『海程多摩』第24集(2025年11月発行)より
月野ぽぽな句集『人のかたち』
「ふたりごころ」で開ける世界 小松敦
  二の腕に翼の記憶新樹光
  耳底のつめたきホタルブクロかな
 感覚的な句が並ぶ。ストレートで自由だと思う。描写でもなく理屈でもなく、感覚(気持ち・気分)を囀るように発した言葉。理解するよりも感じ取る句。語感が五感に触れてくるような句。〈まず俳句を作るとき感覚が先行します※1〉と金子兜太は言った。本当にその通りだと思う。
  外したるマスクしばらく息をせり
 月野ぽぽなは「ふたりごころ」で世界に触れていると思う。「ふたりごころ」とは〈相手に向かって開いていくこころ「情」※2〉、〈積極的共感※3〉。思いやり、だ。兜太は〈俳諧とは情(ふたりごころ)を伝える工夫※同〉とも言っているが、ぽぽなの場合は無意識にやっているようだ。そういう性分なのだろう。いつも世界に感情移入している。
  一匹の芋虫にぎやかにすすむ
 「ふたりごころ」で「芋虫」になった句。全身ですすむ一匹の私。楽しくて幸せな気分だ、と筆者も今「芋虫」になっている。
 「ふたりごころ」で詠まれた句は「ふたりごころ」で読みたい。それは一句を思いやること。相手の身になって感じ取ること。このとき相手とは誰だろう。一句の主人公だろう。「読む」ときは、一句の主人公を思いやる。
  翅と翅ふれ合う捕虫網の中
 この句の主人公は翅虫というよりも、「翅と翅」のふれ合いを感じている誰か。しかし「作者」とは限らない。とりあえずこの主人公を「私」と呼んでおこう。私の「翅」と誰かの「翅」がふれ合う感触。囚われの私たちの未来。
  白夜から戻りて遠浅のからだ
 ずっと昼に晒されて高ぶった気持ち。少し疲れた私の身体と、身体を取り巻く環境が一続きになっている。「からだ」は「遠浅の」海になっている。身体の粒子があまねく「遠浅の」海に漂って緩やかに波打っているような感覚。
  全山の息を殺して蛍待つ
  わたくしの闇と蛍の闇まざる
 私は「全山」となって「息を殺して蛍待つ」。「蛍」はやがて「全山」である私の中に明滅するだろう。まざってしまえば「わたくし」も「蛍」も同じ「闇」仲間。「闇」をネガティブな性質で解釈することもできるかもしれないが、そうした「闇」にこびりついたステレオタイプな意味を捨て、作中世界の「闇」を感じたい。この「闇」は何だか優しい。奥行をつくり、灯を明るくする。それは、
  母の死を灯して春の闇ゆたか
の「闇」でもある。生や死や歴史さえも、すべての存在と事象を分け隔てなく包み込みまざり合う。安堵の「闇」。
  いきものの内側濡れて冬銀河
  人間のあと冴え冴えと文字のこる
 言葉と身体と世界が繋がっている。「いきものの内側」の「濡れて」いる生々しい肉感、どうしようもないその湿り気は皮膚一枚隔てて乾いた世界に接している。太古より「冬銀河」と同じ世界に息をしている「いきもの」としての私。「人間のあと」は「後」でもあり「跡」でもあるだろう。「冴え冴えと文字のこる」のはなにも未来の話ではない。私は常に「今」に生きている。「冴え冴えと」した文明の行方を予知夢のように只今垣間見ている。
  コスモスの風がギプスの子に届く
 かつて「言」は「事」になると信じられた。大昔、言霊信仰があったころ、祈祷や呪術の時代、「心」と「言」は自然につながり、「言」は「事」であった。思いを遣って言葉にすることで事が成就し、「心」と「言」と「事」が親密に影響し合う世界があった。しかし今でも、「想念を夢で温め(兜太)」た言葉はリアルに「届く」と思う。
  灰よりもしずか凍蝶の日だまり
 これは夢か幻か。まぎれもない私の現実ではないか。身体の中に湧き上がるリアルな質感。「創る自分(兜太)」の現実だ。外部環境と自己意識との綯い交ぜの質感を詩的「現実」として暗喩する兜太の「造型」に、栗山理一は芭蕉の「情の誠」を重ね「詩的表現に内在する真実性(リアリティ)」を論じたが(『俳諧史』)、ぽぽなにとってこれは理論や方法ではなく、日常的な生理現象なのだろう。
  草の根に草の根ふれて星流る
大地と宙とそこに居る私の身体とが触れ合っているその全景が、ごく日常的であるように。
  白梅のひとひらふたひら母の鼓膜
  母の死を灯して春の闇ゆたか
  父になったり母になったり夕桜
 母は聞いている。今も。母は花弁であり灯であり闇であり私とともに揺蕩っている。父も母も私も夕桜になる。
  星月夜土偶に簡単な乳房
  青天の天竜川の花盛り
 マンハッタンにいても信州にいても東京にいても、今この日常に生きる私の身体は、時空を超えて星空にも過去にもあの世にも繋がっている。そのことに安堵する。
 『人のかたち』には「ふたりごころ」で開ける世界が広がっている。読むたびに、一句の主人公である私を思いやる時、読者は他でもない自分自身を深く思いやる。『人のかたち』の「言葉」を介し、自分の奥の方にあって忘れていた太古からの記憶、人間や生きものたちや、闇や光や星々の自然と繋がる自分の物語に出会い、そして癒される。
※1「俳句の造型について」『俳句』角川書店1957
※2『金子兜太の俳句入門』角川ソフィア文庫2012
※3『流れゆくものの俳諧』朝日ソノラマ1979
参考:
コスモポリタンのかたち 武田伸一
現代俳句管見記 ◆「造型俳句論」と「生きもの感覚(アニミズム)」のひみつ 小松 敦


月野ぽぽな『人のかたち』左右社2024