「海原」オンライン句会参加者からのリクエストにお応えして、毎月、金子兜太の言葉を抜き書きするコーナー「金子兜太・語録」を句会資料に設けています。同じ内容をこのコーナー「海原テラス」に転載します。
あとがき
平成十二(二〇〇〇)年秋から、同二十(二〇〇八)年夏までの八年間の俳句を、この句集にまとめた。『東国抄』につづく第十四句集である。暦の年齢でいえば、小生、八十から八十八歳までのもの。(しかし小生はこの暦年齢を虚と思っている)。
この八年間に、母はるを百四歳で見送り、二年後には妻みな子(俳号皆子) を八十一歳で見送った。母他界の日は、平成十六(二〇〇四)年十二月二十七日。妻みな子は、平成十八年(二〇〇六)年三月二日。
母は小生の顔を見ると「与太が来たね」と言った。長男のくせに開業医の父のあとを継がないで、やりたいことをやっている息子に呆れていたのだ。「夏の山国母いてわれを与太と言う」(句集『皆野(みなの)』)
その母は長寿し、小生に健康な遺伝子を遺して呉れた。併肌も呉れた。小生の元気は母のお陰と言っても過言ではない。
妻は小生に「土」を教えてくれた。口で教えるばかりでなく、熊谷という関東平野の土の上のまちに小生を引っぱってきて、そこに住まわせてくれた。二人の郷里である山国秩父の、山の草木を譲り受けて、猫額の庭に植えてくれた。 妻他界のあとは益々秩父を産土(うぶすな)と思うようになり、すでに林の観を呈してきた庭と親しんでいる。冬がくれば早々に寒紅梅の咲くのを待ち、山茱萸、まんさく、黒文字などのあと、上溝桜(うわみずざくら)の開花を見る。夏は山法師などの緑と向き合っている。秋は、妻が俳句の大作をものした曼珠沙華が庭のあちこちに咲く。
この句集は、妻の悪性腫瘍が発見され、右腎全摘となったあとの療養生活三年目から始まっている。妻は難しい手術を成功させてくれた中津裕臣先生を慕い、先生が九十九里浜は旭市の中央病院に泌尿器科部長として栄転されたあとは、月の半分をその街に宿泊して先生の診断を受けていた。この句集の初め頃の句群は、小生もいっしょに宿泊したときのものである。――そして妻他界のあと三周忌を修した夏までの句でこの句集は了る。
思えば、この八年間、小生は大事な人の他界にいくども出会ってきた。とくに、いわゆる「戦後俳句」の時期を共に句作りしてきた、原子公平、佐藤鬼房、 安東次男、沢木欣一、三橋敏雄、飯田龍太、成田千空、鈴木六林男が忘れられない。安東は自由詩中心だったが、小生には俳句仲間と思えてならない。そして同年の詩人宗左近 (「中句」と称して俳句に似た短詩もつくった)と、学校も勤めも一緒で俳句も一緒につくってきた浜崎敬治は、「皆子を偲ぶ会」(平成十八年六月十九日)と相前後して他界した。奇しき因縁とまで思うのだが、この句集の最後を、戦時トラック島の同じ部隊で苦楽を共にした、文字通りの戦友黒川憲三の他界で了ることにもそれを思う。
人の(いや生きものすべての)生命(いのち)を不滅と思い定めている小生には、これらの別れが一時の悲しみと思えていて、別のところに居所を移したかれらと、 そんなに遠くなく再会できることを確信している。消滅ではなく他界。いまは悲しいが、そういつまでも悲しくはない。母はまた私を与太と言うことだろう。 妻は、「あなた土を忘れたら駄目よ」とかならず言うに違いない。公平は、鬼房は……。
そして妻が闘病生活にはいってからは特に、焦らず病む人の日常に即してじつくり暮そうと臍を固めるようになっていた。幸い息子夫婦が病む妻の日常を十分と言えるほどによく支えてくれていたので、それだけに自分がうろついてはいけないと思い定めていたのである。
この日常に即する生活姿勢によって、踏みしめる足下の土が更にしたたかに身にしみてもきた。郷里秩父への思いも行き来も深まる。徒に構えず生生しく有ること、その宜しさを思うようになる。文人面(づら)は嫌(いや)。一茶の「荒凡夫」でゆきたい。その「愚」を美に転じていた〈生きもの感覚〉を育ててゆきたいとも願う。アニミズムということを本気で思っている。
平成二十一年五月二日
――熊猫荘にて 金子兜太
※『日常』は金子兜太生前最後の句集。第十五句集『百年』は遺句集。
海の町無月の空の遠明り
安堵は眠りへ夢に重なる蛸の頭
濁流に泥土の温み冬籠
夏の猫ごぼろごぼろと鳴き歩く
民主主義を輸出するとや目借時
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ
炎暑の白骨重石のごとし盛り上る
合歓の花君と別れてうろつくよ
子馬が街を走つていたよ夜明けのこと
今日までジユゴン明日は虎ふぐのわれか

