『海原』No.60(2024/7/1発行)誌面より
特別寄稿
続・ナガサキの浦上天主堂を詠む
―「風」掲載の兜太の長崎滞在の句を中心に― 石橋いろり
本年1・2月合併号の「海原」(55号)に拙文を掲載していただいたのだが、そこに収められなかった「風」に掲載された金子兜太の長崎滞在時に詠まれた句を中心にまとめてみた。廃版になってしまっている「風」の兜太の句をそのままに入手することは難しく、埋もれてほしくないという願いをこめて、誌面を使わせていただく次第である。
また、55号に補足したい事柄、誤りを正したい事柄もあり、〈続〉という形に仕上げさせていただいた。
(一)長崎滞在中に「風」に掲載された兜太の句
長崎1「風」127号 昭和33年4月
”にほん恋しや”絵葉書売りに海泣く今
湾曲し火傷し爆心地のマラソン
子が灰皿に火を燃す雪の銀行員
友を窺う蜘蛛夕空の癌と化し
山上の墓原越える天を誹り
長崎2「風」128号 昭和33年5月
汐強き半島飢える吃りつゝ
広場一面火を焚き牙むく空を殺す
塀白くうつ向き耐える夜の母
長崎3「風」129号 昭和33年6月
青濁の沼ありしかキリシタン刑場
石垣に角穴兵の性もつ群
軋み発つ被爆地の駅君等も軋み
青天へ歪み刻まれ西指す婆
若し妻光る河流の日暮れ偲び
長崎4「風」130号 昭和33年7月
崖上の麦畑の辺の狡い老婆
物議なり青田に集る若い農夫
ホームより覗かれ火を擦り了る記憶
白い漁港に生きいきと垂る僕等の四肢
長崎5「風」131号 昭和33年8月
妻子黄となる被爆の爪痕残る山に
過労の理髪師剃刀で斬る森の緑
海辺に死者焼きわれ等酔い渇く
長崎6「風」132号 昭和33年9月
シャンソン流れる森にみなぎる干魃予感
日照りの坂道際立つ青い古都を捨てる
摩羅踊らせ君等は駆ける朝の干潟
長崎7「風」133号 昭和33年10月
灯でふくらむ遠い爆心部の透明ビル
思惟より抜けて街空蛇行の深夜花火
長崎8「風」135号 昭和33年12月
華麗な墓原女陰あらわに村眠り
塔上に怒鳴る男の眩しい意思
供神の蛇踊りかこむ海の眼玉
海を背に老いて激しく打つ太鼓
長崎9「風」135号 昭和34年1月
暗い製粉言葉のように鼠湧かせ
晴天の日の騒鬱な赤い馬
枯色海藻木のドアに母緻密になる
海底なびく青い藻母子に乾く季節
四壁の薄陽遠い地上の完型ザボン
長崎10「風」137号 昭和34年2月
人刺さぬ短刀落ちていて霧の僕等
機械がいて過熱する森膨らむ俺
潮流の頭がみえ火まみれの華僑の盆
冬森を管楽器ゆく蕩児のごと
長崎11「風」143号 昭和34年9月
被疑者らのそれぞれの光点となるグラス
陽のテラスに痩せた者等が殺した鴉
風で埋まる塩ふく谷の白い時計
長崎12(13と表記)「風」144号 昭和34年10月
夢に友等死者のコップをからから括る
わが季節風緑の谷に牧師酔わせ
灰皿にさゝれた煙草等異端の旅
長崎13「風」145号 昭和34年12月
坂があつまる白いホテルに乾くあか児
赤・黄の風船かーんと澄んだ炭失家族
海峡に汐漬けの顔苦しい奴
島となる遠景の中産の友等
【長崎原爆忌】
昭和34年8月9日、俳協だけの原爆忌句会にて
司教にある蒼白の丘疾風の鳥
殉教の島薄明に錆びゆく斧
手術後の医師白鳥となる夜の丘
被爆者等のそれぞれの光点となるグラス
夢に友等死者のコップをからから括る
(二)「俳句」に掲載された兜太の長崎十五句
初出は昭和33年4月「風」の同人句に長崎1と題し、34年12月「風」長崎13まで長崎の句は作られた。その後、「風」に発表された句の中から、昭和34年角川「俳句」新年号に長崎十五句が掲載された。長崎の句は昭和36年風発行所の『金子兜太句集』の中に収められた。平成8年8月、邑書林より文庫本として出版。平成14年4月に筑摩書房の『金子兜太集第一巻』の中の金子兜太集四部の長崎(―35年5月)に収集されている。
初出と比較すると、順番を入れ替え、当用漢字に入れ替えたり、一字あけを避けたりなど少し手を入れていることがわかった。
〈角川「俳句」昭和34年新年号〉
長崎十五句
枯色海藻木のドアに母緻密になる
海底なびく青い藻母子に乾く季節
晴天の日の騒鬱な赤い馬
暗い製粉言葉のように鼠湧かせ
四壁の薄陽遠い地上の完型ザボン
塔上に怒鳴る男の眩しい意思
機械がいて過熱する森 膨らむ俺
人刺さぬ短刀落ちていて霧の僕等
靄の老人軍艦・クレーンを白くさせ
海を背に老いてかすれて打つ太鼓
供神の蛇踊りかこむ海の眼玉
どの空も箱形 密集の邪教の坂
岬に集る無言の提灯踏繪の町
潮流の頭がみえ火まみれの華僑の盆
冬森を管楽器ゆく蕩兒のごと
(三)兜太が長崎から東京に移転した頃のこと
なぜ、兜太が東京へ移転することになったのか。『金子兜太戦後俳句日記1』の昭和35年1月4日によると、
小生の考え。(1)何としても東京へゆきたい。支店生活十年間、蓄積したものを、東京へ打っつけてみたい。
とあった。わざわざ、ぶっつけてみたいとルビを振っているあたり、強い意思を感じる。
この俳句日記には、
昭和35年5月16日(月)晴れ
為替管理局統計課統計係長の辞令を受ける。
と一行だけ書かれていた。大概二・三行のコメントがあるのだが、万感の思いがあったのだろう。短い分、インパクトが。その後、日記によれば、5月26日に多数の見送りを長崎バスの発車場で受け、家族で地獄めぐり、松山、神戸、大阪を経て、東京駅では、多くの人の出迎えを受け、5月29日に杉並のうちに落ち着く。そして、5月30日に出勤している。
「風」昭和33年1月号 新年号の風同人の住所録より
金子兜太 神戸市灘区上野城の下247
昭和33年1月 長崎へ転居
「風」昭和35年2月号風同人の住所録より
金子兜太 長崎市山里町130
昭和35年5月 東京へ転居
「風」昭和36年1月号 新年号の風同人の住所録より
金子兜太 杉並区沓掛町157―1
(四)金子皆子のナガサキを詠むの中の句の解釈の補足
「海原」(55号)の58頁に掲載した皆子の句三句。
① 放たれぬ鳩人臭く西あかし
② 灯灯れば病める石壁乳房癒え
③ 遠に白鳥きしとか無用の母となる日
これらの句をナガサキの原爆をふまえての句と解釈をしていたのだが、ご子息の眞土氏から、その当時、乳癌の手術を受けていたとのご指摘をいただいた。金子皆子句集『下弦の月』の兜太のあとがきに、
昭和三十三(一九五八)年、三十三歳。一月、長崎に移る。眞土、爆心地の山里小学校に。ここでも日常環境煩わしく、六月、体調を崩す。初期乳癌が発見される。皆子の長姉ゆきの配慮により東大木元外科で手術。句作遠のく。
また、「現代俳句の100冊」の一冊に選ばれた皆子の『山査子』のあとがきの年譜にも、
昭和三十三年(一九五八)三十三歳
一月、兜太長崎支店に転勤。被爆した浦上天主堂に近い山里の行舎に住む。眞土、山里小学校に転校。雀を育てたりする。なついていた文鳥がある日、自分を慕って外に出たすきに、野良猫に襲われた。以来、手の中に入る小動物は飼うまいと心に決める。六月、体調崩し入院。初期乳癌発見され、実家の紹介により、東大木元外科で手術を受ける。
東大病院のホームぺージの沿革の中で、木元ではなく、木本教授の記述を見つけた。
1964年(昭和39年)第二外科学教室から胸部外科教室が分かれ、木本誠二先生が初代教授となり、心臓血管外科と呼吸器外科の診療・研究・教育を担当した。
また、コトババンクの20世紀日本人名事典の木本誠二氏の項目から参照すると、次のとおりである。
昭和・平成期の外科学者 東京大学名誉教授、三井記念病院名誉院長。明治40(1907)年生まれ、平成7(1995)年没。広島出身、東京帝大医学部卒(昭和6年)。東京帝大病院塩田外科、都築外科を経て、昭和19年東京帝大助教授、27年東大教授、木本外科主任、40年東大病院長、三井厚生病院(のちの三井記念病院)院長兼任、心臓血管外科の権威。
昭和27年に教授に就いているので、手術を受けた年が33年ということで、多分、木元教授は木本教授の誤記ではないかと思う。長崎大学病院で出張による木本教授の手術を受けたのではないかという可能性は少ないのではないかと思うのだが、木本教授と皆子の長姉ゆきとの関係性は、わからなかった。
この六月の頃の『金子兜太戦後俳句日記』を引いてみると皆子と眞土氏に関する記録は皆無であった。言葉にできない思いがあってのことだろう。実際に、その手術の折、東京に眞土氏が同行したか否かについては調べがつかなかったのだが、兜太にとって皆子のいない長崎での生活は気の揉める大変なことであったことと推察できる。皆子自身、六月の入院・手術・回復までの期間の「風」への投句は控えたようだ。そう考えてみれば、三句の解釈として、
① 放たれぬ鳩人臭く西あかし
東京で手術を受けたとすれば、入院中の皆子の気持ちとして放たれぬ鳩に自己投影していたのかもしれない。東京で手術を受けたとすると、長崎の家族の方向である西に熱い思いを寄せたのかもしれない。長崎で手術を受けたとすれば、これは西方浄土が脳裏をかすめたのかもしれない。
② 灯灯れば病める石壁乳房癒え
快癒していく自分を天主堂に放置された石壁のレリ―フに寄せて前向きに詠んだのではないだろうか。
③ 遠に白鳥きしとか無用の母となる日
ここで、「海原」(55号)での拙文では、次のように記した。
この無用の母となる日とは。子を失い、母としての役目を果たせない母の慟哭・嘆きを秘めていながら、淡々と詠んでいる。遠くには白鳥が来たというに。この白鳥の白さが句の悲しさを増幅させている。
実際には初期の発見であったため、部分切除を少ししたことで済んだのだが、女性として、母として、乳房にメスを入れたことへの精神的な衝撃が無用の母というフレーズに結びついたようだ。入院・手術という大きな負担が時として感傷的になり、無用の母の表現になったのかもしれない。しかし、この句の背景に乳癌の手術があったことを付記せず、このままでも、一句として深みのある普遍的な句として受け止めることができるのではないだろうか。
(五)原爆投下日時の訂正
先の「海原」(55号)の57頁に掲載した原爆投下の時間に誤りがあった。「八月九日十一時二分」のところを五分と書いてしまった。編集長が気づいて指摘されていたのだが、既に校正から印刷にまわってしまっており、後日訂正することにしたのだった。もう一人、誤記について指摘下さった方がいた。長崎出身の俳友、高瀬多佳子氏だ。やはり、この時間がナガサキで生まれ育った方にとっては、骨身に刻まれた時刻になっていると感じ入った次第だ。間違えてはならない時刻だったと、反省しきりだ。ここに改めて訂正させていただきたい。なお、長崎原爆資料館では、「投下」は「さく裂」という表現に統一されているようだ。
長崎への原爆投下・さく裂時間は、七十九年前の
一九四五年(昭和二十年)八月九日十一時二分。
きな臭い今、人類にとって、原爆投下がこの時が最後であれと祈るばかりである。
(敬称略)