『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む:俳人兜太の「トラック島戦場体験」の真実③ 岡崎万寿

『海原』No.12(2019/10/1発行)誌面より。

『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む
俳人兜太の「トラック島戦場体験」の真実 岡崎万寿

《3回連載・その3》

㈣ 俳句力と「トラック島句会」の特徴

 感動的なことは、述べてきたような心荒ぶ「死の戦場」にあっても、金子兜太はあくまで、いや自然体のまま俳人であり続けたことだ。そればかりか、トラック島での二年八ヵ月(後半、戦後一年三ヵ月は米軍捕虜として)の戦場体験は、俳人として、新しい素材、モチーフ、刺激に満ちた試練の機会ともなった。
 それは兜太もち前の感性に富む生命力の賜物であり、同時に俳句という最短詩形のもつ表現力、適応力のみごとな展開でもあったと思う。では俳人兜太は、そこでどんな日本語の詩の美を開花させているのか。
 すでに兜太句集などで、何回も読んできた作品でも、見てきたような想像を絶する生死の戦場体験を、改めてその背景におけば、新鮮な“読み”の感激が生まれるかも知れない。
  足につくいとど星座は島被う
 二十四歳の海軍中尉・兜太が、日本海軍の一大拠点であったトラック諸島へ着任したのは、敗色のただよう一九四四年三月五日だった。同句は、その初期の作品である。
 その当時の心意を、第一句集『少年』の後記で、兜太はこう振り返っている。「戦争に反駁しつつ戦闘を好み、血みどろな刺激に身を置くことを望んだ。トラック島は好むところであった。」
 しかし、すでにトラック島は、二月中旬、二日連続の米軍機動部隊の猛攻撃を受け、基地機能は壊滅的な打撃を被っていた。その生々しい光景を目にして、兜太は「これはダメだ」と感じた、そうである。だが同句からは、そうした青年特有の心意の浮沈は、全く感じられない。
 そこに佇つ兜太は、もはや兵士でなく、大自然の中の一つの存在、一人の詩人に成り切っている。トラック島のみごとな星空に、よほどの感の高揚を覚えてのことだろう。「これは自分でも好きな句です」と、こう語っている。

 甲板士官ですから、島中を一人で歩き回ることが多かった。星空はじつに見事で、本当に星の傘を被っているような感じなのです。赤道直下といっても少し北にありまして、そのために北斗七星の尻尾が見える。南には南十字星がいつも見える。それらにまたがる無数の星々が、音がするほどキラキラと輝いていて、あの美しさはどうにもしようがないほどでした。一度お目にかけたいという思いはありますなあ。(『悩むことはない』)

 同句の「星座は島被う」という、僅か六文字に、これだけの感慨が籠められているのである。足元でよく跳ねているいとどは、秩父にも居た。入隊前に、「征旗巻くわが裸か身へいとど跳ぶ」という句も作った。海を隔てても、懐かしい同じ生きものなんだ。

  魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
 着任して三ヵ月ほどたった、艦上攻撃機の基地のある楓島での作。ジャングルの一角に隠し積まれた魚雷は、まだ反撃の機会をねらってよく磨かれ、鈍色に光っていた。一発で数百人のった艦船を撃沈できる能力をもっている。その魚雷を、兜太は「鉄の匂うような」生きもののように感受している。
 その矢先、一匹の蜥蜴が魚雷の丸い胴を、チョロチョロと這い廻り、すぐに草むらに姿を消した。蜥蜴は暗褐色の背なのうるおう爬虫類で、太古より地球に棲むいのちそのもの。そうしたてかてかの武器と、ぬれ色の小動物の触れ合いの瞬間の感覚を、兜太は「自作ノート」の自句自解で、こう書き記している。

 その一瞬のなまなましい膚触感に、しーんとした緊張があった。(『現代俳句案内』飯田龍太等編)

 これが、俳人兜太の戦場だった。生々しい肉体感覚である。この句は、最後となった軍事郵便で父・金子元春への手紙に記され、伝言で、その写しが師・加藤楸邨へも送られている。戦後帰国して挨拶へいった折、楸邨からまず「“魚雷の丸胴”は良かった。臨場感だなあ」と激賞されたそうだ。記念すべき名句である。

  古手拭蟹のほとりに置きて
  銃眼に母のごとくに海覗く

 極限の戦場トラック島にあって、兜太がふるさと秩父の父母への想いを表現した作品である。一句目。兜太は汗を拭く古手拭を腰にぶら下げ、島中を見回っている。大便をもよおし、椰子の木陰で浜に続く珊瑚礁の海を見ながら、ほっと用を足している所だ。秩父から持ってきた手拭も、これが最後の一本、大分黒ずんでいるが懐かしい。
 野糞には、父との想いが重なる。父は山村の医者で自転車で往診する途中、悠々やっていた。「あんないいものはねえ」と、息子たちにも野糞をススメたそうだ。当時の山村では、そうした野性が日常のことだった。
 トラック島で野糞をする兜太の脳裏には、きっとその父の言葉と面影が浮かんでいたに違いない。そこに一匹の島の蟹が現れた。自然児に還った兜太と、自然の生きものの蟹との出会い――。兜太はその「蟹のほとり」に古手拭を置き、「おい」と一声、きっとかけたのではないか。俳人兜太らしい戦場俳句である。盟友の牧ひでをは『金子兜太論』(一九七五年刊)で、この一句を挙げてこう書いている。

 島での生活と生き方が、戦争の中でそのまま描かれている。……私はこの作品こそ、平明ではあるが、貴重な戦争俳句だとおもう。

 二句目。ここでは、海岸線に造られた戦闘用のトーチカの銃眼を覗きながら、秩父の母の暮らしの所作を思い出している。銃眼は敵軍を監視・銃撃するための小さな穴である。島内見回りの際、そのトーチカに入り銃眼を覗いてみた。ブルーの海が美しい。とっさに兜太は、秩父の家の小窓から、よく天気や周辺の様子を覗いていた母の姿が、目に浮かんだ。だがここは戦場。その落差が、詩心を揺すったのだろう。

  犬は海を少年はマンゴの森を見る
  被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり

 トラック島には、先住民のカナカ族が住んでいた。子どもはほとんど半裸で腹を出し、パン、マンゴ、ヤシなどの木の実を主要な食糧としていた。そこへ赴任してきた兜太が、現住民にたいして差別のない、ヒューマンな目で接していたことを物語る俳句である。
 一句目。顔見知りの犬と少年が、今日も浜へ駆けてきた。ここでは犬も少年も対等、それぞれである。と、少年は振り返って高木のマンゴの森をじっと見ている。連日の米軍機による爆撃で、あちこち、かなりやられているのだ。「カナカの少年にとって戦争は災害以外の何物でもない。それが腹立たしかった」(『自句自解99句』)と、兜太は言う。なんとも視線が明るい。
 二句目。この句も米軍機の攻撃で、主食であるパンの大木が被害を受けている。その近くで、カナカ族の赤児が、思い切り泣いているのだ。池田澄子はそこに着目して、兜太との対話集でこう話している。

 事実として泣いていたとしても、その、赤児を描くというところが、とっても人間。……そこに赤児が泣いてるということが大事なことになっているというのが、ここが即ち兜太俳句ですね。(『兜太百句を読む』)

 戦場の修羅場にいても、俳人兜太の目は、巻き添えで被害に曝されている、先住民のカナカ族の暮らしへ向けられている。その犬、少年、赤児、生きものみんな愛しいのだ。こんな戦場俳句が他にあるだろうか。
 さて兜太はこうしたトラック島作品二百句ほどを、戦後復員のさい、大事に持ち帰っている。うち、句集『少年』に四十四句、未完句集「生長」に八十句、計百二十四句が公表され、現代俳句史の貴重な財産となっている。
 いよいよ、トラック島戦場での、金子兜太の希有な句業として挙げられる、いわゆる「トラック島句会」の考察に入る。ただ、その興味ある内実は、先の『あの夏、兵士だった私』『語る兜太』その他で、ほとんど語り尽くされているので、ここでは、それらの文献資料を総まとめして、「トラック島句会」がどうして開かれ続いたのか。そこでの兜太の役割と、俳句そのもののもつ力をどう見るかなど、大きく三つの特徴について、簡潔に述べる。
 一つは、この「トラック島句会」が、今日の日本本土では想像も出来ない、生死の極限状況にある戦場で、「軍の士気を鼓舞」するためという名目で、軍隊内で開かれていることである。それは三人の陸海軍詩人が、偶然にもトラック島戦場で出会ったことから始まる。
 その一人、矢野兼武海軍中佐は、筆名西村皎三という、詩集『遺書』で知られる有名な海軍詩人だったが、たまたま第四海軍施設部に赴任した兜太にとっては、直属の上官にあたる総務部長であった。その矢野中佐が、兜太が俳句をやっていることを承知で、「金子中尉、これから食糧などの補給が途絶え、士気が沈滞していく。句会をやって空気を和らげてくれ」と言うのだ。
 軍隊の中では、それは命令に近いものだった。その矢野中佐は五月末、転勤命令で帰国途中、サイパンで戦死した。「句会をやってくれ」という言葉は、彼の遺言ともなった。
 もう一人の詩人とは、陸軍戦車隊長の西澤實少尉である。爽やかな詩才をもち、「椰子を守る人々」という詩を見せてくれた。気の合う人間だ。彼に、矢野中佐の「句会をやってくれ」という話をした。「それはいい」と即答。この兜太、西澤というコンビで、八月中旬から陸海軍合同の句会が開かれることとなったのである。
 二つ目の特徴は、俳句に明るい提唱者の兜太のやり方で、参加者みんな和気あいあいと、句会がもたれたことである。陸軍は四、五人、海軍は工員たち十数人が、月二回ほど各自三句ずつ出句し、夜、椰子油のランプの灯を囲んで車座でやった。南方の島でのこと、季語などこだわりなしである。
 不思議なことは、犬猿の仲といわれた陸軍と海軍、階級差別の厳しい将校と兵と工員たちが、ここ句会ではみんな同じ人間に還って、俳句仲間に上下なしで句座がもたれ、続いたことである。これも兜太の人柄とリーダーシップあってのことだ、と思う。戦後、「トラック島句会」の名コンビだった西澤實は、こう話している。

 奇跡のようなものです。何より兜太の人徳、その包容力があって可能になった。もうひとつは、俳句そのものがもっている力、汎人間的な文芸の魅力だと思います。(『悩むことはない』)

 三つ目の特徴として、「トラック島句会」には、いま西澤も言うとおり、兜太の魅力と合わせ、俳句そのものの力、句会自体のもつ人間的魅力があったことも事実である。あまりにも殺伐とした戦場の気分から逃れ、素顔の人間に還りたかった。憩いの雰囲気がほしかった。しかも俳句という日本語の美しさ、優しさに触れながらである。句会は評判をよび、多い時には三十人ほど集まったのも、そのためだろう。
 したがって、リーダーの兜太が一九四五年初の、食糧事情悪化のため部隊とともに秋島へ移り、相棒の西澤も前年九月つづきに水曜島へ配転しても、「句会」は、『築城』というガリ版刷の会報を出しながら、少なくとも四五年二月末まで続いている。その証拠を『語る兜太』で述べている。かつて「トラック島句会」の参加者だった一人の、古い句帳(手帳)が新たに見つかったのである。

 「金子中尉」と書かれた二句もあった。下手な句だが、私の句に間違いはない。日付も八月十九日から翌年の二月二十三日まで。……この句帳の持主だった神田さんは陸軍の人。ずっと夏島に残っていたのですね。

 もう一つ兜太は、トラック島で陸軍連隊での句会を立ち上げる力となっている。一九四四年十月、句会の評判を聞きつけた柴野為亥知(ためいち)連隊長が、金子大尉(夏に昇進)を訪れ、指導を乞うている。兜太は二回ほど出席したが、秋島へ転勤となる。しかしその句会は、敗戦直前まで続き、句集「芽たばこ」まで出している。(『悩むことはない』)
 こうした戦争末期、南海の孤島トラック島で花開いた「トラック島句会」について、たとえその花はハイビスカスのように儚くても、俳人兜太と俳句力の視点から、改めて光を当てる必要があるのではないか。
 ようやく、冒頭に挙げた名句へもどる。

  水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
 一九四六年十一月、最後の引揚船「柿」の甲板に立って、去りゆくトラック島を見ながら作った俳句。真っ青な海に長い水脈が伸びる。その先、夏島のトロモン山のふもとには、たくさんの死者の墓碑を残してきた。その死者たちが、いま、兜太たちを見送っているように感じられる。その映像は、「いつまでも消えない」ほど、兜太のこころに焼き付いているそうだ。
 この句には、述べてきた兜太のトラック島でのすべての体験と、その深い想いが凝縮している。そして「置きて去る」の強い語調に、「非業の死者たちに報いる」これからの人生への、並ならぬ決意が込められている。文字どおり兜太の戦後の俳句人生のスタートとなった名句である。

㈤ 兜太の「戦争加害者意識」は「希薄」か
 ―長谷川櫂の問題提起に寄せて―


 『金子兜太戦後俳句日記』第一巻で、長谷川櫂が書いた解説「兜太の戦争体験」は、新鮮な切り口と問題提起で、かなりの議論を呼びそうだ。そうあってほしい、と願っている。その一つ、兜太のトラック島戦場にかかわる次の文章を、読者はどう受けとるだろうか。

 さらに重要な問題は、戦争加害者としての意識が希薄であること。(中略)たしかに兜太のいうとおり海軍士官への志願、南方第一線への志望が「男気」であったにせよ、兜太は自分の意志で海軍に入り、戦場に赴いたのは紛れもない事実である。

 ここには二つの論点がある。①はたして兜太は、「戦争加害者としての意識が希薄」だったのか。②その前に、トラック島戦場での海軍中尉金子兜太に、はたして「戦争加害者」といわれるような事実があったのか。
 加えて重視したいのは、晩年、反戦平和の国民的シンボルとも目された俳人兜太が、他界して間もなく、自分の『俳句日記』出版の「解説」で、あえて、「さらに重大な問題」として「戦争加害者としての意識が希薄」だと、長年、朝日俳壇選者として席を同じくしてきた長谷川櫂から、指摘されていることである。これは誰しも意外に思うに違いない。
 長くなったが、むすびにかえて、この問題を明確にしておくのも、小論の役割だと考える。コンパクトに論じたい。
 まず、その長谷川「解説」は、「戦争加害者」の問題で、兜太批判を意図したものというより、もっとスケールの大きい、兜太に寄せて戦争の陰惨さと、それを防ぐ「地球人としての想像力」を、若い世代に希望を託したいものとなっている。それは俳句界を越えた、今日の時代への真摯な問題提起であって、私も大賛成である。こう書いている。

 いいかえれば、判断能力のない赤ん坊と子ども以外の日本人の多くは戦争加害者でもあったことを忘れてはならない。いったん戦争が起これば誰でも被害者になりうるのはもちろんだが、誰でも加害者になりうること。これを直視するところからしか戦争は阻めないだろう。

 そして私が、小論㈠㈡で、未完に終わった兜太の小説「トラック島戦記」の経過を追う形で、明白にしたかった想像を絶する、したがって言葉では語りづらい戦場の修羅についても、同様にこう述べている。

 『あの夏』は注意深く読めば、ここに語られていることがすべてではないこと……これが兜太にできる精一杯のことだったかも知れない。率直にすべてを語れないほど戦争は陰惨なのだ。

 ここから、事実を挙げて、兜太が戦争加害問題で「意識が希薄」だったという、長谷川「解説」の誤解を解きたい。資料二つを紹介する。
 一つは、戦後、引揚船で帰国途中、「私の青春は、戦争という船に乗せられて、船酔いの連続だった。しかし、いま船酔いはおわった。これからは、ぜったいに、船酔いなぞしないぞ」と、最終的に腹を固めたことである。(「峠について」『定住漂泊』)その「船酔い」とは、次の二つを、『わが戦後俳句史』で確認している。

 (反戦運動の学友たちと)私はほとんど無縁に、ただ俳句だけに頭をつっこんで、感性のばけものとして生きていたのだが、そうした自分の生き方も、また戦争を一面では帝国主義戦争と考えながら、半面では民族防衛戦争としてそれを肯定し、自分に戦争参加の口実をつくって、むしろあいまい積極的に戦争に参加していたという、そういう曖昧な生きざまも、その二つとも私にとっては「船酔い」だった。

 こうした「曖昧な生きざま」で、自ら進んで戦争へ参加したことへの、徹底した分析と反省の上に、戦後の兜太の俳句人生がある。それが兜太の戦後の原点だ。長谷川「解説」は、そこをよく見ていないと思う。
 資料二は、兜太が戦場体験の「語り部」活動のスタートとなった、先の土屋文明記念文学館での講演である。そこで兜太は、トラック島へ赴任するとき、正直「血湧き肉躍る気持ちがあった」ことを、はじめに反省しながら、謝罪の言葉をこう語っている。

 しかし、日本がこの同じアジアの連中と殺し合いをして、しかもこちらが大変な殺戮をしたという事実は、これは絶対に悔いるべきだと思います。謝るべきことだと思います。(「俳句界」二〇〇一年十一月号)

 見るとおり戦後の俳人兜太は、戦争加害問題で「意識が希薄」どころか、きわめて積極的で、それが多彩な反戦平和活動のバックボーンとなっていたことは間違いない。
 ところが、この長谷川「解説」は、戦争加害問題を当時の日本人の大方がそうだったという一般論だけでなく、海軍士官の兜太個人にも、なにか「語っていないことがあるのではないか」、といった文脈で書かれている。はっきり一般論に限定していない。
 しかし、戦時中の個人の戦争加害責任を問うものであれば、それは人権問題からも、より事実に即し厳密でなければならない。トラック島戦場で、戦争加害をいうなら、具体的には先住民カナカ族との関係が問われるものだ。
 トラック島のあるミクロネシアは、歴史的にスペイン領、ドイツ領、そして第一次大戦後は、日本が国際連盟による委任統治領としたもので、直接、侵略占領した中国、フィリピンなどとは事情が違うが、日本軍が絶対の支配者であったことは間違いない。そこで起こった戦時性暴力や食糧略奪などの加害責任は、兜太をふくむ日本軍全体が負わなければならない。その点は、だれも異論のないところだ。
 だが兜太を個人的に「戦争加害者」とするデータは、いくら調べても皆無である。かえってカナカ族との良好な関係を築こうとした、諸事実が出てくる。先に紹介したカナカ族の少年や赤児を詠んだ俳句なども、そうした兜太の心情を表現している。そして、次の発言にも注目したい。

 (兜太が責任をもつ)主計課の仕事の一つが部隊全体の風紀の取締りです。このことが結果的に自分の身を助けました。(中略)極限状況に置かれた戦地では、女性と食べ物はもっとも切実な問題でした。兵隊や工員はそれが手に入らずぐっと我慢しているのです。それならおれも我慢しないといけない、その気持ちから私は自分の精神でコントロールしました。おかげでなんとか信用を得、中には、戦後引き揚げる際、金子さんが残るなら私も残りたいと言ってくれた人までいました。(『二度生きる』)

 あとは、人間とそのことばの信頼問題だと思う。  (了)

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