『海原』No.60(2024/7/1発行)誌面より
シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第7回(その3)
霧過ぎて鈴懸の実の逞しき(三)
~埋もれた異才の俳人・出澤珊太郎~ 齊藤しじみ
(一)俳人たちの終戦
終戦(八月一五日)は当時の日本国民のほとんどが人生の大きな節目として記憶に刻んだが、多くの俳人はその思いを十七文字に残している。
「成層圏」東京句会の指導者だった草田男は、勤務先の成蹊学園の中学生たちの学徒勤労隊の引率教師として福島県の寺に泊まり込んでいた。
戦争終りただ雷鳴の日なりけり 草田男
戦前、珊太郎からの批評に立腹したという波郷は出征先の中国で結核を発病して帰国し、静養先の埼玉県の農家で玉音放送を聴いた。
勿忘草わかものの墓標ばかりなり 波郷
トラック島にいた兜太は敵国オーストラリアのラジオ放送で事前に敗戦を知っていたというが、終戦の日の翌日に詠んだ句である。
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ 兜太
「人生二五年」と覚悟していたと言われる当時の若者たち。珊太郎が広島県宇品の陸軍船舶輸送指令部で終戦を迎えたのは二七歳の時だった。激戦地の沖縄との間を往復する輸送船に乗っていたという珊太郎は九死に一生を得る体験をしたと思われる。
また、珊太郎にはもうひとつ過酷な体験をしたと推察される史実がある。船舶輸送司令部は八月六日の原爆投下で爆心から約四キロ離れていたことから、軍都・広島市の中心部が壊滅した中で、唯一市内で被害を免れた軍隊だった。このため、投下から一時間後に「暁部隊」と呼ばれた船舶輸送司令部の兵士たちは総動員で救護や遺体収容の活動にあたった。その影響で兵士の中には原爆症に苦しむケースが出たが、珊太郎がいずれの戦争体験を語った形跡や書いた記録はない。
話はやや脱線するが、原爆投下時の暁部隊には戦後を代表する政治学者の丸山眞男(大正三年~平成八年)がいた。当時三一歳の丸山はすでに東京帝国大学法学部助教授だったが、軍では複雑な事情から一等兵の階級(三歳年下の珊太郎は終戦時に中尉)で、朝の屋外点呼の時間中だったという。軍の海上輸送が全面的にストップしていた時期なので、珊太郎も現場にいた可能性は高い。
また、旧制水戸高校で珊太郎とともに青春を謳歌した文科甲類(英語履修)1組の同級生について、水戸市立中央図書館所蔵の同窓会名簿で確認すると三一人中一〇人が戦死(戦病死含む)していた。
永久に学徒よひもじさすがし花へちま(「出澤珊太郎句集」)
翌九月に召集を解かれた珊太郎の復員先は東京ではなく、終戦の年の一月に見合い結婚していた妻の貴美子(以下・敬称略)が住む福井市だった。貴美子は七歳年下で、結婚時は二〇歳だった。長男の研太さんの話によれば、幼少期に六本木の自宅で珊太郎の世話をした乳母の紹介だったという。結婚した年の暮れには長女の道子さんが生まれている。
肩にとんぼ妻のふるさと稲田風(「出澤珊太郎句集」)
(二)珊太郎の再出発
珊太郎の戦後の足跡ははっきりしない点も多いが、「星新一一〇〇一話をつくった人」(新潮社)で著者の最相葉月(以下・敬称略)は星新一が遺した資料をはじめ、生前の貴美子や兜太の話などをもとに次のような経緯を明らかにしている。
珊太郎は福井市に長居することはなかったようで、具体的な時期は不明だが、現在の茨城県牛久市にあった「星食糧品株式会社」の経営を星一から任せられた。その後、昭和二三年九月には「星製薬」の取締役に迎えられ、相応の自社株も与えられたという。最相は「星一には将来、社長の座を星新一に継がせ、珊太郎には実務をサポートさせる構想があったのかもしれない」と書いている。
一方、俳句界では戦時中の抑圧から一気に解放され、各地で新たな俳誌や結社が相次いで生まれた。草田男主宰の「萬緑」もその一つだった。次々に復員してきた「成層圏」の旧メンバーが中心になって昭和二一年の春頃から句会を開くようになり、一〇月には珊太郎も参加して「萬緑」を創刊した(写真1)。
創刊号に掲載された珊太郎の句は一二句あり、草田男は特に次の二句については自分の判断で季語の「冴え」と「梅雨」をそれぞれ挿入して無季から有季の作品に変えたうえで、本人の性格に触れた講評をしている。
友逝けり電車冴えひゞき土間ある家
白墨一條梅雨塀に低し母現れよ
此二句には、此作者の特性の「人なつっこさ」と「自我の淋しさ」のやうなものがシツトリと沁み込んでゐて、俳句による一種自由詩的な境地を拓き得てゐる。
この講評は珊太郎の俳句仲間たちの記憶に残っていたようで、水戸高時代の同窓で「萬緑」にいた作間正雄氏は後に次のような解釈をしている。
生母に関しては生まれてからついに一度も会ったこともないという事を渋谷のガード下の飲み屋で聞き、私自身も其の境遇にある様な切なさを覚えたことがある。先生(草田男)が述べた「人なつっこさ」「自我の淋しさ」というのもこの様な事情に由来するものと思う。成年に達する迄養父母を実の親と信じて更に数奇な運命を過して来た彼は水高時代に知った事実は相当のショックだったと思われる(注①)。
一方、米軍の捕虜だった兜太が帰国したのは昭和二一年一一月で、創刊には間に合わなかったが、たとえ間に合っても兜太は「萬緑」には参加しなかったであろう。兜太が戦後に師と選んだのは草田男ではなく「寒雷」の楸邨だった。俳句をめぐる珊太郎との志向の違いはすでに兜太の大学入学以降は次第に広がっていたようだ。珊太郎の回想がある。
成層圏作者としては、私あたりが境目で私より古い連中は草田男一辺倒で、私が卒業後金子、安東、原子、沢木等々(補足①)は次第に加藤楸邨の人間的な魅力に魅かれていったようであり、戦後にもそれが引き続いている(注②)。兜太も楸邨と草田男を比較している。
子規以降、楸邨と草田男の右に出る人はいない。楸邨の「真実感合」は本物で、身心を打ち込んで創る。人間の生の声を吐き出す。草田男は、俳句という文芸形式を、とくに季語を多とし、西欧文学の教養を活かして創る。その俳句は多彩柔軟、実験を許さない。私の好きなのは草田男俳句だが、学ぶべき師は楸邨(注③)。
また、やや脱線するが、昭和二二年終わりか昭和二三年春に珊太郎は兜太など「成層圏」の旧メンバー四人と一緒に俳句同人誌「青銅」を発行したが、まもなく全員が意欲を失い、廃刊になったことがある。兜太はその頃の珊太郎についてシニカルに振り返っている。
会社(注釈・星製薬)のある五反田に、別のところ(注釈・茨城県牛久市)で自分の仕事を始めていたにも関わらず、出沢は親しみをもっていました。その界隈の小料理屋に私たちを呼び出し、一人で喋りたて一人でまとめてゆきます。(中略)。はじめから酒の肴のように生まれてきた俳句雑誌で、主張らしい主張もなかったのですから、継続する理由がなかったのです(注④)。
(三)珊太郎の挫折と再起
「萬緑」での珊太郎は、創刊号のあと長い空白の時代に入る。国立国会図書館で「萬緑」のバックナンバーを調べた限りでは、再び珊太郎の句が掲載されたのは七年後の昭和二八年になる。この間に珊太郎の人生を大きく左右するできごとがあった。珊太郎が星一から任された「星食糧品株式会社」の経営が行き詰まったのだ。その責任をとる形で昭和二四年一二月には「星製薬」の取締役のポストも一年足らずで退任に追い込まれた。珊太郎の代わりに取締役に就いたのは当時まだ東京大学の大学院生だった異母弟の星新一だった。
その頃、東京・日本橋の日銀本店にいた兜太は最寄りの国鉄神田駅周辺でしばしば金策に悩む珊太郎と飲み、その窮状を聞いていた。兜太の話では「水戸高校の先輩から新しい技
術を開発したと騙されて投資資金を持ち逃げされ、従業員の給料も払えなくなった」という。
事業には避け得ぬ泪雁渡し(「出澤珊太郎句集」)
追い打ちをかけるように昭和二六年一月には星一が渡航先のアメリカで脳出血のために七七歳で亡くなった。珊太郎にとっては経済的な後ろ盾の喪失だけでなく、実の母親の存在を知る手がかりが永久に絶たれてしまった。復員しても結局、星一から母親の存在を教えてもらえることはなかった。
珊太郎はその後、生活の新たな糧を求めて昭和二五年に発足したばかりの警察予備隊に入隊したという話があるが、はっきりわからない。明確なのは昭和二七年一一月から現在の川崎市幸区で電機部品会社「星製作所」を経営するようになったことだ。「出澤」ではなく「星」を会社の冠につけたことに珊太郎の血脈のこだわりを感じてしまう。
研太さんの話では、会社は日立(日立製作所川崎工場と思われる)の下請け工場でマイクロスイッチという電機部品を製造して近くの日立の工場に納品し、一時は従業員が二〇〇人もいて、自宅も道路を隔てたところにあったという。会社設立の経緯はこれまで不明だったが、研太さんから関係者に話を聞いていただいたところ、日立製作所の幹部と珊太郎が大学の同窓だったことがわかり、その縁ではないかということだった(写真2)。
私は五月末に星製作所の跡地を一目見ておこうと思い立ち、最寄り駅のJR南武線鹿島田駅を降りた。跡地は駅から二〇〇メートル程離れた線路沿いの場所というが、周辺は中層マンションや戸建ての住宅が立ち並び、それらしい雰囲気は何一つ残っていなかった。時折、電車の通り過ぎる音が踏切の警報音と入り混じって耳を刺すように響いてきた。
また、日立の工場跡と思われる場所には昭和の痕跡をかき消すようにタワーマンションが聳え立っていた。
会社設立当時、珊太郎は長女に続いて昭和二五年には研太さんが誕生し、二人の子供の父親になっていた。三〇代半ばの珊太郎は脂の乗った働き盛りの年代であった。
再び中小企業の社長になったことで、束の間のゆとりが生じたのだろうか。「萬緑」昭和二八年六月号には七年間の沈黙を破るように特別作品として珊太郎の一五句が掲載されている。その中には家族を題材にした句が三句含まれていた。
母となり夫をいとひて寒すゝぎ
むらさきの雨ふる夜ゆゑ父の霊
うろこ雲赤子とともに病んでおり
翌二九年一月号には「萬緑」の主なメンバー約五〇人の人物寸評が紹介され、その中には珊太郎も含まれ、一目置かれた存在であったことを引き続きうかがわせる。
論じて人の肺腑を抉ぐる。たまに外れることあり、酔ひてはなお愛すべきさむらい。
(四)俳句への断ち切れぬ思い
「萬緑」での珊太郎の俳句は昭和二九年以降再び消え、確認した限りでは次に登場するのは約二〇年後の昭和五〇年へと一気に飛んでしまう。この新たな空白を生んだ背景には、珊太郎を取り巻く複雑な事情が交錯していた。
その一つは「星製作所」が昭和三三年には工場を新設するなど、経営も軌道に乗っていたと見られるものの、多くの従業員を抱える珊太郎は立場上、俳句の創作にかかわる時間的な余裕を日常的に確保できなかったことと推察される。
当時小学生だった研太さんは「幼心にも仕事での心労が絶えなかったと思った。父はもともと文科系の人間なので技術的な知識を要する仕事は向いていないという意識があったのではないか」と話している。
そして、珊太郎の心境に大きな変化をもたらしたと思われる出来事が昭和三五年に重なって起きた。
水戸高校時代の友人が編集した珊太郎の遺句集の年譜には「昭和三五年に病気で入院中に俳壇復帰を決意」との記載がある。一六年前に亡くなった妻の貴美子が健在であれば詳しく事情を知りえる立場であったが、当時小学四年生だった研太さんの話では「晩年は心臓病の薬を持っていたが、父が入院した記憶は全くない」という。これは私の推測だが、入院は短期間で、後に死因になる持病(心臓病)が見つかり、将来への不安とあせりをもたらした可能性はないだろうか。
もう一つ見逃せないのが兜太との関係である。珊太郎と兜太は学生時代のような蜜月ではなかったにせよ、戦後も旧交は維持し続けていた。
『金子兜太戦後俳句日記 第一巻』(白水社)は昭和三二年から始まり、日記に珊太郎の名が初めて出るのは昭和三五年。その年の五月に兜太は長崎支店から本店に異動し、約一〇年ぶりの東京勤務になっていた時期だ。
【以下は日記より抜粋】
七月一九日 香西氏、受賞記念会。(略)出沢三太に久々に会う(補②)。
七月二八日 小生の歓迎会をやってくれる。
杉森先生、角川源義、出沢三太、安東次男等来る(補③)。
想像できるのは久しぶりの兜太との再会があって以降、当時すでに俳壇で前衛俳句の旗手として有名だった兜太の活躍ぶりを直接知り得たことで、珊太郎の心にかつての俳句への情熱が再び湧き上がった可能性は否定できないことだ。
(五)「海程」への参加
珊太郎は人生にとって大きな二つの決断をする。
決断の一つは「星製作所」の経営を手放すとともに昭和三七年に渋谷駅近くの明治通り沿いの雑居ビル二階に事務所を借りて、出版業の「星書房」(補④)と不動産業の「星株式会社」を設立したのだ。俳句の世界で活動するための時間を確保することが目的だったと思われる。時に珊太郎は四四歳で、妻と一六歳の長女を筆頭に、下は一歳までの一男三女の子供を抱えた身でもあっただけに勇気のいることであっただろう。
もう一つの決断は、同じ年の四月創刊の「海程」への参加である。当時は現代俳句協会からの俳人協会の分裂、そして俳人協会の初代会長になった草田男と兜太の間の俳句論争の渦中であった。珊太郎にとっては苦渋の選択だっただろう。結果として師である草田男との関係よりも兜太との友情を優先したことになるからだ(写真3)。
「海程」の創刊同人三〇人の中で珊太郎は「発行者」に位置付けられ、兜太が極めて高いポストで遇していたことがうかがえる。
また、創刊号には「同人スケッチ」と称して、兜太による人物寸評が掲載された。
学生の頃より文芸一般をよくし、英語の秀才。酒を飲み、授業をサボり衣服頭髪不潔を極む。事業失敗を重ね現在ようやく安定。漂々たるなかに人生の苦楽を知悉す。
さらに巻末の「編集メモ」で兜太は次の三点を珊太郎に依頼したことを明記している。
(1)俳句の自分史を書いてもらうこと
(2)中高生など若い層を対象の投句欄「鈴懸集」の選者になってもらうこと
(3)「海程賞」と「新人賞」の選考メンバーになってもらうこと
おそらく兜太としては「海程」を二人三脚で発展させていく良きパートナーとして珊太郎を見込んで、水戸高校時代の関係の復活を思い描いていたことが想像される。
しかし、その後の珊太郎の言動は結果的に兜太の期待に背くことになる。珊太郎は自身の俳句の歩みを「わが俳句的遍歴」として四回にわたって連載したものの、早くも六号(昭和三八年二月発行)で中断している。
また、珊太郎コーナーと言える「鈴懸集」は一五号(昭和三九年八月発行)を最後に「都合により」という理由で終止符を打っている。
さらに、珊太郎の俳句も昭和四一年以降はほとんど見られなくなった。
極めつけは、三三号(昭和四二年七月発行)から「発行人」に珊太郎の名前が無くなり、代わって兜太に入れ替わっていた。
一連の動きからは珊太郎が創刊からまもなくして「海程」に距離をとり始めたことが伝わってくる。
(六)「海程」での違和感
当時の珊太郎の存在はどのように「海程」内で受け止められていたのであろうか。
「海程」創刊の年の昭和三七年秋から同人として加わり、当時をよく知る「海原」の安西篤代表から話を伺った。
二人は先輩後輩という関係よりも和気合いあいの同級生的な間柄の印象を受けた。
それでも兜太は珊太郎を常に配慮し、句会や飲み会でも近くに席を設けて「ナンバー2」の立場に据え、特に句会では珊太郎に意識的に意見を求めていた。ただ、珊太郎が作る抒情的な俳句は「海程」の句風には馴染まず、句会では点数がなかなか入らなかったので、本人も気まずさを感じていたのではないだろうか。それに伴い、「海程」内での立ち位置や存在感が次第に薄れていったような印象を受ける。
ただ、「海程」のメンバーが珊太郎を疎外するようなことは一切なかった。私は飲み会などで珊太郎によく話しかけたが、笑顔がとても無邪気で人懐っこい雰囲気を漂わせたことが今でも忘れられない(写真4)。
「海程」三一号(昭和四二年四月発行)で、珊太郎は「海程」の作風を批判するとともに兜太が褒めた同人の作品を一七文字から余りにも逸脱しているなどと酷評する小論を載せた。
その中で、珊太郎は「俳句はあくまでも十七音律を基調として、自然(人間を含む)に即して写実的に詠嘆する短詩型であるべき」という考え方を示した上で、「海程」に対する自らの姿勢を吐露した。
発行人として同人の一員であり乍ら、この五年の歳月、作風の違いからくる異質感の為に発表意欲が著しく減退した時期もあったが、今後は割切って我が道をゆくことが「海程」の出発の精神であると再認識して張切っている。
「張切っている」と書かれたものの、その後も長きにわたって「海程」に珊太郎の俳句が登場することはなかった。
さらに、同時期に発行された「俳句研究」(昭和四二年六月号)で『金子兜太』の特集が取り上げられた際に、珊太郎は学生時代の思い出を振り返ったあと、最後に「昭和三〇年以降、前衛俳句と無季容認を主張して活躍している兜太は物足りない」と指摘し、「早く卒業してオーソドックスな俳句の王道を歩いて欲しいと期待している」と兜太への率直な思いを綴っている。
兜太との友情、草田男との師弟関係が揺らぐ中で、五〇代に差し掛かろうとした珊太郎の胸中にはこの頃から次第に自分が歩むべき一筋の道のりが初めて見えてきたのだろう。
(次号に続く)
【参考文献】
「俳壇」平成七年八月号(本阿弥書店)
『暁の宇品』(講談社 著・堀川惠子)
『ひろしま歴史の焦点㊦』(中国新聞社)
【出典】
注①「萬緑」昭和五五年一一月号
注②「俳句研究」昭和四二年六月号 俳句研究社
注③『語る兜太』岩波書店
注④『わが戦後俳句史』岩波新書
【補足説明】
補① 安東次男は元東京外大教授、原子公平は元出版社社員で「海程」元同人、沢木欣一は元東京芸大教授で「風」元主宰、いずれも大正八年生まれの「寒雷」同期生。「成層圏」には関係ないが、文化功労者の森澄雄も同年生まれの同期生。
補② 香西照雄は「成層圏」元メンバー、当時は「萬緑」所属。賞とは俳人協会の分裂前の現代俳句協会賞。
補③ 杉森先生とは直木賞作家の杉森久英(明治四五年~平成九年)のこと。旧制熊谷中学時代の兜太の恩師。
補④ 昭和二六年に亡くなった竹下しづの女の句集『定本 竹下しづの女句文集』を昭和三九年に香西照雄などの協力で発行した。