望月士郎句集『海市元町三‐一』〈『海市元町三‐一』の作法 小松敦〉

『海程多摩 23集』(2024/11/15発行)より

望月士郎句集『海市元町三‐一』

『海市元町三‐一』の
作法さほう 小松 敦

 『海市元町三‐一』(以下『三‐一』と略)の作法さほうを学びたい。それは例えば著者が「あとがき」で述べる「表出」の作法だが、本稿における「作法さほう」とは「作り方」というよりも「読み方」も含む『三‐一』に臨む時の行儀作法のようなものだ。特徴的な句々とその作法を読んでいこう。

  そらいろの空はだいろの人はるうれい

 あけて、ぞけさは、わかれゆく(「蛍の光」)、と読んで「ぞけさ」なる怪物が二手に移動してゆく様を思い浮かべたのと同様に、空は「だいろ」の如くあり、人は「るうれい」となった今、私は異界にあって孤独だ、とそこまで言うと大袈裟だ。が、一瞬、文字そのもの、言葉そのものが浮き上がり、見慣れた日常を離れなかったか。すぐに着地しただろうが、一瞬でいい。この一瞬の遊離感の創出こそ『三‐一』の作法だから。平仮名表記による異化効果。

  母といた海市元町三‐一

 句集名を採った句。「マジックリアリズム」では済まされないリアリティがある。短詩型の力(リズム&レス・イズ・モア)と季語の威力がそのリアリティを支えている。
 著者「あとがき」に〈幻の中にありながら確かな住所を持った場所〉〈これが句集を覆うテーマのように思われ〉とさらっと書いているが、大事なところなので吟味したい。
 幻想だろうと実景だろうと、書き出された文字面(もじづら)は十七音しかないのだからどうしたって片言の〈幻〉にならざるを得ない。〈確かな住所を持った場所〉は、読者の中に創り出される。読者が作品に触れて感じ取る確かな質感(実感)=「リアリティ」のある場所。そして「作者」とは常に最初の「読者」でもあり、自分の書き出した十七音の〈幻〉が〈確かな住所を持った場所〉に辿り着けるまでうろつく。この創作過程を著者は「表出」と言い「そんなところが好き」と言う。これこそ俳句の醍醐味ではあるまいか。
 ちなみに先の「リアリティ」は〈造型とは、まさしく「現実」の表現のための方法である(金子兜太)※〉の「現実」に等しい。兜太の所謂〈造型論〉には「読者」がほとんど登場しないが、言葉のイメージを〈意識に確かめさせ、それを発掘して、生成し、また変貌させます。つねに新鮮に現実を失わない方法はそれ以外にない※〉と言うときには「読者」でもある「作者」が想定されていると思量する。※「俳句の造型について」角川『俳句』昭和32年、『定型の詩法』海程社一九七〇年92~94頁

  炎天の蝶ランボーを万引きす

 密かに盗み取ったランボーのエキスで蝶も熱く煌めくのか。そんなことを思うのは先に本句集の表紙を見たせいだろう。エン・テン・ラン・マンの音が毅然としている。「万引きす」だけ生っぽい。このキッチュな構成に、寺山修司を連想し、映画『書を捨てよ町へ出よう』で万引き癖の祖母と暮らす青年を思い浮かべた。好き勝手な想像を許してくれる句だ。ところで、表紙を見て思ったが、著者にとっての俳句とは、モノクロームの文字によるカラフルなグラフィックのようだ。俳句を詠む/読むというよりも、俳句系ヴィジュアル・アートの制作と鑑賞。『三‐一』の作法は、「文学」の領域だけで語ってはいけないのかもしれない。

  花火果て頭足類として眠る

 眼目は「頭足類として」。「頭足類のごと」ではなく。頭足類の俳句といえば金子兜太の「銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく」があるが、兜太は〈「ごとし」だから直喩のようですが、「烏賊」というイメージは暗喩だと確信します※〉と言っている。「銀行員等」は正に「烏賊として」蛍光している。同様に、「頭足類として」眠る。文字通り頭から直接足の生えた生きものになって眠るヴィジュアルは、著者が捉える現実(リアリティ)の暗喩なのだ。幼い子供はこの現実を知っていて、頭からいきなり手足が出ている人間のような頭足類をよく描く。※出典同上

  駅からは月の操る影となる

 駅を出たら良い月だったのだろう。ここには月と私の関係性がある。対象を詠むのではなく、対象と私との「関係性」を詠む作法。「ふたりごころ(兜太)」を以て詠む。

  消印の町に粉雪降るころか

 遠い土地に思いをはせるノスタルジア。と素直に感じ入ればそれでよいのだろうが、何度か読んでいるうちに、ゲシュタルト崩壊的に「消印」を見て「しるしが消える」町と感じてしまうのは筆者だけだろうか。粉雪がしるしというしるし全てを覆いつくしてしまう町。「粉雪」のせいで「消印」が変容する。既成概念や先入観を一時的に崩して世界認識を刷新する試み、意図的なゲシュタルト崩壊を目論んではいまいか。あるいは筆者が疲れているだけか。

  人は火に手をひらくころ冬の蝶

 焚火にあたる季節なのだが、敢えて「火に手をひらく」と身体動作として描くところがこの句の眼目であり『三‐一』的作法だ。「暖を取る」という「日常的なしぐさ」の既成概念を崩す。言語以前の、人類の火に対する原始的で本能的な所作の「表出」だ。著者の「表出」とは、言葉を介した「身体反応」であるとも言える。「ひらく」ものとして「手」ならぬ「翅」のイメージと「冬の蝶」が現れる時、人も蝶も同列の「生きもの感覚(兜太)」の中にいる。
 さて、紙幅が尽きた。最後の連作二章にも軽く触れておきたい。「となり町」は、いわば幻想世界の冒険譚。現実界と異界とが交錯する、この世界観を存分に楽しむこと。特に「季語」の引力が強く効いて、実感を伴う重層的な「となり町」を創り出している。「ポスト・ヒロシマ」は断固としたアイロニーがめくれて露出する、圧倒的なリアリティに戦慄すら覚える。読者に「ポスト・ヒロシマ」という新たな経験を刻み込む。第四回海原金子兜太賞受賞作。

 続きはウェブで→ http://bit.ly/4cK6FXk

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