新たに開かれた道で  高木一惠

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より。
《誌上シンポジウム》金子兜太最後の句集『百年』を読む

新たに開かれた道で  高木一惠

◆『百年』より五句鑑賞

 小学六年尿瓶とわれを見くらぶる
 津波のあとに老女生きてあり死なぬ
 わが師楸邨わが詩萬緑の草田男
 雪の夜を平和一途の妻抱きいし
 河より掛け声さすらいの終るその日


 右(上)の五句は、『百年』より掲載順に抄出しました。次に拙き感想を述べます。

  秩父盆地皆野小学校はわが母校。そこを訪ねて尿瓶を語る 五句(内一句)
 小学六年尿瓶とわれを見くらぶる 〔二〇〇九年〕

 秩父俳句道場にゲスト参加された宇多喜代子先生や宮崎斗士ご夫妻達と奥秩父を訪ねた折に見かけた荒川東小学校の庭には、吊り輪のついた遊具などが沢山設置されていたのが印象的でした。
 掲句の眼目は「小学六年」だと思いますが、宇多先生は戦時下、まぎれもない「軍国少女」で、八月十五日は敗戦日としか言いようがないと話しておられます。
 兜太先生と同年同月秩父生まれの私の母は、六年生の学芸会で岡本綺堂『修善寺物語』の面作り夜叉王を演じ、白小袖に袴姿で鑿を振う写真が遺っています。
 大戦後の平和に馴れた子供と言えども六年生です。教科書で習った「俳句」の大先生が尿瓶を紹介する姿に戸惑ったり、可笑しく感じたかもしれませんが、いかにも兜太先生らしい、子供達への「命」の擦り込みと思われます。

  東日本大震災以後 十五句(内一句)
 津波のあとに老女生きてあり死なぬ 〔二〇一一年〕

 被災の老女と少女の生還は当時度々報道されて、掲句もそれを題材にしていると思います。「生きてあり」の感動をそのまま表出して、そこまでは誰でも言えますが、「死なぬ」と据えたところに、老女だけでなく、命あるもの同士としての強い交情が籠もりました。五七五の力、兜太俳句の面目躍如の句と思います。

  草田男頌 六句(内一句)
 わが師楸邨わが詩萬緑の草田男 〔二〇一六年〕

 中村草田男創刊の「萬緑」が終刊、の報に接しての感慨とも思われます。
 『金子兜太戦後俳句日記第1巻』の一九五九年六月(39歳)に「草田男、朝のラジオでインタビュー。相変わらず。聞いていると、妙に詩的雰囲気を感じるから面白い存在だ」と記して、お若い頃から詩性を評価しておられました。
 草田男『来し方行方』所載〈鳴るや秋鋼鉄の書の蝶番)の前書に――十九歳よりの愛読書『ツアラツストラ』訳書にて、二十数回、原書にて四回通読、今又原書を、初めより一節づつ読み改め始む――とありますが、兜太先生の勉強ぶりも、俳句日記で偲ばれます。
 平成元年の朝日カルチャー特別講座、「気ままに読む俳句の古典」の芭蕉『野ざらし紀行』の講義で、先生は師の加藤楸邨について、実作者として芭蕉研究の第一人者であり、〈野ざらしを心に風のしむ身哉〉の旅立ちの句に感動し、芭蕉の不退転の心を真っ直ぐに受け取っていた、と紹介する一方で、芭蕉がすぐ後に箱根の関越えの句〈霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き〉を配した点に注目し、この中下句の見立ては芭蕉の独創で「滑稽」を意識した句であり、野ざらしの句の緊迫感から離れた余裕が感じられる、その二重性に留意したいと、楸邨とは異なる見解を披露しています。
 『百年』の〈脳天や雨がとび込む水の音 蕉翁に〉〈くちなしや蛙とび込む人の家〉などのもじりに芭蕉への親しみを感じますが、富士山が世界遺産に登録された頃の〈「大いなる俗物」富士よ霧の奥〉の霧の奥には、師と芭蕉、またご自身の姿を観ておられたでしょうか

  亡妻つまと平和 十二句(内一句)
 雪の夜を平和一途の妻抱きいし 〔二〇一六年〕

 前掲俳句日記・一九七五年(55歳)
 十月十一日(土)
皆子「あなたは俳句に徹底しなさい。富士30句はよかった。あのスケールはほかにはない。碧梧桐をまずやりなさい。その上に立って散文を書きなさい。スケールの大きい記録より畸人伝がむいています」――これは頂門の一針。いい意見だった。

 右のような皆子夫人の感想助言が日記第1巻の諸処に出て、夫人こそ最大の同士であったと知りました。皆子作品の魅力は「海程」誌連載の山中葛子エッセイ「花恋忌」が詳細に伝えています。

  「最後の九句」より
 河より掛け声さすらいの終るその日 〔二〇一八年〕

 河より掛け声――荒川の流れが、岸辺の緑泥片岩と共に先生に重なります。文明発祥の長江に因む名の御妹もいらして、先生の河は『狡童』の〈雁君に墜ちれば遠き大河かな〉にも繋がり、「掛け声」はまた、天地の声として響きます。
 映画『天地悠々』の監督に今後を問われ、「(一茶の)なんでもいいやい知らねえやい」だと応じた荒凡夫の先生。実は〈浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」草田男〉でしたが…。

◆定住漂泊――百年の営み

 俳句日記・第2巻の長谷川櫂解説に、「言葉には自己と他者の関係がすでに生じている。これこそ言葉が本然的にもつ無自覚な社会性であり、政治性である」、「(兜太先生が社会性の自覚を必要とされたのは)俳人にかぎらず人々の社会性の無自覚こそが昭和の戦争を許したと考えていたからであろう」とあり、先生の立ち位置の厳しさを改めて想いました。
 定住漂泊の兜太先生の百年の営みは、膨大な書、影像その他、そして人を遺しました。さすらいを終え、新たに開かれた道で、尿瓶の句の、かの子供達との再会も楽しまれるでしょう。

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