「海原」オンライン句会参加者からのリクエストにお応えして、毎月、金子兜太の言葉を抜き書きするコーナー「金子兜太・語録」を句会資料に設けています。同じ内容をこのコーナー「海原テラス」に転載します。
成熟ということ――思想の肉体化
（金子兜太『熊猫荘俳話』飯塚書店１９８７年 より抜粋）
司会 前回の名古屋談話で金子さんが、こう言っておられますね。「具体性をしたたかに持ち、 同時にそれが表現者の心の世界を映している。心の世界を化態している度合が高まれば高まるほど抽象化の度合が高まる。具体性と抽象性を同時に持っているその強さが得られたとき、それが非日常の次元になったときだ」と。軽さというのはそのことに関連してきますね。
金子 そう。うんと具体的になれば言葉も明解になって、簡潔な表現ですむからね。
大家 いまの名古屋での金子さんのお話は、私自身の今後の俳句を作る上での指針にしなければならないと、たいへん感銘を受けています。第一回の談話での「古き良きものに現代を生かす」という言葉とこれが、海程だけではなくて俳句界全体への大きな指針になるのではないかと思うのです。
金子 その通りだな。生意気なことを言わせてもらうと、私の俳句観の基本がそこなのだ。俳句というのは本来メタファー、暗喩だと思う。ただ暗喩といった抽象的な言葉ではよくわからないから、いまのような言い方で言いかえているのだ。非常に具体的であるものが非常に抽象的なものを内蔵した場合が素晴らしいということだ。
そう言った後で自分でも一言付け加えなければいけないと思ったのは、具体的であるということはたいへんに難しい。俵万智さんはきちんとした生活を持っていて、日常の中のものをぴしっと押さえている。だから具体的なんだ。このことが大事なので、ただ具体的であろうとしてもなかなか出来るものではない。むしろ観念的なものを作るほうが表現としては簡単なのだ。頭の中でこねこねやっているほうが俳句は簡単に出来る。具体的なものというのは季語だけではなく他にも山ほどあるから、よほど感覚が冴えていないときちっと押さえられない。そのことも含んでおかなければならない。
吉田 二十五周年の先生の講演の中で、成熟度ということについて話されましたね。成熟度というと、そこには俳句だけではなく、その作者の人生観、辿ってきた道、すべてが含まれますから、 たいへん幅が広いものなのですね。あのときは渋谷道さんの言葉を受けて述べられたと思うのですが、そのことと今のお話とはたいへん関係があるのではないですか。
金子 大いにある。あのとき関由紀子さんも同じようなことを言っておられたね。関さんのところにはたくさんの初心の女性たちがいるから、あのひとはそういう教え方をしているのだね。私が二人の女性の言葉をお借りしてあの場で言いたかったことは、前からも言っていることだが、人間というものは思想を持つことが大事だということ。けれどもその思想が頭の中だけのものだったらただの観念的なものになってしまう。思想は肉体化されなければなんにもならない。この思想の肉体化ということを私はずっと言い続けてきている。
昭和二十年代の終わり、俳壇に社会性論が盛り上がってきた頃に沢木欣一君の出していた『風』が社会性についてのアンケートをやった。そのときに沢木君は、社会性というのは社会主義的イデオロギーの周辺のことを捉えることだと言った。それを読んで私は、社会主義的イデオロギーの周辺なんてことを言っているのでは長続きしないのではないかと直感した。それに対して私は、社会性とは態度の問題であると言ったのだ。態度の問題ということは、自分のいろいろな考え方をすべて肉体化して日常の行動におのずから表れるようにしていくということだ。社会主義の考え方を持っているひとはそうしたらいい。もっと平たく言えば、自分の中に閉じ籠もるのではなくて社会にも目を開いて、そうして周りのものを生活の中に肉体化していく。どんな考え方でもいいからそれを肉体化することが大事だ。そこから態度ということを言ったのだ。――そのときに私は、自分の言っていることのほうが長く続くぞと思っていたら果たしてそうだった。現在も態度論は厳然として生きている。いろいろな思想は全部態度論で篩にかけられている。高邁なことを言ってもそのひとの生活に生かされていない、肉体化されていないものはみんな滅びている。
逆に言えば、ほとんど教養のない田舎のじいさんばあさんが自分の生活の中のほそぼそとした考え方を肉体化して、態度として生かしている。そういうひとの語る言葉のほうがずっと重みがある。それが成熟だ。思想が肉体化される度合、日常の中におのずから出てくる自然さの度合が成熟だと思う。それはどんな思想だとか、その思想が高いか低いかなどは全く関係がない。低い思想でも本当に肉体化されているものは素晴らしいし成熟している。高い思想でも肉体化されないものは成熟していないのだ。それは俳句を作らせればすぐわかる。どちらが秀れた俳句を作るかは一発で決まる。そのことが言いたかった。
関さんなど、とくに初心の女性たちを相手にしているから、その気持ちの中に私ほどにはっきりした考えがあるかどうかは知らないがおそらく、あなたがたは頭で考えるよりもとにかく自分の暮らしの中からどんどん絞り出すように作りなさい、それが実は一番新しい俳句なのですよ、ということを教えているのではないか。それはいまの私の考えにつながる。成熟というのはそういうことだと思う。
大沢 先生がおっしゃっていた日常の生という意味がいまのおはなしでよくわかりました。
金子 それはたいへん嬉しいね。日常の生が大事なのだ。
司会 男性よりも女性のひとたちのほうが金子さんの言っておられることがよくわかるようですね。
金子 カルチャーの俳句講座でも女性が多い。なんとなく感ずるのだが、私のそういう物言いを女のひとのほうがわかってくれるんだね。日常というものを一番よく知っているのは女性だな。
司会 浦和のカルチャーに来ているひとたちの多くが、金子先生のお話はたいへんよくわかる、ところが『海程』の句はわからないし馴染めないと言うのです。このひとたちが金子さんを中心にして「兜門会」という集まりを作ったのです。会員の中には海程集の投句者もいるし、そうでないひとたちもいる。いまは熊谷と高崎のカルチャーも含めて百人ほどになって、句会もやり、年四回『兜門』という雑誌を出しています。たいへん素朴な集まりですが、そのなかで一句ご紹介したい句があるのです。「針先の渋き縫い目や油蟬」熊谷のある年配の女性の作品ですが、私はたいへん惹かれました。「針先の渋き縫い目」というのは平井さんなどにはよくおわかりになるでしょう。
平井 そうですね。針をしょっちゅう使いますからね。
司会 けっしてただもの俳句ではなくて、その背後にある思いとか、時間の流れといったものが感じられる。まだ金子さんに師事して間もない方だし、全部の句がそのレベルでもない。たまたま一句そういうものが出てくる、日常の中から。それが俳句の素晴らしさだなと思いました。
金子 全くそうだ。具体的なものが抽象的なものを内蔵しているという例だね。その抽象的なものはカントの哲学に匹敵するものかというと、形の上では問題にもならないけれど、滲透力からいうと案外同じレベルかもしれない。ひとの心に沁みる度合はね。
（ｐ１９９～２０３）