「松山宣言」(1999年)

「海原」オンライン句会参加者からのリクエストにお応えして、毎月、金子兜太の言葉を抜き書きするコーナー「金子兜太・語録」を句会資料に設けています。同じ内容をこのコーナー「海原テラス」に転載します。


 今回は、兜太の言葉そのものもではないですが、兜太も参加した「松山宣言」です。
 1999年9月12日、松山にて有馬朗人、芳賀徹、上田真、金子兜太、ジャン=ジャック・オリガス、宗左近の各氏によって全世界の詩人に向けて発出した、21世紀において短詩型文学としての俳句の可能性と方向性を示唆する宣言。
 ユニバーサルな文芸としての俳句の本質を語っていると思います。本文はウィキペディア「松山宣言」からのコピーです。


松山宣言

 俳句は世界の文学である。俳句は、世界のあらゆる民族に向かって開かれている。いま、この小さな17音の短詩型が、世界のあらゆる詩歌の可能性を広げようとしている。

1 松山という土壌

 松山は江戸時代、他藩に比較しても俳諧の盛んなところであった。文化文政の時代より家老奥平鶯居をはじめとして俳諧に親しむなど、徳川幕府の親藩としての穏やかな気風と温暖な気候が人々に好んで俳諧に向かわせる要因となったのかもしれない。鶯居と同様に幕末から明治にかけて活躍し、正岡子規の俳諧の師となった大原其戎は、梅室門として俳諧結社「明栄社」を組織、旧派の句風により全国で三番目に古い月刊俳誌「真砂の志良辺」を創刊するなど、その興隆は子規の時代まで綿々と受け継がれたのである。

 日本の近代の俳句は、この松山から、子規から始まった。松山藩の士族の子として生まれた子規は、この松山藩が土佐藩に占領されてしまうような親藩ゆえの惨めな維新後の状況の下で、政治的野心を遂げられない環境にあった。そこで子規は、祖父大原観山や河東碧梧桐の父河東静溪の手ほどきで小さい頃から漢学や漢詩の素養を身につけていたこともあって、政治、哲学、美学、小説など立身のためのさまざまな試みに挫折した挙句、漢詩と同じく定型詩として親近感のある俳句に目をつけた。この小さな定型詩に当時のエリート層が誰も見向きもしなかったことを乗り越えて、過去を総括する形で俳句を科学的に考察し、近代化することによって名をなそうとしたのである。

 松山からは、子規のほかに、高浜虚子、河東碧梧桐、中村草田男、石田波郷らの近現代の俳句界を代表する俳人が、またその正統派に対抗する形で南予地方からは富澤赤黄男、芝不器男、詩人では最初の日本のダダイストといわれる高橋新吉らが彗星のごとく出現し、その豊穣な土壌にはただ目を見張るばかりである。

2 世界への広がり

 日本の定型詩が世界の詩歌との接点を得た契機としては、明治維新後に行われた賛美歌、聖書の韻文訳のほか、西洋で普及している「ポエトリイ」という文学形式を我が国に根付かせるために行われた外山正一らの「新体詩抄」(明治15年)、森鴎外らの「於母影」(明治22年)等に代表される翻訳作業があり、西洋詩を日本的に定型化・韻文化するこれらの労作によって、我が国の俳諧・和歌という韻文の遺産と西洋詩との出会いが実現した。子規自身、俳句・短歌の革新に邁進する一方、新体詩にも興味を示して新体詩の研究グループを作ったり、西洋の詩が韻を踏むことを特徴とする点に着目、それを我が国に導入するための「韻さぐり」(脚韻辞書)を作り、韻を踏まなければ詩にならないとするなど、その出発点から世界に目を向けていたのである。

 日本の詩歌が西洋の詩歌に大いに影響を受けたように、俳句が欧米の詩的状況に与えた影響もまた多大であった。明治30年代のバジル・ホール・チェンバレン、ポール・ルイ・クーシューによる日本の俳句の紹介を皮切りに、エズラ・パウンド、ポール・エリュアールらの当時を代表する詩人が俳句に深い関心を示すに及んで、欧米の俳句熱は一気に高まったのである。例えば、フランスの駐日大使でもあった詩人のポール・クローデル、イヴ・ボンヌフォア、フィリップ・ジャコテ、またアメリカのリチャード・ライト、アレン・ギンズバーグ、ドイツのライナー・マリア・リルケ、イタリアのジュゼッペ・ウンガレッティやノーベル賞受賞者のメキシコのオクタビオ・パス等の大詩人は、俳句の精神を自分の詩に生かしている。
 例えば、ルナールは「博物誌」において「蝶」について「このふたつ折りの恋文は、花の番地をさがしている」と簡潔な文章で巧みな比喩を用い、「蛇」について「長すぎる」と短すぎる一行詩で表現して「俳味」を出している。オクタビオ・パスは「子供がそれを投げるたびに/独楽はまさしく落ちる/世界の中心に」という俳句に影響を受けた三行詩を作っており、リルケの「薔薇よ、おお純粋なる矛盾」ではじまる三行詩は、リルケが自分の墓碑銘として遺言したものであるが、これも一種の俳句であった。ジャン・ポーランが編集長としてフランス文壇の一世を風靡した「新フランス評論」(N.R.F.)も第一次大戦後の復刊草々の1920年に「俳句特集」を組み、フランス詩壇に大きな刺激を与えたのである。

3 なぜ世界へ広がりえたのか:俳句の本質論

 欧米の詩には、短いもの、何百行にもわたる大変に長いもの、また、無数とも言える程の様々な形のものがあるが、俳句は、たった十七音で独立した詩として完全に成立してしまう。このことが、欧米の詩人に大きな衝撃を与えたのである。
 俳句はそもそも、その帰結としての論理的な回答を用意していない。いわば俳句は論理を超えている。例えば、松尾芭蕉の「秋ちかき心の寄るや四畳半」「冬籠りまた寄り添はん此の柱」「ひやひやと壁を踏まへて昼寝かな」などを英語で訳し、論理的に説明しようとしても説明しきれるものではない。不思議なものを不思議なままに表現し、論理学で把握できない論理を心理的・感覚的に把握できるのが俳句なのである。そのために日本語特有の文法ともいうべき「切れ字」や「季語」というものを発明してきた。

 また、俳句は、「自然からたまわるもの」という考え方をする。これは、「自然は人間と対立するものではなく、同化するもの」という日本人の自然観、さらに、「人生を自然に投影させる」日本人の死生観が根底にある。このような日本古来の和歌からの伝統は、現代の短歌が自然や季節感から離れていくにつれ、むしろ俳句の方に凝縮される形で受け継がれている。
 俳句は、「自然の中の生き物としての我の自覚」を呼び起こし、それによって、「他の生き物との共生共感を基本とする心性の獲得」がもたらされるのである。この心性は「心(こころ)」(自分に向かって閉じるこころ)ではなく、「情(こころ)」(他に向かって開いていくこころ)で満たされている。
 俳句は、「俳句によってのみつくられる現実であり、世界である。これを作り出さない俳句は意味がない」という「虚構のリアル」としての性格を有するが、これは、世界的な詩の一般論、文学の一般論にまで敷衍しうるものである。

 俳句は民衆の詩である。俳句は民衆から生まれ、民衆によって享受され完成され、民衆に戻るものである。また、日常生活の何を詠んでも良いという自由さがある。したがって、俳句が綿々と生き長らえて、近年まれに見る俳句人口の増大という現象に至ったことは不思議ではない。
 第一に俳句は手軽である。日本の俳句の場合、五七五を並べて季語を入れるととりあえず俳句らしきものができてしまう。こうして、誰もができる喜びがある。
 第二に俳句は座の文芸であり、構造的に仲間(連衆)を要求するものである。すなわち、俳句という詩においては、「個」が孤独に作るという近代的な詩の形態を伝統的にとらないのである。
 いずれにしても、このような民衆性を有することが、世界の詩人にとって新鮮な衝撃と可能性をもって受け入れられていったのである。

4 定型・季語の問題

 国際俳句、いわゆるhaikuに言及されるとき、必ず問題になるのが五七五の定型及び季語について、他言語・他文化でこれをどう扱うかという点である。

 まず、五七五のリズムは日本語特有のリズムであり、他言語に無理やりこのリズムを押し付けてみても同様の効果を到底生み出しえないことは明らかである。さらに、定型については、シラブルやアクセントの問題ではなく、むしろ表現を「短く」集中していくときの緊張を高める装置としての「かたち」の問題であるとすれば、日本語の場合は、その「かたち」が五七五に特化したということができる。
 また、この定型があるがゆえの技法、レトリックも日本語固有のものである。例えば、俳句には、現実を瞬間で切った俳句や構造的に切れ字を使って別世界を構築する俳句などがあるが、前者の例として高浜虚子の「桐一葉日当りながら落ちにけり」「東山静に羽子の舞ひ落ちぬ」「流れ行く大根の葉の早さかな」や山口誓子の「夏草に汽罐車の車輪来て止る」「ピストルがプールの硬き面にひびき」が、後者の例としては、橋閒石の「階段が無くて海鼠の日暮かな」や永田耕衣の「少年や六十年後の春の如し」があり、特に後者を理解することは難しいかもしれない。この一つの原因としては、切れ字という技法が他の言語にはないからである。

 次に、季語の問題であるが、前述のように、日本の俳句は、「自然からたまわるもの」であり、我が国の場合、季感は自然と一体の関係にあることから、季語という要素が俳句に不可分に結びついてくるのである。一方、風土が違うところに日本の季語を持ち込むことには無理がある。このことは、今後俳句が世界化する際に、その内容が世界の中の地域の特性にますます傾くことが考えられるので、尚更である。もちろん、後述するように、季節すなわち自然を詠むということは人間と自然との関係を俳句的精神から考え直すという意味で非常に重要であるが、それを季語という形で形式化することはまた別の問題であり、俳句を世界的視野で語る場合には、季語というルールを強制することは無理があるかもしれない。

 このように、世界に俳句が広がるとき、俳句を短詩とみなして、定型・季語についてはそれぞれの言語にふさわしい手法をとることが適当である。この場合、俳句に対する世界的な共通認識としては、「短詩型」と「俳句性」ということにつきるであろう。
 我々は、俳句という精神を表現するにふさわしい、その言語特有の定型詩や独自の切れ字等の技法が新たに生まれる可能性はあると考えている。例えば、立原道造は、ヨーロッパのソネットを日本に導入した際にこれに日本語にふさわしいリズムを与えて日本風ソネットを作り出すことに成功した。逆に欧米側でも同じような俳句の取り入れ方は可能である。さらに、前述のごとく、定型とは表現を「短く」集中していくときの緊張を高める装置であると位置付ける場合には、例えば欧米での俳句訳の原型や中国の漢俳が三行であることを理由として欧米や中国の俳句を三行最短として確定することもできようし、あるいは一行最短と確定することも選択肢としてあり得るであろう。すなわち、定型とは、その言語における「言葉の内なる秩序」を見つけることにほかならず、これは詩歌にとって普遍的な認識であるということができる。
 また、俳句性の本質は饒舌たることをやめた象徴詩であるということも、世界的に共通する認識である。季語とは和歌以来の日本の伝統的な詩的感覚・体験の蓄積であり、これを世界的視野で言い換えれば「その民族特有の象徴的な意味合いを有するキーワード」ということである。とすれば、各民族とも長い歴史に培われてきた各民族固有の象徴的キーワードを有するはずであり、この意味で世界的な意識としての俳句は、「象徴」により束ねられる普遍的な詩歌であると言うことができる。日本の現代俳句が象徴詩としての純度を高めつつあることは、この世界的方向性に沿うものであると指摘できよう。
 なお、日本の場合は、連歌以来の連衆(文芸共同体)が「共有語」を受け入れやすくし、これによって季語の象徴機能の受入れも高められている。そして、これはまた「無季語」を「共有語」とすることの可能性をも示している。haikuの制作が単独行為として行われ、「個」の自立確然たる状態においても、語の象徴機能の共有による伝達豊富性を求めるとき、「共有語」としてのはたらきはやはり無視できないものとなるであろう。

5 世界の一流の詩人への「かげとひびき」

  21世紀は、これまで席巻してきた「説得の世界」に代わり、「沈黙の世界」が重要視されてくるのではないだろうか。「百扇帖」のクローデルは「水の上に水のひびき 葉のうへにさらに葉のかげ」とフランス詩を最も沈黙に近づかせ、尾崎放哉は「咳をしても一人」と人間の孤独感を最短の俳句で表した。また、ポーは「「長い詩」という言葉はあきらかに言葉の明確な矛盾だ」と指摘している。同時に、このような短詩を味読するに、読み手は沈黙を理解する力を持たなければならなくなる。

 俳句は、普遍的な意味での象徴詩であるが、象徴とされる対象の有する意味は、当然それぞれの文化的コンテキストによって全く異なってくる。例えば、「薔薇」について与謝蕪村、「愁ひつ丶岡にのぼれば花いばら」「花いばら故郷の路に似たるかな」「路たえて香にせまり咲くいばらかな」のように憂愁・郷愁の情を「花いばら」に象徴させたが、ゲーテは「野ばら」においてこれを若い娘に喩えている。また、「リラの花」は外国ではレジスタンスの象徴であったが、日本では「リラの花」にそのような抵抗運動の面影をみることは遂に全くなかった。芭蕉の「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」はそれだけで世界が完結しており、欧米人の日本的美学に対する固定観念とたまたま合致して鮮明なイメージを彼らに与えるが、「荒海や佐渡に横たふ天の川」については、佐渡島に対する歴史的な背景を意識しなければ深く理解することは難しい。
 しかしながら、このような俳句における象徴を通した異質な文化的概念同士の交流も既に始まっている。俳句には象徴としての「モノ」が具体的に詠み込まれる分、世界各国の詩人が相互にそれを理解し、自分の詩に応用する手がかりが与えられているともいえる。
 芭蕉には、「雲の峯幾つ崩れて月の山」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」「石山の石より白し秋の風」「海くれて鴨の声ほのかに白し」などのシュールレアリスティックな作品があり、現代では、例えば能村登四郎の「霜掃きし帚しばらくして倒る」などの作品がある。芭蕉の「雲の峯いくつ崩れて月の山」は、「雲の峯」が生命、男性、陽を、「月の山」は死、女性、陰を表しており、その夏の昼の光景としての「雲の峯」が崩れて、秋の夜の光景としての「月の山」に転じ、吸収されていくという高度な象徴性を漂わせている。また、登四郎の作品は、内容としては帚が倒れたというだけであるが、清冽な霜を掃いた帚がストップ・モーションのように倒れるとき、この日常の実景が幻想的な静けさを立ちのぼらせてくる。
 このように、良い俳句は抽象と具象のぎりぎりのところで幻想性を帯びてくる。いきいきとした生命があり、さらにその生死を超えた存在にもなる。井本農一は俳句イロニー説を唱えたが、子規は「鶏頭の十四五本もありぬべし」と、イロニーをも超えたナンセンスあるいはダダイズムを既に平気でやっていた。シュルレアリスムとは今世紀前半にフランスにおいて唱えられたものであるが、俳句においては昔から、この種の超現実主義を無意識のうちに得意としていたのかもしれない。

6 俳句の国際化・普遍志向・独立志向

 第二次世界大戦の終結は日本の文学にも新しい息吹を与えたが、これが俳句の世界では俳句を第二芸術に過ぎないとした桑原武夫の「第二芸術論」への反発という形で活性化をもたらしたことは記憶に新しい。俳句の底流にあるものは近代の「個」の感覚ではないとする視点から「第二芸術論」が展開されたのだが、実はそれこそが俳句の強みでもある。
 子規以来、俳句において近代的な「個」の確立がなされたか否かは、俳句が基本的に座の文芸であるという性格とあいまって議論のあるところであるが、むしろここでは両者の長所を併せ有する点に着目し、俳句とは「近代の悲劇を通り抜けて、超えていこうとする詩」であると規定することとしたい。

 前述のごとく、俳句には、「個」の自意識を超えて自然と連なっていく特質があり、この特質が俳句を通じて世界に広がっていく可能性をもつ。その意味で俳句は非情な側面を有しているものでもあり、自然が滅びつつあるとすれば、それをありのまま冷徹にとらえたり、あるいはその現実を自己の内面にむけて胸中山水の自然の仮想世界に遊んだりもする。どちらにしても俳句が自然と一体にあるという意味では同義であり、「滅びつつ再生する」という過程も俳句と自然と人間とに共通するものかもしれない。したがって、例えば自然破壊の問題に対しても、人間が自然を守るというより、自分もその自然の一部としてあるという認識を基本的な特性とする俳句が果たす役割は大きなものがあると考えられよう。
 いずれにせよ、自然環境が世界的に急速に衰退しつつある現在、俳句を作ることは、人間と自然との関係をもう一度考え直す絶好の機会であり、このように人間が心の癒しを受けつつ自然との共鳴、共生、共感を取り戻すことは、21世紀に向けて世界のあらゆる詩歌に求められていることであろう。

 我々は、このようなユニバーサルな性格を有する俳句という名の短詩型を世界に向けてもっと発信すべきだと考える。俳句は自分の持っている力を過小評価しているが、今まで論じてきたように、実は日本の短歌や現代詩はもちろん、世界の詩全てに再生をもたらす力を十分に有しているのである。
 さらに、俳句を国際化(普遍化)することが日本の俳句にとっても革新をもたらすことになる。我々は、各国における新しい詩の運動がこのような視点に立脚した上で、haikuというフレームワークのもとで世界詩の最前衛を目指すべく展開されることを期待する。この意味で、俳句は前衛的存在である。俳句が世界のどこかに広がって、どこかで優れた最前衛の詩となることを期待したい。

7 詩を万人の手の中に取り戻そう:二十一世紀における世界の詩の革命

 俳句革新運動を起こした子規が没して約百年。我々がここで起こそうとしている「宣言」の先例としては、「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ」と高らかに謳った約百年前の「藤村詩集」序文(島崎藤村)、シュルレアリスム運動の発端となった約75年前の「シュルレアリスム宣言」(アンドレ・ブルトン)などがあるが、今やこのような革新的な宣言の誕生が絶えて久しい。俳句の世界においてもまた、その長き停滞を止めて革新の必要性を叫ぶ声が最近とみに高まっている。

 我々は、この宣言において、俳句の有する子規の革新以来の本質的な世界性に着目し、過去にそれが世界に広まっていった状況を考察し、未来における可能性を世界的な文化の潮流の中で予言した。我々はここで、日本語による俳句性の本質とされてきた定型と季語について、世界的な文脈の中ではそれぞれの言語においてその本質を把握すべき問題と考え、俳句的な精神を有する世界のあらゆる詩型を「俳句」として新たに迎え入れたい。

 俳句においては、完成された詩の表現形態として十七音まで言葉を切り詰め、切れ字等の日本語特有の文法を用いることで、一切の事象をこの短い詩の中に表現している。同様に、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語、アラビア語、中国語、韓国語その他の全ての言語においても、詩的表現として切り詰め凝縮しうる部分があると考えられ、また、沈黙の価値を理解する態度が各言語の詩的空間の拡張に大いに貢献するものと信じている。
 我々は、全世界の詩人が詩の運動として、自国の言葉をどこまで短縮し、凝縮することができるか、追求することを期待する。

 間近に21世紀を迎えようとしている今日、我が国の俳壇は、無数の大衆的俳句人口と抱えきれないほどの数の結社を抱えながら、過去からの遺産を単純再生産することで生き長らえている。
 その一方、現代世界における詩はさまざまな試行錯誤を経て、行き詰まりを見せることもあるが、その中にあって、詩の第一線をゆく最高度の完結性をもつ短詩型文学としての俳句は、この現状を打破する力をもつものとして世界の心ある詩人達から注目されている。このような思いに応えていくことこそが、俳句を、あるいは詩歌を、万人の手の中に取り戻すことにほかならない。

 我々は、世紀末的に興隆しつつますます閉塞する日本の俳壇の現状を超えて、同時に、俳句に対する世界の意識の高まりを真摯に見据えて、百年前に子規が「敗北の詩」から俳句革新を起こしたこの松山という特別の地で、再度新しい詩歌の可能性を開くべく、確信を持ってこの「松山宣言」を全世界の詩人に対し発信する。

 俳句は世界を受け入れ、世界に向かって開かれる。

 1999年9月12日 松山にて

 有馬朗人
 芳賀 徹
 上田 真
 金子兜太
 ジャン・ジャック・オリガス
 宗 左近


参考
「松山宣言」ウィキペディア
・ユニバーサルな小野裕三氏(「海原」同人)のウェブサイト
 https://yuzo-ono.com/whats-new/
・本文に登場する「他の生き物との共生共感を基本とする心性」や「情(こころ)」
 に関連して「「造型俳句論」と「生きもの感覚(アニミズム)」のひみつ」

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