「海原」オンライン句会参加者からのリクエストにお応えして、毎月、金子兜太の言葉を抜き書きするコーナー「金子兜太・語録」を句会資料に設けています。同じ内容をこのコーナー「海原テラス」に転載します。
今回は、金子兜太第一句集『少年』(1955年・兜太36歳)の「後記」です。
後 記 金子兜太
◇昭和二十五年に田川飛旅子、青池秀二と三人で句集「鼎」を出し、その時の自分の題を「生長」とした。この句集はその時の作品を殆ど網羅し、その後のものを「竹沢村にて」「福島にて」「神戸にて」と住んでいた所に従って分類し附け加えた。これによって昭和十五年から三十年六月までの――つまり僕が俳句を創りはじめてから現在までの――十五年間に互る作品をこの一冊に纏めたことになるわけである。
◇僕は俳句が一句によって一つの主題を充分表現出来ると信ずるが、同時にその集積によって主題を訴えることも大事だと思っている。十五年間の作品の集積によって僕は一つのテーマを綴る結果となった。それは自分の「生長」ということである。そして今後ともこの主題は綴られつづけられるであろう。「少年」という題は、そうした作品集積を振返ったときに閃いたものであった。決して現在の自分を生長途上の少年段階だなどと思っているわけではない。清潔で、生きいきしたものを僕は生長の過程で愛してきたし、今もなお愛するのである。
◇生長という主題に即した場合、この句集は二つの時期に分けられる。境界は「結婚前後」で、それ以前は満二十才から二十六才までの青春時代、それ以後は戦後の生活を通しての思想的自覚の過程と云ってよいであろう。僕の青春時代はいわゆる戦争下の青春という奇妙に印象的なものであったが、多くの友人達が暗黒の支配に抗して、或いは捕えられ、或いは自殺し、また一方では無概念な民族的情熱に馳られて熱狂していたなかで、僕は茫然たる不快と反撥以上には何もなく、一種の感受性の化物として、その日その日を流していたわけだった。俳句を書きとめたノートに二つの詩句が残されている。一つは「緑が丘は汝が王座」(ハイネ)、いま一つは「わがこころは独り腐れるうしおであった」(ポー)。青春特有の不遜な自負と多感への蕩酔、一方では重くかぶさる歪んだ現実への受身の反撥と、それからくる希望のなさ、息苦しさ――その混淆であった。自分をもてあましていた。泡盛に酔って団子坂を走り廻り警官に追われ、友人の下宿の壁に反吐をはきかけ、沢木や原子のいたアパートに幾日も漠然と泊り込んで、浴衣を借りて当てもない猟奇的な散歩をやった。戦争に反駁しつつ、戦闘を好み、血みどろな刺戟に身を置くことを望んだ。トラック島は好むところであった。
◇従ってまさに不毛の青春であったわけだ。いま顧ると全く何もしていなかったと言ってよいもので、ただ流れるままに流れ、時に感情抵抗によって屈折するだけの抒情――それだけであった。そして、このことは僕自身の抒情的体質を決定的にさらけ出していることにもなろう。例えば僕は論理を嫌った。論理を構成するとき、既に本質は逃げていると感じた。心情だけが本物であって、意志とか意欲とかいうものはまやかしだと感じた。これらの底には、当時の空虚で観念的な国家論や道徳論に対する心理的反撥も手伝っていたとは思うが、そうだとは云い切れぬ程、すべては感じの域を出ないものであった。然し、こうした体質的な状態は「結婚前後」の頃を境として、徐々に変っていった。正確には変らざるを得なかったと言うべきであろう。トラック島の体験から敗戦直後の暗いサラリーマン生活につづく日々のなかで、ただ一つの、しかし重大なことに僕は気付いていった。それは、今まで純粋といい、誠実といい、本物という場合、それを暗黙のうちに対決させていた不純であり不実であり偽物である反対物についてはこれを当然の前提とし、従って誠実等を可能にする環境条件を考慮していなかったということであった。「竹沢村にて」に到って、僕はある文章にこう書いた。善良というものは本来的な性質であって、ここから善意とでも言うべき社会的な性格に展開しない限り、それを支え切ることは出来ない。また、そうした社会的な性格に到るためには、自分の抒情的体質や封建的意識とは裏はらの感情の古さを、論理的に克服する必要がある――と。抒情的でなく抒情を、観念的でなく観念を――ということでもあるが、ここに僕は自分の生き方を定めた。「福島にて」「神戸にて」はその路線にある。
◇この句集のいわばバックグランドとでも云うべきものは以上の通りであるが、最近の俳句における社会性の問題について、これを単に方法の問題として受取らず、俳句作者の生き方(態度)の問題として把えたのも、そうした自分の道程に基くものであった。文学における方法は作家の生き方の深化(認識及び思想の深化)によって確定されるものと僕は考えるので、生き方(態度)を俳句以前の問題とすることは解説者の立場の発言としても、余りに形式的であると思っている。僕としては自分の定めた生き方を社会性を持った生き方と確信するので、ここから前進的に方法の獲得に向って自分を進めたいと念願している。その意識的なプロセスを僕は批判的リアリズムの段階と呼ぶが、そのリアリズムは方法というより、むしろ言葉の真の意味におけるリアリステイックな態度(主として、行動による対象把握、対象の相対設定、それらを貫く客観精神)に傾斜しているものである。
◇最後に、そして何よりも、自分の俳句が、平和のために、より良き明日のためにあることを願う。
一九五五・七・一

