蛾のまなこ赤光なれば海を戀う~金子兜太と海軍短期現役士官~齊藤しじみ

『海原』No.34(2021/12/1発行)誌面より

シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第4回

蛾のまなこ赤光なれば海を戀う
~金子兜太と海軍短期現役士官~ 齊藤しじみ

 三島由紀夫が割腹自殺してから五年後の昭和五十年、一人の文芸評論家が都内の自宅で日本刀で頸動脈を切って自殺をした。名前は村上一郎(享年五十四)。戦後、丸山真男など一流の知識人から一目置かれた文筆家で、特に戦前の右翼の理論的支柱だった北一輝を取り上げた著作『北一輝論』で三島に高く評価されていた。
 意外と思うが、自宅で営まれた村上の葬儀に金子兜太先生(以下・兜太)は足を運んでいる。

 部屋の奥のほうを見たら、竹内好(注①)、吉本隆明(注②)、桶谷秀昭(注③)、谷川雁(注④)、この人たちがいました。そこに私が入っていったら、竹内好さんが壁を指すんです、私の色紙がそこにぶら下がっていた。
   夕狩の野の水たまりこそ黒瞳
 村上はそれを自分の部屋にぶら下げていたんだ。私にとっては涙の出るような感動でしたね。(『語る兜太』岩波書店)

 葬儀のことは兜太の日記にも記されている。

 (昭和五十年)四月一日(火)晴
 村上一郎告別式。焼場にゆく車が出るところにぶつかる……(略)……。それに集まる文士評論家というものは、なんとなく親しめない。十日会の連中のほうがずっと気軽である。村上が阪谷(注⑤)や自分に親しんでいた気持ちがわかるような気がする。(『金子兜太戦後俳句日記』白水社)

 「十日会」とは、昭和十八年九月末に海軍経理学校品川分校に入学し、翌年三月初めに卒業した補修学生十期生の同期会の名称である。兜太は東京帝国大学、村上は東京商科大学(現在の一橋大学)をそれぞれ繰り上げ卒業した直後に入学し、七百八人の同期生がいた。
 補修学生は「海軍短期現役士官制度(以下「短現」)と呼ばれる海軍独特の主計将校の養成制度に基づくものである。
 兜太が村上の死に接して特別の感情を抱いた「短現」について、私は限られた資料を調べていくうちに兜太の思想と俳句につながる水脈を紐解いていくような思いを持った。
 「短現」は、海軍の艦艇や部隊の増強に伴って、ことに人材不足が深刻化した将校クラスの少尉・中尉・大尉の主計士官を短期間に育成する目的で昭和十三年に生まれた。終戦の昭和二十年までの間、毎年大学卒・高専卒の若者を対象に募集が行われた。一期から十二期まで入学した者には新卒ではなく官公庁や大企業に勤務する者も多かった。卒業した後は「主計中尉」や「主計少尉」として国内外の海軍施設に派遣され、主に食料や衣服の調達と供給、会計などの仕事に就いた。卒業生は終戦まで約三千五百人(うち戦死者は四百八人)に上った。
 「短現」の選考試験は競争率が常に二、三十倍と言われたが、私が特に関心を持ったのは、なぜ当時の高学歴の若者に人気があったのかという点である。

 “戦時中、大学生の多くが競って海軍を志願したのは一種の国内亡命だったという説がある”

 この一文は、「短現」とは別のコースである「予備学生」という制度で昭和十七年に東京帝国大学を卒業して海軍少尉になった作家の阿川弘之のエッセイ『わたしの海軍時代』(文春文庫)の冒頭の書き出しである。
 阿川は同書の中で本音とも思える感情を次のように吐露している。

 陸軍の泥くささ、知性の欠如、粗暴と大言壮語、政治的な横車には(略)みんな大概あいそをつかしていた。(略)海軍はすこしちがうらしい。われわれに分相応の待遇を与えてくれて、そう無茶な扱いはしないらしい。

 また、「短現」の歴史や出身者の活躍を描いた『短現の研究』(市岡揚一郎・新潮社)にも同様の記述がある。

 当時の大学生にとり短現は二つの意味を持っていた。ひとつは海軍兵学校卒(略)のいわゆる本チャンでなくとも海軍士官になる道が開かれていたこと、もうひとつは短現にならない場合、一銭五厘の赤紙(召集令状)と共に一兵卒として陸軍に徴兵される運命にあったことだ。

 現に兜太は短現の志望理由を「私なりの計算が働いた」と率直に明かしている。
 
 「どうせほっといても戦争にとられるだろう。でも一兵卒は嫌だ。それならせめて士官として赴任しよう」という思惑。東大在籍時、海軍士官募集の告知を見て、一も二もなく志願を決めました。(『あの夏、兵士だった私』金子兜太・清流出版)

 十期生が入学したのは昭和十八年九月。その翌月十月からは文科系の大学生の学徒動員が始まり、激動の時代背景が重なる。
 「短現」の存在は高度経済成長期の昭和四十年代に一躍、メディアで脚光を浴びるようになった。それは「短現」の出身者が戦後、政界、官界、金融界、産業界の各界で活躍していたためで、そのことは十期出身の一部の顔ぶれを見るだけでも伺える。
 『海軍主計科士官物語 二年現役補修学生総覧』(発行・浴恩出版会)には、一期から十二期までの卒業生全員の名簿が掲載されている。名簿から昭和四十三年に発行された当時の肩書を知ることができる。兜太と同期の「十期生」のごく一部を紹介する。その後の( )内の代表的な肩書は、私が別途調べたものである。

  渥美健夫(元鹿島建設名誉会長)
  江尻晃一郎(元三井物産会長)
  川島広守(元官房副長官)
  岸昌(元大阪府知事)
  小島直記(作家)
  佐野謙次郎(元いすず自動車会長)
  住栄作(元法務大臣)
  土田国保(元警視総監)
  橋口収(元公正取引委員会委員長)
  森下泰(元森下仁丹社長)
  宮沢弘(元広島県知事)
  山下元利(元防衛庁長官)
  山本鎮彦(元警察庁長官)

 また、兜太と同じ日本銀行に籍を置いていた者を数えると十七人に上った。
 十期生の同期会が昭和五十八年に発行した私家版の箱入りの文集「滄溟」は千六百頁を超える百科事典並みの厚さがある。およそ二百人の出身者が経理学校での思い出をはじめ、配属先である内外の海軍の部署や艦船部隊での経験などを寄稿している。そこには当時を振り返って戦争に対する懐疑的な思いを吐露した者が少なくないことに気づかされる。
 卒業後に海軍の機関で軍発注先の企業の監査業務をしていたというブリヂストンタイヤの元会長の石橋幹一郎(一九二〇~九七)は「物動は軍部、役所の軋轢でうまく機能していない。ただあるものは末端や民間の大和魂だけ。それも、場合によっては投げやり的であった」と述懐している。
 また、経理学校時代に同期生同士で議論を交わした場面を回想した手記には、国連大使などを務めた外交官の西堀正弘(一九一八~二〇〇六)が登場する。手記の筆者は西堀の発言の紹介とともに自分の思いも次のように書き綴っている。

 「彼(西堀)はアメリカの持つ資源、産業力から言えば勿論、いまの米国民の戦意の昂揚からみて、『日本は絶対に勝ち目がない』というのである。私の考えは西堀に近かったが、父が貿易の仕事をしていたので、開戦の時、「馬鹿な事を始めたものだ。この戦争は三年とはもつまい」といって、対応を考えているのを知っていたからである。
 兜太も「経理学校では学生出身者が多かったせいもあって日本が勝つと思っている人はほとんどいなかった」と語っている。(再掲『あの夏、兵士だった私』)

 作家の保坂正康は『近現代史からの警告』(講談社現代新書)の中で「短現」出身者の多くが戦争時の不満や戦時下で身につけた知識を活かすかたちで戦後の高度経済成長の中心的な担い手になったと指摘している。そのうえで、各界で活躍中の「短現」出身者の取材を通してその共通する考え方について分析しているが、整理すると次のような点に集約できる。
○出身者の多くは大学教育で法律・経済・商法を学んでいたため、観念的な思考法とは一線を画していたこと。
○短現の教育は、大和魂が事態を乗り切るというような空論は排除する傾向があり、ある程度自由な空気を呼吸していた。
○戦争で逝った仲間たちに強い哀惜の念を持ち、あの程度のモノとカネで戦争に踏み切ったことへの怒りがあった。

 「短現」卒業の一カ月前には任地の希望聴取があり、南方勤務の希望者が多かったという。兜太も御多聞に漏れず、その一人で、自ら「南方の第一線希望」と口に出してしまったという。
 そして卒業時のアルバムに兜太は俳句を寄せている。兜太と同じ班に所属した同期生の一人は「滄溟」(再掲)の中で、「今や俳人として著名な金子兜太君の句が光っている」として次の句を紹介していた。

  蛾のまなこ赤光なれば海を戀う 金子兜太

 この句について、兜太は後に次のような解説をしている。

 私は山国秩父の育ちなので、あこがれは海だった。空の狭い山国を離れて、何もかも広々とした海へ。そこに青春の夢があった、と言ってよい。蛾の眼の赤光がその夢を誘っていたのだ。(『金子兜太自選自解句』角川学芸出版)

 海への憧れが結果として戦後、日銀のエリートの中では異彩を放つ兜太ならではの生き方、反戦平和思想、そして誰にもまねができない俳句の作風を培うことになった。
 俳人の夏石番矢(一九五五~)は、兜太を「身体のゲリラ」と名付け、狭く貧血気味だった俳句のジャンルをより開かれた活気あるものにしたと評価し、その原点が南の海であるとした。

 金子兜太がもしも、トラック島でなく、旧満州などの寒い地域に派兵されていたなら、その戦後の句作はかなり違ったものになっていただろう。あるいは句作を断念したかもしれない。トラック島で、裸に近い服装で生活している人々と接触があったことが、戦後の金子兜太の句作を、よりいっそう陽気でエネルギッシュなものにしたと、私は推測している。(『金子兜太の〈現在〉』春陽堂書店)

 海軍経理学校品川分校はJR品川駅南口から歩いて十分ほどの現在の東京海洋大学のキャンパス内にかつてあった。
 私は高校時代、当時は東京水産大学だったキャンパスのグラウンドに定期的に通って、サッカーの練習をした思い出がある。原稿を書き終えた後に半世紀近くぶりに足を運んだ。キャンパスの周りは高層ビルやオフィスビルが立ち並び、殺風景だった当時とは見違えるほど整備され、大手町の一角を歩いているような印象を持った。しかし、人けのない広大なグラウンドだけは雑草も目立ち、やや荒れた様子は高校生だった当時とほとんど変わりがなかった。ひょっとすると終戦当時と変わっていないのではないかとも思えてきた。
 兜太は「東京湾に突き出した埋立地に建てられた粗末な校舎」と表現した。一本の草も木もなく、冬場は品川沖から吹き付ける風が冷たかったという。「滄溟」(再掲)には二階建ての校舎を背景に卒業時の十期生の集合写真も掲載されている。ほとんどはすでに鬼籍に入っていることだろう。最前列から四列目に兜太と思われる学生の姿が目に飛び込んでくる。丸眼鏡の奥の兜太のまなこは死に場所になるかもしれない海の彼方にどのような思いを馳せていたのだろうか。
 私はキャンパスのそばの運河の水面を見つめながら、この地が兜太の出発点になったと感じないではいられなかった。

(注釈)
注①竹内好(一九一〇~七七)中国文学者。魯迅研究で知られる。
注②吉本隆明(一九二四~二〇一二)詩人、評論家。
注③桶谷秀昭(一九三二~)文芸評論家。
注④谷川雁(一九二三~九五)詩人、評論家。
注⑤阪谷芳直(一九二〇~二〇〇一)日銀出身のエコノミスト。

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