれいなお姉さんだっておばさんになる。「若返ることはなけれど」に深く実感。ちょっと悲しく笑ってしまう。この俳味が好き。
(鑑賞・室田洋子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

無月なり伝わらないから手に触れる 有栖川蘭子
父の肺より十六夜の水を吸う 飯塚真弓
東京の孤独とか言いたくない月 大池桜子
秋思断つべくズブロッカのお湯割り 大渕久幸
遡上する鮭ボクサーの面構え かさいともこ
彼岸花黄泉平坂よく照らせ 梶原敏子
水銀のように団扇の光る面 葛城広光
良夜かな背中に文字を書く遊び 木村リュウジ
焼き茄子のお尻モウロクしています 後藤雅文
吾の地図の山の辺りの銀河かな 近藤真由美
春めくは佳人の涙と思うかな 齊藤建春
梳く髪の先までいのち蔦もみじ 坂本勝子
硝子切引いて抜き取る秋景色 佐竹佐介
ざわつく枯葉スカラ座前に吹き溜まる 鈴木千鶴子
孤高といふ厄介なもの寒椿 宙のふう
横這ひに愚図つてゐたる秋の雷 ダークシー美紀
あたりまえを無くした年を去年と言おう 立川真理
七十億の世界は一つマスクして 立川瑠璃
ストレス禿鏡の奥の初雪 谷川かつゑ
金木犀なんのかんのと友老いて 半沢一枝
割印に紙の段差や神の留守 福田博之
後悔の口の苦さよ酸漿よ 藤井久代
コロナは風邪だ。風だ、街吹っ飛んだ 藤川宏樹
この宙から言葉の宙へ夜長人 藤好良
秋刀魚焼く無頼の過去をけむにして 武藤幹
北斎とボサノヴァを聴く夜長かな 山本まさゆき
ジャズ調のダニーボーイや秋夕焼 山本美惠子
オレオレと昔の仲間稲光 横林一石
天道蟲帽子に乘つて海わたる 吉田貢(吉は土に口)
地球いま挽歌漂ふ風の色 渡邉照香

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